あなたがスターリンになったらどうしますか? 作:やがみ0821
「はじめまして、日本の皆さん」
微笑むスターリンから飛び出した流暢な日本語に対して、日本の視察団は仰天した。
そんな情報は聞いていないばかりか、どうやらソ連側も知らなかったようで、この場にいるモロトフをはじめとしたスターリンの側近達も目を丸くしている。
「ようこそモスクワへ。ソヴィエト連邦はあなた方を歓迎します」
続けられた言葉に、視察団の団長の松岡はどうにか答える。
ロシア語ではなく日本語で。
「こちらこそ、盛大なる歓迎に感謝いたします。その、大変失礼ですが……日本語を?」
「ええ。日本はソヴィエトにとって極めて重要な国家です。軍事力もさることながら、その勤勉な国民性といい、文化といい、実に素晴らしいと私は個人的に思っております」
笑顔で直球に伝えられ、松岡は勿論、視察団の面々は何だか気恥ずかしくなってしまう。
他国に、それもあのソ連の指導者からこのように褒められるとは思ってもみなかった。
「さぁ、立ち話もなんですから、どうぞこちらへ。日本のことを、たくさん聞かせてください。私もソヴィエトについてお話しましょう」
スターリンが自ら案内役を買って出て、松岡達は恐縮しながらもそれに従った。
そして、会談が始まったのだが――終始穏やかな雰囲気であり、スターリンと松岡達は互いの国について様々なことを語り合うのだった。
スターリンが日本語で視察団と会談した、ということは会談後すぐに松岡達から駐ソ大使である東郷茂徳へ伝わった。
松岡達がすっかりスターリン及びソ連に対して友好的となったことに、東郷は呆れながらも、日本を重視していることは間違いない、と確信を抱く。
日本語を話せることは東郷も知らなかったが、そもそも彼は就任してから日が浅く、スターリンとはまだ数える程しか面会していない。
もっとも、ソ連側も驚いていたという報告から日本の視察団へ日本語を披露することで、友好をアピールするという狙いがスターリンにあった為、誰にも教えていなかったのかもしれない。
けれどもスターリンが日本と同盟を結び、後顧の憂いを断ちたがっているという噂があることは東郷も着任して程なく小耳に挟んでいる。
ソ連としては増長するドイツ及びイタリアへ全力をもって対応したい思惑があるだろうが、日本にとっては色々な意味で劇薬だ。
経済的にも軍事的にも、そして何よりも社会的にも。
日露戦争の記憶はまだそこまで風化していない。
とはいえ、ソ連との貿易は順調に拡大をしており、ロシア帝国とソ連は違うのだからという論調も多く目立つ。
この貿易で恩恵を受ける者は多く、陸海軍ですらも資源の供給という面でソ連に対しては頭が上がらない。
様々な資源を安く大量に売ってくれるソ連は、それだけ有り難い存在だ。
ドイツ・イタリアに
東郷はそう確信しつつ、今のドイツに対して溜息しか出てこない。
駐ソ大使に就任する前、彼は駐独大使を務めていたのだが、元々ドイツ文学に傾倒していた彼からするとヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党――NSDAPには嫌悪感しかない。
ドイツ民族の再興とか何とか言っているが、その実態は単なる無法者の集団だと東郷は常々思っており、駐ソ大使へ就任が決まったときは安堵したものだ。
「ドイツは我が国と結びたいのだろうが、沈むことが分かっている船に乗る奴はいない」
東郷の後釜で駐独大使となったのは、駐独陸軍武官であった大島浩だ。
そもそも外務省はNSDAPとは距離を置く方針であり、東郷もまたその方針に賛同している。
だがNSDAPと独自の人脈を築いていた大島は、ドイツと組むことが日本の利益に繋がると思っている節があった。
陸軍中央には元々親独派が多い為、そちらと組んでドイツと同盟でも結ぼうとする腹だが――もはや陸軍中央でもドイツと結ぼうという者はいない。
ソ連からもたらされる資源は日本にとって、無くてはならないものだ。
アメリカどころか蘭印から調達するよりも安い満州産の石油だけでなく、日本が必要とするほぼ全ての資源をソ連との貿易で得られている。
日本では自動車も少しずつ増えていると東郷は聞いており、彼は専門外ながらも自動車産業が国家の発展に不可欠ではないか、とソ連を見ていると思えてきてしまう。
ソ連における自動車生産台数は右肩上がりであり、それに伴って各種インフラの整備も活発だ。
例えば道路ならば幹線道路だけでなく自動車専用高速道路網の整備も始まっている。
モスクワやレニングラードなどの大都市には環状道路を整備し、そこから各都市へ専用の道路を構築することで物流の向上を果たすことができるという。
これに加えて、鉄道網や空港も整備されつつある。
ソ連と結ぶことができれば朝鮮半島から鉄道や道路一本で、モスクワまで行ける未来が来るかもしれない。
