Compass   作:広田シヘイ

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第五話『鎮守府水回り事情』

 

 

 

 

 女所帯の鎮守府に男一人が混じって共同生活を送るのは、大変な困難を伴うのである。

 当然、多数派は艦娘である彼女達だから、日常の様々な場面で気を遣うのは自動的に男の僕になる。まぁ、彼女達は過酷な任務や訓練を日々こなしているし、どれだけ僕が偉そうに執務室で踏ん反り返っていても、前線に出るのは叶わないのだから当たり前といえば当たり前だ。

 そこに全く不満はない。

 

 ──ないのだが。

 

 まず、思いつくのは風呂だ。

 鎮守府の風呂の施設は過剰と思える程に充実している。一番目を引くのが「入渠ドック」と呼ばれている大浴場だろう。

 これが凄まじい。

 どれだけ凄まじいかを説明するのも難しいのだが、有名な温泉場で一番の収容宿泊客数を誇るホテルの大浴場と同程度、と考えてもらって良い。

 ジャグジー、打たせ湯、サウナに水風呂岩盤浴。それに付随して卓球台、カラオケ、寂れたところまでをも再現したゲームコーナーに極め付きの居酒屋鳳翔(ほうしょう)。入渠とは何か、ドックとは何かを再考させられること請け合いの一大娯楽施設である。

 ちなみに僕は最初に視察した時と、この施設の維持に掛かっている莫大な費用を知った時の二度、大淀に「本当に必要?」と確認しているのだが、二回とも「修復に必要な入渠ドックですから」と押し切られて考えることをやめた。

 有無を言わさぬ迫力を持った笑顔で大淀に言われたら仕方がない。

 全てとは言わなくても一部はそうなんだろうさ、実際。

 僕だって入渠を終えて浴衣に身を包み、風呂桶を抱えて下駄を鳴らしながらしゃなりしゃなりと寮へ帰る艦娘達を見ると心が穏やかになるし、思わず「風情だねぇ」などと呟きそうになる。みんながそれで癒されるのなら、明日への英気を養うことが出来るのならそんなに良いことはない。

 

 ただ──。

 僕はその「入渠ドック」と称する大浴場で入浴したことがない。

 一度もない。

 正直に言って、とても入ってみたい。

 一度くらい良いじゃないか。

 減るもんじゃなし。

 

 

 入浴施設がその一箇所だけと言うのなら僕も我が儘は言わない。一度任務に就けば彼女達は二十四時間体制だ。昼も夜もない。入りたい時に風呂に入りたいだろう。それは解る。

 しかし、風呂はそこだけじゃなくて各寮にも備え付けられているのだ。

 しかもそこそこデカめの風呂が。

 週に一日くらい時間限定でもいいから入らせてくれたっていいだろうよ。

 減るもんじゃなし。

 また言ってるんだけど。

 

 ──こんなことを言いつつ、入渠ドックに入らせてくれと実際に要求したことはない。

 大淀の説明によると、寮の風呂に修復能力はないのだそうだ。そうなると僕が入って邪魔をするのもなんだし、何よりこんなことを言うと変態だのスケべだの強姦魔だの、謂れもない罵詈雑言を浴びる結果になるのが目に見えているのである。

 そう、僕が我慢したらいいだけの話だ。

 一応、僕の私室には狭いながらも浴室はあるし、多少歩くが近所に銭湯だってある。風呂に入りたいと思えば入れないこともないのだ。贅沢を言ってはいけない。僕はこれでも提督なのだし、僕が我慢することでみんなが少しでも快適に生活出来るのなら、(むし)ろそれを喜ぶべきだろう。

 本当にそう思う。心から思う。

 

 それともう一つ、風呂以外にも困ることがある。

 あぁ──いや。

 風呂以上──か。

 

 

 ──それは、トイレだ。

 

 

 鎮守府にも各寮各個室以外にみんなが共同で使用するトイレがもちろんあるのであって、それは各庁舎の各フロアに一箇所ずつくらいは設置されているのだが、ここからが問題だ。

 

 鎮守府のトイレに、男子トイレという概念はない。

 

 トイレは(あまね)く女子トイレなのである。

 考えてみれば僕が着任するまで鎮守府には女子しかいなかったのだから、当然といえば当然だ。存在しない男子の為にスペースを割く必要がない。男子トイレがなくて当たり前だ。

 ただ、そうは解っていてもトイレは難しい問題で、僕が使用して良いトイレが私室の一つだけだと僕が理解し納得していることと、僕がいつ何処で催すのかは全く別の問題だということだ。

 これは人間の生理だから。

 正当性とか理屈とか正義とか、そういうんじゃないから。

 だからこそ、トイレに関しては改善して欲しいと散々言ってきた訳で。

 風呂とは違って我慢出来ないから。

 いつか大変な事態が起きると、簡単に予想出来た訳で──。

 

