大空魔術完結編となります。
お楽しみくださいませ。
それでは
第八話「虚無の地上とソラの夢」
昼下がり、秋も深まる高い青の空の下、カフェテラスにて秘封倶楽部の月旅行トークは止まらずにいる。
「ねえ蓮子、結局いつごろならいけるのかしら?」
「うーん、夏休みとかどう?」
「ちょっと待て、社会人に夏休みは無いんだぜ」
「私はメリーと二人でもいいのよ」
蓮子はまた蒸し返したいようである。本当に懲りないというか……
「だーめーよ、あなたとハネムーンなんてしないわ。あと夏休みは絶対に滅茶苦茶混むに決まってるじゃない、ずらして秋にしましょうよ」
メリーは意地でも三人で月面旅行に行くつもりである。ほぼムキになっているだけだとは思うが、しょうもない茶化しをするべきでは無かったな、なんて思ってしまう。
蓮子もメリーも俺を秘封倶楽部の一員として何だかんだで認めてくれているのはわかるし、勿論嬉しいのだけど。せっかくの月旅行なら二人で行ってきてくれた方が良いとも思う。
結局、引っ張り出されそうな気もするので金は貯めておくようにしよう……。
「うん、秋もいいわね。今年はもう終わっちゃうから来年の秋……中秋の名月に行くなんてどうかしら。日本的で風流でしょ」
「うんうん、お団子持ってね。そうしましょう」
蓮子は得意げにそう言った。メリーもそれに賛同のようである。
来年の秋ならまだまだ仕事の調整も効くし行ける可能性は高いかもしれない。それに蓮子の言い草ではないが、中秋の名月の上に立てるなんて日本人の俺たちにすればこの上無く風流で粋ではないだろうか。
とはいえ、俺が数か月貯金したところで到底届くような額では無いし、バイトする気なんて最初から無さそうな彼女達を見るに実現は不可能だろう。
ただ、今はそんな現実的な金銭問題は置いておいて”有り得るかもしれない未来”を想像し、夢を語る事に意味がロマンがあるのだと思う。
「でも本当に良い時代になったよな、一世紀前なら大富豪や成金が数十億と積んだって月の軌道回って帰るだけの旅行しかできなかったんだからさ……。このチーズケーキも美味いな、意外と」
周りの煩さを除けば本当にこのカフェテラスのメニューはハイレベルだと思う。ブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキも半分ほど平らげてしまった。食うのが早いタチなのである。
蓮子もメリーもバラエティに富んだケーキセットをのんびりと味わっているようだ。
俺にデートなんて洒落た真似はできないのだろう。と残ったコーヒーを飲み干す俺に蓮子は四角形のモンブランだかを口に運びながら言った。
「地上のほとんどを解き明かし尽くした人類の好奇心が向かう先が宇宙だったのよ、そうでなくても宇宙は永遠のロマンなんだからね、こっちのも美味しいわよ」
蓮子はそう言ってまた大きな口を開けてケーキを口に運ぶ、この調子だとしばらく口は聞けなさそうだが、メリーもいるので構わず続けるとする。皿もカップも空にした俺にはそれくらいしかすることもない。
「宇宙は虚無でも深淵でもない夢に溢れた新世界さ、古来から人が天にその宿命を委ねて読み取ろうとしたように、空の向こうのその遥かなる領域に手を伸ばす好奇心が人間をここまで進化させたんだろう」
「衛星がもたらした恩恵は大きいもんねえ天気予報にGPS……。私達には当たり前だけど昔の人は肉眼の星々から宇宙を理解しようとしたんだから尊敬しちゃうわね」
「そうなんだよメリー、占星術なんかは魔術と混同されがちだけど、その本質は極めて科学に近い、ホロスコープから導かれる星の配列は誰がやったって同じになるんだから」
古代バビロニア時代に端を発する占星術、今やたかが占いでもその時分にはれっきとした学問であったわけだ。共有される認識の枠組み、所謂パラダイムが変遷してしまったがためにアンダーグラウンドに追いやられたそれらの知識も人類の歴史においては重要なファクターなのである。というところまでが受け売りだ。
