Compass   作:広田シヘイ

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第八話『君と僕の承認欲求』

 

 

 

 

 

 深夜の医務室を、静寂が包んでいた。

 開け放たれた窓から、カーテンを優しく撫でるように風が侵入してくる。

 その風にも、音はない。

 唯一音を立てているのは、(せわ)しなく明滅を繰り返している蛍光灯くらいだ。部品が古くなっているのか、何かが細かく振動しているような──虫の羽音のような──そんな音を発している。しかし、それも煩瑣(うるさ)い訳ではない。ただただ、この空間の静寂に加担しているだけだ。

 もう電気など消してしまえばいいのかもしれない。この部屋にいる僕以外の二人は、寝ているのだし。

 でも、そういった気分にはどうしてもなれないのである。

 暗くなってしまうと──泣いてしまいそうな気がして。

 

 僕の眼前に横たわっているのは、翔鶴(しょうかく)

 その奥で、椅子に座りベッドにもたれ掛かって寝ている、瑞鶴(ずいかく)

 

 時折薄らと聴こえる二人の呼吸音が、僕の精神を何とか支えていた。

 こんな夜こそ、川内(せんだい)には騒いでいて欲しい。

 川内も空気を読んでいるのかもしれない。

 ──柄にもないこと、するなよ。

 

 

 二日前──翔鶴が大破した。

 

 

 哨戒任務中の出来事だった。

 翔鶴、古鷹(ふるたか)衣笠(きぬがさ)(おぼろ)秋雲(あきぐも)で編成された艦隊が、釧路沖約四◯◯キロメートルの海域で敵機動部隊と遭遇。(ただ)ちに航空戦へと突入した。報告書を読む限り、彼女達の対応に全く問題はない。実際、先手を打ったこちらの第一次攻撃隊の活躍で、敵艦隊の大部分を戦闘不能に陥らせることに成功している。

 しかしその時──敵空母の一隻を仕留め損なった。

 そしてこれは後になって判明することなのだが、その空母は──新型だった。

 対空射撃と直掩隊の防空網を掻い潜って、数機の敵雷撃機が翔鶴に接近。やがて敵の放った魚雷のうち三本が、翔鶴の左舷に命中した。

 

 ──救助に当たった国防軍の飛行艇により帰還した翔鶴を見て、僕は愕然とした。

 

 腕が捻れて逆に曲がっていた。

 破けた装甲の下の肉が削がれていた。

 彼女の美しい銀髪が、一部焼け焦げていた。

 

 僕達は今、戦争をしているのだと。

 僕も翔鶴も紛れもなくその渦中にあるのだと。

 逃れ難い現実を──まざまざと見せつけられた。

 

 その後入渠ドックで修復をしたものの、それから翔鶴の意識は戻っていない。

 明石はもう大丈夫だと言っているが、僕の心は恐怖に縛られたままだ。

 翔鶴を喪ってしまうのではないか。

 僕はこれからも、彼女達を戦地に送り出さなければならないのか──と。

 

 気が付くと、僕は泣いていた。

 情けなくて堪らない。自分のやっていることがどういうことなのかも、僕は全く理解していなかったのだ。提督、司令官、などと呼ばれているうちに、自分の中身までもがそれに相応(ふさわ)しいと錯覚し始めていたように思う。先日、艦娘と共闘し、艦娘にしか見えないと思われていた「妖精」が僕の目に映るようになった一件も、その勘違いに拍車を掛けていたのだろう。

 みんな、優しいから。

 本当に気が違ってしまいそうになる程、優しいから。

 僕みたいな、塵芥(ごみ)みたいな奴でも──。

 

 怒りが涙の流量を増加させる。

 せめて声を上げてしまわないようにと、俯いて歯を食いしばっていた──その時。

 

 

「──提督、泣いているのですか?」

 

 

