Compass   作:広田シヘイ

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第十一話『キタカゼとタイヨウ』

 

 

 

 

 

 誰の姿もない執務室を見渡して、明かりを消しドアを閉じた。

 真夜中の廊下を、月の光と非常口の誘導灯が照らしている。上空にはこの冬一番の寒気が居座っているらしく、寝巻に褞袍(どてら)を羽織っただけの僕は(からだ)を抱えて身震いをした。

 時刻は──正確には判らない。

 多分、日付は変わっている。

 こんなに深い時間まで仕事をしていたのは何も僕が勤勉だからではない。シャワーを浴びて歯を磨き寝る用意も整ったところで仕事を残していたことに気が付いたのだ。

 

 来週以降の近海警備任務の編成が決まらないのである。

 

 何度組み替えても決まらない。

 修正に修正を重ねて訳が解らなくなって白紙に戻して──その繰り返しだ。

 本来なら特段難しい仕事ではない。

 任務の主目的は哨戒なのだから、航空戦力と巡洋艦、それに対潜水艦に特化させた駆逐艦がいれば十分だ。ある程度ローテーションも出来ているし、他に考慮すべき点があるとすれば体調や艤装(ぎそう)のコンディション、練度のバランスに休養くらいのものだろう。

 何も悩むことはない。

 しかし──。

 

 

 ──どの編成にしても嫌な予感が(ぬぐ)えない。

 

 

 対空に特化させれば潜水艦が、対潜に特化させれば航空機が。

 魚雷が、爆弾が砲弾が──彼女達を襲う気がしてならないのである。

 眠りの浅い夜が続いている。

 夜中、悪夢に(うな)されて不快な覚醒を()いられることも多くなった。

 疲れているのだと思う。

 多分そうだろう。

 数ヶ月前の翔鶴(しょうかく)の大破が尾を引いていることもあるのだろうが、とどのつまり、自分が背負っている責任の重大さに(ようや)く気が付いただけなのだ。それが熟慮の末のものか浅慮に任せたものかは関係なく、僕の決断一つが彼女達の生命に直結する。

 彼女達が無事に帰って来るのは、当たり前のことではない。

 そんな単純明快な事実に、僕の精神は()し潰されている。

 結局、今日も編成は決まらなかった。このままだと近海警備任務だけではなく、他の任務や演習など全ての担務に影響が出るから早く纏めてしまわないといけないのだが──。

 一応、まだ時間はある。

 こんな時は早く眠ってしまった方が良いだろう。

 徹夜をしても良い結果が出るとは思えない。

 眠れるかどうかは、判らないけれど──。

 

 僕は溜息を吐いて、私室へと向かった。

 

 私室は執務室と同じフロアにあって、すぐそこの角を曲がるだけである。

 八畳程のワンルームで決して広くはないが、バスルームにトイレ、キッチンはちゃんと付随しているし、家財道具は箪笥(たんす)にテーブル、ベッド、それに細やかなハンガーラックくらいだ。唯一の趣味である本も鎮守府の書庫に纏めて置かせてもらっているから、僕にとっては十分な広さと言える。

 だいたい、私室で過ごす時間は微々たるものなのだから、それ以上を望むのは贅沢と言うものだろう。個室が与えられている時点で感謝せねばなるまい。

 寝るスペースがあればそれでいいのだ。

 短い通勤路を終えようとしていた僕は、キーケースから鍵を取り出し角を曲がった。

 ふと顔を上げると、私室の前に(たたず)む人影が見える。

 影は──こちらに気付いたようだった。

 暗闇で顔は見えないが、シルエットで誰かはすぐに判る。

「何してるの、金剛(こんごう)

 多分、彼女は微笑した。

「お疲れ様デス、テートク。待ってたネ」

「待ってたって──こんな寒い中で? 執務室に寄ってくれたら良かったのに」

「邪魔になると思いました」

「そんな大した仕事でもなかったしさ」

 そう言って握った金剛の手は、とても冷たかった。

 僕は鍵を開けて私室のドアを開く。

「凄く冷えてる。金剛、入って」

「テートク、もの凄いアグレッシブですネ」

「そういうことじゃなくてさ。ほら、シャワーでも浴びないと」

「やっぱりもの凄いアグレッシブですネ!」

「いいから温まって行きなさいッ」

 蛍光灯のスイッチを叩くように押すと、不安定な明滅の後に明かりが室内を照らし出す。

 僕達は、お互いに赤面しながら見つめ合っていた。

 目線を外すと同時に、握っていた手も離す。

「風邪、引いちゃうから」

「──わ、解りました。で、ではお借りしマス」

「うん、風呂場はそこね」

 丈の長いブーツを脱ぎ、こちらの様子をチラチラと伺いながら脱衣所に消えていく金剛を見送って大きく息を吐く。

 彼女達が休日や就寝前の時間に私室を訪れるのは珍しいことでもないのだが、入浴を勧めるのは(いささ)か軽率だったかもしれない。しかし、金剛の躰も芯から冷えていたようだったし、別に(やま)しいことを考えてそう言った訳でもないのだから致し方ないだろう。どれだけの時間待っていたのかは知らないが、あの冷え方は看過出来るものではなかった。

