平和──だと思う。
いや、平和だと──思ってしまった。
柔らかな陽光を受けて、風に
こうした状況認識の甘さを自覚する度、僕は自分が嫌になる。
船団護衛や哨戒任務から帰還した艦娘達は、一様に元気よく「ただいま」と言って屈託のない笑顔を見せてくれる。作戦中、死の恐怖や凄惨な現実と向き合っていたことを感じさせることもなく、だ。
僕はそんな彼女達に甘えている。だから艦隊の指揮官に有るまじき愚かで能天気な感想を抱く。
何が平和だと、心のうちで自らに毒づいた。
弛んだ思考を振り切るように
あの一件以来──大淀に頬に口付けをされて以来、僕は大淀と
──これ、反応として正しいのは僕の方でしょう。
気にし過ぎと言われればそうなのかもしれないが、頬にキスという行為は僕のような日陰者にとって日常の一コマでは有り得ない。大淀の様子を見ていると、あの口付けは僕の妄想だったのではないかと本気で疑ってしまう程だ。あれ何だったの、と直接尋ねる訳にはいかないだろう。僕にだって一応デリカシーはあるし、何よりそんなことを聞いた時点で僕の負けのような気がする。
まあ、そもそも──そんな勝負は存在していないのだけど。
ふと、大淀が僕の視線に気付いて顔を上げた。
「──どうされたんですか」
「あ、いやぁ。何でも」
何処かばつが悪いように不自然な対応をしていると、やがて彼女は穏やかに微笑んだ。
「集中力が切れてますよ。お茶でも淹れます?」
「あぁ、頼むよ。有難う」
今お持ちしますねと言って、大淀は席を立った。
「あ、あのさ──」
「はい?」
自分でも何を言いかけたのか解らない。途端に頭が真っ白になって、空間には
「あ、いや、違うんだ。その──気にしないで」
「気になりますよ。本当にどうされたんですか」
「ごめんごめん。大丈夫だから」
「そう言って本当に大丈夫なこと
大淀がこちらへ歩み寄って来る。
あぁ、お願い来ないで。
いや、本当は来て欲しいのだけど。
──どっちだ。
訂正。
今は──来ないで。
執務机を挟んで彼女は立ち止まった。
「最近ぼうっとされていることが多いです。提督、何か気に病まれていることでもあるのですか?」
上体を
一瞬の間に、感情の
「大淀、あ、あの時さ──」
そう言いかけたその時──コンコン、と執務室のドアがノックされた。
間が良いのか悪いのか──。
絶妙なタイミングでの妨害をどう評価したら良いのか迷っているうちに、大淀は後方を振り返りドアの方へ向く。僕も今は執務中だということを思い出して、気持ちを入れ替えるように咳払いをしてから、
「どうぞ」
といつもより大きめの声で応えた。
ドアが開く。
「失礼します
「吹雪──どしたの。確か、今日は非番でしょ?」
そこに居たのは特型駆逐艦一番艦の吹雪だった。今日十一駆は非番の
吹雪は早足でこちらに来て、小声で言う。
「司令官、緊急事態です」
穏やかではない。
「何があったの」
「先程
「間宮さんが──い、今の状態は?」
「今は医務室で休んでもらっています。幸い大事に至るようなことはないみたいですが、それでも三日程度は安静にしないといけないって、明石さんが」
「──そっか」
前のめりになっていた上半身を倒して椅子の
俯いて眉間を掻く。
「提督?」
「全然気が付かなかった。さっき昼に食堂で間宮さんと会話してるのに」
ほんの数時間前の話だ。
──いや、平素と変わらぬ訳がなかったのだ。
こんな腑抜けた人間が提督だから、間宮さんの疲労も見逃すし平和だなんて
「提督、私もお昼に顔を合わせていますが判らなかったですよ。間宮さんは、お強い方ですから」
そう言って大淀は僕を慰めるように苦笑した。
「そう、だね。僕が落ち込んでても仕方がないよね。吹雪、報告有難う。折を見てお見舞いに行くからさ、明石にそう伝えておいて」
「はい、それでですね司令官──夕食のことなんですが」
「夕食? あぁ、そうか。伊良湖ちゃんが休暇で居なくて、
折悪しく鎮守府の台所を任せられる人が