「今は絶対の科学もいつかはオカルト扱いされる日がくるのかもね。月面旅行がお手軽な値段になるまでは科学に頑張ってもらわないと困るけど……。一つ食べてみる?」
メリーはそう言って自分のケーキを俺に勧める。何だか申し訳ないけどご厚意なのでありがたく頂くことにする。レアチーズだけも味気ない
「じゃあ、いただきます」
「どうぞ」
ギリギリ一口サイズの苺ケーキだ。もっとも材料は合成苺と合成卵だが、問題なく美味しい。合成と聞くと敬遠しがちかもしれないが安くて美味しい人類の大発明である。
「うん、美味いよありがとう。にしてもバカみたいにロケット打ち上げてる割には有人火星探査は上手くいかないんだよな」
「そうねえ……。ホーキングが車椅子で描いた宇宙は永遠に彼の頭の中にしか存在し得ないのかしら」
「ホーキングねえ、凄い博士なのは間違いないけど俺はどうにも科学者と同じ価値観じゃあ生きられないからな。脳みそをコンピュータ扱いされるのはどうも……」
と暗に偉大なるホーキングを詰った辺りで存分にケーキを咀嚼し終えた蓮子がまた口を挟む。
「それが科学者ってやつなの。彼に言わせればあなたは”闇を恐れる人間”ね。それに結局ホーキングを超える物理学者は今にいたるまで出てきてないのよ」
「確かに闇は怖いさ、でも”冥界”はあった、おとぎ話じゃなくてな」
「まあ彼の時代には今ほど霊的な研究はされていなかったからね。あくまで最高の物理学者って事。そして私は結界も暴ける不良科学者」
「不良サークルのボスだもんな、納得だ」
「そうだわ。稀有な能力を持ってるんだから蓮子が頑張ればいいんじゃない?」
「メリー、私は専門が違うわよ。もちろんプランク並みに頭が良いのは自負しているけど、それに私から言わせればもう人類が火星に行く事は無いと思うわ」
「なんだ藪から棒に、悲観的すぎやしないか? まあ蓮子が言うんだからそれなりの根拠があるんだろうけど」
「行きたくはないけど、行けないってのも悲しい話ね、蓮子が言うと説得力があるのが余計に悲しいわ」
「そうね……。観測する為に必要とされるエネルギーが膨大になり過ぎたから、かしら。机の上で描く理論上であればともかく、観測物理学は終焉を迎えつつあるのよ、残念だけどね」
と、蓮子は本当に残念そうな顔で言うのだが
彼女がそんな顔をすると本当に人類が永遠に火星の表面に立つことなど有り得ないのでは無いかと思ってしまう程に、俺は彼女のプランク並みの頭脳とやらを評価しているつもりである。
俺は科学の跋扈するこの時代に生まれた訳だがその時代が大嫌いなある意味での反出生主義者なのだ。
それ故に物理学を志す蓮子とは意見が食い違う事も多い訳だが、まあだからこそ俺が幻想の世界の美しさを説く様に、彼女、宇佐見蓮子には科学の偉大さを語っていて欲しくはある訳である。そんなものは至って個人的な価値観と言うか、憧れの押し付けに他ならないのだ。誰かが言うには憧れとは理解とは最も程遠い感情だと……
もしくはその物理学に入り込んだが故の諦観があるやもしれないのだけれど、それが理由で結界暴きを始めた。なんて経緯も想像してしまえる……。
そんな表情で彼女はカップに残ったブラックコーヒーを飲み干した。
「で、なんで物理学は終焉を迎えているのかしら?」
「一言で言うなら観測するのにのに必要なコストが大きすぎるからよ」」
「それで俺らも月にいけない訳だからな、物理学者そんな貧乏とは知らなかったけど」
「お金の話じゃないって、エネルギーの問題よ。物体を分離させる際に掛かるエネルギーは物体が小さければ小さいだけ大きくなるのよ。原子、分子、クオークとそのエネルギーを増大させ続けた先、宇宙最大のエネルギーを持ってしても分離不可能の物体……呼称するのであれば”世界の最小単位”に辿り着いてしまってるのよ、とっくにね」
「で、終焉か……。そっから先は哲学の世界とか何とか言ってたろ、それが火星に行けない理由とどう絡んでくるのかがわからないんだけど」
