浮ついているのだと思う。
即興の鼻歌を奏でながら階段を上り、踊り場に軽く跳ねて着地する。こういった時は何か手痛いしっぺ返しがあると僕の薄っぺらい人生経験は告げているのだが、どうしても高揚する気分を抑えられない。それに、何がどうなるか判らない未来を警戒して平静を装うくらいなら、感情を素直に発露している方が健康的であるように思えた。
そのうちに二階へと到達し、客観的視点を保つもう一人の自分を無視して食堂に入る。
午後三時の食堂は、放課後の教室のように閑散としていた。
その食堂の中で、ぽつねんと窓際の席に座るサイドテールを見つけて、僕の気分はより一層高揚した。
一刻も早く、この喜びを共有したい。
「あら提督、いらっしゃいませ。今日のお昼は遅いんですね」
厨房から
ちなみに、提督である僕はヒエラルキー的に相当下だ。
「こんにちは間宮さん。少し片付けないといけない案件があってね。オムライス、お願いします」
「はい、承りました。席までお持ちしますから座って待っていてくださいね」
「ありがとう。間宮さん、今日も綺麗だね」
まぁ、と言って間宮さんは顔を紅潮させた。
浮ついている、と
間宮さんが今日も綺麗なのは事実だが、この手の
どうかしていると思いつつ、逆さまに置いてある洗浄済みのグラスを手に取り、給水機で水をそそぐ。
席に到着するや否や、対面の椅子を引いて有無を言わさずに僕は言う。
「こんにちは
加賀さんは目を丸くしていたが、やがて微細に表情を和らげた。
「珍しいこともあるのね。もちろん構わないわ。おはようございます、提督」
「おはようございます? あ、そっか。今朝帰投したばかりだったね。今まで寝てたの?」
「さっき起きたばかりよ」
アジの塩焼き定食に箸をつけて加賀さんは言う。
「そっか、お疲れ様です。さっきまで寝てたのなら──聞いてないでしょ」
「──何のことかしら」
僕は身を乗り出して
「正午前に
加賀さんは、僕と目を合わせてからゆっくりと窓の外へ視線を動かす。
「そう、あの二人も──」
その顔には何故か寂しさのようなものが感じられて、僕は何かしくじってしまったかと不安になる。
「あれ、あんま嬉しくない? 二航戦の二人は加賀さんとも関係が深いみたいだし、喜んでくれると思ったんだけど──」
「あ、いえ──誤解しないで。二人が帰って来ることはとても嬉しく感じているわ。感情表現が下手なの、知っているでしょう?」
加賀さんの微笑に僕は安堵する。
「そか、良かった。それにしても空母二人だよ。珍しいよねぇ。加賀さんの負担も軽く出来そうだし、いいこともあるもんだなぁ」
現在、鎮守府に在籍している正規空母は
「妙に機嫌がいいと思ったらそういうことだったのね。新しい娘が来た時はいつもそう。
「何で大淀が出てくるのさ」
そう言うと、加賀さんは呆れたような視線をこちらに向ける。
確かに、浮かれているのは自覚している。
僕が提督になってから新たに着任したのは、
「そ、それよりさ、飛龍と蒼龍ってどんな娘なの? 一応、無線で少し話はしたんだけど──」
僕は話を戻す。
「そうね、優秀な子達であることは間違いないわ。戦いの中でお互いをカバーし合える理想的な二人よ。普段は、落ち着かないところもあるけれど」
「加賀さんも他人を褒めるんだ──」
「私をどういう女だと思っているのかしら」
「いやぁ、翔鶴と瑞鶴に厳しく接してる加賀さんしか見たことないからさ」
加賀さんは箸を咥えて僕をじっと見た。
「それは──期待の裏返しです。心外だわ」
「期待、してたんだ」
「当然です。あの子達は私なんかとっくに超えていなければならない存在よ」
その言葉は正直に言って意外だった。
加賀さんと五航戦、特に瑞鶴との関係は、こちらから見ていても時折ヒヤリとするような場面もあって心配はしていたのだ。瑞鶴と加賀さんに「あなたはどっちの味方なの」と迫られたことも一度や二度ではない。なんだか未婚なのにもかかわらず嫁姑の板挟みに遭っているようで、これがとてつもなく疲れる。
軽く放心状態にあった僕を見て、加賀さんは顔を赤らめた。
「何? 私の顔に何かついていて?」
「あ、いや、五航戦の二人って、加賀さんからはどう見えてるの? 詳しく聞いてみたいかも」
「そうね──翔鶴は秀才、瑞鶴は紛れもない天才よ。ちなみに私は凡才」