 ──うん、シャワーに入れるしか選択肢はなかったと思う。

 僕は自分の行為を必死に正当化して雑に靴を脱ぎ捨てた。

 

 

 キーケースをテーブルに放り投げて所在なさげに室内を彷徨(うろつ)いた後、温かい飲み物でも用意せねばなるまいと思い至りキッチンに向かった。

 戸棚の中に紅茶は──なかった。

 買った覚えがないからある(はず)がない。何故探した。

 ココア──でいいか。

 冷蔵庫に牛乳は──あった。

 賞味期限は──昨日まで。

 じゃあ大丈夫。熱するし。

 砂糖を入れるかどうか迷ったが、金剛の好みも判らないし、ここは味覚が子供の僕に合わせてもらうしかあるまい。カップに適量放り込む。

 牛乳を火にかけて──後は待つだけ。

 僕は戸棚に背中を預けて、水音の洩れる浴室を見た。

 今そこで金剛がシャワーを浴びているという事実が、僕を妙に気恥ずかしくさせる。

 そんな思いを振り切るように、目線を天井に移して金剛の訪問意図を考えた。

 先程の立ち姿は彼女には珍しく、何処となく寂しげな印象を持っていたように思う。何か思い詰めていることでもあるのだろうか。

 金剛と悩みごと──という組み合わせがいまいちピンと来ない。

 今日も元気だったし、昨日も元気だった。

 というか、金剛が元気ではなかった記憶がない。

 もちろん、彼女だって疲れていたり思い詰めてしまうこともあるのだろう。

 しかし、それでも彼女は元気を(よそお)う。

 世の中にある悩みごとや不安の多くは、時間が経過することでしか解決出来ないと彼女は多分知っているから、()えて元気を装う。

 元気を装って──そのうち本当に元気になる。

 そしてそれは結果的に、周囲を鼓舞することになる。

 金剛は、そういう艦娘(ひと)だ。

 まあ、悩み相談と決まった訳ではないし、単純に僕を(からか)いに来ただけかもしれない。その辺りも直接聞けば良いだろう。

 