「ううん、でもそれは仕方ないよ。間宮さんが元気になるか伊良湖ちゃんが戻るまで、皆で手分けして作ろう?」
「それは良いと思うんですけど──」
「何さ」
「さっき間宮さんが倒れたことを知って、
「比叡が」
「鎮守府の晩御飯は私が作ると──
「磯風を連れて──」
吹雪の言葉を
「ううんと──結構大ごとじゃない?」
「大ごとですね」
そうだよね。
「だって料理に一番向いてない二人だもんね」
「一番向いてないですね」
「何でその組み合わせになったんだろ」
「今日の食堂当番です」
当番。
あぁ、そうか──僕の
これは何かしらの手を打つ必要があると、アイコンタクトで僕等は多分合意した。三人で何度か
「大淀、演習と訓練は全部中止。すぐに全員帰投させて。遠征に出てる艦隊と休暇で居ない伊良湖ちゃんの分を引いて──何人?」
「九十三名、提督を入れて九十四名です」
「有難う。それじゃあ九十四人分の晩御飯を今から大急ぎで掻き集めるよ。弁当屋でもコンビニでも何でも良い。最優先でお願い」
「了解致しました」
「吹雪、比叡と磯風は食堂かな?」
「は、はい!」
「僕は何とか思い止まってもらえるように説得して来るから、大淀はここで買い出し艦隊の指揮を執って。買い出し艦隊の旗艦は──」
不意に吹雪と目が合った。
「吹雪、頼んでいい?」
「はい、
「良い返事だ。大淀、後はお願いね」
そう言い残して僕は執務室を後にした。
夕方に片足を踏み入れた半端な時間の廊下は、半端な明るさで覆われている。
無人の廊下に僕の足音だけがこだましていた。
落ち込んでいる暇はない。仕事が出来た。それが一見くだらないように思えることだったとしても、今の僕には良いことなのだと思う。没頭出来る。没頭出来るから、自分の無能さから逃避することが出来る。安心出来る──。
全く。何て
どれだけ平和だ──と声に出して吐き捨てた。
※
夕方の食堂。
僕は、カウンター越しに厨房の中を覗いている。
吹雪の報告通り、中には比叡と磯風の姿が見える。割烹着と三角巾に身を包み、こちらに背を向けているから判り難い部分もあるが、多分その二人で間違いない。
普段であれば、ここは小気味良い包丁の音と食欲を
後姿だけを見ていてもぎこちない。危なっかしいなぁと思って見ていると、磯風の手が横に置いてあったボウルに触れて、結局それは落下した。ガッシャーンぐわんぐわんぐわんぐわん、という金属の振動音が厨房に鳴り響く。
二人の作業が中断したのを見て、僕は
「比叡に磯風──何やってんの。大丈夫?」
「あっ、司令いいところに! こっちは大丈夫ですよ、中に何も入ってなかったですし。それより、間宮さんのこと聞きました?」
「うん、聞いた。負担かけ過ぎちゃったかな」
「何、司令が自らを責める必要はないさ。それに晩飯は私達が作るからな、安心しろ」
妙に息巻いて磯風は言う。
普段とは違い髪の毛を後ろで纏めているのが抜群に可愛らしい。そんな少女に向かって私達が作るから安心出来ないんです、とは中々言い難い。
「えぇと──それなんだけどさ、もう作り始めちゃってるところで申し訳ないんだけど、晩御飯は買い出しに行ってもらってるんだ。だから、無理はしなくていいよ」
「あぁ、そうなんですか。あ、でも全員分作る気は最初からなかったですから──というか作れる訳がありませんから、別に問題はないですよ?」
「司令だけでも食べてくれるのだろう?」
多分、僕は少し悲しい顔をして苦笑した。
「いや、いいって。買い出しのお弁当とか余っちゃっても
「これが結構いい気分転換になるんですよ。司令の
「ふん、この磯風に任せておけ」
何だか話の雲行きが怪しい。
もしかして僕が二人の料理を食べるのは確定事項なのか。
「な、何人分作るつもりなの」
「あー別にそこまでは考えてなかったですけど──磯風、どうする?」
「そうだな──司令、今夜帰投予定の艦隊はいるのか?」
「いや。次帰って来るのは明日の朝、
「明日の朝食はどうするんですか?」
