前話から大きなブランクを空けての投稿になってしまいました。
私生活の忙しさもあり、ペースは落ちますがまたのんびりと書いていくつもりです。
こうして書いていると、楽しくなってくるものですね。
夢をずっと見ていたいと最近は思います。
第十四話「ゆめがたり 霧に天使と蝶は舞い」
「夢……か」
「ええ、またいつもの夢よ」
薄暗い喫茶店の窓辺、店内を揺蕩うレコードの音色に交じって、アスファルトを叩く雨音がガラス戸に小さく響いている。
白いカップをソーサーから持ち上げ、湯気を立てた琥珀色のそれに口を付け、目の前に座る彼女の瞳に向きなおる。
「そんなに怖い夢だったのか?」
「そうね……。今思えば怖かった、かも。だけど、夢の内容よりもっと怖いのは……」
「この現実が信じられなくなること、か」
「あら、意外ね……。当たらずも遠からず……、
あなたを呼んで良かったかも」
メリーは少し、驚いたように目を見開いて言う。要するに図星だったという事だろうか。
夢の話だとそう聞いた時から、大方そんな所だろうとは思っていた。訳もない……彼女の見る夢は俺含め多くの人の見るそれとは違う。
現実と相違なく五感に訴える夢、この世ならざる幽世へ迷い込む夢……。
最早、夢という定義を超越した世界を彼女が時折体験することは、俺も蓮子も知っている。
それが今になって……。自分で言うのも悲しいが俺なんかに話したくなる程の何かがあった。つまり彼女の見る夢に何か並々ならぬ変化が起きたという事か……。
「メリー、とりあえずその夢の内容……聞かせて貰ってもいいか」
「ふふ、頼まれなくたって聞かせるつもりよ。蓮子なら ”他人の夢の話ほど話されて迷惑な物はない”なんて言うだろうし」
「それが俺を呼んだ理由って訳か、まあでも確かに蓮子なら言いそうだ……。で?」
再びそう尋ねる。メリーはまた神妙な面持ちで静かに、語り始めた。
「ええ、それじゃあまず……、”夢”の始まりから……」
”霧、朝霧……。立ち込め、視界を白く霞ませる。ふと目を見開いて、そんな景色が広がっていた物だから「ああ、またいつもの夢ね」って私は察したの。夢なんだから目を見開いてるっていうのもおかしな話よね、ただとにかく目を開いたのよ。
ここの所、こんな夢を見る頻度が高くなってる気はするけど、まあいつもの少しリアルでスリルな夢が始まるのね、どうやって蓮子達に聞かせてやろうかしら。なんてどこか意気込んでもいたわ。ただ相変わらず深い霧の中、そして薄暗がりの中……。どこへ向かう事も出来ないから、ぼおっとそこに立っていたの……
どれくらいそうしていたかしら……時計なんてどこにも無かったし自信は無いけれど、体感でだいたい十分弱くらいかしら、薄暗かった視界が明るみ始めたわ、夜が明け始めたのね。その時になってやっと自分の周りに立ち込めていたそれが朝霧だったこと、自分の立って居る場所が未舗装の所謂「あぜ道」であることをね。
薄暗く不気味な濃霧の視界はその瞬間を皮切りに刻一刻とその表情を変えていった。モノクロはセピアへ、昇る東日の黄丹色の光が緩やかに連なる峰の影を現していた、稜線から木々の間と零れ落ちた光、それが照らし出した景色に私は息を飲んだ。
地を這うように揺蕩う黄金色の霧の海、その中に浮かぶのは日本の原風景とでも言えばいいのかしら、私は日本で生まれた訳じゃないのだけど……。どうしてかしら、そう思ったのよ。
本当に幻想的で美しい景色だった……。”
「うん、うん……。何か今のところいい感じじゃないか。深夜帯で放送してる環境映像みたいでさ」
「まだまだ導入なんだから微妙につまらない例え方しないでよね、真剣なのよ」