 

 薄い壁越しに、蛇口を捻る音が聞こえる。

「テートク遅いデース! 何処に行ったのデスかー!」

矢張(やは)榛名(はるな)がもう一度探して来ましょうか──」

「あ、お姉さま。ここにいらしたんですね」

「Oh! 霧島(きりしま)、テートクは見つかりましたかー?」

「それが執務室、私室、食堂、工廠など司令のいそうな場所は隈なく探したのですが──」

「二航戦と赤城さんの歓迎会だっていうのに、提督どちらへ──」

「うー、電探に感があるだけもどかしいネ! もう埒がオープンしないデース! 空母に偵察機を飛ばさせるヨー!」

 

 

 ──ほらね、大変でしょ。

 しっかり対応しないと、こういうことになるんだって。

 

 僕は今、女子トイレの個室でズボンを下ろしたまま身動きが取れずにいる。

 着任以来最大の危機、と言っても過言ではない。

 

 

 こんなところを見つかったら確実に命はないだろう。僕の人生はこの女子トイレで終わるのだということを前提に、後はどのような形で終わるのかという選択肢が残るだけだ。主砲が炸裂するのか艦載機が急降下爆撃してくるのかそれは判らないが、とにかく生還するには誰にも見つかることなくこの場から脱出しなければならない。

 僕はMI6でもなけりゃCIAのエージェントでもないッ! と大声を張り上げたい衝動に駆られたが、本物の諜報員はまずこんな情けない状況に陥らないということに思い至って何だか泣きたくなった。

 本当にどうしようか。と言うか、そもそもだ──。

 こうして僕が女子トイレで息を潜めているのには、万端(ばんたん)如何(いかん)ともし難い事情が存在するのである。

 

 先程榛名が言っていた通り、今日はこの間着任した二航戦と赤城の歓迎会だ。新しく艦娘が着任する度にこうした宴会の席を設けてはいたのだが、今回は少し力の入りようが違う。いつもとは違って三人分祝わなければならないということもあろうが、僕が思うに、これは二航戦が「私達の歓迎会はまだなの?」と事ある毎にアピールしていたのが大きいように思う。歓迎会をやると言うと、恥ずかしがる子が殆どだったから彼女達の積極性は新鮮だった。

 そんな女子大生のようなノリでねだる彼女達の希望に応えたいと鎮守府の誰もが思っていたのだが、最近は何かと忙しくて予定が先延ばしになっていた。そうして募りに募った思いの分と、青天の霹靂とも言える赤城着任の相乗効果で、今回の歓迎会は矢鱈と規模が大きい。

 会場が食堂ではなく入渠ドック二階の宴会場だし、那珂(なか)ちゃんは駆逐艦を巻き込んで数曲歌うみたいだし──まぁ、那珂ちゃんはいつも歌っているのだけど、今日は白露型姉妹に加賀まで歌うらしい。

 

 ──『艦娘音頭』って何だ。何だ『加賀岬』って。

 いつ作ったんだ、そんな曲。

 

 他にも舞風を中心とした陽炎型姉妹のタップダンスショーだとか、初雪望月の脱力系漫才だとか色々あるらしいのだが(それはそれで僕もすごく楽しみなのだが)、何より間宮さん伊良湖(いらこ)ちゃん鳳翔さんからなる鎮守府給養班の熱がすごい。歓迎会に出す新作料理の試食とやらで、僕はここ三日程食事を摂らずに済んでいた程だ。

 高級レストランのメニューに加えても全く遜色のないようなものから心温まる家庭の味まで幅広く、最近の僕の食生活は世界で最も充実していたに違いない。

 そんな幸せな日々の落とし穴は、今日の昼前のデザートの試食にあった。

 赤城、飛龍、蒼龍それぞれのイメージカラーを基調に作られた和三盆に最中にアイス。僕は一体何カロリー摂取したのか判らない。特にアイスは食べ易くてストロベリー、オレンジ、ブルーハワイと二個ずつ計六個をあっさりと平らげてしまった。

 

 ──そりゃ腹も壊す。

 

 執務室を出た時はまだ正常だったのである。

 入渠ドックの暖簾をくぐり、靴を脱いでスリッパに履き替えたところで躰の異変に気がついた。階段を一段上がる毎に腹痛が酷くなり、二階に到達した瞬間に進退窮まった。

 脂汗まみれでふと横を見ると女子トイレがある。

 そこで僕は究極の二者択一を迫られた。

 女子トイレで用を足すか。

 名実共に「クソ提督」になるか。

 ──選択肢はないに等しい。僕のキングストン弁は既に開きかけていたし。

 そして、前後不覚の状態で仁王像のような顔をしながらトイレに突入し、諸悪の根源を綺麗さっぱり排出して菩薩のような顔になってから現在に至る。

 今冷静になってみると、突入時トイレに誰か居たらどうしていたのかと思うのだが、寧ろそちらの方が良かったのかもしれない。お咎めなしとはいかないだろうが、尋常ならざる状態であったことは理解してもらえた筈だ。裁判でも責任能力の有無を問うことが出来ただろう。

