Compass   作:広田シヘイ

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第十二話『コントラプンクタス』

 

 

 

 

 

 桟橋の中程──海面と(おか)を結ぶ昇降階段の近くで足を止めた。

 潮の香りを乗せた微風(そよかぜ)が、僕の頬をそっと撫でて暗闇に消えて行く。夜の風は乾いていた。多分、触れた人が少ないからだろう。

 手に持っていたランタンを置いて折り畳み式の椅子を展開する。ラジオは混信していて聴き取り難いことこの上なかったが、調整し直すのも何だか億劫(おっくう)に思えて、音量を少し下げ椅子のフレームに粗雑に引っ掛けた。そこまで真剣に聴いていた訳ではないし、夜だから混信するのは仕方がない。

 時刻は、◯二三◯(マルフタサンマル)。草木も眠る丑三つ時。

 春を迎えたとは言え夜中はまだ冷える。椅子に腰を下ろすと同時に、(からだ)を丸めながら大きな欠伸(あくび)をした。

 ──眠い。

 準備をするには少し早過ぎたかもしれない。夜闇に溶け込んだ水平線を幻視して、そんなことを思う。

 

 僕は艦隊の帰投を待っている。

 予定では、あと三十分程で着く(はず)だ。

 

 艦隊の到着まで何もすることがないのだが、こうした手持ち無沙汰な空白の時間は嫌いではない。何もすることがないのなら無理に何かをする必要はない。ただ只管(ひたすら)に、時が流れるのを待っていればいいだけだ。闇に淡く滲むランタンの灯りを横目で見つつ、()(もた)れに躰を預けて()(かん)する。

 本当に眠ってしまいそうだ。

 こんな夜こそ──川内(せんだい)は騒ぐべきではないのか。

 平素は喧しいだの早く寝ろだの夜戦バカだのただのバカだのと、艦隊とは反比例してテンションの上がっていく川内に苦情を言っておきながら、何ともまあ都合の良いものだと自分でも思う。

 しかし今日のような夜は、典型的な「川内の好きな夜」だった。

 夜だ夜戦だと騒がしい一面とは裏腹に、彼女はこういった穏やかな夜を好むのである。強雨が地面を叩き付け、暴風や稲妻が闇を切り裂くような夜は余り趣味ではないらしい。歓楽街のネオンが(またた)く夜なんてのは(もっ)ての(ほか)だ──とも言っていた気がする。

 

 

 ──夜に(あらが)ったら駄目なんだって。

   身を委ねるんだよ。

   夜は暗いから何も見えないけどさ。

   だからこそ。

   昼には見えなかったものが、見えてくるんだよ。

 

 

 確か川内の夜更かしを注意した時の──僕が着任して間もない頃の会話の記憶だと思う。艦隊業務に支障が出るから昼に寝るのはやめなさいと言うと、彼女はとても純粋な顔をして「じゃあ私はいつ寝るのよ?」と首を傾げていたのを思い出す。

 あれからもうすぐで一年が経つ。

 僕も多少は提督らしくなれているだろうかと、(まば)らに輝く星空を見上げそこにある筈のない答えを探した。

 夜に身を委ねるとはこういうことなのかもしれない。

 深呼吸をしてラジオも消してしまおうと思った矢先に、何の前触れもなく斜め後方から突然少女の声が聴こえた。

 

 

「夜はいいよね。夜は──さ」

 

 