ちなみに我が鎮守府の深海棲艦撃破数トップは加賀さんだ。
「加賀さんが凡才だったらみんなの立場がないじゃんか──。でも、翔鶴と瑞鶴はまた違うんだ」
「似ているところもあるけれど、違うと言えば全然違うわ。翔鶴は日本の空母の完成形。教科書、お手本のようなものね。新しい娘は翔鶴を見習えば間違いないわ。瑞鶴は──あの子は天才だからお手本にはならないけれど、最初から出来たし何も考えなくても出来てしまうの。全て感覚。だからこそ時々つまらないミスがある。戦場ではそれが命取りになるから、型が大切だといつも言っているのに──」
そう語る加賀さんの表情は、もどかしさに満ちている。
加賀さんが瑞鶴に強くあたるのは、そういうことだったのか。
心配、だったんだ。
「それ、二人に言ってあげたらいいのに」
「そんな恥ずかしいこと出来る訳がないわ。言っても意味がないし、気味が悪いと思われるのがオチよ」
「伝えることも大事だと思うけど」
「言葉は意外と伝わらないものよ。これは私が艦娘になって気づいたことのひとつ」
あなたを見ていてもよく判るわ、と言って加賀さんは微笑んだ。
「何だい、それは──」
加賀さんのその微笑は何故だか僕を動揺させて、流れる空気に居心地の悪さを覚える。自分でも意識していない弱点を的確に射抜かれたような気がした。
動揺を悟られまいと水を口に含む。
「そ、それにしても瑞鶴ってそんな凄いやつだったんだ。翔鶴に甘えてたり、執務を邪魔しに来るところを見てたらそんな気がしないな。日本の空母でも一番の天才だとはねぇ」
「──
「へ?」
「一番は赤城さんよ。行く行くは判らないけれど、赤城さんの方が数段上ね。まだあの子は赤城さんの足許にも及ばない。背負っているものが違うのよ。才能、技術とは全く別の話。提督に解るかしら」
そう語る加賀さんの表情に、先程と同じ
遠く離れた故郷を想うような、記憶の片隅に残る旧友を想うような、そんな表情だった。
そうか。
そういうことか。
「──会いたい?」
「もちろんです」
「今の加賀さんのこと見たら、きっと驚いてくれるね。強くなった、さらに立派になったって」
「私は赤城さんの隣に相応しくなるため努力しただけ。五航戦を見ていたら嫉妬してしまうわ」
「僕は加賀さんの発艦、力強くて好きだけど」
「ぎこちないだけ、不器用なだけよ」
「そういうところも含めて、加賀さんだなって」
加賀さんは照れながら睨むように僕を見る。
「いつか絶対会えるさ。──いや、僕が絶対に赤城さんを連れて来てあげるよ。約束する。だから、今は二航戦を全力で歓迎してあげよう」
その発言には何の根拠もなかったし、もっと言えば新たな仲間を見つけて来るのは僕じゃなくて任務に就いている艦娘達なのだが、何故かそう言わずにはいられなかった。
「そう、ね。その約束、守ってもらいます」
そう言って僕らはお互いに表情を崩した。
僕と加賀さんの間に穏やかな空気が流れる。流れる時間までもがゆったりとしているようで心地よかった。そういえばオムライスまだかな、とそんなことを思える程に余裕が出て来たのも束の間、加賀さんが口を開く。
「話は変わるのだけど、何故私だけさん付けなのかしら」
「え」
本当に話が変わった。
「聴こえてる
「いやいや、そういうことじゃなくてね。えっと──威厳があるというか何というか──」
「真剣に答えてくれないと本気で怒ります」
「そんな、呼び方に他意なんてないよ! ほ、ほらあれじゃない? 空母で言ったら最初に仲良くなったの翔鶴と瑞鶴だから、それで加賀さん、って呼び方が馴染んじゃったとか──」
加賀さんは怪訝な目で僕を見る。
「五航戦贔屓よね、あなた」
「そんなことないって!」
「寂しいわ」
「解ったよ! さん付けやめたらいいんでしょ!」
加賀さんは小首を
今呼べ、ということか。
しかし改まって名前を呼ぼうとすると相当に恥ずかしい。無理矢理セッティングされたこの状況も羞恥心に拍車をかけるが、それでも僕は意を決して加賀さんの目を見つめ直した。
大きく息を吐く。
「加賀」
そう言った途端、お互いに恥ずかしさの許容量を超えたらしく顔を赤くして俯いてしまった。
何だこれは。誰が得するんだ何の仕打ちだ。
「何イチャついてるんですか。はい提督、オムライスですよ」