 

 

 扉の向こうから聴こえてくる鼻歌が終わらない。榛名がまだ残っているようだ。

 こうしている間にも歓迎会の開始時刻は刻一刻と迫ってきているというのに、僕はベルトの音で気づかれるのが怖くてズボンすら上げられない。くしゃみや咳などは一発でアウトだ。

 榛名、頼むから僕の退路を開けてくれと、便を出すのと同じ要領で腹筋に力を入れテレパシーを送るのも束の間、新たに誰かが入って来る音がする。

「あ、蒼龍さん」

 蒼龍──。

「よっ、榛名。何かすごく盛大だねぇ! 私達の為にありがとねっ」

「とんでもないです。榛名も艦隊の皆さんも、今回は張り切ってしまいました」

「そっか、嬉しいなぁ。──あ、そういえばさ、提督って見つかったの?」

「いえ、それがまだです──」

「そうなんだ──。全く、何処に行ったのかなぁ?」

 ここに居ますよ。

「お姉様方も必死に探してはいるのですが──。でも、きっともうすぐお見えになります。提督も、今日をとても楽しみになさっていましたから」

「だったらいいんだけどね」

「大丈夫です! では蒼龍さん、またすぐ後で」

「うん、それじゃ」

 榛名はトイレから出て行ったようだ。

 蒼龍は──。

 

 隣の個室に入ったようだ。

 

 鍵が閉まり、衣擦れの音がする。

 まさか。

 蒼龍はふぅ、と息を吐く。

 やがて聴こえてきたジョロジョロという水音が、僕の内なる世界に鳴り響いた。

 僕は静かに頭を抱える。

 

 ──何と言うか非常にこうふ──いや、罪悪感がすごい。

 成る程「トイレ用擬音装置」なるものが普及する訳だ、と変なところに感心するのだが、そうしている内に僕の心を乱していた音が止む。

 紙を手繰(たぐ)る音、紙を擦る音、そして再び衣擦れの音、流水音。

 音しか聞こえない環境というものは想像力を掻き立てられる。

 どんな想像を掻き立てられたかは述べるまでもないだろう。

 そうして、また深く頭を抱えた。

 ここに居てはいけない。見つかることに怯えてじっとしていても、僕に外の状況を知る術はないのだし、何よりこんなところに居ると今まで無意識に抑圧してきた「もう一人の自分」に人格を乗っ取られそうな気がするのだ何かが芽生えそうな気がするのだ。

 

 蒼龍は今、洗面所で手を洗っているところだろう。

 腹を決めよう。

 蒼龍が出たら、行動を開始する。

 蛇口を捻る音と共に水流が止まる。

 ドアの開閉音。

 よし、誰もいなくなった。

 焦るな、絶対に焦るな。

 一、二、三。

 ──状況開始。

 勢いよく立ち上がると同時にズボンを上げる。焦りすぎてベルトをひと穴キツく締めてしまったが構うものか。不退転の決意を表すようにトイレの水を流した。

 鍵に手をかける。

 一瞬、躊躇したがもう行くしかない。前に進むしかない。もし誰かと鉢合わせた時は「お前が逆にどうした」などと逆ギレしてやればいいのだ。この世はハッタリだ。かましてやればいいのだ。

 

 個室の扉を開き外界に飛び出す。

 そこで僕は、今まさにトイレに入って来た五月雨(さみだれ)と遭遇した。

 ──こ、こんなことって。

 

 

「あっ──」

 言葉は出て来なかった。

 清純、純真無垢を絵に描いたような五月雨に、逆ギレはかませない。

「こ、これは──ち、違くて、その──」

 五月雨の顔が徐々に恐怖に歪む。

 彼女は鏡だ。

 醜い僕を映す鏡だ。

 あぁ、五月雨。

 そんな顔をしないで。

 そんな目で僕を見ないで。

 と言うか、大声は出さないで──。

「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」

 

 僕の願いも虚しく、五月雨の悲鳴が鎮守府に響き渡った。

 