 そのうち、シャワーの音が止んだ。

 僕は火を止めてカップに牛乳を注いだ。スプーンでいくらか攪拌(かくはん)しつつテーブルに運び、少し寒いような気がしたので電気ストーブの電源を点ける。

 脱衣所の扉が開いた。

「テートク、サンキューネ。温まりました」

「良かった。体調崩されたら大変なんだから気を付けてよ。ほら、温かい飲み物も用意したから。紅茶じゃないけど」

「ワオ! テートクは優しいネ。サンクス」

 風呂上がりの金剛はカチューシャを外し髪を解いていた。

 榛名に似ている。やはり姉妹だ。

 平素とは違う印象と妙に(はだ)けた胸許も相まって目の遣り場に困る。無防備にも程がないか。

 金剛は微笑しながらテーブルの向かい側に座り、ココアに口を付けて美味(おい)しいデス、と言った。

「そ、それで何の用なの」

「何がデスか?」

「だから、今日は何の用があってここに来たのって」

 金剛はたっぷりと間を取る。

「──悩みがあるんデス」

「悩み?」

「最近調子が悪くて、訓練にも身が入らないデス──」

 金剛は(おもむろ)に上目遣いになって、胸許を強調するように前屈みになった。

「御飯を食べても味を感じなくなりました。私、どうしたらいいのか──」

 躰をくねらせてこちらを覗き込む彼女の破壊力は置いておくとして、僕には一つだけ判ったことがある。目的はさっぱりなのだが、()にも(かく)にも──。

「嘘でしょ、それ」

「なっ」

「何も悩んでないよね」

「テートク、そ、それは酷過ぎるネ!」

「本当に悩んでる人はそんなに悩ましいポーズを取らない」

「Shit!」

「だいたい僕だって訓練の評価に目を通してるんだよ。あなたさ、砲撃訓練の成績相変わらず艦隊の中でもズバ抜けてるじゃない。身が入ってない訳がないんだよ」

「それとこれとは話が別デス!」

「じゃあ他にどんなことで悩んでるのさ。具体的にどうぞ」

「うっ──あ、あの──観たい番組が重なってて困ってマス」

「同時録画出来るレコーダーを買いなさいよ」

「か、解決してしまいました──」

「ほれ見たことか。世間ではそれを悩みがないと言うんだよ」

「Shut up! 私が悩んでるって言ったら悩んでるんデース!」

「はいはい。ってか──何でそんなに無理矢理悩みたいのさ」

 金剛はカップを両手でいじる。

「だ、だってテートク、悩んだり落ち込んだりしてる子に凄く優しいから──」

「──そ、それは、まあ──そうかもしれないけど」

「私だって疲れてたり落ち込んでたりするのに、テートクは私のこと構ってくれないから!」

 彼女は開き直って(まく)し立てた。

「いつも私からばっかりネ! たまにはテートクからもアタックして欲しいデース! テートクのバーニングラブが欲しいから頑張ってるのに、いつまで経ってももらえないデス! 私を少しでも(ねぎら)う気持ちがあるなら、溜まりに溜まった今までの分を全部返すつもりで頭を撫で撫でするネ! 今すぐ抱き締めて役所に駆け込むネ! 婚姻届にサインして判子を押すといいネ!」

「お、落ち着きなさいよ」

 正直後半は何を言っているのかよく解らなかったのだが、確かに金剛に頼り過ぎている部分があるのは否定出来ない。彼女の実力は確かだし戦場での状況判断にも優れている。自分や姉妹のことだけではなく常に艦隊全体のことを考えてくれているから、下手に僕が介入するよりも物事が上手く運ぶケースが多い。

 

 鳳翔さんが艦隊のお母さんなら、金剛は艦隊のお姉さんだ。

 

 性格に多少エキセントリックな面はあるものの、金剛を旗艦に()えていればどんな海域だって突破出来るに違いない。金剛を旗艦に任命した時点で僕の仕事は終わり、というような気さえする。

 まあ、それだけ信頼しているということなのだけれども、そんなことを言っても金剛は納得してくれないだろうし、何だか苦し紛れの言い訳にしか聞こえない。

 彼女の不満は、もっと自分を気に掛けろ──ということなのだし。

 言われてみれば、労うということを十分にして来なかったかもしれない。

「それで、テートクはどうするネ」

「わ、解ったよ。埋め合わせはするよ」

「じゃあ早速撫で撫でするデス」

「撫で撫で」

「頭を撫で撫でするネ!」

 そう言って金剛はバンバンと床を叩いた。

 こちらに来い、という意味だろう。

 僕は躊躇(ためら)いつつも移動して、金剛の隣に腰を下ろした。倒れ掛かって来た金剛の頭を受け止めるように抱いて、恐る恐る撫で始める。

 ああ、もう。

 彼女達は何故──こんなにいい匂いがするのだろう。

「こ、これでいい?」

「んー、ムフフッ。ベリーグッドデス──あと一時間はこのまま」

「長くない?」

「No problem デース。この調子だと、気持ち良くてそのうち寝てしまうネ」

「ここで寝るの?」

「そのくらい許すデス」

「──はあ。まあ、仕方ないか」

 もし寝てしまったらベッドは金剛に譲って、僕は座布団を並べて横になればいいだろう。少し寒いかもしれないが、それで金剛が満足してくれるなら文句はない。

 気持ちいいデス──と吐息を交えて金剛は呟いた。

 電気ストーブが近過ぎるような気がしたので少し離す。

 

 

 ──静かな夜だ。

 

 

 深海棲艦だとか、治安維持だとか、世界平和だとか、そんなことは放っておいて──。

 こんな時がいつまでも続けばいいと、心から思う。

 そんな戯言(ざれごと)は通用しないと解っていても。

 叶う訳がないと解っていても。

 弱くて愚かな僕はどうしても──そう願ってしまう。

 だからこそ、このひと時を大事にしなければいけないのだろうし、噛み締めて心にしっかりと刻み込まなければいけないのだろう。

 対峙せざるを得ない現実は、いつだって目の前にある。

「テートク──ちょっと苦しいネ」

「あっ、ごめん。これで、大丈夫?」

「フフッ、OKデス。私、テートクに聞きたいことがありマス」

「どんなこと?」

「テートクにとって──私はどんな存在デスか?」

「どんな、存在? それは難しいな」

「むぅ、そんなことないヨー。So easy ネ。何か思い付いたことを言えばいいのデース」

「思い付いたことねえ──」

 大事な人とか、掛け替えのない人とか、そんな言葉が真っ先に思い浮かんだのだが、それは彼女が求めている答えではない気がした。

 金剛は、僕にとってどんな存在だろう──。

 

 電気ストーブの放つ赤外線をぼんやりと眺めていると、ある言葉が脳裏を()ぎる。

 ああ、そうだ。

 