それは日本にとって大きな利益がある。
そして、日本にとってはもっとも恐れるべき思想も、東郷が予想していたよりもその論調は穏やかなものだ。
聞くところによると10年以上前のスターリンの方針転換によって、かなり穏やかなものとなったという。
東郷からすると、その主張は真っ当なものとしか思えない。
人民――労働者や農民――を奴隷のように過酷に働かせることなく、正当な賃金を支払い、健康を損なわぬように細心の注意を払いつつ、またその労働意欲を高める為に十分な休暇を与えるべきである、という主張をスターリンは何度も繰り返している。
勿論、主張するだけでなく彼は政策によってそれを示している。
例えばソ連における労働法の取締は非常に厳しく、大きく違反した悪質な者は即座にシベリアに送られるという噂があった。
「文化芸術の制限なども無く、今のドイツよりは遥かに良いだろう」
退廃芸術などと言って公然と弾圧するナチスから逃れてきた芸術家達もソ連には多い。
これにはスターリンが積極的に彼らを保護したという背景もあり、ヒトラーへのあてつけか、彼らの作品だけを集めたモスクワ芸術展を開く程だ。
労働意欲を高める一貫として、スターリンは国民に創作活動を広く呼びかけている。
絵画や彫刻、木工細工や小説に漫画などのなんでもいいから、興味があるものを作ってみようというものだ。
「ソ連とはうまくやらねばならん……日本の生命線だ」
東郷はそう呟きつつ、政府もどうするかさっさと腹を決めて欲しいと思う。
それは海軍大臣の米内光政と次官の山本五十六により、投げかけられたものだ。
ソ連は太平洋への出入り口として、アメリカは大陸進出への足掛かりとして日本を欲する――
将来的にどちらかに与しなければ、双方が日本を取られないように戦争を仕掛けてくるのではないか――?
ありえそうな未来であるが、アメリカよりはソ連を推したい東郷である。
白人至上主義とでもいうべき思想が蔓延っているアメリカよりは、ソ連のほうがマシだった。
「我々はどう動くべきか……?」
ホワイトハウスのオーバルオフィスにて、ソファに座りながらルーズベルトは自問自答する。
この問いかけに対する答えは政府内でも分かれている。
ドイツ・イタリアというファシスト国家を危険視する者から、ソ連と日本の接近を危険視する者まで様々だ。
ルーズベルト個人としてはソ連は戦うよりも、友好を保った方が良いと考えている。
ソ連における労働法をはじめとした、国民に対する様々な社会福祉政策は見習うべきものだと。
そして、ルーズベルトをはじめ、民主党議員がもっとも感心したのは国民皆保険制度なるもので、低負担で高い医療を提供するというものだ。
国民皆保険という名の通り、全国民の加入が法律でもって義務付けられている。
『ゆりかごから墓場まで』というスローガンでスターリンは社会福祉政策に熱心だ。
なお嘘か本当か分からないが、外国人がソ連国民であると偽って医療を受けようとすると、空気が綺麗で自然が豊かなシベリアの療養所へ送られるとルーズベルトは小耳に挟んでいた。
ソ連へ赴いた外国人向けの医療制度もある為、そちらを使えば問題はないとも聞いている。
またスターリンは経済発展にも尽力しており、その成長率は驚くべきものだ。
世界恐慌の影響を大して受けず、順調に発展を遂げているという報告がなされていた。
「まずはドイツとイタリアだろう。特にドイツは遠からず経済的に破綻する可能性が高い」
そして、そうなる前にヒトラーが暴発するのも間違いないというのは政府内では共通した認識だ。
とはいえアメリカが不況から脱出する為には、欧州で戦争が起きてくれると非常に都合が良い。
そうなった場合の商売相手はイギリスやフランスであり、ドイツの動き次第ではソ連もそこに加わると彼は予想する。
WW1のように泥沼と化してくれれば最高で、アメリカは大きな利益を上げることができる。
軍需物資の売却だけで済ませることもできるだろうが――戦後を見据えるならば軍事介入したほうが良いだろう。
その為には中立法の改正と世論をうまく煽る必要があるだろうが、さすがにファシストの勢力が伸びてくるとなれば議会も賛同せざるを得ないとルーズベルトは判断する。
同時に最悪の予想――フランスが短期間でドイツを降伏させてしまうことを防ぐ為に、支援も必要だと考えた。
今、ドイツはどこかと戦争をしているわけではない。
中立法には抵触しない為、今のうちに彼らが欲しがるものを密かに与えて、将来における戦争遂行能力を強化しておく必要がある。
ドイツがヨーロッパで暴れまわってくれれば、利益も大きくなり、またアメリカが参戦しやすくなる。
戦争により荒廃したヨーロッパの復興に一枚噛むことができれば言うことなしだ。
「早速、協議しよう」
ルーズベルトはそのように決断したのだった。