 その声は、まさに今思い出の中で聴こえていた声と一緒だった。一瞬ラジオの音声かと思ったのだが、そんな訳はないとすぐに思い直して声の発生源へと首を捻る。

 そこに居たのは──矢張(やは)り川内だった。

 得意げな微笑に、制服のスカーフがふわりと揺らいでいる。

「川内、まだ起きてたの?」

「うん、まあそうだけど──あれ、あんまり驚かないんだね」

「何だか川内が来るような予感はしてた。というかさ、その忍者みたいな真似はやめたら? 夜戦では有効かもしれないけど、驚くじゃない」

「全然驚いてないじゃない」

「いやそうなんだけどさ──僕はほら、慣れてるから」

「慣れてない人にはしないよ?」

 僕は短く唸る。

「うーんとね、じゃ──いいや」

「何それ、バカみたい」

「バカだもの」

 再度、何それ──と言って彼女はころころと笑った。

「座る?」

「いいよ、いいって。私はここでいい」

 僕が椅子を譲ろうとすると、川内はそれを拒否して昇降階段の一段目に腰を下ろした。

 少女を地べたに座らせることに多少の抵抗感を覚えながらその姿を見ていると、川内はそんな僕の小さな葛藤を見透かしたように微笑んだ。

「ってかさ、提督何してんの? 提督こそ寝てなきゃ駄目じゃない?」

「僕は艦隊のお出迎え」

「禁止になったじゃん」

「なったけど。解ってるんだけど、今回はちょっとね」

 川内の言う通り、僕が艦隊の帰投を桟橋で出迎えることは禁止されている。

 理由は、度が過ぎてしまった──ということだと思う。

 過酷な任務を遂行し、無事に帰還する艦隊を出迎えたくなるのは自然なことだろう。当初は任務と言っても船団護衛と近海警備くらいだったから、艦隊を出迎えるのは週に四五回程度だった。そうして作戦の成功と艦隊の無事を盛大に祝っているうち、任務だけではなく訓練や演習に出ている艦娘達のことも出迎えたくなってくる。

 

 ──お出迎えは、週に四五回程度から一日に四五回程度へとその頻度を急激に増した。

 

 こうなると執務への影響は避けられない。艦隊は常に予定通りの時刻に帰投する訳ではないから、出撃した全員を迎えるとなると、執務室に居る時間よりも桟橋で待機している時間の方が長くなるという異常事態に発展してしまう。

 ──お前はハチ公か、と()()った笑顔で激怒していた大淀(おおよど)は記憶に新しい。

 当然の結果ではあるが、それ以降艦隊の出迎えは禁止になった。

「ちょっとって何よ。今日帰って来るのは──」

「六駆。帰りの移動手段が確保出来なくてさ」

 六駆──(あかつき)(ひびき)(いかずち)(いなづま)からなる第六駆逐隊は、シンガポール東京間──通称ルートBの船団護衛任務を終えて帰路に就いているところだ。

 通常、船団護衛任務を終えた艦隊は、鎮守府最寄りの飛行場まで国防軍の輸送機で帰還することになっている。これはルートA──東京シンガポール間の場合も同様で、帰りは空路なのである。海上を自走して戻るのは時間が掛かり過ぎる。ルートAの場合は論外だろう。

 しかし──。

 昨日未明に暁達を乗せる筈だった輸送機は電装品関係のトラブルに見舞われたらしく、一昨日から緊急の点検整備に回されていた。更に悪いことは重なるもので、その輸送機の代替機は何の行き違いなのか──予定通りの物資輸送任務へと飛び立っていた。

 六駆を乗せる航空機は何処にもなかった。何でそんなことになるんだと文句を言ったところで仕方がない。僕がしっかりと確認していなかったのが悪いのだ。

 この事態が発覚したのが、暁達が浦賀水道に差し掛かろうとしていた時のことである。

 保安上の理由から、民間機に艤装(ぎそう)は載せられない。

 同じ理由で鉄道も使用出来なかった。

「輸送機の手配が付かなくてね。向こうの方でも色々と調整してくれて車両の手配までしてくれたんだけど──ほら、車は暁が酔っちゃうでしょ?」

「ああ、あの子は車に弱いもんね──」

 海と陸では勝手が違うらしい。

「艤装だけ陸送して暁達は飛行機で帰って来たらって言っても、それは嫌だって譲らなくてさ。それだったら自分達で帰るからって。ああ、やっぱり空軍の定期便に乗せてもらえば良かったんだよな。少し遠くなってもさ」

 空軍の定期便が離発着する最寄りの飛行場は車で片道三時間半の距離だった。結局、こちらの案も陸での移動距離が障害(ネック)となった。

「真面目だよね。変なところで」

「褒められたと思っておく」

 贖罪──と言う程大袈裟なものではないが、どちらにせよ自己満足に過ぎないことは解っている。僕が出迎えたところで彼女達の疲労が軽減されることはない。しかし、そんな彼女達を余所(よそ)に眠っていられる訳もなかった。

