あなたがスターリンになったらどうしますか? 作:やがみ0821
石原莞爾中佐は今回の謀略に関して自信があった。
元々は9月下旬の決行を予定していたが、どうやら陸軍中央に計画の一部が漏れたらしい為、決行日を10日程繰り上げた形となったものの、それでも問題はない。
「板垣大佐が建川少将を抑えているうちに、事は済む」
懸念は2つある。
まず1つは謀略を嗅ぎつけたらしく、陸軍中央から派遣されてきた建川少将だ。
しかし、今頃はもう1人の首謀者である板垣大佐が料亭で少将を酔い潰しているだろう。
石原は関東軍司令官の本庄や主だった参謀達と共に数日前から視察に出かけており、決行直前――午後10時頃に旅順へ到着する予定だ。
もう一つの懸念はソヴィエトであるが、彼も板垣も軍事的に弱体であると見做していた。
先の革命からまだ20年も経っていない。
何分、ソヴィエトはNKVDの監視が厳しい為、断片的にしか情報が出てこない。
その得られた情報を統合するとソヴィエトは国内開発に総力を上げている真っ最中であり、また昨年まで粛清の嵐が吹き荒れたという。
2年前の中ソ紛争では粛清中にも関わらず鮮やかに中国軍を撃破したが、あれはそもそも中国側がソヴィエトにちょっかいを掛けた為、スターリンが激怒して大兵力を投入したというのが、陸軍においては通説となっていた。
今、スターリンは鳴りを潜めており、恐慌で影響を受けなかったことを良いことに各国から――国交を結んでいない筈のアメリカにも手を回して――色んなものをこの2年で輸入しているらしい。
日本においても、ソヴィエトとの貿易は年々規模を拡大しており、様々な資源を日本が輸入しているのはよく知られている。
また貧困農民の受け入れも彼の国は積極的に行っているが、こちらは日本側が厳しく規制していることもあり、こっそり抜け出す者もいると石原は聞いているがそれも多くはないだろうと予想していた。
なお、偵察によれば極東軍団が増強されているとの報告もあるが、司令官として数ヶ月前に赴任してきたのは無名の若造であった。
そんな者を司令官に就かせるなんぞ、日本ではありえない。
司令官としての経験を積ませる為か、あるいはスターリンが独断で決めた人事であるかもしれない。
もっとも、謀略を決行したところで極東軍団は静観すると石原も板垣も判断していた。
トゥハチェフスキーであるならば、この機に乗じてスターリンを動かすことで満州北部を抑えようとするかもしれない。
だが、今の若い司令官にスターリンを動かせるだけの発言力があるとは思えなかった。
なおソ連は中ソ紛争時の原状復帰に対して中国側が不満を示していると発表し、最近になって中国側もその件については認めたものの、それは外交的に解決されるというのが石原だけでなく、陸軍や政府においても共通した認識となっている。
「極東軍団の司令官は……ジューコフと言ったかな」
何もできんだろう、と石原は高を括った。
そして、1931年9月18日午後10時20分頃。
柳条湖付近にある満州鉄道の線路の一部が何者かにより爆破された。
爆発自体は小規模であり、その直後には急行列車が問題なく通過しているのだが――その爆音は広く響き渡った。
史実でいう柳条湖事件であるが――しかし、満州北部にて史実にはなかったソヴィエトによる謀略がいつでも実行できる状態となっていた。
ゲオルギー・ジューコフ上級大将は日本軍の謀略が決行されたという報告を午後10時30分過ぎに受けた。
ソヴィエト連邦の建国当初は階級制度が無かったものの、昨年にソ連邦元帥の制定と同時に階級制度も復活している。
ジューコフはスターリンから直々に命じられて、今回の軍事作戦を行う極東軍団の司令官に任じられると同時に上級大将の位を与えられていた。
今年でようやく35歳になるジューコフだが、スターリンがやれと言えば通ってしまうのがソヴィエトである。
どうして自分が抜擢されたのか、ジューコフ本人も困惑しかないが、それでも任命されたからには全力を尽くすのが軍人だ。
この数ヶ月でスターリンの後押しもあって準備は万端であり、難しいのは実行の日時だった。
日本軍より早すぎても駄目であり、遅すぎても駄目だという今回の作戦。
幸いにも現地の諜報員達からは様々な情報が伝えられてくる。
彼らは今回の謀略の実行も請け負っており、共同作戦だ。
