Compass   作:広田シヘイ

1 / 13
第一話『帰る場所』

 

 

 

 

 カンカンカン──と打鐘(だしょう)の音が場内に響き渡る。

 レースのペースと同調するように観客席の熱気も増していく。歓声の中に怒号や脈絡のない奇声が入り混じったカオスな空間だったが、この場に飲まれてはいけない。周囲の親父達と多分同じだろうが、僕も生活が懸かっているのだ。

 不安が募り、僕は肩車をしていた雪風(ゆきかぜ)に問う。

「雪風、一番車は何処(どこ)だ!」

 僕の肩の上で双眼鏡を覗く雪風は元気よく返答した。

「後方、三番手です!」

「間に合うのかよッ」

「絶対、大丈夫です! ほら、しれぇ! 来ました!」

 最終周回の二コーナーを抜けてバックストレッチに差し掛かったところで、白色の一番車が追い上げを見せていた。

「来た、来たっ! いけぇそのままぁ!」

 乳酸蓄積の限界を超えて選手達が最後の力を振り絞る。三四コーナーを回って、観客の様々な感情を乗せた歓声に包まれながら、外側を(まく)った一番車が一着でゴールラインを通過した。

「や、やった雪風ぇ! やったぁ! に、二着はッ? 二着はどうなったッ」

「オレンジです!」

「1―7! 二車単も当たった! よくやった雪風!」

「幸運の女神のキスを感じちゃいます!」

 今夜は高級和牛のステーキだ、と二人で飛び跳ねて歓喜していたところ、右手に持っていた車券を何者かに抜き取られる。咄嗟(とっさ)にそちらを振り向いた。

 そこにいたのは泥棒ではなく、瞳の奥に強烈な怒りを滲ませた軽巡洋艦、大淀(おおよど)だった。

「お、大淀」

「何をなさっているんですか」

 スリではなかったと安心したのも(つか)()だった。

「な、何って見て判らないか。け、競輪だ。ここは競輪場なんだからな」

「そんなことは解っています」

 右手の人差し指と中指に挟んだ車券を一瞥(いちべつ)して大淀は言う。

「当たったんですね」

「そうだ。返すんだ」

 手を伸ばすと、大淀はひょいと車券を遠ざける。

「誰が購入したんですか?」

「無論、僕だ」

 大淀、それ以上は追及するな。

「質問が悪かったですね。この番号を選ばれたのは、どなたですか?」

「それも無論──」

「雪風です!」

 僕は顔を手で覆う。肩に振動が来たから、多分手をあげて元気に答えたんだろうな。

「そう、雪風が選んだのね」

「司令がカラフルな新聞を見せてくれて、雪風はどれがいいと思う? って聞いたんです。だから、雪風は白とオレンジがいいですって答えました!」

「提督──」

 

 大淀が一歩こちらに近づいたような気がして、恐る恐る顔を上げる。

 笑顔が怖い。

 

「大淀、違うんだ」

「何が違うのですか? 艦隊の指揮を放り投げて鎮守府を留守にした挙句(あげく)、駆逐艦一隻を無断で連れ去り賭け事の予想に利用したんですよね? お金に目が(くら)んだんですよね? 幸運艦の幸運を世界平和でなく自分の財布を温めるために利用したんですよね?」

「な、何てことを言うんだ。張り詰めてばかりじゃ保たないだろう。息抜きだよ、息抜き。雪風の社会見学も兼ねての──だ」

 自分で言っていて苦しいのは解っている。

「抜き過ぎじゃないです? まぁ、いいです。そういうことでしたら、これはもういらないですよね?」

 車券を両手で掴んで大淀は深海棲艦(しんかいせいかん)みたいなことを言った。

「な、何を」

「本気ですよ?」

 

 神よ。

 