メリーはそう言って頬を膨らませる。
「冗談だって、ただな……。俺も経験者だからこそ言えるが夢に当てられた精神状態は安全とは言えないぞ、半分茶化してるくらいでいいのさ」
「わかってるわ、そのための”カウンセリング”だもんね。さて……」
窓の外、暗い路地裏のアスファルトに打ち付ける雨音に収まる気配はない、まだ湯気の立つカップを傾けて、小さくまた一息を着き彼女は再び夢の世界へ立ち返る。
”朝霧立ち込めるその中を、私はふらふらと進んでいったわ。それもさっき見えた村とは反対側、深い森の方にね……。「また危険な事を」なんて野暮なことは言わないでよね、女は度胸、あと好奇心……でしょ? ”
と、そこまで聞いてすでにツッコミたくなる衝動が込み上げる。確かに話の腰を折るのも野暮ではあるが、「でしょ?」なんて軽々しく言ってはいるが彼女の夢の性質からして自殺行為のようなものだ。
彼女の迷い込む世界、幻想の世界……。どうしようもなく美しく、その裏側に確かな残酷さを秘めた世界。
幾度と彼女達に語って聞かせた事ではあるが、この俺もかつてそんな世界に迷い込んだ事がある。俺の場合、メリーのように夢だとか生易しい感じではなく、死線を彷徨う中でではあったけど
それでも俺は、一人では無かった。理を異にする世界に突如放り出された俺でも、その横には彼女がいてくれた。
けれどもメリーがあちらに迷い込む時はいつも独りだ。危険上等なのはさておき、それよりもいつか彼女が一人で夢の何処かへ消え行ってしまいそうなのがどうしようもなく不安に感じているのかもしれない。
「ねえ~、聞いてる?」
「え、ああ聞いてるよ。”女は度胸と好奇心”な、バッチリと」
「そんなとこ覚えてもらわなくて結構よ、もう……続けるわよ」
どうぞ、と右手でジェスチャーをした。少々ぼけっとし過ぎたみたいだ。いつもの調子で茶化し過ぎてはいたのだが、彼女は俺や蓮子に見せる表情以上に内心、不安なはず……
俺みたいな不出来な聞き手でもその霧を晴らせるのなら、いつもの誇大妄想的な独白は休止させておいて、真剣に”カウンセリング”に臨むとしよう。
そう決めて、彼女の碧い瞳に向きなおった。
”深い深い緑、見渡す限りの霧……まだ薄く残る霧の中を分け入って進んだわ。慣れてきたっていうのもあるし、怖さとかは無かったような気がするかな、あと朝だし。
どれくらい進んだかしら、私の夢って自分でいうのもあれなんだけど、やっぱり不思議なのよね。視覚も触覚も今こうしている現実と相違ないんだけど、どれだけ走って息が切れてても肉体的な疲労は感じない、まあ夢なんだから当たり前よね。服も着てるし靴も履いてるんだから本当に都合が良いわ。あとは空を飛んだりできたら最高なんだけど……。
そんなこんなで森の中を進んでいると、突然視界が開けたの。そしたら何が見えたと思う? ”
「いきなり疑問形か」
「私ばかり話していても仕方ないでしょう、さあ何かしら?」
「カウンセリングってそういう物じゃないのか。まあいいや、そうだな……」
「真剣に答えてよね」
「ああ、うん。森を抜けた先にあるのは……」
真剣に聞いてはいるけれど、こんなクイズまで本気で答えろとは、このメリーという少女は控え目に見えて時々ではあるが蓮子に勝る無茶を言う。
ネットにも本にも答えの無い問いだ。ここは自分の小さな脳のより矮小な海馬の中の記憶から直感で答えてみようか、不思議な世界の森の中、青々と生い茂る木々の向こう……手を引かれるままに進んだ先の景色、それは……
「湖、かな。朝日が反射して輝く湖だ」
俺がそう答えると、メリーは予想外に驚いた顔をして言う。
「わあ凄い、正解よ。本当に当てるなんて思ってなかった。当てずっぽうじゃ無いわよね?」