「幾ら科学が進化してもエネルギーは有限で戻らないって事よ、火星なんか行ったって費用対効果が無いじゃない」
「へえ、まあ資源も無尽蔵に湧いてくる訳じゃないからな。エントロピーとか言うんだったか、限界を制約するような面白くない話は止めようぜ」
「嫌ね。まだ話足りないもの、それからエネルギーの限界量は十の十九乗GeVと言われているのだけど、このエネルギー量を超えると……」
変なスイッチを入れてしまったようで、蓮子は雄弁にもプランクエネルギーがどうのこうのと俺には到底理解不可能な内容を語るものだから、しばらく聞かない事にする。
少々日も傾いて来たようだ、なんせこんな季節だから夜の帳が降りるのも時間の問題である。
夜が来れば月も見えるだろうか。間の良い事に確か今日は満月だったはずである。
月、と言えば東京旅行の夜に縁側から見あげた満月が懐かしい、中秋の名月は外してしまったが美しかったのはよく覚えている。
誰かと月を見上げるなんて一昔前の俺であれば考えられなかった事だ。だからこそ本当は月旅行も行きたくはある、金はもちろん無いが
月、満月……蓮子の理解不能な言語をバックグランドに聞いているとどうにも関連した記憶がフラッシュバックの様に瞬いては消えていく。
記憶の海、星海
その星屑の中で輝いて止まない記憶はやはり……。
走馬灯の様に浮かぶ景色の美しいのは掌に隠れきらぬ満月か
その光に照らされた幻想の野の山河か……。
ああ、何より綺麗なのは並んで空を見上げる彼女の長く繊細な金色の髪と、その飾人形のような美しく冷たい面立ちに浮かぶ温かい微笑みだったのだ……。
今や、この手の届かぬ領域へと消えた、夜空の月のような記憶……。
「蓮子に物理学の話なんか振るからこうなっちゃうのよ、一人でずっと話してるし。一人は物思いに耽りだすし」
メリーの声に記憶の海から西日の照らすカフェテラスへと引き戻される。そうだ、俺はここにいたのだった、ついぼおっとしがちなのは悪い癖である。彼女の金髪もまた緩やかな秋風に揺れている。
「ん、ああごめんな。あまりにも理解不能過ぎて思考が停止してた」
「自業自得よ、蓮子はスイッチ入ると止まらないから。あー、本当に高いわねこのツア
ー」
「ごめんメリー、専門だからついね。じゃあまた馬鹿で楽しい話でもしようかしら。宇宙カフェの話とか」
「俺への謝罪は無しか、で宇宙カフェって何だよ面白そうじゃないか」
「私も気になるわ、その話。宇宙遊泳しながらお茶する話かしら」
「半分正解でもう半分は不正解ね。どうにも宇宙旅行のツアー客向けに人工衛星の中のカフェが出来たらしいの。無重力で淹れた珈琲は格別だそうよ」
「面白そうだけど飲めないだろ、無重力じゃあ……。まあカップから浮かんでくる熱々のコーヒーを口で受け止めるのも楽しいかもなあ、バーは無いもんか。青い地球を肴に一杯とか洒落てるじゃないか」
「スペースカップだったか知らないけど宇宙でもコーヒーを飲める画期的な容器があるそうよ、バーは知らないけど宇宙で飲めたら楽しいわよね絶対」
「真空コーヒーは飲んでみたいけど、室内カフェじゃあね、私はカフェテラスの方が好きだわ」
「悪かったなメリー。俺は暗くて閉塞感のある路地裏の純喫茶が大好きさ、まあこの時間のカフェテラスも悪くはないけどさ」
「ごめん、そういう意味じゃないわ。ああいうお店も趣があって好きなのよ。ただ私は意外にアウトドア派って訳。あら、随分人も減ったわね」
「いいって、冗談だ。ただ衛星のドアを出るなら宇宙服は必須だしお茶なんて出来やしないぞ。もう夕方か……」
オレンジ掛かり始めた西の日に照らされたカフェテラスは随分と静かになっている。最初は溢れる程に犇めいていた学生共も少なくなり、俺らと同じくじっくり話し込んでいるであろう集団が数組見受けられるくらいである。
「「本当ね、宇宙空間に限っては屋内も屋外も関係ないわ。けど、珈琲の抽出って重力下だから成り立つのにどうやって淹れるのかしら、衛星のカフェテラスでは」