 身体が勝手に反応して、僕は大淀の両手を咄嗟に包み込んだ。傍目から見ればプロポーズか何かに見えるかもしれないが、実際の現場にはロマンの欠片もない。

 というか肩に雪風乗ってるし。

「大淀、確かに僕は悪い指揮官だ。君には苦労ばかりかけたしこれからもかけるだろう。でも、人っていうのは反省することが出来る。変わることが出来るんだよ。約束する、二度と仕事はサボらない」

 わざわざ改まって誓うことではない。

「そうですか。嬉しいです」

 そう言う大淀の手に力が入る。僕も大淀の手を強く握りしめた。

「やめるんだ大淀。憎しみは何も生まないというかそれ幾価(いくら)になるか解ってるのか!」

「知りたくもないです!」

 このままでは大淀の暴挙を止められない。

 混乱した僕は、多分状況の思いつくままに言葉を吐いた。

「大淀、愛してる」

 大淀がハッとして赤くなる。

「て、提督、何を。ふ、巫山戯(ふざけ)ているのでしたら」

「巫山戯てなんかいないよ! 僕は君が──君のことが好きなんだ! 君のような美しい女性が車券を破くところなんて、見たくない」

 どんな女性でも見たくない。

 自分でも何を言っているのか判らなくなっていたのだが、なんだか大淀は目を潤ませているし効果はあったようだ。一縷の望みが繋がったと思ったその時。

「しれぇ。司令が好きな人って、翔鶴(しょうかく)さんじゃありませんでした?」

 肩の上の幸運の悪魔。

「この前も翔鶴さんのこと見て綺麗だなーって呟いてましたよね?」

 大淀が俯いて表情が読み取れなくなる。

 これはいけない。

「や、やめて」

「て、提督の──」

「やめてぇッ!」

「提督のバカぁ!」

 

 僕の希望は、僕の両の手の中で散っていった。

 鬼、悪魔、深海棲艦──。

 そう叫んで、僕は人目も(はばか)らずに声を上げて泣いた。

 

 

 ※

 

 

 大淀の運転するワーゲンが、薄暮の国道をとろとろと走行していた。

 海岸沿いを走るこの国道は片側一車線で、時間帯の影響なのかガソリンの供給量が制限されている昨今には珍しく渋滞していた。

 僕は助手席に座って窓の向こうの水平線を眺めている。

 左側の運転席は怖くて見られない。乗車してから一言も会話していないし、時折ハンドルを指で叩く音が聞こえてくる。競輪サボタージュと渋滞の相乗効果で大淀の怒りも倍増しているようだ。

 ラジオから流れるニュースが、原油価格のさらなる高騰を伝えている。

 張り詰めた車内の空気に息が詰まりそうで、僕はたまらず溜息を吐いた。

「司令、溜息なんて吐いてると幸せが逃げちゃいますよ?」

 ワーゲンの狭い後部座席で雪風が言った。

「僕の幸せはとっくに逃げちゃったから関係ないさ」

「私への当て付けですか」

「給料の数ヶ月分が目の前で破かれたんだ。そりゃ意気銷沈もするよ」

「鎮守府の司令長官が勤務中に競輪なんて、それは意気銷沈どころじゃないです」

 大淀の低めに抑えられた声音に萎縮する。

 なんせ大淀の言っていることは正しすぎるし。

 それは解ってるし。

「提督」

 呼びかけられ、観念して大淀の方を向く。

 その顔は怒っているというより、少し悲しんでいるように見えた。

「提督が着任されてからもうすぐで二ヶ月になるんですよ。私達の指揮官としてもう少し自覚を持って頂きたいです。それとも、矢張(やは)り現在の御立場に──不満を抱いてらっしゃるのでしょうか?」

「いや、そういう訳じゃない」

 再び、窓の外を向く。

「ただ、僕でいいのかなってさ、不安になるんだよね。ものすごく」

 提督、なんて柄じゃない。

 だって二ヶ月前まで、僕はうだつの上がらないただの大学生だったんだから。

 

 