 細く(かす)れた翔鶴の声がした。

「し、翔鶴──」

 翔鶴の左手が、ゆっくりと僕の頰に伸びて涙を拭う。

 僕は、その手を両手で握りしめた。

「翔鶴──良かった──」

「えぇ、私、生きているのですね」

「生きてるよ。本当に、本当に──良かった」

 そう何度も繰り返して、翔鶴の手を包み込んで額に当てていた。僕に信じる神はいないが、無意識にそうした存在への祈りを捧げていたのかもしれない。

「あぁ、ごめん。こんなことしてる場合じゃないよね。待ってて。今明石を呼んでくるから」

 立ち上がろうとすると、今度は翔鶴が僕の手を掴む。

「翔鶴?」

「あの、もう少し──こうしていてください」

「で、でも」

「私は、大丈夫ですから」

 僕は幾らか逡巡した後、翔鶴に従って椅子に座り直す。正直に言って僕もまだ彼女の手を握っていたかったし、彼女の存在を感じていたかった。

 静寂の中、視線が重なって照れるようにお互い目を逸らす。

「水でも、飲むかい?」

 翔鶴はゆっくりと(うなず)いて、すみませんと言った。

「何で謝るのさ」

 サイドテーブルに置いてあった水差しからコップに水を注ぐ。

「私、どれくらい寝ていました?」

「丸二日だよ」

「二日、も」

「うん、みんなが助けてくれたんだよ。それにしても、本当に安心した。はいこれ、お水」

 有難う御座います、と言って翔鶴は上半身を起こし、コップの水を一口飲んだ。

「あ、皆さんは──」

「みんなは無事。衣笠と秋雲が小破してたくらい。まぁ、秋雲は小破っていうか掠っただけだったけど。深海棲艦も残らず撃退出来たしさ。全部、翔鶴のおかげだよ」

「そう、ですか。良かった──」

 彼女の表情が一瞬和らいで、その後すぐに影が差す。

 翔鶴は、コップをサイドテーブルに戻した。

「でも、また足を引っ張ってしまいました」

「どうして」

「大破──してしまって」

「何をそんな──」

 提督、と言って翔鶴は僕の言葉を(さえぎ)る。

 

「私って──鎮守府に必要なんでしょうか」

 

 僕の手に添えられた彼女の手が、微細に握る力を強めた。

「何を──何を言うんだよ」

「私って怪我しやすいのかしら──瑞鶴と違って、作戦を終えると入渠してばかりで」

 翔鶴は右側で寝ている瑞鶴を一瞥(いちべつ)する。

「それに、周りの方々を見ていると自信を失くしてしまいそうになるんです。提督、赤城(あかぎ)さんなんて凄いんですよ。どうしてあんな戦い方が出来るのか解らない。烈風なんて見たこともない(はず)なのに、最初から自分の艦載機だったみたいに飛ばすんです。そんなのを見てしまうと、私って──何なんだろうって」

 翔鶴の目には涙が浮かんでいた。彼女が追い詰められていると長波(ながなみ)から報告を受けていたのに、僕は一体何をやっていたんだろう。

「翔鶴、まずは整理しようか」

 

 とりあえず、僕が落ち込むのは後でいい。

 

「ウチの鎮守府にいらない奴なんて一人もいない。というか、これは世界の何処でも同じ話。いらない人なんていない。人が生きるうえでいるいらないという価値観は適用出来ないしするべきではない。いいかな」

 自分自身に言い聞かせているようで僕は苦笑してしまう。

「組織って観点から見ると、いらない人のように思える人はいるのかもしれない。でもね、僕に言わせるとその人だって『いらない人』っていう役割を与えられてるんだよ。その人を排除したところで別のいらない人探しが始まるだけ。人間ってそういうくだらない生き物なんだよ。自分がいる人だって証明するには、別のいらない人がどうしても必要なんだ。バカみたいでしょ? 鎮守府で言えば、僕がいらない人かな」

「そ、そんなこと──」

「今のは冗談のつもり。だからそんな寂しいことは言わないで。いいかい、この鎮守府にいらない人なんていないんだからね。まずはそれが大前提だよ」

 翔鶴は小さく頷いた。

「そもそも翔鶴は十分必要な──というか十分どころじゃないよね。絶対欠かせないウチの戦力だからさ、赤城や加賀(かが)飛龍(ひりゅう)蒼龍(そうりゅう)、それと瑞鶴にそれぞれ良いところがあるのと同じように、翔鶴にも誰にも負けない良いところがあるよ。あのね、これは五二型の妖精が言ってたんだけど──」