「まぁ、食堂当番に御飯だけでも炊いてもらって、後は各自でおにぎりでも、さ。明日の当番は
食堂当番とは給糧艦の間宮さん、伊良湖ちゃんの補助が目的の当番だ。大体二人一組で持ち回り制である。北上は多分料理──というか家事全般興味はないと思うが、代わりに大井の料理の腕は折り紙付きだ。
「そうですか。じゃあ夜食も食べたかったら各自で用意してもらうとして──」
「司令の分だけでいいな」
「そうだね」
「ちょっと待ってッ」
突然の大声に比叡の身体がびくりとした。
「──
「ちょ、ちょっと待ってよ。えっ、僕は二人が作ったものを食べるって、決まってるんだ」
「当たり前じゃないですか」
「嫌なのか?」
「い、嫌──」
磯風の眼光が鋭くなる。
「──じゃないけどさ」
はいダウト。
「では何の文句がある」
「えぇと、ほら──淋しいよ。一人で食べるのは淋しいから四五人くらい呼んでさ、皆でわいわいがやがやと食べたいかな。勿論比叡と磯風も食べるよね?」
逃げることが出来ないなら少しでも多く道連れにしてやる。
「私達は遠慮します」
「出来れば味見もしたくないな」
「それは
僕は何を食べさせられるんだ。
「違うんです司令。味見しちゃったら完成した時の予想が出来ちゃうじゃないですか。そんなの面白くないです。私達はわくわくしながら料理をしたいですし、わくわくしながら作った料理を司令に食べてもらいたいんです。それに何より、私達の料理は司令に、最初に──食べてもらいたいんです」
少しの間を空けて、乙女心の解らん奴だと磯風が呟いた。
何だか美しいことを言っているようだが、要約すると私達の
僕は無意識のうちに唸り声をあげて頭を掻いていた。多分受け入れ難い現実を受け止める為の防衛反応の一種なのだと思う。
「どうしたんですか」
「──もう逃げられないんだね」
「逃げられないってどういうことだ」
「よし決めたッ」
両手で頬を叩く。
彼女達は基本的に頑固で言い始めたら止まらない。逃げられないなら大人しくその運命を受け入れて、よりベターな結果を求めるしかないだろう。
「解った、頂くよ。食べればいいんだろう? 食べるよ」
「自問自答怖いですって」
「いいから。それで何を作る予定だったのさ」
要はそこが肝心だ。
当たり外れの大きい
「カレーだが」
悪くない。
「カレーかぁ。カレーこそ一人分とか関係なく皆で食べれそうだけど──」
「私達もそんなに難易度の高い料理は出来ませんからね。カレーで我慢してくださいねっ」
無視された。
「
「そ、そっか。いやまぁ良いとは思うんだけどさ、シーフードカレーでしょ? この焦げ臭い匂い何?」
そう聞いた途端に磯風の目が泳ぎ出す。
こんなに判り易い反応が他にあるだろうか。
多分後ろに何かある。
「ちょっと磯風、そこ退きなさい」
違うんだ、と弁明を始める磯風を横に退かせる。
彼女の背後には七輪が置いてあって、その上には何やら黒いものが乗っかっている。
恐らく──魚だったものだろう。
「磯風、これ──どういうことかな」
「し、七輪は火力の調整が難しいのだッ。た、確かに見た目は悪いかもしれないが、味が悪いと何故断言出来るッ」
「別にそこまでは言ってないけど。これ、何の魚?」
「──
「へぇ──」
鮎。
川魚。
「──シーフードって、言うのかな?」
そう問うと比叡は、表情も変えずに首を傾げた。
──二時間後。
僕と比叡、磯風の三人は、コトコトと鳴る鍋の前で何気もなく立ち尽くしていた。
結局、大分手伝った。最初は僕が手伝うことを相当に嫌がっていたのだが、拒否されても厨房を立ち去らない僕に根負けしたのか、そのうち「司令は
焦げ付いた鮎が懸念材料ではあるけど、味もそんなに悪いことはないだろう。
ネットに載っていたレシピを参考にしたから、素人以下の僕等でもそれなりに上手く出来ている筈だ。独自の道を行きたがる二人は、それすらも嫌がっていたけれど。
どんな味がするのだろうな、と磯風が言った。
「だから、気になるなら一緒に食べよう?