 ──二ヶ月前。

 僕は、バイト帰りの海岸通りで鈍々(のろのろ)と自転車を漕いでいた。

 

 

 当時は毎日憂鬱な日々を過ごしていたから、多分その日も相当に憂鬱だったと思う。

 周りはやりたいことを見つけてそれぞれの道に邁進する中で、気づけば大学七年生になりバイト漬けの毎日だった。卒業するには単位を取るしかないのだが、生活するにはバイトをするしかなく、自分が何をやっているのかも解らなくなっていた。

 今は深海棲艦の影響による全世界的な不況で就職難だから中退する勇気も持てず、かと言って卒業してもまともな職に有り付けるか怪しい状況で(というか僕は確実に無理だったと思うのだが)、八方塞がりの鬱屈とした日常を過ごしていたのである。

 

 日の沈み切らない微妙な時間でライトを点けようか逡巡していた時、ふと砂浜に倒れている人影が見えた。

 

 僕はあまりのことに数秒放心していたのだが、やがて正気を取り戻し自転車を放り投げてその人影に駆け寄った。

 倒れていたのは、不思議な格好をした少女だった。

 一目見て判ったのは大きな双眼鏡くらいで、背負っているものはリュックではなさそうだし、肩のベルトからぶら下がっているものは変わった銃というかなんというか。

 とにかく怪しさは満点だった。

 しかし今は怪しいかどうかは関係ないし、下も脱げていたから(当時はそれがワンピースだなんて思わなかった)溺れたのだろうと判断し、上着をその少女の腰にかけて救急車を手配しようとしたその時──。

 

「し、しれぇ」

 少女は半眼の状態で、僕を見てそう言った。

 

 意識があることに内心安堵しつつも、少女の言葉の意味は解らなかった。

「大丈夫かい? 今、救急車を呼ぶから」

「に、逃げなくちゃ」

 逃げなくちゃ、と明瞭にそう聞こえたのだが、それを無視して携帯を取り出す。

 するとその手を少女に掴まれた。

「雪風は、逃げなくちゃいけません。しれ──いえ、お兄さんも逃げてください」

 そう言って少女は立ち上がろうとしたので、僕は咄嗟に肩を押さえた。

「まだ動かない方がいいよ海で溺れたんだろう。すぐに病院で治療を──」

「雪風は沈みませんっ! 座礁して燃料切れしただけです!」

 その言葉の処理に、僕の脳味噌は数秒を費やした。

 

 ──ザショウしてネンリョウギレ。

 

 ザショウ、はまだ「挫傷」に変換出来たのだが、ネンリョウギレ、はもう完全に「燃料切れ」だ。今の若い子達はお腹が空いたことを燃料切れと言うのだろうか、などと考えていると、少女は僕の手を振り切って立ち上がり、見事な敬礼をして僕に言った。

陽炎(かげろう)型駆逐艦八番艦、雪風です! どうぞよろしくお願いします!」

 そして僕の脳味噌は、理解することを放棄した。

 取り敢えず「雪風」が名前なのだろう。

「あっ、うん」

 返事になってない返事をしつつ色々な疑問が湧いたのだが、とにかく敬礼をする雪風に付着していた砂粒が気になってそれを払う。

「有難うございます!」

「畏まらなくていいよ」

 そう言うと快活に返事をして雪風は敬礼を解いた。

「元気は元気なんだね」

「はい元気です! ただ、少しお腹が空いてます!」

 面白い子だな。

「そう、良かった。親御さんとかに連絡しなくて大丈夫かい?」

 僕は彼女を家出少女と結論付けた。結果的にその推論は当たらずと(いえど)も遠からずといったところだったのだが、神ならぬ身の大学生に入り組んだ複雑な事情など想像出来る(はず)もない。

 思春期に親への反抗心が芽生えるのは当然のことだし、せっかく意志を持って家出を決断した少女を無理矢理家へ帰すことはなんとなく憚られたので、家出少女に出会ってしまった善良な市民として一応の確認を取っただけだ。