「さ、五月雨、違うんだって──落ち着い──」

「ち、近寄らないでくださいっ!」

 言葉が胸に刺さる。

 俄然と辺りが騒ついて来た。騒ぎを聞きつけた艦娘達が集まって来たようだ。

 いかんいかん。これは考え得る最悪の展開じゃないか。

「どうしたっ! 五月雨」

 一番に到着したのは那智だった。

「こ、この提督さん変なんですッ!」

「何だ貴様は!」

「な、何だ貴様はってかッ!」

 何だか往年の名コントのような流れになってきたがそんなことは知らない。「変な提督さん、だから変な提督さん」と歌って踊ろうがこの場はオチないだろうし、(まし)てや「だっふんだ」では絶対に収まらない。

「き、貴様何をやっているんだッ! ここを何処だと思っている!」

「女子トイレさ! そんなことは僕だって痛い程解ってるんだよ。取り敢えず話を聞いてくれトイレでやることなんて一つだろう!」

「と、盗撮とは見損なったぞ!」

「バカかお前は! 何で一番にそれが出てきたんだ!」

 五月雨が「盗撮──」と小さく呟いて顔を歪めたのが僕には判った。

 心が折れてしまいそうだ。

「ヘイなっちー、どうしたんデース? ──ワオ! テートク見つけました!」

「金剛油断するな。此奴は提督などではない! ただの盗撮魔だッ!」

「だから違うって人の話聞けって!」

「What!? トーサツ──。でも──そんなテートクだって私は受け止めますヨ?」

「嘘だろすげぇな懐深すぎだろ! 妙なタイミングで金剛の株上がったわ!」

「ええぃっ黙れッ! 提督ともあろう者が艦隊の風紀を著しく乱しておいてただで済むと思うなよ! よ、よりにもよってスカトロジーとは──」

 那智は顔を紅潮させてわなわなと身を震わせていた。

 いつもは凛として才媛を地で行く彼女だが、こういった方面にはとことん弱いのかもしれない。

 一人で盛り上がっちゃってるし。

「那智、取り敢えず落ち着こう、な?」

「落ち着けると思うかッ」

「なーに騒いでんのー?」

 蒼龍がドア枠から顔だけ出してこちらを覗き込んだ。

「わっ提督、何してんのよ!」

 ──また話がややこしくなる。僕は顔面を手で覆って項垂れた。

「蒼龍、驚くのは解るし僕がここに居るのは異常な事態だって十分に理解している。だけどまずは話を聞いてくれないか──」

 怒りに我を忘れている那智、怯えた五月雨、何故か嬉しそうな顔をしている金剛を見て、蒼龍は何かを察してくれたようだった。

「──解った。那智、ここは私に任せてよ。金剛も五月雨連れて先行ってて」

「ずるいデース」

「襲われるぞ」

「襲わないよ」

「大丈夫だって。今日は主役の私を立てるってことで──ね?」

 金剛は割と素直に五月雨を連れて、那智は幾らか逡巡した後で敵意の込もった視線を残し場を去って行った。

 トイレには、僕と蒼龍だけが残った。

「──ちょっと提督、何があったのよ」

「助かったよ──恩に着る」

 僕は現在に至った情けない一連を蒼龍に話した。それを聞いた蒼龍は心底呆れたという表情で僕を見る。

「──もう大人でしょ? お腹が痛くて我慢出来なかったのは仕方ないにしても、そんなに冷たい物食べたらどうなるかなんて判るじゃない」

「美味しかったんだもの」

「それが子供だって言うの」

 本当にもう、と言った後で蒼龍はハッとした。

「──ちょっと待って。ずっとここに隠れてたって?」

「うん、そうだけど」

「──私が入った時も?」

 あ。

「い、いや、えーと──それは何て言うのかな──」

「居たのね?」

「そ、それは難しい問題じゃない? 居たと言えば居たし居なかったと言えば居なかったような感じって言うか──世界は白黒はっきり出来る単純なことばかりじゃない気もするじゃない?」

「居たか居ないかだけで答えて」

「居た」

 蒼龍の顔が瞬間的に赤くなる。

「やだやだやだぁ! 何考えてんのよこの変態ッ」

「仕方ないでしょ! どうしようもなかったんだもの!」

「女の子にとってどれだけ恥ずかしいことか判ってるの!」

「大じゃなくて良かったと思ってよ」

「信じられないッ! 絶っ対に許さないんだから!」

 失言だったと流石の僕も気がついた。蒼龍に敵に回られたら本当に「死」が見えてくる。

「ごめんっ。今のはデリカシーに欠けてた。謝るよ、この通り」

 頭を垂れる僕に対して、蒼龍はプイと顔を背ける。

「知らない。那智にもみんなにも言っとくもん、提督は救いようのない変態でしたって」

「やめて僕死んじゃう! 許してよ何でもするからッ」

 何でも、というワードに蒼龍の態度が軟化した。

「──反省してる?」

「してる。こんなに反省したことない。ホントにない」

「何でもしてくれる?」

「何でもする。もちろんする」

「ふーん。じゃあさ──」

 幾らかの間を置いて、蒼龍が突然寄り添ってくる。

 何が起きたのか状況を把握出来ずに固まっていると、やがて蒼龍は耳許で、

◯二◯◯(マルフタマルマル)に、下のお風呂で──」

 と蠱惑的に囁いた。

 