 満身創痍で走り終えようとしていたマラソンのゴール直前に、突然距離が加算されたランナーの心境は如何(いか)なるものだろうか──。

 自己嫌悪のスパイラルが目前に迫っていることを察知した僕は、それを回避する為にすかさず話題を変える。

「──それで、川内はどうしたのさ」

「私? 私は、これ」

 そう言って川内が差し出したのは一枚のCDだった。

 それは、僕が貸していたものだ。

「──ああ、聴いたんだ」

「聴いた聴いた。凄く良かった」

「そうでしょ?」

 今度は僕が得意げに微笑む。

 

 

 川内と音楽の話になったのは、つい先日の休憩中のことだ。

 

 

 その時の僕は艦隊の編成で悩んでいて、庁舎を出て寒空の中、一人イヤフォンをしながら黄昏(たそがれ)ていたのである。すると、今晩のように忍者宜しく突然現れた川内が視界を(さえぎ)って(この時は音楽を聴いていた僕が悪いのかもしれない)、何聴いてるの──と言いながら片方のイヤフォンを僕から外し、不自然なまでに自然な動作で彼女はそれを装着した。

 暫くして川内は、凄く不思議な曲──と言った。

 僕が聴いていたのは(むし)正統的(オーソドックス)なロックだったのだが、艦娘の川内には珍しい音楽だったのかもしれない。興味を示した川内に、引越し以来開けていなかった段ボール箱の奥底からCDを引っ張り出して、その曲の入っていたアルバムを貸した。

 少し前の、海外のロックバンドのアルバムだった。

「提督がこういう曲好きだってのは意外だったけど、今は何だか解る気がするな。無骨で不器用で演奏も(つたな)かったりするんだけど、でも凄く旋律(メロディ)が綺麗なんだよね」

「解ってんじゃん」

「何だよ偉そうに」

 そう言って僕等は笑った。

「提督はさ、この人達の他のCDも持ってるの?」

「持ってるよ全部。ベスト盤を数に入れないと全部で──七枚だったかな。シングルのB面集も入れたら八枚か。このB面集がまた名盤なんだ──」

「本当に? 貸して欲しいっ」

 川内は手を合わせて拝むように懇願する。

「もちろんいいよ。今日用意しとく」

「有難う!」

 川内はにひひと弾けるように笑った。そんな笑顔を見ると僕まで嬉しくなる。

 僕が好きなものを川内も好きと言ってくれるのは当然嬉しいし、こうしてCDを貸し借りすること自体が酷く懐かしい気がした。

 このCDジャケットも久しく見ていなかった。

 新鮮な気持ちで見てしまうのは、ランタンの灯りにぼんやりと揺らめいている所為(せい)ではないだろう。本当に何年も見ていなかったのだ。

 あんなに、聴いていたのに。

「提督、どうしたの?」

「ん、いや──真逆(まさか)ね、CDを懐かしく思うようになるなんてなあ、と」

「懐かしい? ああ、今はディスク自体余り使わないんだっけ」

「そうそう。(ほとん)どダウンロードかストリーミング。日本はまだ残ってる方らしいんだけど、海外ではCDなんかすっかり死滅状態なんだって。代わりにレコードが復権するなんてね」

「レコードとCDって何か違うの?」

「確か録音される周波数帯が違うんじゃなかったかなあ。ちゃんと聴いたことないから判らないんだけど──まあ、多分別物なんだよ。どっちが音が良いとかじゃなくてさ」

「ふーん、聴いたことないんだ」

「ないよ。レコードなんて再生する機械がないもの」

 買えばいいよと川内は無責任に言う。

「ターンテーブルを? そこまで音楽通でもないしなあ」

「いいじゃん。今日みたいな夜にレコードかけてたら素敵じゃない? 買おうよ。買って私の部屋に置こうよ」

「何だよそれ」

「借りてあげるって言ってんの」

「僕に何のメリットがあるって言うんだ」

 川内は知らなあいと言って夜空を見上げた。

 

 こんなくだらない会話が心地好い。

 

 川内と居ると、昔の同級生と話しているような錯覚に(おちい)る。CDがリマインダーの役割を果たして、そういった感情を喚起させているのかもしれないが、自分を飾らなくていい相手であることは間違いなかった。