「直感、だな。当てずっぽうと言えなくもない。自分でも当たったのが怖いぜ。そういえば前にも聞いたよな、湖の話」
「ええ、話したわ。霧の立ち込める大きな湖の話。同じ場所だと思うんだけど前の時はもっと大きく見えたのよね……」
「そうか……。ただどれだけの広さがあるのかも分からない夢の世界だ。別に湖があってもおかしくはない、”同じ”とそう感じたのは何故なんだ」
そろそろカウンセリングじみた事を言い始めやがったな。と自分でも思う。ただこの湖の話に関しては以前から引っかかっていた所もあったので、聞いてみる事にした。
「あら、カウンセラーっぽくなってきたじゃない。そうね、確かに別の場所……その可能性もあるわ。理由を挙げるなら前に見たのと同じ紅い洋館が湖の畔に建っていたから、かしらね」
「……なるほど、それなら間違いは無さそうだな。ただその紅い屋敷は知らないんだよなあ……」
「あれ、前に話したと思うんだけど……。濃い霧の立ち込める湖の向こうに紅いお屋敷が見えたって」
「いや、確かにそれは聞いたんだけど。というか霧の中でよく見えたよな、その建物」
「疑ってるのかしら? その時はね確かに深い霧で建物の全容までは見えなかったんだけど、大きな紅い時計塔が見えたのよ。だからそこに同じような色をしたお屋敷が建っているんだろうな、って」
「そーいうつもりじゃないんだ、すまないな。だいたい把握したぜ、続けてくれ」
少しお茶を濁すような苦しい形で俺がそう促すと、余り納得が出来ていないという表情で彼女は答えた
「えー、何だか釈然としないんだけど。何か思う所があるなら話してよね。隠し事されるのは悲しいですわ」
「お見通しだな……。わかった、話すよ。ただメリーの方を最後まで聞いてから、な。そっちの本題はまだ先なんだろう?」
メリーは何か思い出したように、また物憂げな瞳で、窓の外に目をやる。
「……そうね、それで来てもらったんだしね……。話してるとついつい楽しくなって本題から逸れてしまいがちなのよね、私……」
話し込んでいて気が付かなかったが、雨音は少しばかり小さくなっていた。
少し、いやそれ以上に……悪い事をした。かもしれない……。俺という男はどうしてこうも気が利かないんだろうか……。どっちつかずが一番カッコ悪いと、自分を戒めて少々重くなった口を開く
「いや、いいんだ。俺はユングでもフロイトでもないし、ましてや心理学者ですらない。本気で夢診断しようなんて考えちゃあいけないよな……。空回りして逆に不安を煽ってしまった。メリーが話したいように話してくれれば、それがベストだったな……悪い」
彼女はこちらに視線を戻し、呆れたとでもいうように溜息をついた。
「ほんとよ、怖い夢を見て小鹿の様に震える女の子に掛ける言葉、他にあるんじゃないかしら?」
「手厳しいな、耳が痛い。まるで蓮子の言い草だ」
「ふふっ、そうね。蓮子なら間違いなくそうやって詰るわよ。つまりこれは蓮子の言葉ね」
「じゃあ、メリーなら?」
「そういうとこ、嫌いじゃないって言うでしょうね」
そう言って彼女は静かにほほ笑んだ。今日ばかりは蓮子がいなくて助かった、って訳だろうか。
「そう言って貰えると助かるよ、さて……お詫びにさっき先延ばしにした話でもしようかな?」
メリーは湯気の立たなくなったカップに残る珈琲を飲み干して、俺の目をまっすぐ見据える。微笑は湛えたそのままで
「興味は尽きないけれど、やっぱり後にとっておくわ。先に話したくなっちゃったし、最後まで一気に駆け抜けるから覚悟して聞いてよね」
「ああ、仰せのままに」
いまにも消え入りそうな瞳、陶磁器のドールのような面立ち……