「太陽──かな」

「太陽、デスか?」

「うん、僕や艦隊のみんなが落ち込んでたり悩んでたりする時に、暗い気持ちをどんな光よりも明るく照らしてくれる──太陽。金剛には何度助けられたか判らないよ」

 彼女ならば、深海の暗闇だって引き裂いてしまうに違いない。

「それに、太陽ってなくてはならない──絶対必要なものでしょ? 動物も植物も、みんな太陽からエネルギーをもらってる。ほら、それってそのまま金剛のことじゃない。この鎮守府が明るくて(やかま)しいのはさ、大袈裟じゃなく金剛のおかげだと思ってる。我ながらぴったりの(たと)えだと思うよ」

 室内には、電気ストーブが立てる水蒸気の音だけが流れていた。

 反応のない金剛の様子が気になって、抱いていた腕を離し彼女の顔を覗き込んだ。

「不満、だったかな」

 金剛は顔を真っ赤にして俯いていた。

「違いマス──うぅ、褒めちぎられました──」

「自分から聞いて来たんじゃないの。何恥ずかしがってんのさ」

「テートクは振り幅が大き過ぎるヨー! 普段はちっとも褒めてくれないくせに──」

 金剛は、僕の胸に頭を寄せた。

「でも、それもテートクの魅力デス──。私は、テートクにとってなくてはならない存在なんですネ」

「うん、そうだよ」

 金剛は急に顔を上げて僕に迫った。鼻先が触れてしまいそうな距離だ。

「それってプロポーズ──デスか?」

「えっ」

「私が居なくちゃダメってことは、テートクと私はずっと一緒に居なきゃダメってことデス。だったらそれは──ケッコンしてフーフになることと、何が違うのデスか」

「ちょ、ちょっと待って。一旦落ち着こう、な?」

「落ち着いてマス! テートクは私のこと太陽って言ったネ!」

「言ったよ、言ったけどさ。ほ、ほら、太陽とは結婚出来ないし」

「どんな逃げ方デスかー! テートクはそういうところがダメダメデス! もっと男らしく全部受け止めてやろうとは思わないのデスか!」

「男らしくとか女らしくとか、最近流行(はや)らないみたいよ」

「ジェンダーの問題なんて考えたこともないくせによく言うネ。セクハラ三昧のエブリデイじゃないデスか!」

「人聞きが悪過ぎるってのッ」

 金剛は頰を膨らませて、ぷいと顔を背けた。プロポーズをした覚えはないが、金剛の機嫌を損ねてしまうことは本意ではない。

「あ、あのさ──結婚とか夫婦とかはよく解らないんだけど、似たようなものっていうか──それくらい大事なもの、であることは確かだと思うよ。それじゃ駄目かな」

 彼女はこちらをちらりと一瞥(いちべつ)した後、大きく息を吐いて再び僕の胸に倒れ込んだ。

「──もういいデス。テートクのヘタレ具合には慣れっこネ。ほら、撫で撫でする手が止まってマス」

 僕は言われるがままに、再び金剛の頭に手を乗せた。

「んふぅ。何だか怒ったら眠たくなりました。テートク──ベッドまで連れて行ってくだサイ」

「着替えなくていいの?」

「仕方ないデス」

「でも、連れて行くって──ほら、起きないと」

「抱っこするネ」

「抱っこ」

 そう言って金剛は僕の首に腕を掛ける。

 起きろって言っても、起きないのだろうな。

「──んじゃ、行くよ。よいしょ、っと」

 僕は両腕で金剛を抱きかかえた。

 筋力に不安はあったのだが、金剛がしっかりと掴まってくれていたおかげで無事に持ち上げることは出来た。当然、華奢(きゃしゃ)な女の子とは言え人一人が軽い筈もないのだが、その重みは何故だかとても心地好かった。

 金剛の息が首筋を(くすぐ)って変な声を上げそうになる。

 ベッドまでの四歩を、慎重に歩いた。

「金剛、降ろすからね」

「もうデスか──。まだ抱かれていたいデス」

「あのね、決して楽な体勢ではないんだよ? ほら──」

 金剛をベッドに降ろし、下敷きになった布団を引っ張り出して掛け直す。

「おやすみ、金剛」

「Good night テートク。サンキューネ──」

 金剛は微笑みながら、目を瞑っていた。

 そっと頭に触れて、立ち上がる。

 僕も寝ようか。

 適当に座布団を並べて、箪笥からタオルケットを二枚取り出した。しかしこれでは何とも心許なかったので、電気ストーブは点けたまま部屋の片隅に置くことにした。

 

 

 ──消灯。

 

 