断言は出来ない。
「まあ確かに、これだけ手伝ってもらったら司令に御馳走って感じでもないしなぁ。せっかくだから、私もカレーにしよっかな」
「だってさ。磯風はどうする?」
「──司令がそこまで言うのなら、食ってやっても良いぞ」
「素直じゃないな」
と僕が言うと、磯風は顔を背けた。
それを見ていた比叡がくすりと笑う。
「どしたの」
「いや、その──普通だな、と思って」
「普通?」
小さく頷く比叡の顔は、何処となく恥ずかしげに見えた。
「今日の私達、何か普通でしたよ。三人で慣れない料理して、作ったもの食べようなんて。凄く普通じゃないですか」
「──平和、だね。確かに」
不意に出たその言葉に、心の中で舌打ちをする。
またこれだ。
彼女達の強さと優しさに甘えて、またそんな錯覚に陥ってしまう。
良くないなぁ良くない良くない──。
僕の思考が悪循環に
「──司令、そんな顔しないでください」
「そ、そんな顔って何さ。別に、何でもないし」
「司令は何でもかんでも抱えようとし過ぎです。この鎮守府には大勢居るんですから、全員で分け合って行きましょう?」
私は──。
「司令と居ると、平和だなーって思いますけど。だから、司令にも──同じこと思ってて欲しいかなーって、思います」
「
軽薄なくらいで司令はちょうど良い、と磯風が続けた。
そうかい、と僕は答える。
というより、その言葉以外出て来なかった。
有難うなんて言ったら、泣いてしまったかもしれない。
「──そろそろ、良いんじゃないですか」
と比叡が言う。
僕はそうかいと再び答えて、火を止める。
それと同時に、食堂が騒がしくなる気配がした。
食堂の方を振り返ると。
「買い出し艦隊、帰投しましたッ」
大きなビニール袋を下げた吹雪が、満面の笑みでそこに立っていた。
※
医務室のドアを軽くノックする。
どうぞ、と小さく声が聴こえたので、僕はゆっくりとドアを開けた。
「間宮さん、今いいかな」
「提督──大丈夫ですよ。どうぞ、入ってください」
間宮さんはベッドで上体を起こし、本を読んでいたようだ。
その本を閉じて優しく微笑む。
僕はベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「体調は、どう?」
「えぇ、お蔭様で大分良くなりました。それより、申し訳ありません。ご迷惑をお掛けしてしまいました」
「違う。それは違うよ。僕が悪いんだ。間宮さんの不調に気付けなかった僕が悪い。ごめん」
僕は頭を下げた。
「そんな、やめてください。提督の所為なんかではないですから」
間宮さんはそう言ってくれているが、今回の件に関して僕に責任があるのは間違いないだろう。彼女達は常日頃から任務に不満や文句を垂らしつつも、それでいて絶対に無理だとは言わない。何故なら。彼女達が無理だと言うことは、人類の終わりを意味するからだ。
だからこそ、彼女達の体調や僅かな変化に敏感でなければならない。無理をし過ぎる彼女達を止めるのは、明らかに僕の仕事だった。
──唯一の仕事、と言っても良いかもしれない。
僕はそれを見逃した。
どう言葉を返せば良いのか判らず黙っていると、間宮さんが少し笑ったような気がした。
「──そう言えば、夕食はお弁当でしたね」
「うん、吹雪達に買って来てもらった」
「提督は、何を頂いたんですか?」
「僕は、比叡と磯風と一緒に作ったシーフードカレー」
「あら、大丈夫──だったんですか?」
間宮さんもそういう評価なのかと僕は笑ってしまう。
「まぁそれなりにね。僕も手伝ったからさ。疲れたけど」
料理って大変だねと僕は当たり前のことを言う。
「
「──うん。美味しかったよ」
間宮さんの味には遠く及ばないが、比叡と磯風と僕で一緒に作ったカレーだ。達成感も疲労感も想いも、全て調味料として混ざっている。不思議な美味しさだった。
「そう──ですか。何だか
「冗談言わないでよぉ。間宮さん居ないと本当に大変なんだから──」
僕は上半身を倒して、頭をベッドに沈ませた。
真新しいシーツの匂いと一緒に、間宮さんの香りが僕の鼻腔を
僕の頭を、柔らかい手が撫でた。
「──間宮さん」
「何ですか?」
ゆっくり休んで──と言いに来たのに。
僕は。
「早く帰って来て」
と言ってしまう。
間宮さんはころころと笑いながら。
「了解致しました」
と、