 もしかしたら危険な目に遭うかもしれないが、それは家出の当然のリスクであるし、そうやって人生なるものを学んでいくのだと思う。冷たいのかもしれないが、僕にとってそれが自然な考え方だった。

 それにこの提案を雪風はどうせ拒否するだろうと踏んでいたのだが、その反応は僕の思っていたものとは少し違った。

「それはやめてください! 雪風、解体されちゃいます!」

 

 ──カイタイ。

 

 解体、くらいしか思い浮かばないのだが、他にそういう熟語でもあるのだろうか。

 言っていることは理解出来ないのだが反応はマトモというか。解り難い表現ではあるが、おかしな子ではあるがその実全くおかしな子ではない、のである。

 正直、親には連絡しないでください、そうですかでは気をつけて、の流れで華麗に立ち去る魂胆だったのでどうしようか非常に悩む。

 

 

 あまり他人には興味を持ちたくない。

 そのうち自分にも興味を持ってしまうから。

 自分に興味を持ってしまうと、絶望するしかないから。

 だから、他人とは関わり合いたくない。

 

 

 やめておけ、引き返せ、ともう一人の自分が(ささや)く。

 しかし何故か、雪風は放っておけない気がした。

「カイタイ、って何?」

「雪風がバラバラにされちゃいます」

 雪風の不思議な格好と破茶滅茶な言動が、僕の中で朧げに一つの像を結び始めた。

 あれは、いつのニュースだったか。

「人間で言うと、死んじゃうってことなんです」

 深海棲艦の出現と時を同じくして──。

「その──め、命令を、無視してしまって」

 海上を疾走し、深海棲艦と戦う少女たちが──。

 

 

 一週間くらい前の話だったか。

 

 

「雪風は、皆さんを守りたかっただけなんですけど──」

 〈船員たちの目撃情報が相次いでいますが〉

「鎮守府にいると、大切な仲間たちにも迷惑が掛かってしまうので」

 〈政府や国防省は、その存在を公式に認めてはいません〉

「だから、雪風は逃げなくちゃ駄目なんです! 雪風は──」

 〈救助された船員によると少女は艦の娘と書いて──〉

 

 

「──艦娘(かんむす)なので」

 〈──艦娘、と名乗ったとのことです〉

 

 

 海岸通りが騒々しくなる。

 いくつもの光源が暗くなった通りを覆って、急制動の音が辺りに響き渡った。

「み、見つかっちゃいました! 逃げてください!」

 逃げてください、と言われても。

 正直海を泳ぐしか逃げ道はない。それほどの車の台数だった。

 迫り来る大勢の人影に圧倒されていると、やがて彼らが日本では馴染みのない物騒なものを抱えていることに気がつく。

 それは、小銃(ライフル)だった。

 足が竦んで動けなくなる。そのくせ、僕は雪風を庇うように背後に回した。

 格好つけている場合ではない。

 迷彩服の兵士達を引き連れて、スーツ姿の男が先頭を歩いていた。

 ライトで顔面を直に照らされて、僕は反射的に顔を背ける。

「君は誰だ?」

 神経質そうな鼻に掛かった声だった。

 目を細くして正面を向き直す。視界が焼き付いて、何も見えない。

「まぁ、いい。我々はその少女に用がある。ここからすぐに立ち去れ」

 傍から見れば僕はその相手を睨みつけているように見えていた筈だ。もちろん、急に押しかけてきて即刻の味噌(みそ)(かす)扱いに腹が立っている部分もあったのだが、とにかく視界を回復させたいだけだったし、立ち去れと言われても足が震えて動けない。