「妖精さんが?」

「うん、翔鶴が一番飛びやすいんだって。優しく飛ばせてくれるって。だから気分良く上がれるし、安心して帰って来れるって。今回もさ、翔鶴の攻撃隊があんなに活躍出来たのは、そういう理由もあるんじゃないかな。──いや、絶対そうだよ。だから、翔鶴じゃないと駄目なんだって」

「私、じゃないと」

「そう。それより何よりさ──」

 

 目頭が熱くなる。翔鶴を諭しているつもりだったのに、溢れ出る感情の波を止めることが出来なくなっていた。

 

「翔鶴がいなくなったら──僕は、どうしたらいいんだよ」

 翔鶴は息を呑む。

「さっきだって翔鶴がもう目を覚まさないかもしれないと思って、一人で泣いてた。自分はいらないかもしれないなんて、そんなバカなこと言うなよ。自信が失くなったら出撃だってしなくていいよ。ずっと──ずっと僕の(そば)にいてくれよ」

「て、提督──」

 僕は彼女の肩を掴んだ。

「不安になったら僕を思い出せ。誰にも必要とされてないって思ったり、情けないと思ったり、(みじ)めだと思ったりしたら、僕だけを思い出せ。僕だけを見ろ。僕には──どんな翔鶴だって必要なんだよ」

 翔鶴の瞳は揺れている。

 やがて彼女は崩れ落ちるようにもたれ掛かってきて、翔鶴と僕の体温が、柔らかく馴染(なじ)んでいくのを感じた。

「──嬉しい。私、ずっと提督の傍にいます。提督だけを思って生きます。提督──あなたも、心細くなった時は私を思い出してください。私だけを思ってください。私には──」

 

 ──あなたしかいらない、と翔鶴は言った。

 

 顔を紅潮させた彼女の瞳が、至近距離で僕を捉えて離さない。

「提督──キスをしてください」

 静寂に溶け込むように翔鶴は(ささや)く。

「あなたとの──愛の証が欲しいです」

 目を瞑り、翔鶴との距離を縮める。

 不思議と恥じらいはなかった。

 この世界には、僕と翔鶴だけしか存在していないような──そんな気がしていたから。

 

 

「はい、そこまでッ」

 

 

 二人の世界への突然の闖入(ちんにゅう)(しゃ)に、僕と翔鶴は電気を流されたようにびくりとして硬直する。目を覚ました瑞鶴が、翔鶴の背後から猛烈に不貞(ふて)(くさ)れた顔をして(にら)んでいた。

 ──何だか前もあったな、こんな展開。

「なっ、お前──」

「もう何なの。私だってこの場にいるのよ! 寝起きでこんな濡れ場見せつけられると思わなかった!」

「ず、瑞鶴違うのよ──」

「何が違うの翔鶴姉ッ。心配してた私がバカみたいじゃない! ってか提督さんって何なの。いつもちょっと目を離した隙にイチャコラし始めるけど何なの! 万年発情期なの!」

「バカッ。誤解を招くような言い方は──」

 していないかもしれない。

「もうホントに聞いてて恥ずかしかったんだけど! 僕だけをとか私だけをとか──糖質制限しなさいよカロリーオフの時代じゃないの!」

 少しズレたキレ方をしている瑞鶴の頭を、翔鶴が優しく包み込むように撫でた。

「瑞鶴、寂しかったのね」

「違っ、そんなんじゃないって」

「ほぅ、寂しかったのか」

「──爆撃するわよ」

「ごめん調子に乗った」

 翔鶴はくすっと笑う。

「瑞鶴、ごめんなさいね。ずっと私の傍にいてくれたのでしょう? 心配を掛けたわ。いつも、私を見守ってくれて有難う、ね」

 瑞鶴は照れるようにして、枕代わりにしていた腕に顔を埋めた。

「それに、提督と私が瑞鶴を除け者にする訳がないわ。ずっと一緒よ、私達は。ずっと」

 瑞鶴は、うん──と力なく言って答えた。しばらく翔鶴に頭を撫でられていると、やがて恥ずかしそうにチラチラと僕を見る。

「ん、どうした」

「あ、いや。その──ね」

 静謐な時間と空間が、自然と瑞鶴に続きを促す。

 