 沈黙が苦にならない。多分、川内もそう思ってくれているような気がする。

 多分、だけど。

 夜風が柔らかく吹いて、その風に僕は川内の匂いを感じる。

 これも錯覚だ。僕が風上だから。

「川内はさ、何で夜が好きなの?」

「何で?」

「ちゃんと聞いたことなかったかも、と思って」

 川内は腕を組んで(しばら)く考え込んだ。

「言葉にするのは難しいけど──そうだなあ。飾らなくていいから、かな」

「飾らなくていい?」

 それは、今僕が考えていたことだ。

「お天道(てんと)(さま)の下だとさ、ある程度(よそお)ったりしなきゃいけないじゃない? 明るいからさ。でも夜は暗いから──見えないからさ、自然体でいられるって言うか、私自身そのままでいられるような気がするんだよね──うん、夜は私が私でいられる時間なんだよ」

「そっか。だったら、夜中にこうして川内と喋ってるっていうのは、理に適ってることなのかもしれないな」

 川内はその表情で、どういうこと? という疑問を僕に投げかけた。

「いや、僕も偶然思ってたんだ。川内とはさ、何だか同級生と話してる気分になるんだよ。それこそ飾らなくていいって言うか。本当に──友達みたいなさ」

 

 

 友達──と川内は呟く。

 

 

「そ、そっか──友達、だよね」

「何だよ不満なのか?」

「全然、そんなことない。私も提督は友達みたいだなって思ってた。あはは──」

 川内の反応に僅かな違和感を覚える。しかし、その感覚が何に()るものなのかは判らなかった。何処となく据わりの悪い空気を振り払うように、僕は会話を続けることにした。

「そ、それより音楽の話だけど、川内にとって──夜に合う曲って何だと思う?」

 彼女は少し悲しげに微笑んだ気がした。

「夜に合う曲かあ。そうだな──『月の光』かな?」

「つきのひかり?」

「知らないかな。クロード・ドビュッシー」

 そう言って川内は曲の旋律を口ずさむ。

「あ、聴いたことある」

「そうでしょ?」

 何処でいつ聴いたのかは憶えていないが、確かに聴いたことのある曲だった。今夜は新月で月の光は届かないのだけど、鼻歌を奏でる川内の姿はまるで月光に照らされているようで、清廉で神聖なものにすら思えた。

 美しい──と思ってしまったなんて、口が裂けても言えない。

(きら)びやかで優しいよね。私の理想の夜に近いかな。CDは持ってないから貸してあげられないけど、ピアノさえあれば弾いてあげるよ?」

「えっ、弾けるの?」

「弾けるよ。私だけじゃなくて楽器弾ける子って多いんじゃないかな。私の知ってる限りでは翔鶴(しょうかく)もピアノ弾けるし。ちなみにウチの神通(じんつう)那珂(なか)はヴァイオリンとチェロ」

「そうなんだ──」

 そんなことは初めて聞いた。

 これだけ長い間一緒に居ながら、僕はまだまだ彼女達のことを知らないのだ。

「ピアノ買ってよ」

「たっかいでしょ」

「たっかいけど」

「何ヶ月働けばいいのかなあ」

「何年──の間違いじゃない?」

 僕が肩を落とすと川内は笑った。

 しかし僕がピアノを買えるかどうかは別として、艦隊のみんなが楽器を弾いている姿を想像すると思わず顔が(ほころ)んでしまう。人数も人数だし、オーケストラだって編成出来るに違いない。

 

 ああ、その光景は是非見てみたい。その音を聴いてみたい──。

 

「何ニヤケてんの? 気持ち悪いよ?」

「別に。早く平和な海にしないとなって、そう思っただけさ」

 変なの──と呟いて川内は遠くを見つめた。その視線の先には、ただ闇があるだけだった。僕は外套(がいとう)の内ポケットから懐中時計を取り出した。もうそろそろ六駆の姿が見えてもいい時刻だ。