 それでも雪風が僕のシャツをくっと掴むものだから、何とか助けになりたいと思う気持ちもあった。

 スーツ姿の男は、大きく溜息を吐いて言った。

「乱暴なことはしたくないのだが」

 乱暴なことはされたくないのだが。

 徐々に回復してきた僕の目に、迷彩服の大男が映し出される。

 恐怖を感じるセンサーが故障したのか、雪風に手を伸ばしたその大男の太い腕を僕は払った。無感情な目で僕を一瞥した後、後ろを振り返ってスーツの男に何らかの確認を取る。

 突如、顔面の右側に強烈な衝撃と激痛を感じて僕はその場に倒れこんだ。

 多分、銃床(ストック)で殴られたのだろう。

「な、何てことをするんですかっ! 大丈夫ですか!」

 僕はあまりの激痛に声をあげることも出来ず、全身を強張らせて油の切れた機械みたいに砂浜の上で身体を(よじ)るだけだった。そうして悶絶していると、胸の辺りを一発、二発と硬いブーツで蹴り上げられる。

 殺されるのかな、と他人事のような感想を抱いていると、

「もうやめてくださいっ!」

 と雪風が僕を庇って覆い被さる。

 雪風はとても温かくて、痛みが急速に和らいでいくのを感じた。

 あぁ、僕にこの子を助けられる力があれば。

 そう思ったその時。

 

 

「いい加減にして頂けませんか」

 

 

 場に似合わぬ、涼やかで凛とした女性の声がした。

 僕を半殺しにした大男の陰から、制服のようなものが風に(なび)くのが見える。落ち着いた声音だったが、まだ少女なのか。

「大淀さんっ!」

 雪風が叫ぶ。その少女は、おおよど──というらしい。

「君こそいい加減にしないか。邪魔はしないという約束だった筈だが」

「手は出さないという約束では?」

「それは君達のお仲間に対しての約束だろう」

「では、今すぐにやめて頂けますか? その方は──」

 男が一歩退いて少女と目が合う。絹のようなさらりとした長い黒髪が印象的な美少女だった。

 

「私達の──提督なので」

 

 

 ──ていとく。

 何のことだ。

 

 

「──何を言っている? 巫山戯ている場合ではないっ!」

 スーツの男が大声を張り上げる。しかし大淀はそれに動じず、

「その方は私達の指揮官だと申し上げています。これ以上の無礼はやめてください」

 と言った。

 数秒の沈黙が、その場を支配した。

「貴様は──貴様は自分が何を言っているのか解ってるのか! もういい! そいつを排除しろ殺しても構わん!」

 大淀は、くいっと眼鏡を上げる。

「私達は提督のご命令がなければ作戦行動をとることが出来ません。雪風があの時、貴方達の命令を無視して民間船の救助に向かったのも、人命優先を第一にという提督の指示があったからです。提督がいなくなってしまうと、深海棲艦には貴方達だけで対処してもらうことになりますが──それでもやります?」

「──私に逆らうんだな」

「提督に従っているだけです」

 男は大淀を睨みつける。

「覚えていろ。必ず後悔する」

 そう言って、スーツの男は兵士たちを連れて去って行った。

 

 何が何だか僕にはよく理解出来なかったのだが、取り敢えず命は助かったようだ。

 安心すると途端に意識が朦朧(もうろう)としてくる。ぼやけた視界にはこちらに歩み寄る大淀が見えた。やがて倒れている僕の傍に両膝をついて、大淀は言った。

「初めまして提督、旗艦大淀、お供致します」

 こうして──僕は提督になった。

 

 

 車は鎮守府の近くまで来ていた。

 あれから二ヶ月経ったのかと、長かったような短かったような不思議な気持ちになる。

 お(かみ)の方では擦った揉んだと色々あったらしいのだが、今僕は国防軍の臨時職員という形で扱われている。一鎮守府を預かる司令官が臨時職員とはなんだか格好がつかないが、この際肩書きなんてどうでもいいのだ。