「私──夢を見てた」

 

「夢?」

「うん、海沿いの小さな家で、翔鶴姉と提督さんと、三人で暮らしてる夢」

 僕と翔鶴は顔を見合わせる。

「提督さんはお魚を釣ってきてね、沢山(たくさん)釣れたって喜んでるの。翔鶴姉は私の服を縫ってくれてて、やんちゃしちゃ駄目なんて言うんだけど、顔は笑ってた。私は──二人の(ため)に貝殻でアクセサリを作っててね、上手く出来ないんだけど、でも二人は絶対喜んでくれるって思いながら作ってた。すごくね、すっごく気持ちが穏やかなの。そんな──夢」

 いつか叶うかな──と瑞鶴は小さな声で言った。

 それは、彼女らしく純粋で優しい夢だった。

「叶うよ。叶えてみせる」

「本当に?」

 顔を紅くした瑞鶴が上目遣いでこちらを見る。

「約束する。この戦いが終わったら海辺に小さな家を買って──三人で暮らそうか」

 僕がそう言うと、やがて二人は笑い出した。

「な、何だよ二人して。いいじゃないかよ」

「ご、ごめんごめん。何か笑っちゃって」

「家族──みたいですね」

「家族みたいなもんだろ」

 そう言うと、二人はまた笑った。

「もう、そんなに笑われたら僕だってヘコむぞ」

「うふふ。じゃあ提督さんは──その約束を絶対に守ること」

「もちろんだよ」

「でも、みんな許してくれるかなぁ?」

「皆さんも、ついてくるでしょうね」

「それじゃ今と変わらないじゃん。あぁ、確かに深海棲艦より手強そう──」

 僕も自然と顔が(ほころ)ぶ。

 平和な海で。三人で。慎ましく。

 

 そうして戦後に思いを()せる夜は、とても穏やかに流れていった。

 

 

            ※

 

 

 翌日、夕方。

 普段は会議室として使用されている一室に召喚された僕は、室内の異様な空気に圧倒されて身を硬くしながら目を泳がせていた。僕の隣には、翔鶴と瑞鶴が同様に緊張した面持ちで椅子に座っている。そして僕達の正面には、大淀、加賀、蒼龍、長波の四名がこちらを(さげす)むような目で見ながら一列に並び座っていた。さらにその後方には、傍聴人のように居並ぶ大勢の艦娘の姿が見える。

 

 ──査問のようだ、と他人事のように思う。

 

 まぁ、十中八九査問なのだけど。

 徐に大淀が木槌を振り下ろすと、室内に威圧的な槌音が響き渡る。

「こちらに集まって頂いたのは、他でもない昨日未明の医務室での出来事についてお伺いしたいことがあるからなのですが──何のことか解りますよね?」

「解りません」

 カンッ──と再び木槌が鳴る。びくりと反応してしまう自分が悔しい。

「提督は黙っていてください。翔鶴さん、答えて頂けますか?」

「え、えぇと、あの──私、その頃はまだ意識がなかったと思いますから」

「意識が戻ってからの話でいいわ」

 加賀が表情を全く変えることなく言う。

「あの、その──目が覚めてからも、記憶が曖昧というか。その──」

 記憶に御座いません、で通すつもりだな翔鶴。偉いぞ頑張れ。

「そう。だったら別にいいわ。瑞鶴、あなたは解っているのでしょう?」

「えっ、私? 私は──あれよ。寝てたから。寝ちゃってたから、二人が何してたとかも──見てないし」

 瑞鶴は誤魔化(ごまか)すの下手だなぁ。

 加賀は小さく溜息を吐く。

「──長波、資料を配布して」

「了解っと。みんなはこれ後ろに回してくれー」

 長波は分厚い紙の束を手に取り傍聴席に分けていく。やがて傍聴席が(ざわ)つき始めた頃、こちらにも来て紙を一枚差し出した。僕が受け取ると「ふんっ」と言って(きびす)を返す。