 早く暁達に会いたいような──それでいて、川内といつまでもこの夜を共有していたいような──不思議な気分だった。

「まあでも、川内がその曲好きだってのも解る気がするよ。いつも煩瑣(うるさ)い癖に、静かな夜の方が好きなんだもんね。ピアノが弾けるってのは意外だったけど」

「どういう意味?」

「どういう意味って──そんな繊細なイメージないもの。翔鶴は解るけどさ」

「失礼だなあ」

 川内は頰を膨らませた。

「クラシックって言うよりパンクだよね。夜中の大騒ぎなんてパンクそのものじゃん」

「うっ、よく判らないけど褒められてない気がする。ってかさ、提督はクラシック聴かないの?」

「余り積極的に聴いて来なかったな。何だか高尚(こうしょう)なものって感じがして近寄り難いんだよね。まあクラシックって言うくらいだし」

「そんな訳ないじゃん。同じ音楽だよ?」

「そうなんだけどさ、川内はその──何だっけ、作曲家」

「ドビュッシー」

「あ、そうそう。そのドビュッシーって人が好きなんだ」

「そうだね。一番好きかな」

「一番なんだ──」

「何よまた意外そうな顔して。提督はそのCDの人達が一番好きじゃないの?」

「うーん。好きだけどさ、一番って決められなくない?」

「決められるよ。じゃあさ──」

 川内は悪戯(いたずら)っぽく微笑んで、何故か(ささや)くようにこう言った。

 

 

 ──艦隊で一番の美人って誰だと思う。

 

 

 一番の──美人。

 所属する艦娘達の顔がスライドショーのように脳裏を()ぎって行く。

 その容姿には、艦種ごとに大まかな年齢差のようなものこそあれ、率直に言って全員が美しい。そもそも美醜の判断などは個人の主観に()る部分が大きいのだろうし、わざわざ序列を付ける意味もない。

「それこそ決められないんじゃないの? 決めたら色々と問題がありそうだし」

「いいからいいから」

 あからさまに嫌そうな顔をした僕を、川内は期待の眼差しで眺めている。

「まあ、()えてあげるとすれば──むっちゃんかなあ。いや、扶桑(ふそう)も──うーん」

「へえ、そんな感じなんだ。翔鶴って言うと思ってた」

「いや翔鶴も綺麗だよ? でもそんなこと言ったらみんな綺麗だしさ、それに綺麗って言うよりも可愛らしいって言った方がしっくりくると言うかさ──」

「可愛らしい、ね。じゃあ一番の美少女って言ったら?」

「あ、それはね、川内」

「へっ」

「えっ」

 

 僕等は見つめ合って固まった。

 

 すぐに冗談だと笑ってしまえば良かったのかもしれない。

 しかしその判断は先送りされて、やがて言い出す機会を失った。

 何故なら。

 それは、本当にそう思っていたからだ。

「わ、私が──い、一番──」

「あっ、違っ、そういうことじゃなくて──ごめん、忘れて」

「ちょっと待って逃さないって。何で? 何で私のことが一番だと思うの──嘘じゃないよね」

 嘘な訳ないだろ──と言って、僕は川内が作ってくれた逃げ道を自分で塞いだ。

 

 ──決められないことではなかったのか。

 ──順番を付ける意味もないのではなかったのか。

 

 自らの愚かさに嫌気が差して堪らず目を逸らすと、川内は僕の肩を掴んで、

「ちゃんと答えて」

 と言った。

 はぐらかせる状況ではない。

「ほ、ほら、川内は中性的なところもあるだろ。目許とか眉とかもキリッとしてて凛々しいと言うかさ──その、それでもやっぱり川内は女の子だから、繊細で柔らかくてその──艶っぽいところもあってさ──その、ギャップじゃないか。その幅がそう見せてるんじゃないか。知らないけどさ!」

 僕は(なか)ばやけくそになってそう吐き捨てた。自らの軽率さを呪いつつ、前方の暗闇を見つめている。

 まだ六駆は帰って来ない。早く──帰って来て欲しい。

 何の反応も示さない川内の様子が気になって首を捻った。

 川内は、瞳を潤ませて僕を見つめている。

「提督、もしかして──私のこと口説(くど)いてる?」

 口説いて──。

「ばっ、バカなこと言うなって。そんな訳ないだろッ」

 そう思われても仕方がないことは自分が一番よく解っていた。川内が放ったその一言は思いの(ほか)僕に効いたようで、僕は頭を掻いたり腕を組んだりすぐ解いたりしてから、大きく息を吐いて言った。

「川内、その、軽率だった。気分を悪くしたなら謝るよ」

「──何を言ってるの?」

「いや、本当にそういう意味じゃなくて、そういう目で見てる訳じゃなくて、気にしないで欲しいと言うか、これからも今まで通り接して欲しいって言うか──僕は一体何を言ってるんだろう。とにかくその──」