「あの時さ、何で助けてくれたの? あの男、国防省の情報部の人間だったんでしょ。僕なんかの(ため)に嘘まで吐いて敵に回しちゃって良かったのかな?」

「もう知りませんよ。こんな時に上層部の権力争いに巻き込まれてる場合じゃないです。それに提督は──雪風を助けてくれましたし」

「それだけ?」

「──それだけではいけませんか?」

「雪風もしれえが司令で良かったです!」

「ありがとな」

 後部座席から勢い良く飛び出してきた雪風の頭を撫でる。雪風は目を細めて喜んだ。

「今でも、あの時の判断が間違っていたとは思いませんよ?」

「執務をサボって競輪に行っても?」

「執務をサボって競輪に行ってもです」

 そう言って大淀は表情を和らげる。

「ご不満ですか?」

「いや、あの頃の僕は他人に興味がなかったし自分にも興味がなかった。だけど、今は違う。みんなを見ていたい。みんなのことが大切だからこそ、僕でいいのかなって思ってしまうんだ」

「では、一日も早く私達に見合うような、立派な提督になってください」

 その優しさに、自然と笑みがこぼれる。

「そう──だね。そうかもしれない」

「提督の代わりなんて、いないんですからね」

「司令は今でも立派です! 大淀さんなんて司令のことがすき──」

「雪風っ!」

 大淀が慌てて後ろを振り返り、運転を放棄して雪風の口を塞ぐ。二人は各々必死にジタバタしていたが、僕はより必死にハンドルを支えた。

「大淀っ! そんなことはいいから前を見ろそしてハンドルを握れっ!」

「雪風、それ以上言うと帰ってからお尻叩きますからね!」

「もういいから! それ以前に前の車のお尻叩いちゃうから!」

 やがて大淀は「解ったの? 本当に解ったの?」と数度雪風に確認をとって運転に復帰した。

「危ないよホントに──」

 大淀は何事もなかったかのような顔で前方を見つめているのに対して、雪風は顔を赤くして呼吸を荒くしていた。なんだかその対比が可笑しくて僕は笑う。

「何です?」

「いや、何でもないさ。取り敢えず、早く帰ろうよ」

「何処にですか?」

「ウチに」

 そう言うと、大淀は「はい」と言って微笑んだ。

 

 

 鎮守府に到着すると辺りはもう夜だった。

 有難う、と言って車を降りた後で強制的に連れ戻されたことを思い出し、内心悔しい気分になる。あの数十万円を「勤務中だったのだから」の一言で片付けるのは無理があるだろう。今月まだ二十日も残ってるっていうのに。羽をつけた札束が頭上を飛んでいく漫画のような画を思い浮かべながら庁舎に入る。

 玄関ホールには、多数の艦娘が(たむろ)していた。

 珍しい光景だなと呑気なことを考えていると、全員が僕を見つめていることに気がつく。

 呆れられているのはすぐに判った。

「あ、帰ってきた」

「おっそーい」

 僕が今さら「仕事をサボるということ」の重大さを感じ始めていると、オーケストラのコンマスみたいな位置に立つ加賀(かが)さんが口を開いた。

「秘書艦に車で送り迎え。いい身分ね。提督、私達に何か言うことがあるのではなくて?」

 加賀さんが求めているのは謝罪の言葉なのだろうが、その前に言っておきたい言葉があった。

 

 

「ただいま」

 

 

 僕がそう言うと、加賀さんはきょとんとした。

 そのうち、みんなが笑い出して口々にお帰りなさい、と言う。

 ばーか、クズ、クソ、等の罵言も笑い声に紛れて聞こえてくる。

 自分の適性や能力に自信は持てないが、確かにここは僕の帰る場所だった。

 あぁ、この場所を守らなくちゃと、改めて思う。

「まだ、お仕事は残ってますからね」

 みんなが三々五々(さんさんごご)散っていく中、そう言って大淀は僕を追い越し先に階段を上っていく。

 僕は雪風と顔を見合わせて苦笑し諦めつつ、しかし確かな充足感に包まれながら、ゆっくりと階段の一段目を踏みしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。