そんな印象よりも、彼女は強かな少女だった。
相も変わらずリピートし続けるレコードの音色と、弱まり始めた雨音、暖色照明が薄暗がりの窓に反射していて晴れているよりも落ち着いた趣があるだろうか、囁き語り掛ける様に彼女の織り成す夢の世界、その景色へ意識を投ずる。
”鏡面反射の湖とその畔に建つ真っ赤なお屋敷なんて本当に素敵な景観よね。
今回ばかりは鬱陶しい霧も無いから余計にそう思ったわ。それでなんだけど、ちょっと寄っていくことにしたの。もちろんそのお屋敷にね
前来た時は霧のおかげでわからなかったけど、意外と小さい湖なのよね。
多分だけど歩いて一周しても一時間もかからないんじゃないかしら。そんなこんなで向こうに見えるお屋敷にのんびりと足を進め始めた……
少しずつ真っ赤なそれが近づいてくる、よく見ると大きさの割に窓が少なくて堅牢な要塞のようにも見えなくはないかも、それにしては鮮やかすぎるけど。
突然訪れたりして失礼じゃないかしら、目の前のお屋敷にはどんなご主人が住んでいらっしゃるのかしら、私を受け入れてくれるのかしら……。
って何で夢の中で怖気づいてるのよ。女は度胸と好奇心、そう言ったばかりじゃない。
私は門の前に立って声を掛けてみたの、いかにもお屋敷って感じのとげとげしい装飾が施された背の高い鉄柵の向こう、人の気配の感じられない紅い建物に向かって……。
とはいえ、よ。門からお屋敷までは大きなお庭を挟んで数十メートルはあるようだから、私がどれだけ叫んだって気づいてもらえやしないわよね……。
肩を落としてお屋敷を後にしようとしたその時だった。後ろから声を掛けられたの……
振り返ってみたらお手伝いさん……いいえ、メイドさんというのが正しいかしら、そんな女性が立っていた
真っ赤なお屋敷にも負けないくらい綺麗で瀟洒なメイドさん、彼女は私に向かってこう言ったわ。
「いらっしゃいませ、お嬢様にご用かしら」
困ったわ、私はそのお嬢様には面識もないし存じ上げない。ただ通りすがっただけなのだけど……そう、伝えた。
「そうでしたか、申し訳ないけれどこの館の主人……お嬢様は今眠っておられるの。それでもよければお茶でもご用意するわ」
どうしましょう。
ありがたい申し出ではあったけど、ご主人が不在? のお屋敷に上がり込んでお茶できる程私は図々しく無かった。
まあ蓮子なら知らないけどね、謙虚な私はお礼を言って立ち去ろうとしたの。
「……承知致しました。それでは少々お待ちくださいませ」
そう引き留められたと思ったのだけど、振り向いた私の視界にはすでにメイドさんの姿は無かったの、足が速いメイドさん……いやそんな訳ないわよね。
化かされたみたいで気味が悪いから踵を返して来た道を戻ろうとした。そしたらね……
私の目の前にさっきのメイドさんが立っていたのよ。何を言っているかわからない? 私だってわからないわよ。でもありのまま……今起こった事、ね。
戻ってきた彼女は小さな紙袋を持っていてそれを私に差し出した。
「お詫びにこちらをお持ちください、僭越ながらではありますけど味には自信があるんですよ」
そういって彼女は笑ったわ。袋の中身は美味しそうなクッキー、本当に瀟洒で律儀なメイドさんだこと……
今度こそ彼女にお礼を言ってお屋敷を後にした。思いがけないお土産を片手に……。
メイドさんは別れ際に「今度はお嬢様の起きている時間にお越しください、おもてなし致しますから」と言っていたわね
社交辞令とも取れるけど、次が在るならもう一度来てみたいな……。なんて思ってしまったわ。
気づくとさっきまでの不安な気持ちも消えてしまっているじゃない、人と会って話せたからかな?