 

            ※

 

 

 深夜二時。僕は憧れの入渠ドックで湯船に浸かっていた。

 感想としては「艦娘が羨ましい」の一言に尽きる。広いし綺麗だし湯加減も最高だし、それでいてその豪華さが押し付けがましくないと言うか、非常に落ち着いた雰囲気なのである。品が良い、という言葉がしっくりくる。これなら日々の生活にも馴染むというものだ。

 夕方突然の体調不良に見舞われた躰も芯から癒されるような気がする。僕は艦娘ではないからドックで修復されることはないのだろうが、風呂は命の洗濯なんて言うくらいだから十分に効果はあるのだろう。設備の縮小を提案しかけた僕に、大淀が静かなそして確かな圧力で応えたのもよく解る。

 

 ただ、何と言うか──。

 落ち着くのだが落ち着かないと言うか──。

 

 正直歓迎会も上の空だった。白露達も加賀も妙に歌が上手かった記憶はあるものの、心ここに在らずの状態で終始惚けていたように思う。現在もこんな広ーい湯船で、何で膝を抱え縮こまって入浴しなければならないのかと思うのだが、率直に言ってとても緊張している。

 期待もしている。期待している自分に嫌悪感も抱いている。同僚(部下、と呼ぶべきなのかもしれないが僕は軍人ではないし、彼女達も僕のことを上官とは捉えていないだろうと思う)であり世界を守る最後の砦でもある彼女達に何て穢らわしい劣情を持っているのか、と。

 一方で不安もある。あの言葉が聞き間違いではなかったか、それとも僕は騙されていて「この変態クソ提督!」と奇襲を仕掛けられ血祭りに上げられるのではなかろうか、と。

 いや、彼女はそんな娘ではない。僕を騙す筈がない。

 ──と言うことは。

 期待、自己嫌悪、不安、自己解決、そして再び期待。

 ドックに浸かってからというもの、僕はこの地獄の思考サイクルから抜け出せずにいる。

 あぁ、湯ではなく妄想で逆上(のぼ)せてしまいそうだ。

 もう上がってしまおうか、さっさと床に就いて全て忘れて眠ってしまおうか。

 そんな考えが頭をよぎったその時。

 

 戸がカラカラと音を立てた。

 

「──あ、ちゃんと来てくれたんだ」

 僕は反射的に躰を湯船に深く沈めた後、腰のタオルがズレていないか確認する。

 一瞬視界に映った蒼龍は、バスタオルを巻き髪を下ろしているようだった。

 

 ──凶悪なまでに、魅力的な光景だった。

 

「そ、蒼龍が来いって言ったんだろ」

「ふふ、照れちゃって可愛いんだー。ちょっと待っててね」

 仕切りの向こうから、ばしゃばしゃと湯をかける音が反響して聞こえてくる。

 

 

 音。水音。夕方の記憶──。

 

 