 横になって目を瞑る。

 外では風が強く吹いて、私室の窓硝子(ガラス)を数度叩いていた。

 結局、金剛の訪問意図はよく解らなかったのだが、正直彼女が来てくれてとても救われたような気がしている。

 僕一人だと、この暗闇に耐えられていたか判らない。

 今日は、よく眠れそうだ。

 いつ眠りに落ちてもいいように、躰を丸めてタオルケットを口許まで上げたその時。

「テートク」

 と呟く金剛の声が聴こえた。

「──どうかした?」

 反応はなかった。

 寝言だろうかと様子を伺っていると、再度テートク──と金剛が呟く。

 躰を起こして、そっとベッドに近付いた。

「どうしたの」

 小声でそう問うと、突然腕を引っ張られてベッドに引き摺り込まれた。

「おわっ」

「テートク、寒いから一緒に寝るネ」

「いや金剛、それはいくら何でも──ほら、ストーブだって点けてるし大丈夫だって」

「問答無用デス。ユッキーだって一緒に寝てるって聞いてマス」

「確かに雪風(ゆきかぜ)は時々潜り込んでくる時あるけど、それとこれとは──」

「ユッキーはオッケーで私はノーなんておかしいデス」

 微かに見える金剛は、不満そうに僕を(にら)んでいた。

「えぇ──本当に? せっかく今日は眠れるかもって思ってたのに」

「何で私とじゃ眠れないデスか」

「雪風と金剛じゃ──ほら、色々とさあ」

 言わないと解らないか。

「何を訳の解らないこと言ってるネ。まあ、どちらにせよテートクに自由意志なんて存在しないデス。この手は離しまセン。喰らいついたら離さないって、言ったデース!」

「いつ言ったんだよ」

 さあさあ、と金剛は笑いながら僕をベッドに引っ張り込む。抵抗すると手の甲や腕が金剛の躰に触れてしまって、その度に僕は戦意を喪失していった。

 

 このままだと──プロレスごっこでは済まなくなる。

 

「解った。解ったから、ちょっと──狭いから金剛下がってって」

「そんな寂しいこと言わないでくだサーイ。──二人で暖め合うネ」

「バカ言わないでって──おい、毛布こっちにも寄越せって引っ張るなって!」

 その後、幾度かの攻防を経た毛布争奪戦は、講和条約で決まった国境線のように、痛み分けでお互い軽くはみ出す形に落ち着いた。

 僕は金剛と触れ合わないように、左半身を下にして背を向ける。金剛と同衾(どうきん)しているというこの事実が、想像以上の重みを持って僕に伸し掛かっていた。

「ムフフ、テートクこのベッドは凄いですネー。テートクの匂いで一杯デス」

「嗅ぐなって。ったく、もう寝るよ。明日も早いんだからさ」

 金剛の返事はなかった。

 しかし、(つか)()の静寂の後、金剛の額が僕の背中にこつんと当たる。

 僕は、僅かに痙攣(けいれん)して躰を硬直させた。

「テートク、私──やっぱり悩んでマス」

「どんなこと」

「最近、テートクが元気ないネ」

「そ、そうかな。まあ、あれじゃない? 最近忙しいんだよ。新しい任務だとか艤装の改装計画だとかさ──それにほら、近々進水する艦娘母艦の名前も僕等で決めないといけないんだって。もちろん国防大臣が命名しましたって形にはなるみたいなんだけど、艦の生まれ変わりという特殊な事情を抱える艦娘に配慮して云々(うんぬん)とか書いてあったな。気を遣ってもらったのか面倒ごとを押し付けられたのか怪しいところだけどね」

 僕の躰に金剛の腕が絡み付いた。

「──テートク、こっち向いてくだサイ」

 僕は誘われるがままに躰を回転させた。

 金剛は僕の頭を胸に抱く。

 それは何だかとても心地好くて、そのうちに全身の力が抜けてしまった。

 抵抗しようという気力も湧いて来ない。

「それは嘘ですネ、テートク。ほら、隠さなくていいんですヨ? 悩んでること、苦しいこと全部吐き出すネ。私が、全部受け止めてあげマス──」

「僕が悩んでるのが──金剛の悩み?」

「Yes それが何よりも辛いんデス」

 

 張り詰めていた感情の膜に、すっと裂け目が入るのを感じた。溜め込んでいた思いはそのまま涙になって()()もなく溢れ出す。

 先程とは立場が変わって、今度は僕が頭を撫でられていた。

 話せる状態に回復するまで──金剛がその手を止めることはなかった。

 僕の声は、涙で震えている。

「金剛──僕はね、最近怖くてたまらないんだよ。船団護衛でも、近海警備でも、みんな、出撃したまま戻って来ないんじゃないかって。近海警備の編成だって決められないままなんだ。バカみたいだろ、笑っちゃうだろ。誰を出撃させても戻って来ないような気がして──怖いんだよ」