お寝坊のお嬢様にも会ってみたいものね。なんて言いながら今度は軽い足取りで、少し霧の立ち始めた湖の畔を……”
「歩き始めた所で目が覚めたわ、これでおしまいよ」
メリーはそう締めくくり、ほっと息を着いた。彼女のその甘い声質のせいもあり聞き入ってしまった。
確かに不思議な夢ではあるが、まだそれだけであれば明晰夢で片が付かないでもない、そうで無いなら……
「お疲れ様、しっかりと聞かせて貰った。それで?」
メリーはこくんと頷いて、続ける。
「ええ、その貰ったクッキーなんだけどね」
怪談とかミステリなら、ここでどんでん返しのオチが付いたりするのだろう。尤も事実は小説より奇なり……だ。
メリーは満を持して、テーブルの下にあった左手を持ち上げて見せ、言った。
「ここに、あるのよ……」
「ああ……。これは確かに、ゆゆしき事態だな……」
彼女の差し出した小さな紙袋、それを見た俺はしばし硬直した。そして数時間に渡る”夢語り”の先にある、その本質を理解した。
メリーの能力の凄さならよく知っている。冗談だ、とは笑えない訳だ。これは……どうしたものだろう。やっぱり蓮子がいてくれた方が良かったかもしれない……
「で、食べたのか?」
「いいえ、まだ。良い匂いがして美味しそうなんだけどねえ」
まあ、そうだろう。さすがのメリーでも夢の世界から持ち出した? 物に易々と口を付けたりはしないか……
とはいえ、確かにメリーの言う通り袋の中のクッキーは甘く香ばしい匂いで食欲をそそる。つまり美味しそうだ……
「いやいや、そうじゃないよな。普通に考えればありえない事だし……」
「困惑が見え透いてるわよ、私だって驚いたんだから。起きたら本当に持ってるんだもの」
「まあ、当人が一番困惑したよな……。うーん、今までにこういう事は無かったのか?」
「ええ、初めてよ。前にも話したように夢で負った傷が起きても消えなかった……なんて事ならあったけど」
「それでも十分にヤバイ話だけど、それ以上に物理法則は完全に機能してないな今回のは」
俺の持論などはさておき、一般的な考え方に当てはめるなら。こうしてメリーが紙袋を手にしている事は絶対に有り得ない。
夢の中の世界は確かに存在して、誰しもが見るだろう。しかしそれは個人の脳の中で作られた映像で漫画だとかアニメだとかと広義では同じく分類されるであろう二次元の産物であるはずだ。
どれだけ高画質のテレビを介したとして、番組の中の料理には手が付けられないのと一緒である。
つまりは有り得ない、科学という神様の支配するこの世界では
「有り得ない、そう思う?」
「いいや、この目で見て触れたんだ。紛れもなく有り得てる、困ったことにな」
「ええ……そうよ。相対性精神学においてはもう夢と現は反意語なんかじゃない、同じものよ……。真偽は無いの、主観が認識する限りどちらも確かに存在していると言えるわ……。ねえ、胡蝶の夢は知っているわよね」
メリーはその紙袋をテーブルの上に置いて伏し目がちに、溜息を吐き出すように俺に問いかける。
「ああ、夜に舞う胡蝶の姿が自分なのか昼の人間の姿が自分なのか……。区別がつかなく成った中国の思想家の話だよな」
「ええ、その通りよ。でもね今の相対性精神学に倣うなら、胡蝶の自分も人の自分も同じく”自分”つまり夢と現の二人の私が存在する事になるの。でもそれはおかしい事よ、だって私は一人だから”私”と言えるんじゃないかしら。
けれど私が二人存在するって言うなら、私って一体何者なの? あなたにこうして話している今は現実、それとも夢?