ことり、とオムライスがテーブルに置かれる。謂れもない辱めを受けている間に、間宮さんが注文の品を持って来てくれたようだ。
「あ、ありがとう」
「私も、呼び捨てにされたいなぁ」
「間宮さん、何を──」
「綺麗だね、とは言ってくれても名前は呼んでくれないんですか」
軽い冗談かと思っていたのだが、間宮さんはお盆を胸に抱いてなかなか立ち去ってくれない。
「私も頑張ってるんだけどなぁ」
「解ったよ!」
「あ、じゃあ間宮、今日も綺麗だね、でお願いします」
科白も指定されるのか。
何故こんな状況に陥ってしまったのか理解出来ず、眉間に皺を寄せ額を小指で掻く。見上げると間宮さんが瞳に期待を湛えてこちらを見ていた。
そんな顔をされたら、無下に出来る筈もない。
「ま──間宮、今日も綺麗だよ」
間宮さんは口許をお盆で隠して「あ、ありがとうございます」と言ってその場をそそくさと立ち去って行った。
結局喜んでくれたのかどうかが判らない。間宮さんが喜んでくれていなかったら、今の
目の前では、加賀さんが冷たい目で僕を見ている。
「あなた、間宮さんにそんなこと言ったの?」
「──言った」
「全くあなたって人は──。とにかく、これからは私をさん付けしないで呼ぶこと。いいわね?」
ため息交じりに加賀さん──いや、加賀はそう言って再び昼食に手を付ける。何故僕が呆れられないといけないのか納得がいかなかったが、せっかくの昼食が冷めても嫌なのでそこは飲み込んでオムライスを口に運ぶ。
言うまでもなく、間宮さんの料理は今日も天下一品だ。
「それにしても、正直に言って二航戦は羨ましいわ。最初から帰る場所があるんですもの」
「加賀さ──えっと、加賀の時は鎮守府ってまだなかったの?」
「あったわ。あったけど──あなたがいなかった」
「僕が?」
確かに僕は着任してから数ヶ月しか経っていない。しかし、それと何の関係があるのかは判らなかった。
「それは、どういうこと?」
加賀はきょとんとして僕を見る。
「──もしかして、聞いてないのかしら」
僕が頷くと、大淀も悪い子ね、と言って加賀は続ける。
「私達艦娘はあなたのいる場所が判るのよ。世界の何処にいても、感覚的に。提督電探、司令電探なんて呼ばれているわ。スロットを消費しない私達の基本装備みたいなものね」
──僕の居場所が、判る。
「私が目醒めた時はまだあなたが提督ではなかったから、自分の場所も何処に向かえばいいのかも判らなかった。もちろん天測をして航行することは出来るから、なんとかここに辿り着くことは出来たのだけど。その心細さ、あなたに解るかしら」
それは、確かに不安だろうと思う。
「だけど今はあなたがいるから、二航戦は目醒めた時、
「ちょっと待って。僕の居場所が判るって具体的にどういうこと?」
もしかして、それは大変なことじゃないのか。
「感覚的なことを言葉にするのは難しいわね。でも、あなたの持っているケータイにもGPSがついているでしょう? そのようなものと考えてくれていいわ。精度はそこまで良くはないけれど」
「その精度ってどのくらいの──」
「そうね、例えば今の状態だと鎮守府にいることはみんな判るでしょうね。
十分な性能である。
僕は既にオムライスの味を感じていない。
「競輪場で大淀に捕まった時、何故ここがバレたのかって考えなかったの? 他にも、
冷や汗が脇を伝う。
加賀の視線が鋭さを増した。
「全部バレているわよ」
あぁ、そうか。
そういうことか。
僕が夜な夜な若い男子として健全な欲求を晴らさんと歓楽街へ出撃すると、不自然なまでの高い確率で(というか今になって思うと全てのケースで)大淀や金剛、翔鶴瑞鶴にそういえば加賀、または軽巡を旗艦とする水雷戦隊と遭遇してその行く手を阻まれていた。
確かによく会うなとは思っていたのだ。そうして結局は買い物やカラオケ、居酒屋にボウリング等々に連れ回されて当初の目的を達成出来ずに帰っていたのである。
僕は何度、
逃げられない筈である。
浮ついた気分は何処へやら。固まったまま動けない僕とは対照的に、加賀は何故か機嫌が良さそうだった。「私達というものがありながら──」と呟いたのが完全に聞こえたが、そんなものは聞こえない振りである。
麗らかな午後、窓の外からは微かに汽笛の音が聞こえていた。
ぼぉー、だって。