「しかし、同志スターリンはどうやって日本の謀略を知ったのだ……?」
ジューコフは不思議で仕方がない。
トゥハチェフスキー元帥もそれを感じているようだが、ソヴィエトにとって利益であるのは間違いない。
余計な詮索は命を縮めるということは明らかであるが、何よりも恐ろしいのは下手なことをして前のスターリンに戻られることだ。
その為、どうして知っているのかなどのスターリンに対する疑問は誰もが皆、心にしまいこんでいる。
温厚になってもスターリンはスターリンであるのは、先の大粛清で判明しているからだ。
犯罪組織撲滅の為というが、カーメネフやジノヴィエフなどのかつてスターリンに反対していた者達やトロツキーと親しかった者、古参党員達は軒並み粛清されている。
赤軍内部でも、トゥハチェフスキーの改革に反対していた者達が犯罪組織と繋がっていたとされて消えていった。
邪魔者を排除した、というのは明らかだ。
しかし、犯罪組織もちゃんと処理しているので余計に厄介だ。
粛清後は犯罪の発生件数がかなり減ったとジューコフは小耳に挟んでいた。
彼は頭を軽く振り、目の前の仕事に集中する。
数日以内に日本軍は動く。
満州占領の為に。
だが、兵力が足りないのは明白で、それを補う為に朝鮮方面から動員する筈だ。
そのときが契機だ、とジューコフは判断している。
彼に与えられた兵力は20万余り。
その中には2年前の中ソ紛争に参加した部隊も多く含まれていた。
この2年間で改善した成果を試すということも、ジューコフの任務には含まれていた。
「まだ少し早い」
彼はじっと待つ。
朝鮮方面の日本軍が動く、そのときまで。
スターリンはソワソワしていた。
彼は執務室をウロウロと歩き回りながら、時計をチラチラと見る。
これは3日前、日本軍の謀略が決行されたという報告を受けてから、ついやってしまうことだった。
今回、ジューコフに与えた部隊は2年前の中ソ紛争時とほとんどが同じ部隊である。
しかし、大きく違うのは戦車だ。
T-34ではないものの、それでも45mm砲を搭載したこの時代では破格の戦闘力を持つ戦車――T-20を投入している。
史実的にみるとT-26(1933年型)にあたるものであり、イギリスのヴィッカース6トン戦車を参考にして、設計・製造されているところも同じだ。
また戦車砲に関してはドイツのラインメタル社製37mm対戦車砲をライセンス生産し、それをスケールアップしたものとなるが、エンジンの馬力が弱く装甲が薄いところも史実と同じである。
これも所詮は繋ぎであり、設計及び製造技術の経験を積むという面が大きい。
以前にトゥハチェフスキーに伝えた通り、攻撃力・防御力・速力の3つが高いバランスで纏まった戦車の開発をスターリンは厳命している。
しかも彼は事細かに注文をつけており――主砲は大口径長砲身で、全周旋回砲塔にしろだとか無線は標準装備とか――その為か、多砲塔戦車といったものは出てきていない。
無論、戦車以外にも様々な兵器がスターリンの方針に沿って研究開発が進められている。
彼は陸だけでなく、海や空でもこういう感じにしてくれ、と言っている為、素人は黙っていろと軍人や技術者達が思ったのも無理はない。
しかし、スターリンは今できなくても技術の研究開発や成熟に努め、10年以内にできればいい、と多額の予算を投入した上で言ってくれるのは軍人達や技術者達にとっては有り難かった。
「T-20に対抗できる戦車はないが、日本の歩兵は精強だ」
もしも日本軍と交戦となれば大きな被害が出る可能性があるが、ジューコフには命令遂行の為ならば日本軍との偶発的戦闘もやむなし、と伝えてある。
若い彼を抜擢したことにスターリンはトゥハチェフスキーをはじめとした主だった軍人達に対して、日本軍に警戒されないようにする為だと説明していた。
史実を知っているから、とかは口が裂けても言えないが、トゥハチェフスキーなどの著名な将軍を派遣すると、ソヴィエトが何かを企んでいると日本側に勘ぐられる可能性があるのも事実だ。
「しかし、もう事件が起きて3日目だ。早くしなければ……」
スターリンがそう言いかけた時だった。
扉が叩かれる。
ついに来たか、と彼は思いながらも入室の許可をする。
入ってきたのはトゥハチェフスキー元帥だった。