「──全然、おかしくなんてないネ」

「何でこんなことしなくちゃいけないのかな? 何で、僕にはみんなのことを守れる力がないのかな? 逃げたいよ。何もかも放り出して、逃げ出したいよ──」

「フフッ。テートクらしいですネ」

 金剛は僕を抱く腕に力を込める。

「でも、大丈夫デス。私達は必ず帰って来マス。こんなに弱くて優しいテートクのことが心配で、沈んでなんていられないネ」

「本当に? 敵がどんなに強くても?」

「Of course 私達の絆は、深海棲艦にも断ち切ることは出来ないデス」

 僕は金剛にしがみ付いて鼻を啜った。

 そんな僕の姿に、彼女は優しく笑って応えてくれた。

「テートク、その近海警備──私が行きますヨ?」

「えっ」

「私が出撃して、無事任務を遂行して、そしてみんなを連れて必ず帰って来マス。そしたら、これからも安心して出撃させられるデショ?」

「で、でも」

「戦艦の私に哨戒任務なんて務まる訳ないと思ってますネ? いい機会(チャンス)デス。テートクに私の実力、見せてあげるネ」

 彼女の言葉は、麻酔のように僕の意識を浸蝕(しんしょく)していった。

 そう──金剛なら、必ず帰って来てくれる。

 みんな一緒に、笑顔のまま帰って来てくれるに違いない。

 

 今の僕の姿は、まるで母親に甘える幼児のようで──しかし、それが異常だと警告を発する役割の理性とか常識とか羞恥心とかそういうものの姿は何処にもなくて──ただただ、安寧(あんねい)だけが心を満たしていた。

 微かに聴こえる金剛の鼓動が、僕を眠りへと(いざな)っている。

「──私は絶対に沈みまセン。そして、艦隊の誰も、沈ませないデス──」

「──うん、ありがとね」

 

 

 ──静かな夜だ。

 ──心が、静かな夜だ。

 

 

 額に唇の感触を感じると同時に僕は、広大な無意識の海にその身を投じていた。

 

 

            ※

 

 

 カランを回すと、いつにも増して冷たい水が勢い良く流れ出した。

 洗面台に跳ね返り手の甲に触れた飛沫(しぶき)で、顔を洗う意欲も失せる程の冷たさだった。

 実を言って、朝に顔を洗うという行為が好きではない。無理矢理意識を「矯正」させられているようで、僕のような低血圧の人間にとっては拷問に等しい。しかし、そうは言っても社会生活に支障を(きた)さないレベルまで目を覚ますには、他に良い手段がないこともまた確かだった。

 冷水を受け止めて、意を決し顔に叩き付ける。

 今日は天気が良いから余計に朝が冷えるのだろう。先程、窓外の薄明の中にランニングしている長良(ながら)を見たことを思い出した。白い息を吐きつつ、一定のリズムで走る彼女は何処となく神聖なものに思えて、室内で寒さに身を縮めている自分を情けなく思ったものだ。

 ──昨晩のこともあるし。

 水を止めてタオルで顔を拭いた。鏡に映った僕は苦笑している。

 

 

 朝、目を覚ますと、そこに金剛の姿はなかった。

 僕は強烈な孤独感に襲われて、室内を見回しながら彼女の名前を呼んでいた。多分、その狼狽(ろうばい)ぶりはまるで迷子のようだったと思う。やがてサイドテーブルに書き置きを見つけ、金剛は食堂当番の(ため)に先に起床していたことを知ると、僕は安心して気が抜けてしまって、再びベッドに倒れ込んだ。

 ベッドには──金剛の匂いと温もりが残っていた。

 まだ彼女が隣に居るようで、まだ彼女の胸に抱かれているようで──僕はそのまま、起床時刻を過ぎていることも忘れて身も心もベッドに埋没していたのである。結局、起きたのは七時前くらいだ。

 朝食は食べていない。食堂に行かないと、朝もちゃんと食べてくださいと間宮(まみや)さんに怒られるのだが、時間もなかったし仕方なかったと思う。何より、当番で食堂を手伝っている金剛と顔を合わせるのは恥ずかしい気がしたし。

 

 シャツに袖を通してボタンを留める。

 上衣と軍帽、それに書類を纏めたファイルを手に取り、時計をふと見ると課業開始まで僅か数分だった。私室を出て早足で執務室へと向かう。

 一分も掛からぬ通勤路の有難みを噛み締めながら執務室のドアを開けると、既に秘書艦の大淀(おおよど)翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)が着席して待機していた。

 それは別におかしなことではない。あと数分で仕事が始まるのだから、準備しているのは(むし)ろ当然だと思う。

 