わからなく……なりそうなの。何が現で何が夢なのか、その境界が永遠に曖昧であり続けるのなら……私はもう、どこにも……」
メリーは小さく、消え入りそうな声でそう言って俯き黙ってしまった。
俺は情けなくなる。
ここまで言わせてやっと彼女の抱えた不安の全てを知った事を、俺にだってわかるはずだった。
夢と現、二つの相違無き世界。それが等しく同じ物だと知っているからこそ、どちらも信じられなくなってしまう不安を……
夢と現は相容れない境界に隔てられて、互いを打ち消しあいながら存在し続ける。その間に身動きの取れない恐怖を……
彼女が、メリーが俺を呼んだのはそれを理解して分かち合えると思ったからじゃないのか……。
それなら、俺は
「メリー」
「ん……」
彼女は俯いていた顔を上げる、その瞳は水底の宝石のように潤んでいた。抱きしめるだとかそんな事よりも、俺の稚拙な持論ってヤツで彼女の憑き物を落として見せる。
「さっきも言ったが俺はユングでもフロイトでもない、それに蓮子みたいな物理学者でもないみたいだ。残念ながらな、そんな俺の話でも聞いてくれるか?」
「……ええ」
彼女は小さく頷いた。
「ありがとう、それじゃあまずこのクッキーをだな」
「どうするの?」
「食べてみるのさ」
紙袋から一枚取り出し、頬張る。
何の変哲もない、美味しいクッキーだった。
「うん、美味いな。そのメイドさんの自信も納得の味だぜ、メリーも食べてみたらどうだ?」
「え……ええそうね」
呆気にとられたような表情を浮かべながらもメリーはクッキーを一枚手に取り、一口齧った。
「あ……本当に美味しいのね……。早く食べてればよかったかも……」
「ああ、間違いない。それでだけど夢から持ってきたクッキーはさっきのメリーの話で出たように夢と現の二つが存在しているはずだ。胡蝶の夢状態とでも言えばいいか」
「確かにそう言えるわね、私とは逆だけれど」
「うん、けど夢か現かを言い出しても堂々巡りだ。このループを脱するにはその二律背反を一度捨て去るべきなんだ」
メリーはまだ困惑した様子で言う
「どういうことかしら?」
「事実、このクッキーは美味い。それに不満はあるか?」
「……いいえ、実際美味しいんだし不味くなって貰ったら困るわ」
「俺もそう思う。まあどんなに念じた所でこのクッキーが不味くなることはないだろうな、無茶しなければ」
「うん……それで?」
「いまここにあるそれも、それが夢の中にあった時も味は変わっていない、多分」
「ううん、そうね。貰ってすぐ目が覚めたし今朝の事。あと無茶な扱いはしてないかなあ……」
そう言う彼女の瞳の宝石は、強かな輝きを取り戻しつつあるように見えた。
「長くなって悪いな、あと二つ質問して終わろう。まず一つ夢と現は同じ物、代替の出来る物……そう言えるか?」
「ええ……」
「じゃあラストにこの美味しいクッキーだけど、夢であって欲しいか現であって欲しいか。メリーならどっちを選ぶ?」
「もちろん……現で、あって欲しいわ」
「ああ、俺も全く同感。だからそれいいじゃないかって事だ。これが俺の思う”夢を現に変える”さ」
夢も現も相違ない、それなら自分がこうあって欲しいと思える方を自分の居場所にすればいい。そんな説得力のなさげな言葉を長々と回りくどく話してしまった訳だが、どうだろうか。少しは彼女の不安を解消できただろうか……
いや余りの支離滅裂さに呆れられてしまったか。メリーは瞳を閉じ何か考えているようだ。
今更に恥ずかしくなって、俺は窓の外へ視線を逃がそうとした……。そんな瞬間、向かいに座る金髪の少女が俺に言った。
「胡蝶になって空を舞うのも、美味しいクッキーが食べられるのも両方叶うならそれは……幸せかしら」
真剣な目、物憂げでいて強かな輝きを持った瞳……。俺もできる限り朗々と答えよう。