 あーいかんいかん。考えちゃいかん。壁を一枚隔てた向こう側で蒼龍が──とか考えちゃいかん。あー目を閉じたらさらにいかん。聴覚が鋭敏になり過ぎていかん。あー。

 僕がそんな風にバカ丸出しで悶絶していると、水分を含みより密着したタオルに包まれた蒼龍が姿を現しこちらへ歩み寄ってくる。そっと湯船に伸びる脚が、何とも艶かしい。

「あぁ、気持ちいい。ちょっと提督、腰引けてんじゃないの?」

「うるさいなっ」

 僕は目を逸らす。全く直視出来ない。

「──だいたい、何で一緒に入らなきゃいけないんだよ」

「何でもしてくれるって言ったじゃない」

「言ったけどさ、こういうことじゃなくない? もっと、ほら──何か買ってくれーとか、休み寄越せーとかさ」

「──ダメ、だったかな?」

「いや、ダメじゃないけど──」

「だって、私達が着任してから提督も艦隊も忙しかったでしょ? 考えたら提督としっかり話したことないかもなーって」

「うん、まぁそれは──ね。でも、話だったらいつでもするよ。話が出来ない程、忙しくはないから」

「ホントに? 執務室遊びに行ってもいい?」

「もちろん」

 やった、と小声で蒼龍が呟く。そもそも執務室は遊びに来るところじゃない、などと訂正する真っ当な了見は失って久しい。ウチの執務室では年がら年中誰か彼かは遊んでいる。

「でも、何となく話し難いことってあるじゃない? こういう場だったら、ちゃんと話せるかもって──思ったんだけど」

 蒼龍の様子が、いつもと違うように思えた。落ち込んでいるという訳ではなさそうだが、底抜けに明るい平素の彼女ではなかった。

「あぁ、そういうことか──。確かに執務室だと話し難いってことはあるかなぁ。何かあった? 僕で良かったら、何でも聞くよ」

「変なこと聞いちゃうかも」

「今更気にしないって。一緒にお風呂入っちゃってるんだから」

「ホントに?」

 そう言ってから、少し間が空く。

「提督、私達って──どうして生まれたのかな?」

「どうして?」

 僕は、この風呂で初めて真面に蒼龍を見た。

 蒼龍は、ほんのり顔を赤らめて俯いている。

「こうして人の形に生まれ変わって、深海棲艦と戦って──何でかなって。あ、別に不満がある訳じゃないし落ち込んでる訳でもないんだよ? ただ、ちょっと──そんなこと考えちゃう時はあるかなぁって──。提督はそういうことない?」

「あるよ」

「ある?」

 鎮守府に着任するまでは、そんなことばかり考えていた。

「うん。でも、答えが見つかったことはないよ。答えがないこと──って気がするな」

「ない、のかな」

「例えばだけど──蒼龍達は深海棲艦を倒す為に生まれて来たんだって仮定してさ、じゃあ深海棲艦を倒し切ったらもういなくなってもいいのかって、そういう話になるじゃない? 違うでしょ、それは」

 そんなの、僕が嫌だ。

「だから、生きることに絶対的な理由とか意味とか、ないんだよ、多分。その時々で、それらしいことに納得出来るか出来ないかってことはあると思うけど」

「提督は、今の状態に納得してるの?」

「してるよ、それなりにね」

「それなりに、なんだ──」

 僕は少しだけ嘘を吐いた。

 実際のところ、みんながいれば他に何もいらない。

「でも、納得出来るか出来ないかって考え方は解るかな。私も──あの、提督──今から言うこと笑っちゃダメだよ?」

「笑わないよ」

「あのね、自分が生まれ変わったのは何でなんだろうって考えた時にね、世界を守るぞーとか深海棲艦を倒すぞーってのも悪くないんだけど、私の中で、一番しっくりくるのは──」

 蒼龍が、湯の中でそっと僕の手を握った。

 

「提督と逢う為に、って理由だったりする」

 

 蒼龍と視線が重なる。

 湯から湧き上がる水蒸気が、より密度を増した気がした。

 

「──私、提督に逢う為に生まれ変わったんだよ。きっとそう。提督は──どう思う?」

 蒼龍の潤んだ瞳を見ていると、何だか心まで丸裸にされてしまいそうな感覚がする。いつもならセンシティブに過ぎる「異常接近警報装置」が作動しない。一先ず距離を置く、という選択肢は湯気に紛れて消散したようだ。

「僕も、みんなと逢う為の人生ってことだったら、納得出来るかな」

「みんな?」

「──蒼龍って言い換えてもいいよ。ただ僕は、ほら──提督だから」

「ふふ、可愛い。でも提督は、国や世界を守る為の人生じゃなくていいの?」

「僕は国っていうのがよく解らないんだよ。地元とか、故郷とか、家族とか、そういうのだったら解る。でも、国ってなった途端に解らなくなる。況てや世界なんて──。それでいいのかって問題はあるだろうけど」

「それでいいんじゃない? みんな、大切な人の為に頑張るんだよ」

「それは、解るよ」

「提督も私達の為なら、頑張れるでしょ?」

 そう言って微笑する蒼龍を正視して、僕は躊躇(ためら)いもなく言った。

「みんなの為なら死ねるよ」

 本当のことだからと言って、何でもかんでも話せる訳じゃない。しかし、この場では胸の内に隠している方が不自然だった。

 蒼龍の顔が、より紅く見えた。

「私達、相思相愛だね」

 蒼龍は胸許のタオルに手を掛け、僕に寄り掛かる。

 蒼龍の濡れた髪が、僕の肩を(くすぐ)るように撫でた。

「ねぇ、提督──愛し合おう? 二人とも、溶けて無くなっちゃうくらいに──」

 蒼龍の顔が接近する。

 そして、僕も吸い寄せられるように。

 そうすることが、自然なことのように──。

 

 

「そこまででち!」

「どわぁっ!」

 

 