 ──三人が、僕を射るような眼差しで睨んでいなければ。

 

「お、お早う──」

「お早う御座います、提督。昨夜(ゆうべ)はお楽しみでしたね」

「へっ」

 驚きの余り一瞬無表情になり掛けたが、僕は()りっ(たけ)の精神力を動員して平静を装った。

 何だこの朝は。土俵際から始まった相撲みたいな。

「な、何のことかな、あはは──それで翔鶴、今日の演習の話なんだけど」

「私とはいつ一緒に寝て頂けるのでしょうか」

「あはっ、あはははは翔鶴は面白いなあ。そうだ瑞鶴、貸してたCD聴いてみた?」

「借りてないし」

「あはははは、そうかあれは川内(せんだい)かあ。わはははは──」

 瑞鶴は僕を試すような目で見つめながら、冷淡な態度で言い放つ。

「提督さん、ネタは上がってんのよ」

「何で上がってんだよ!」

 誤魔化しきれないと判るや否や書類を床に叩き付けて僕は豹変した。

「認めましたね」

「認めましたよ、ついに」

「懲りないよねえ」

「何でいっつもバレるんだ! ここは中央情報局(CIA)国家安全保障局(NSA)の施設か何かかッ?」

「国防海軍です」

「真面目かって!」

 大淀は呆れたと言うように大きく息を吐いた。

「提督、これ以上私室を猥褻目的で使用することがあると──取り上げますからね?」

「何を」

「私室を」

「嘘でしょ」

「本当です」

「じゃあ──僕は何処で寝るんだよ」

 翔鶴は首を傾げて微笑んだ。

「瑞鶴、私達の部屋──空いてるベッドあったわよね?」

「あったかも。なくても作るし」

「正気かって!」

 僕がそう叫ぶと同時に、執務室のドアがノックされる。

 怒り肩で振り向いて「どうぞ!」と強めに応じてしまった。

「しれえ、お早う御座います!」

「提督お早うさん。何怒ってんのさ」

 

 そこには、雪風と長波(ながなみ)が立っていた。

 すぐさまに戦闘態勢を解除する。

 

「お、お早う──いや、何も気にしないでよ。それより何の用? こんな時間に珍しいじゃない」

「気にすんなって言われてもなあ。何だかヤバい空気だな、この部屋」

 二人は室内の異様な雰囲気に戸惑っているようだった。

 雪風に気にするなと目で訴えて先を促す。

「──あっ、はい。あの、舵の調子が悪くて、午前の演習に間に合うように修理してもらいたいんですけど、その修理伝票に司令のサインが欲しくて」

「あたしはただの付き添い」

「あぁ、そういうことか。解った成る程ね──そうかそうか。よし、それは心配だから是非とも僕が付いて行こう」

「そ、そこまでしなくても──」

「提督、逃がしませんよ? 私達とお話があるんですからね」

 露骨に逃亡を図った結果、いとも簡単に捕まった。

 長波は眉を(ひそ)める。

「提督、また何かやったのか?」

「またまた女を連れ込んだんですよ」

「翔鶴その言い方はやめなさいって」

「おんな──」

「ち、違うんだ雪風。昨日は金剛が僕の私室に遊びに来たんだよ。ただそれだけさ」

「年頃の男女が抱き締め合いながらベッドで寝ることを──ただそれだけ──って言うのかな?」

 瑞鶴が僕から全く目を離さずにそう問うた。

 ──何故そこまで知っている。

 私室にカメラや盗聴器が設置されていないか本気で調査しなければいけないかもしれない。

 長波は額を抑えて溜息を吐いた。

「一緒に寝たのか──。金剛も大胆に仕掛けて来たな」

「泥棒猫──いえ、泥棒戦艦ですね」

 それを言うなら泥棒高速戦艦です──と雪風が無邪気にどうでも良い補足をした。

「あのな、みんな金剛のことを悪く言い過ぎなんだよ。金剛は僕のことが心配で来てくれたんだぞ。僕の悩みを聞いてもらったんだからな」

「それで、大丈夫デースと言われながら抱き締められて頭でも撫でられていたんでしょう?」

 流石大淀、ほぼ当たりである。

 返答に窮している僕を見て、今度は全員が溜息を吐いた。

「提督さん、チョロ過ぎるよ──」

「う、煩瑣(うるさ)いなッ。金剛はね、近海警備の編成が決まらないと聞いて自分が出撃すると言ってくれたの! 艦隊は自分が必ず無事に帰投させると言ってくれたの! 僕にとっては女神様なわけ、こんな怖い尋問なんてしないわけッ!」