「それはね、メリー。サイフォン式よ。今でこそほぼ死滅してしまったけど、蒸気圧でお湯が行き来するところが宇宙では再評価されたって訳」
「なるほどね、そういえばいつもの喫茶店にも置いてあったけ……サイフォン。インテリアとしか認識して無かったけど」
「あの喫茶店のならインテリアじゃなくて実用品だぜ。今では死滅しかけたサイフォン珈琲を出す店なのさ、あそこは。だからこそ俺みたいな時代錯誤者のオアシスなんだけどな……。というかサイフォンなら持ってる、俺も」
「えー、そうだったのね。私達いつもサイフォン抽出のコーヒー飲んでたんだ。どうりで美味しいけど出てくるのが遅いわけね。使ってるの? サイフォン」
メリーはそう言って、またカップの冷めた珈琲を流し込んだ。ここのは多分作り置きだろう。
「残念ながら俺のはインテリアになってるよ、インスタントが楽で美味いからさ、一回二回使ったきりだ。欲しかったらあげるよ」
「うーんどうしようかな、欲しくはあるんだけど結局インテリアになっちゃいそうよねえ、でもドリップより味が落ちるなんて話も聞いたことあるわよ」
「まあ欲しかったらいつでも言ってくれよ
まあどの抽出方法が美味いかなんて俺にもわからんな。サイフォンが雰囲気込みなのは間違いないけどさ」
「それが、宇宙空間用に改良されたサイフォンは対流が無いから濃厚な珈琲がつくれるそうよ」
「蓮子は何でも知ってるのねえ、珈琲なんて飲まなくったって目が覚めそうなものだけど、宇宙なら」
「興奮してか、間違いないな。はあ、重力に縛られてるってのは息苦しいな」
宇宙に手を伸ばした人類は無重力化の世界でも新たな文明を築きつつある。そう遠くない未来、本格的に軌道上に暮らす人類も出てくるのだろう。
月面旅行もそうだが、結局宇宙に行けるのはごく一握りの選ばれた人間でしかなく、俺のような下層の人間は地に這いつくばって生きるしかない訳だ。
「はあ、宇宙には魅力が尽きないわね本当に」
「本当になあ、ゼログラヴィティ……。その夢を抱いて地を這って生きる。これじゃあ緩やかな心中だぜ」
「あら、ため息なんてついちゃって、地上にだってまだ面白い事はたくさんでしょう。あなたの方こそ虚無主義が顔を出しはじめているわよ」
「うん、そうだな。別に虚無に浸ってる訳じゃあないさ、最近は結界の向こうの景色を想像して夜もぐっすりだし。ただ何かな、資本主義という亡霊に憑りつかれた社会の構造に辟易してただけだ」
科学世紀に入り、世界は急速に発展した。
どこの国もある程度は豊かになって、途上国なんて言葉もすでに過去の物となりつつあるわけだが、世界規模である程度の水準への移行が達成されたことによって、これまた世界規模での”資本主義的”パラダイムシフトが起こる。
そして人類は次のステージへと進んだ。
紀元前から右肩上がりに増えて続けてきた人口……。
”産めよ、増えよ、地に満ちよ”創世記においての神からの祝福、その言葉通りに人間は繁殖し文明を興し続けてきた。
しかし現在、増え続けた人口は緩やかではあるが現象の一途を辿っている。
この国でも一世紀近く前には少子高齢化なんてワードが流行った時期もあったそうなのだが、もはや総体としての人口が減っていきつつあるのである。
資本主義社会、科学の発展……。それは格差社会を増長させる何よりの因子、ファクターであり。
かつてこの世の地獄と形容されたアフリカ大陸も含め、どの国々も軒並みに出生率が低下していった。
しかしこれはどうにも資本主義社会の最終ステップである「人口調整」の段階に入った”だけ”なのだそうだ。
いち早い少子化の進行、そのデメリットを上手く回避した我らが”日本”は選ばれし人々による勤勉で、精神的に、豊かな国民性とやらを取り戻す事に”成功”したのだという。
成功だと
選民思想、ユダヤ教にナチスドイツ。自分が神だの何だのに選ばれた人間だと言うのは愚かしい驕りに他ならない、そんな事は分かり切っているはずなのに……。