 反射的に僕と蒼龍は離れた。

 左舷前方二メートルくらいのところで、伊58が湯から顔だけ出してこちらを睨みつけていた。

「び、びっくりしたぁ! ゴーヤ何やってんだよ『地獄の黙示録』みたいに出て来やがって!」

「入渠でち! 帰投して疲れた躰を癒してたところでち! 何やってるなんてこっちの科白(セリフ)なんでち不純異性交遊でちーぃっ!」

 いかん。始終を見られていたようだ。

「お、落ち着け興奮すんなって」

「それもこっちの科白でちッ。提督が入って来て驚いてたら蒼龍とイチャコラし始めるなんてどういう拷問なの! 訴えてやるでち!」

 それは絶対に阻止せねばなるまい。

「ゴーヤ、これはその──誤解って言うか、私と提督はそういう関係じゃないのよ? だから、その何て言うかな──一時の気の迷いって言うか、みんなには黙ってて欲しいって言うか──」

 ゴーヤは僕らを怪訝な目で見る。

「蒼龍も蒼龍よね。傍目には蒼龍からそっちの方向に持ってった感が否めないでち。──計画的犯行?」

「やだやだやだぁ! 変な分析はやめて!」

 顔を真っ赤にした蒼龍は、最早轟沈寸前で戦力としての機能を失っていた。

 潜水艦相手には分が悪い。

「提督、ゴーヤは回りくどい話が嫌いだよ。このことを口外しないとなるとそれ相応の対価が必要になるよね。そちらの誠意を見せて欲しいでち。──ちなみにゴーヤは口が軽い方でち」

 それは紛れもない脅迫だった。

「──特別休暇を一日やろう」

「この交渉は終わりでち」

「待てッ! 自分の存在を秘匿し続けたゴーヤにも責任はあるだろうよ!」

「潜水艦としては当たり前よね! 対潜哨戒を怠ったそちらの責任でち!」

「何で風呂でそんなことしなきゃいけないんだッ! 風呂と海の区別がついてないそっちの責任だッ」

「もういいでち」

「さ、三連休でどうだッ!」

 潜航しかけたゴーヤがピクリと止まる。

「──五連休」

「無理言うな。三連休だって十分キツいんだぞ」

「じゃあ四連休」

「──あ、あのな」

「譲るつもりはないでち。さぁ選ぶでち。艦隊から私刑(リンチ)を受けて惨殺されるか、日々通商破壊に勤しむゴーヤに細やかなる四連休と新型酸素魚雷を優先的に配備するか。──さぁ、選ぶでち!」

 何か増えてるし。

 確かに、この場合の被害者はゴーヤだ。恐喝については事態が沈静化してからまた取り上げるとして、取り敢えず現時点で主張の正当性はゴーヤにある。

 背に腹はかえられない。

「──解った。それで手を打とう」

 湯から顔は半分くらいしか露出していないが、ゴーヤがニヤリとほくそ笑んだのが判った。

「いい取引が出来たでち」

「──絶対に言うなよ。解ってるよな」

「心配はないでち」

 何だかゴーヤが小悪党みたいに見えてくる。映画だとこういうキャラってすぐ死ぬんだよな、などと思いつつそのまま数秒が過ぎる。

 変な間に耐えられず僕は言った。

「──風呂から出ないのか」

「二人と違ってタオルなんか巻いてないんでち!」

「あぁ、ごめんごめん! 僕はもう上がるよ!」

 僕は急いで立ち上がる。

 あぁ、今日は何て一日だったのだろう。

 精神的に疲れた。本当に疲れた。

 これから蒼龍とどう接しよう。那智はまだ怒ってるよなぁ。五月雨は今後僕と話をしてくれるだろうか。ゴーヤの四連休は大淀に何て説明しよう──。

 幾つもの懸念材料が何の解決策も与えられぬままに頭を通り過ぎて行く中で、湯船から躰を離脱させたその時、

「──提督」

 と蒼龍が小さく呟いたのが聞こえた。

 僕は聞こえない振りをして、蹌踉めきながら出口へと歩を進める。

 

 僕は、確かに逆上せていた。

 それが湯の所為(せい)ではないことも、また確かだった。

 

 

            ※

 

 

 執務室、一二五五(ヒトフタゴーゴー)。午後一時五分前。

 僕は執務机に頬杖をついて呆けていた。

 今日の艦隊業務は一部を除き午後からだ。昨日の宴会が朝まで続くのはやる前から明らかだったし、実際二次会場を食堂に移して◯九◯◯(マルキューマルマル)までやっていた。

 まぁ、こんな日があってもいい。緩めることが出来ないのなら締めることも出来ないし、気を張り続けたところで深海棲艦の動静に影響はない。来る時は来るし来ない時は来ないのだ。

 僕がそんな危機管理のキの字もないようなことを考えながら欠伸(あくび)をしていると、執務室のドアがノックされた。

「提督、おはようございます」

 秘書艦の大淀だ。

「おはよう」

 大淀は僕の表情を一瞥し、自らの席には着かずこちらへ歩み寄って来た。

 多分、徹夜していることはバレている。

「──何時まで居たんですか?」

「九時まで」

「本当にもう。お酒は──飲んでいないようですけど、何だか、すごく疲れてません?」

「判るかな──。実は寝てないんだ。眠れなくてさ」

「仮眠をとられた方が──」

「いや、大丈夫。そんなんで迷惑かけてられないよ。一日くらい、なんてことないさ。──ふぁあ」

 また一つ大きな欠伸をすると、大淀は眼鏡を軽く持ち上げて溜息を吐く。

「──ドックになんか入るからですよ」

 

 ──は?