「ああ、これ以上ない程にな」
雨が止んだようだ。
それを皮切りに、緊張の糸が解けたかのように……二人で笑いあった。
「ふふっ、本当に滅茶苦茶ね。蓮子なら絶対に言わないわよ」
「前に言ったじゃないか、わかりもしない事をわかってるように話すのが特技だって」
「自慢にならないわよ……。もう、真面目に悩んでいたのが馬鹿みたいじゃない」
「ま、人間なんだし悩みくらいあって当然だよな」
「急に普通な事言うのねえ……そうよ、気味の悪い能力を持っていたって人間ですわ」
「墓場で卒塔婆抜いてる男の方がよっぽど不気味だと思うがな」
「あら、懐かしい。あの日から始まったんだったわね……三人では」
「恥ずかしい思い出でもあるけど、あんな馬鹿やったからこそ こうして美人とお茶していられる訳だしな……うん」
「その通りね、光栄に思いなさい」
からかう様に笑う彼女の面立ちに、翳りは無い……とりあえず今は。そう見えるのは、仄かに窓辺を照らし始めた斜陽のせいかもしれないが……。
その暖かな微笑にいつかの夢の景色を重ねる俺が、確かにいる。
言っててやっぱり恥ずかしくなり窓の外の景色にまた意識を移した。
グレー一色と表現しても過言では無かった小さな窓に映る風景の変遷が、永い夢語りに一つのピリオドを打ったのだろうか。
メリーは立ち上がる。
「あーすっきりした。お天気になってきた事だし出ましょうか、今日は私が奢るわね。話を聞いてくれたお礼に」
「切り替え早いなあ、もういいのか?」
「ええ、聞いてくれてありがとう」
「いや、こちらこそ。少しでも力になれたなら光栄だ、ありがたくご馳走になるぜ」
カラン、重い木製のドアを引いた。いつもの路地裏……傘は必要なさそうだ。
水たまりを踏んでしまった、水面に映る景色が揺れる。
揺らめきの中に路地裏の空が映り、アスファルトの凹凸は日差しの中に輝いていた。
「気を付けろよ、踏まないように」
「水たまりかあ、小さいころはわざと踏んで遊んだりしてたかしら」
「忘れたな、昔過ぎて」
「そんな年じゃないでしょ、ねえあれ見て」
メリーはビルの切れ間を指さした。導かれるままに空を見上げる。
「エンジェルラダー、か」
雲間から日の差す現象を天使の梯子に例えてそう呼ぶそうである。
梯子、か……。 かつて梯子は外されて、俺は居場所を失い世界は色を失った……。
けれど今は、こうして雲間から覗く青空を誰かと眺めている。不思議なものだ……
俺は今確かにここにいる。多分それは守護天使の導きで。
「送るけど?」
「ううん、お天気になった事だし歩いてのんびり帰るわ。ありがとう」
「そっか、じゃあ……また。蓮子にもよろしく」
「うん、またね」
そう言ってお互い、帰路に着くべく歩き出した。
逆方向か……。
何かもう少し話しても良かっただろうか、いや後悔したって仕方がない。
行儀は悪いが、歩みを進める路地裏で煙草を咥え火を着けた。無性に紫煙が染み渡る、疲れたか……
吸っては吐いてを繰り返し、数歩進んで立ち止まる。
振り向けばまだメリーの後ろ姿が見える。路地を抜けるその寸前か……ああ、もういい
「メリー」
三十メートル弱、辛うじて届いた声は彼女を振り向かせた。
「あー、一つ言い忘れてた。どこにも居ないって事はさ、どこにだって居られるって事だと思う。なんとなく」
自分でも何を言っているのか分からなかったが、勢いで口走ってしまったようだ。
ポトリと灰が濡れたアスファルトに落ちる。
雲間とビルの織り成すスポットライトの下で、逆光に霞む彼女はたぶん微笑んで……
立ち止まったそのまま、余韻を噛み締める様に、また火を着ける。
誰もいない路地裏で
ここまで読んでくださりありがとうございました!
こんな感じではありますが、変わらず続けていきますのでどうかよろしく
感想お待ちしております…( ;∀;)
それではまた!