 大淀の眼鏡が一瞬きらりと光った気がした。

「へえ、そうですか。でしたらその任務──私も出ますけど」

「えっ」

 大淀の言葉に、文字通り僕は「きょとん」とした。

「私も出ます、ねえ瑞鶴?」

「当たり前じゃん」

「良かったらあたしも行くぞ」

「しれえ、雪風も出撃したいです!」

 その場に居た全員が立候補した。

 金剛、大淀、翔鶴、瑞鶴、長波、雪風──。

 対空、対艦、対潜──。

 確かに、バランスも悪くないし練度も申し分ない。

 

 

 ──しかし。

 

 

「──いやいやいや、近海警備だよ? 重過ぎない?」

 いろんな意味で。

「提督、一番近くに居る私達が懊悩(おうのう)する提督に気が付かないでいたと思いますか?」

「そうだよ、いいじゃん別に。要は無事に帰って来ればいいんでしょ? 楽勝なんだから」

「おう、この長波サマに任せておけって」

「み、みんな──」

 不覚にも涙腺が緩む。瑞鶴の言う通り僕はチョロ過ぎるのかもしれないが、心は外気温に反して温かさで満たされていった。もう尋問くらい甘んじて受けようかと、そんなことを思い始めていたその時──。

 穏やかな空気を吹き飛ばすように、執務室の扉が再び開かれる。

「Good morning デース! テートクぅ、食堂に来てなかったから朝食のサンドウィッチを作って来たネー!」

 折良くなのか折悪しくなのか判断は付かなかったが、現れたのは金剛だった。

 金剛は執務室に居る顔ぶれを見て、不思議そうに首を傾げた。

「お早う、金剛。わざわざ朝食作ってくれたんだ」

「そ、そうデスけど──」

「あ、ここに居るのはね、昨日言ってた近海警備任務の艦隊のメンバーだよ。みんなも出てくれるって」

「Oh ファニーでヘヴィな艦隊ですネ──」

 やっぱそう思うんだ。

 大淀は咳払いをして眼鏡を持ち上げる。

「金剛さん、その話はまた後でするとして──とりあえず提督を余り(たぶら)かさないで頂けます? この人、すぐ好きになっちゃうので」

「大淀、そんな言い方は酷いヨー。ただ自然な流れでベッドインしただけネ」

「それが駄目だって言ってるの!」

 瑞鶴の言葉に金剛は頬を膨らませた。

 春の陽気に包まれていた僕の心は長続きすることなく、段々と季節通りの気温に戻りつつあった。

 何だか室温も下がっていやしないか。

「むぅ、ユッキーだって一緒に寝てるんデショー? 何で私だけダメなんデスかー」

「いや、あのほら、喧嘩はやめような? 雪風は何て言うのかな──子供って言ったらアレだけど、年の離れた妹って言うか娘って言うか。そんな感じだから問題ないって言ったらおかしいのかもしれないけど──もちろん変なこともないしさ。な?」

 同意を求めて雪風の方を向くと、雪風は赤面しながら上目遣いで僕を見ていた。

 そこはかとなく、瞳も潤んでいるような気がする。

 何だその反応。

 やめてよ、何かしてるみたいじゃないか。

 

 

 ──雪風に「何か」してるなんて、金剛とは比にならないくらいヤバいじゃないか。

 

 

「──何かされてるわね。言いなさい、雪風」

「ちょ、ちょっと待ってくれって。翔鶴は弓置けって!」

 雪風は内股気味になって、両手をモジモジとし始める。

「い、いえその──しれえは、わざとじゃないと思うんですけど、その──寝ながら(まさぐ)ってくると言うか──」

「まさぐってくる」

 雪風以外の全員でユニゾンした。

「何を言って──」

「提督さんは黙ってて! 雪風、何処を触られたの?」

 雪風は一層顔を赤くして、俯きながら言った。

「その──お股のところとか」

 お股。

 お股のところ。

 うーん。

 

 

 ──おまた。

 

 

 着席していた秘書艦達はすっと立ち上がって、後方ではガシャンと皿の割れる音がした。

 司令を怒らないでください雪風も気持ち良かったんですッ──と火に油を注ぐ逆効果丸出しの有難いフォローも頂きつつ、僕は死んだ魚のような目で虚空を見つめていた。

 雪風は一体何に運を使ってるんだ? と、長波の呆れ果てた声が聴こえる。

 

 ──どの展開にしても嫌な予感が拭えない。

 

 艦娘の身の安全のことではない。何故なら他人の心配をしている場合ではなくなったから。ゆっくりとこちらに近付いて来る秘書艦達は、揃いも揃って無表情だ。

 課業開始のラッパが虚しく響き渡る。

 上空には、この冬一番の寒気が居座っているらしい。

 

 

 天気予報は見るまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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