「何だよあいつ」

 そう呟きながら紙を裏返すと、そこには。

 

 

 ──口付け寸前の僕と翔鶴の写真が、大きく写し出されていた。

 

 

「いいっ」

 僕は息を吸い込みながら変な声を出した。何だ今の声。

「ねぇ提督、この写真を見てもまだシラを切るつもり?」

「蒼龍これをどうやって撮った!」

「二式艦偵の妖精に頼んだのッ」

「妖精ぇッ!」

 カンッ──とまたまた木槌の音が鳴り響いて僕はまたまたびくりとしてしまう。

 やめてくれよそれ。いちいち驚いちゃう自分が情けなくなるから。

「提督、艦隊の風紀を(いたず)らに乱したことについて、何か弁明はありますか?」

「大淀さ、僕が乱したっていうか、こうした写真をみんなに撒いちゃうことで風紀は乱れるんじゃないの?」

「詭弁です。その論理だとバレなければ何をやっても良いということになるじゃないですか。バレなきゃ翔鶴さんとキスしてもいいんですか! バレなきゃ蒼龍さんとお風呂に入ってもいいんですかっ!」

「大淀、今は私の話関係ないじゃん!」

 大淀の誤爆に蒼龍が狼狽(ろうばい)する。冷たい視線が僕と蒼龍に向けられた。横の翔鶴と瑞鶴にも睨まれている気がするが確認する勇気はない。

「ま、まぁでは蒼龍さんのことは後でいいです」

「後でもやんなくていいのッ」

 大淀は仕切り直すように咳払いをした。

「提督、翔鶴さんと鎮守府内で猥褻な行為に及ぼうとしたと──認めますか?」

「猥褻な行為とは──キスも含みますか」

「もちろん含みます」

 

 ほぅ。

 

 僕はこの査問の中心に位置する秘書艦に──委員長みたいで優等生みたいで実際優秀で時々天然で時々物凄く妖艶な雰囲気を纏ったりするこの秘書艦に──復讐する決意を固めていた。

 それこそ、蒼龍と風呂に一緒に入る羽目になった翌日の話だ。

 なるたけ太々(ふてぶて)しく言う。

「僕は大淀さんにチューされたことがあります」

「なっ、何をッ」

 会議室がどよめく。

「頰に、しかも突然にです。今回の件が問題と言うなら、あの一件が不問に付されるのは(いささ)か不自然に思うのですがァ!」

「何を言うんですかッ。そんなこと皆さんの前で言わなくたっていいじゃないですか! あの後私のことずーっとチラチラ見てたくせに! そのくせ全然手を出さなかったくせに! 臆病者ッ! 不能ッ!」

「誰が不能だコラァ!」

 何だか段々と品がなくなってきた。まぁ最初からそんなものないんだけど。

 そのうち、顔を真っ赤にして罵り合う僕と大淀を見ていた加賀が、

「まぁ、頰にキスくらいならいいのではないかしら」

 と言った。

 

 え、いいの。

 

「頰に触れるくらいなら可愛いものだわ。それくらいなら許してあげてもいいのだけれど。(ただ)し、特定の艦娘を贔屓(ひいき)しない──という条件付きで」

「加賀、それは駄目だよ。鎮守府に何人いると思ってるんだ。四六時中チュッチュチュッチュやってたらバカみたいだろ。それこそ風紀が乱れるよ」

 まぁ、そんなことを希望する奇特な者が果たしているのかという疑問はあるのだが。仮にいたとして僕の理性が保つか怪しい。聖人君子じゃないんだから。

 ふと、僕の(もも)に手が触れる。

 横を見ると、翔鶴が目を潤ませながら接近していた。

「頰に──キスくらいなら──」

 あ、ここにいたわ奇特な奴。

「翔鶴今は駄目だぞ査問中だからな罰が厳しくなるからッ!」

「そこっ! 今すぐ離れてください!」

 大淀は慌てたのか木槌で机を直接叩く。ゴン──という鈍い音が空間に反響した。

「頰にキスの件は条件を精査するとして翔鶴さんあなたは駄目です! 第五航空戦隊所属航空母艦翔鶴、本日より一ヶ月間提督の半径十メートル以内に接近することを禁じます!」