それを成功と言い張らねばならぬ程に、この資本主義の世界の均衡を保つ為には、その忌まわしき思想を蘇らせる他無かったのである。
人は選ばれたいがために勤勉に生きようと努める。誰だって大洪水に流されるのは御免だからだ。
多くの人々をこの地に縛り付け、駆り立てる物は、選民思想に伴う焦燥感であり
科学も月面旅行もまた、資本主義というパラダイムに支配された世界の作る虚構の象徴
それはまるで……
「ノアの箱舟、だな」
「そうね……。だとしても私は選ばれる側の人間よ。このプランク並みの頭脳は失われてはいけない。だからきっと月面にだって立って見せるわ」
そう蓮子、は言った。赤い西日に照らされたカフェテラスの影の中で。
「ま、そう言うよな……、だけど俺は違う。選ばれざる側ってわけだ。それでもこの天命の許す限り探し求めると誓った。俺の目指すべくは広陵とした岩石の海じゃなく、兎が不死の薬を搗く月の世界なのさ」
「ふん、卑屈で回りくどいわねえ……。でも月にも忘れられた世界が隠されているのは間違いない。高度な文明を持ち高貴な人々の住む月の都……。その世界を見られるのは……」
「”メリーしかいない”か……」
そうだ、メリーでなければ意味がない、蓮子の目よりも稀有な能力を持つ彼女でないとたとえ月に行けたって意味は無い。彼女と同等の能力を持つ人間はこの地球を隈なく探したところで見つからないだろう。
人間に限定するなら、という話ではあるが
メリーの境界視、その上を行く力を持つ誰かがいるのなら”彼女”以外に他ならない、彼女もまたその能力を持って月の世界へ干渉しようとしたのだったか。苦い記憶だと、そう言っていただろうか……。
「二人揃って言われると責任重大ね、でも確かにそうね。人間が集まって開拓される前に行ってみたいわあ」
吐き出すように呑気な声でメリーは言った
日はすでに沈みかけている。ガラス越しに遠く見える京都の街並みもサンセットの中に影として聳え立つ。
昼過ぎ頃にここに来たので随分話し込んでいたようである。
ケーキも珈琲も尽きた今、惰性のように黄昏の中、会話は続く。
「そうねメリー、とりあえず準備はしておかないと」
「準備って、バイトするくらいしかないだろうに……」
「うーん、月の都に行く準備かあ、月の都についてもっと勉強するなんてどうかしら、参考程度に話聞かせて欲しいんだけど」
「わかったよメリー、話してもいいけどとりあえず出ようぜ。もう誰もいないし」
いくら話したいとは言っても大学のカフェテラスはそう遅くまで営業していない、そろそろ精算してこのカフェテラスを出ようか。
「そうね、ここにも随分いたしそろそろ行きましょうか」
蓮子はそう行って立ち上がる。俺もメリーもゆっくりと腰を上げる。
ふと、夕焼けのカフェテラスに目を移す。
緩やかに曲線を描いてパラソルが並んでいるが、話声も随分と聞こえなくなったものである。話し込んでいたからか、途中から意識すらしていなかったが。
「で、精算はどうするんだ?」
「構内の店なら学生カードで精算できるのよ、毎月学費と一緒に払われるってわけ、今日は私の奢りでいいわ」
「お前の金じゃないじゃないか。ほんと羨ましい身分だぜ。ごちそうさま」
思いのほかこの大学のカフェテラスも悪くなかった。ただやはり慣れない場所は疲れるものである。俺は屋上や衛星のカフェテラスより路地裏の寂れた喫茶店の方が肌に合ってしまう。
ただたまには違う道を歩くのもいいかな、なんて支払いを済ませる蓮子を横目に考えている。
メリーは山越しに昇り始めた月をみているのだろうか。
今や懐かしい並木道、日も暮れた大学構内のその道を三人で歩いている。円柱で形作られた気持ちの悪い建物は照明に照らされなおもその存在を誇示していた。再び足を運びたいとはあまり思えないが……
蓮子は唐突に立ち止まって。空を見上げる
「十七時三十一分、もう随分暗くなったわね、この後どうする?」
「どうするって、何処か行くところでもあるのかよ」
「気晴らしに星でも見に行かない?」
「星? いいけどどこで見るっていうんだ。京都の街中じゃあ見えそうにもないが」