 しどろもどろになりつつ弁解をしていると、いつの間にか正面に川内が立っていた。

 先程とは違って、僕は本当に驚いた。

 川内は僕から目を逸らすことなく、じっと見つめている。

「決めた」

「な、何を」

「決めた。私、提督のこと諦めない」

 ──諦めない。

 

 

 その科白(セリフ)を合図にするように、ラジオから『月の光』が流れ始めた。

 川内の好きな──理想の夜。

 

 

「提督とは友達でいいって思ってた。私には翔鶴とか大淀みたいに(しと)やかなところないし、提督に女として見てもらえるなんて考えてもいなかった」

「せ、川内──」

「諦めない」

「おわっ」

 川内が覆い被さるように抱き付いてきて、僕等は椅子ごと後方に倒れる。プラスティックの(ひしゃ)げる音がして、破損したラジオが雑音(ノイズ)と共に音量を上げた。

 ──『月の光』はひび割れていた。

 鼻の奥では、頭部に衝撃を受けた際の独特な匂いと川内の匂いが混ざり合っている。

「いたた──ちょ、ちょっと、川内?」

「提督、私知ってるんだよ?」

 川内は言葉を直接吹き込むように耳許で囁いた。

 世界が(くら)む。意識が熔融(ようゆう)する。

「大淀とキスしたでしょ」

「なっ」

「あの日のデートから大淀は余り提督を束縛しなくなったし、二人の雰囲気が変わったことにも気付いてたよ。那珂はそんなことないって言ってたけど、私は絶対そうだって思ってた。そうでしょ? 怒らないから──正直に言って?」

 そんなものは答えられる訳がない。

 しがみ付く川内から逃れようと(もが)いていると、彼女の背中越しの暗闇に(かす)かな灯りが見えた。

 

 ──航海灯。六駆だ。

 

「せ、川内、暁達が帰って来たよ。こんなところ見せられる訳がないよな。離れてくれッ」

「嫌だよ。(むし)ろ見せつけてあげようか。一人前のレディになるには、そういう経験も必要だと思わない?」

「そんな通過儀礼があってたまるかよ」

「そうかな。さあ、さっきの質問に答えて」

 僕にはどんな回答も浮かばなかった。

 黙ってるってことは認めるってことだよね──と言って川内は躰を起こす。

 鼻先が触れてしまいそうな距離で彼女は(なまめ)かしく微笑していた。川内の髪の毛が──眉尻の辺りで僕を(くすぐ)っている。

 僕は多分、これ以上ないという程に上気しているのだろう。

「あはっ、()()りしたんだ。提督って本当に正直だよね、そういうところも大好き。約束通り怒らないであげるから、だったらさ──」

 実際に──鼻先が触れた。

 

「夜戦しよ? ううん──私と夜戦して?」

 

 瞬きすることも忘れて、僕と川内は見つめ合っている。

 しかしそれは決して情緒的(ロマンティック)なものではなく、どちらかと言うと動物の威嚇行動のそれに近い。

「──どういう意味で言ってる?」

「もの凄くエッチな意味で言ってる」

 川内は迷いもなく言った。

「あのな、雷なんかは(アンカー)を鈍器と勘違いしてる節がある。私がいるじゃないとか何とか言いながら僕等に振り下ろしてくる未来が簡単に見えるぞ」

「私が守ってあげるよ。さ、諦めようか」

「僕だって諦める訳にはいかないんだよ!」

 その言葉を契機(きっかけ)に、膠着状態に陥っていたその場が動き出す。

 逃れようとする僕を川内は必死に押さえ込んだ。

「抗っちゃ駄目だって。身を委ねなさいッ」

「な、何を言って──ああっ、首を舐めるのはよせって!」

 ラジオからは、相も変わらず『月の光』が流れている。

 雑音に(まみ)れていようとも、その旋律と和声(ハーモニー)はただただ煌びやかで──状況とは(かい)()しながらも、()んず(ほぐ)れつの死闘を演じる僕等を優しく包み込んでいた。

 

 

 この音楽は──。

 

 

 六駆の帰投まで鳴り止むことはないのだろうなと。

 そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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