「そんなの受け入れられません!」

 翔鶴は立ち上がり僕の頭を胸に抱いた。

「提督は私にずっと傍にいろと言いました! 私が必要だと、どんな私でも必要だと言ってくれました! 査問委員会の決定だろうと提督の御命令には逆らえません!」

 査問委員会──というか勝手にやってんだけどね。この人達。毎回。

 翔鶴の胸に顔半分を埋めてニヤついている僕を軽蔑の視線が襲う。

 大淀は見たこともないくらいに凶悪な顔をしていた。

「今日という今日はもう我慢なりません──提督、私のものにならないのなら──いっそここで死んで頂けますかッ」

「闇深すぎだろお前ッ!」

 査問委員並びに傍聴人達が何処からか砲を取り出しこちらに向ける。翔鶴と瑞鶴が咄嗟(とっさ)に僕の前を遮り、僕達はバカみたいな理由で真剣に対峙した。

 空調の音が明瞭に聞こえる程に室内は静まり返った。

 照準を微調整する砲身の作動音がアクセントだ。

「懲りないのね」

「この程度で沈みはしません。ねぇ、随伴艦の皆さん?」

「煽るなって!」

 茜色に染まる会議室で、翔鶴が艦隊のヘイトを無闇に集めたその時──。

 

 

 バンッ──と会議室のドアが音を立てて開かれた。

 

 

「みんな何処にいるのって思ったらこんなところに! っていうか何やってるんですか!」

 ドアを開けたのは、最近着任したばかりの軽巡洋艦、阿武隈(あぶくま)だった。

「阿武隈、出て行きなさい。五航戦は深海棲艦より深海棲艦だったみたいだわ」

「何言ってるんですか加賀さん味方同士で争ってる場合じゃないですよ! その深海棲艦なんですけど! 深海棲艦が出たんですけどぉ!」

「えっ」

 全員が阿武隈に注目した。

「沖縄の東五◯◯キロメートルを北上中です! 提督、指示を出してください!」

 助かった──訳ではない。全然助かってない。何を言っているんだ僕は。いかんいかん。翔鶴の大破から何も学ばなかったら本当の愚か者じゃないか。

 僕はふっと息を吐き気持ちを入れ替える。五航戦の二人の間から一歩前に出た。

「待機任務中の霧島(きりしま)隊はいるかっ!」

 傍聴席で手が挙がる。

 何で見学してるんだ、と問い質したい気持ちで一杯ではあったが──。

 あぁ、もう。

 今はいいや。

「今すぐ出撃だッ。他も各自持ち場に戻れッ!」

 会議室は一転慌ただしくなって、駆け足の艦娘達が殺到する入り口付近は、バーゲンセール開店風景の様相を(てい)していた。

 そんな混沌(カオス)の中を、大淀は落ち着いた様子で歩み寄ってくる。

「何だか有耶無耶(うやむや)になってしまった感じがしますけど──。提督、三人暮らしなんて絶対に認めないんですからね」

 会話も()れていたらしい。

「それも聞いてたの──解ったよ。その時は全員でな。とりあえず、今は仕事に戻らなきゃ」

 僕も会議室を後にしようとすると、突然翔鶴が僕の左腕に抱き付いてきた。

「提督、まずは執務室に戻りましょうか」

「ちょ、ちょっと翔鶴さん! 秘書艦は絶対に駄目ですそこは譲れません!」

 大淀は加賀みたいなことを言って空いている僕の右腕をとった。

「お、落ち着けって。その話は後で! 終わってから、全部終わってからぁ!」

 極め付きに瑞鶴が首を締めるように背後から抱き付いてくる。

「何か瑞鶴仲間外れな気がするんだけど。不貞腐れるぞぉ!」

 呼吸困難に陥りながら両手に花──という世にも不可思議な状態でそろそろチアノーゼでも発症しようかという頃、一連を見ていた阿武隈が天を仰いで叫んだ。

「この鎮守府おかしいんですけどぉ!」

 阿武隈は悲しいくらいに正しいことを言う。

 

 何も言い返せないのは──首を絞められてるからって訳じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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