「うちの大学の天文台がここから南に下った山科の小高い山の上にあるの、そこなら街の光にも遮られない星空が見られるわ」
彼女達の大学が天文台を持っているなんて初耳である。まあ歴史のある名門大学なのでおかしくはないが、そういえば山科の花山に天文台があるなんて話は聞いたことはあるかもしれない。
「いいじゃない蓮子、月面旅行は無理だけど気休めに天体観測でもして宇宙の神秘を感じられるわね。うん、そうしましょう」
メリーはそう言って無邪気に笑った。どうやら蓮子の提案に乗り気のようである。
そういう俺もやぶさかではない、昔から星を見るのは好きだ。
「いいぜ、見に行こう。それで車出せっていうんだろう」
「当然よ、あんな場所にバスは無いしタクシーは高いもの、それくらいしか役に立たないんだからいいでしょ」
本当に酷い言い草である。そうこう言っている間に、またあの狭苦しい駐車場についてしまった。
「わかった。乗れよ、ケーキと珈琲のお礼もあるしな」
車のロックを開ける。
二人を後部座席に乗り込ませ、俺も運転席に乗り込む、車内を照らすのは僅かな街灯の明かりだけである。
さて、その天文台に向けてアクセルを踏むとしよう。
暗い車内を、過ぎては後方に消えゆく街灯のLEDが照らしている。まさか星を見る事になるなんて考えてもいなかったが、悪くない提案だと思う。
クソッタレな現実も資本主義の見せる箱舟の虚栄も、大空の見せる星の魔術の前には小さく霞む、思うに人間にとっては科学も魔術も大差ない、どちらでも良かったのかもしれない。
静かな車内、メリーは唐突に呟いた。
「月には不老不死の薬があるのよね」
「ああ、どうもあるみたいだな蓬莱薬ってのがさ」
「もし、その薬が手に入ったら。あなたは使うの……?」
と、メリーは本気とも冗談ともつかない口調でそう尋ねるのである。
突拍子も無いが、余りにも自明な問いだ。
「使うさ、勿論……。不老不死ってのはただ死ななくなる訳じゃない。生と死のその境界線上に立ち、生きても死んでもいない状態になることだ。生命という呪縛から解き放たれた世界……。顕界でも冥界でもある世界……。そこでなら彼女と並びたてる気がするんだ」
しばしの沈黙、蓮子はぼおっと窓の外を眺めたままで答えた。
「物語では不老不死は辛いものだとされるけど、アレは欲深さや、権力への反抗を謳っているだけ。この世界の行く末を見届けられるなら、私だって飲みたいんだけどなあ」
「二人とも、そんなに飲みたいなら富士登山でもして秘薬の煙を浴びてきたら?」
「今や、気軽に登れなくなってしまったからね、それにメリーの目が無いとただの岩山じゃない」
「月面と一緒で、か。今は登山より天体観測だろ、ほらもう少しで九条山だ」
今出川から白川通りを十分そこら南へ下れば、天文台のある九条山は見える。天文台以外にも山頂公園や将軍塚の大舞台、などと京都を見下ろす絶景スポットもあったはずである。
それを尻目に天文台へ向かうのも中々面白そうだ。
「わかってるわよ、宇佐見蓮子の星空ガイド、期待していいわよ」
「私達にも理解できるように説明してよね」
彼女達と出会ってから、自分は少し腑抜けてしまったのではないかと思うときもある。
けど以前のようにただ亡失に囚われて半分死んだような日々を送るよりはずっと幸福なのだろう。
まだ、君の元へは行けないけれど、彼女達といればいつか……なんて思うけど永遠は無い
それでも今はこんな日々に享受したっていいだろう。そう暗闇に囁く
大空を見上げれば、きっと。君に会える。
違う空、されど同じ星の下で……。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回以降はしばらくオリジナルを書いていきますので、試行錯誤しながらにはなりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
感想などいただけると嬉しいです。
それではまた