「同志書記長、極東軍団のジューコフ上級大将より報告です」
「聞こう」
「東清鉄道の一部区間にて線路が爆破され、列車が脱線したとのことです。中国軍らしき者が付近で目撃されたそうです」
スターリンは勿論、トゥハチェフスキーも実際がどうであるのかは知っている。
当初の予定通りジューコフからの要請を受けたNKVDの諜報員達が動いたのだ。
スターリンは鷹揚に頷きながら告げる。
「トゥハチェフスキー元帥、ソヴィエトの権益を保護し、なおかつ被害者の救助の為、極東軍団に越境を命じ給え。中国軍との交戦も許可する」
9月21日午後3時30分過ぎ、スターリンはそう命じた。
この2時間程前、朝鮮半島に展開していた第39混成旅団が越境し、関東軍の指揮下に入っている。
これは朝鮮軍――朝鮮を管轄する軍という意味――司令官である林銑十郎の独断であったが、この動きを掴んだジューコフによって、作戦は実行に移された。
『冥王星』と名付けられたこの作戦の目標は、1週間以内に指定された地域を占領することであった。
モスクワからの命令を受け取ったジューコフはただちに攻撃開始を命じ、それは迅速に実行される。
最初に動いたのは砲兵だ。
彼らは中国側へ向けて砲撃を開始したが、それは1時間で打ち切られた。
中国東北軍の主力は北平に張学良と共にいることが諜報員達によって確認されていた為だ。
また国境地帯にはソヴィエトを刺激しない為か、少数の兵力しか配置されていなかったということもある。
21日の夕方には赤軍は国境地帯を突破し、満州へ雪崩込んだ。
このことは同日夜には中国及び日本に伝わり――特に関東軍は――驚愕した。
「事実なのか!?」
関東軍司令官の本庄は叫んだが、ソ連軍侵攻の報告を行った士官は肯定するしかないが、誰もがまだ信じられないという思いであった。
ちょうど作戦会議の真っ最中であり、板垣や石原もこの場にはいる。
彼らも絶句していた。
ソ連は動かない――大前提が崩れてしまった為に。
「ソ連軍の兵力は? 今、どこにいる?」
「詳細は不明ですが、多方面からソ連軍が越境し、国境地帯を突破した模様です。既に満州北部に浸透しているものかと……」
本庄に問われて、努めて冷静に答えた士官。
しかし、その内容は大問題だった。
同時に多方面から攻め寄せたならば、それこそ総兵力がどこまで膨れ上がるか分からない。
関東軍には本日午後に越境し、指揮下となった第39混成旅団がいるが、彼らを含めても総兵力は2万に届くかどうかというところだ。
ソ連軍と真正面から殴り合うことなど論外であり、そもそもソ連と本格的に事を構えようとは誰も考えていない。
「戦線はこれ以上拡大しない。奉天に留める」
本庄の断固とした言葉に石原と板垣も同意するしかなかった。
中国と日本、双方を驚愕させたソ連による満州侵攻は9月28日に赤軍が進撃を停止したことで終了した。
中国軍は満州北部にて散発的に抵抗したものの、焼け石に水に過ぎず、大した損害を与えることはできなかった。
この間、ソヴィエトは全世界に向けて東清鉄道における中国軍の破壊工作を写真付きで宣伝し、自らの正当性を訴えている。
その写真には脱線して、横倒しとなった蒸気機関車や傷つき倒れた乗客達の姿が写っていた。
負傷者だけでなく死者も出ており、ソヴィエトは被害の実態を
亡くなった子供を抱き抱えて嘆き悲しむ母親の姿や、あるいは両親の死体の前で立ち尽くす子供の姿など、そういった
中国側――蒋介石率いる国民党政府はそんなことはやっていないと主張したが、東清鉄道における原状復帰に対して不満があったのは中国だとソ連は言い返し、権益保護の為に赤軍を駐留させると強硬に主張した。
このソ連の態度によって中国全土において反ソヴィエトの機運が高まり、赤軍が駐留している地域においてゲリラ的な攻撃が行われたが――これを見越して派遣されたNKVDにより徹底的に鎮圧された。
一方、ソ連がやらかしたことがあまりにも大きすぎて、日本の関東軍が起こした事件に関しては、ほとんど注目されなかった。
その隙に日本は国民党政府と協議して原状復帰で合意する。
外交的に決着がつくや否や、ただちに日本政府及び陸軍参謀本部は首謀者の捜索に乗り出した。
なお、これに先立って独断で越境を命じた林銑十郎は降格の上、予備役とされたのは言うまでもなかった。