 欠伸が途中で強制的に中断される。

 大淀は今、何と言った。

 

「ど、ドックって──」

「入渠ドックには修復材が入ってるんですよ。私達はともかく、提督にはどんな作用があるかなんて判らないんですからね。危険──ってことはないでしょうが」

 何故、知っている。

「お、大淀?」

「はい?」

「な、何で──。その、ドックって──」

「何でも知ってますから」

 大淀は微笑んで言う。

 そんな怖いことをそんな素敵な笑顔で言うな。

「な、何でも?」

「何でもです」

「何処まで知ってる?」

「何処までもです」

「──全部?」

「全部です」

 僕は眉間を押さえて目を瞑る。

 いかんいかん。寝不足で頭が回らん。落ち着け、これはハッタリだ。いくら大淀が優秀だからと言ってそんな訳がない。それこそMI6やCIAじゃないんだから。落ち着け、騙されるな。

 僕は大きく息を吐く。

「──嘘でしょ?」

「嘘なんか吐いても良いことありませんよ」

 訝しむ僕の目線に半ば呆れるように、大淀は中空に視線を漂わせた。

「──私達どうして生まれたのかな、提督に出逢う為に生まれたんだよ、みんなの為なら死ねるよ、私達相思相愛だね、愛し合おう二人で──」

 大淀は無感情に早口で言う。

 そ、それは──。

 

 ドックでの蒼龍との会話じゃないか!

 

「や、やめてッ! 大淀、解ったから!」

「本当に解ってくれてます? トイレで盗撮魔に認定されかけた提督さん?」

 こ、こいつ──。

「解った──。すっごく解った」

「何が解ったんですか?」

「大淀が素晴らしく聡明で美人で諜報機関みたいだってこと!」

「──それ結果的に褒めてないですよ」

「僕なりに褒めてるの。だいたい何でそんなことまで知ってるのさ!」

「歓迎会の席で那智さんから報告を受けましたし、入渠ドックでのお話はゴーヤさんから今朝普通に聞きましたけど」

「あいつ本ッ当に口軽いな! 隠す気ゼロじゃん!」

 錘に括り付けて沈めてやろうか。

 まぁ潜水艦なんだけど。

「困った方ですね。女子トイレに侵入したかと思えば、次は女風呂ですか──」

「──だからそれには事情が」

「私だって、全部知ったうえで我慢してるんですからね」

「な、何を?」

「ほら、解ってくれてないじゃないですか!」

「何だよ急に」

 何故か大淀の機嫌が悪化する。

 気が付かないままに小さな地雷を踏み抜いてしまったらしい。

「羨ましいなぁ、蒼龍さん」

「お、大淀何を──」

「私だって秘書艦として頑張ってるんですよ。提督とのお付き合いだって、雪風と同じで一番長いのに──」

 大淀は判り易く拗ねる。

「──青葉さんに、言っちゃおうかな」

「絶対ダメでしょ」

「じゃあ──」

 大淀が俯いたまま机を回り込んで僕の傍に来る。

 右手を小さく数度動かして、僕に立てと催促した。

 大淀の意図が理解出来ないまま指示に従って起立する。

 

 突然、大淀との距離が縮まったと思うと──

 僕の頰に、彼女の唇が柔らかく触れた。

 

 

 一瞬のようで、永遠にも感じられた特異な時間感覚の中、僕の頭は初期化されたみたいに真っ白になる。

 ゆっくりと離れた大淀の顔は、少し紅かった。

「今はこれで、許してあげます」

 そう言って、大淀は小走りで秘書艦の席に着く。

 

 僕は呆然と立ち尽くしていた。

 何がどうなったかは辛うじて理解出来るものの、何故、どういう経緯でそうなったかが理解出来ない。

 ふと大淀と目が合って、すぐにお互い視線を逸らす。

 頰に残る唇の感触が、僕の意識を束縛していた。

 僕は、未だに逆上せているようだ。

 

 女所帯の鎮守府に男一人が混じって共同生活を送るのは──

 本当に大変な困難を伴うのである。

 

 

 執務なんて、手に付く訳がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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