私が、フリードレク・ノルデンを知ったのは67年の暮れである。
その当時、世界を席巻していたヤ―ネフェルト主義という名の濁流の中、私はその著者について純粋な興味を持っていた。
あとがきもなく、ただスウェーデン政界の某大物による1ページ程度の解説が付いていただけの『ヤ―ネフェルト主義』を手掛かりに、丸一年をかけてウプサラに居た彼を探し当てた。
一度目は門前払い。二度目と三度目は紅茶を飲まされた後に追い出された。四度目は居留守を使われ、五度目でようやく会話に成功したのだった。
私はこう問うた。「なぜ、先生は表に出ないのですか」と。
「私は亡霊だからだ」と彼は言い、奥の書斎へと引っ込んでしまった。
これが私とノルデン先生との馴れ初めである。運命的な出会いをしたわけでも、衝撃的な出会いというものでもなかった。おそらくこれは、必然だったのだろう。
さて、これは前文であるから、これが前置きということになる。以下は彼が没後10年は隠せと言っていた、彼とアウグスト・ヤ―ネフェルトの最後の会話であり、ノルデン=ヤ―ネフェルト主義―――私はあまりこの表現が好きではない―――の研究者が渇望していた資料ということになる。だが、私は忠告しておくが、正直言ってこれにそんな価値はないかもしれない。私がこの20年間で見出せたのは、二人の男が死んだということだけである。
この凡才に成し遂げられなかったことを、読者諸氏が成し遂げていただければ幸いだ。。
1994年6月30日、アウグスト・ヤ―ネフェルト没後60年追悼式典に合わせて。 ヨーロッパ人、カール・オークランス
ヤ―ネフェルトは最後にその男の名前を呼んだ。彼が家族の後に呼ばれた理由はただ一つ、一番最後に病院へ到着したからだった。
「すまなかったノルデン。君にはだいぶ迷惑をかけた。クランツも、リンドマンも、君のことを褒めていたよ。」
「‥‥‥私はあなたの真似をしているだけです、先生。」
ノルデンはベットから一番遠い場所で、明日の日の出を迎えられないかもしれない師を見つめている。
「君は、近くにいるのかい」
そう、ヤ―ネフェルトは問うた。唯一動かせる右腕で、手繰り寄せるような動きをしてみせる。彼は、もう見えないのだ。
「私のこの手は汚れています。もう、あなたに近づけるような体ではないのです、先生。」
「撃ったのか、ノルデン」
穏やかな、だが怒気が籠った口調で彼はノルデンを問い詰める。
「私の銃を使って人を殺したのか?」
「‥‥‥撃ってはいません。仲間の居場所を吐かないので拷問を少々。」
「ならいい。しかし、私を襲った輩を探しても意味がないと言ったろう?復讐でもするつもりなのか?」
「時と場合によっては。しかし、ここまでなにも出でこないとなると、本当に奴らの後ろには何もいなかったのでしょう……」
「だろうね。居たとしても、おそらく君が墓に入ってもまだ真相は分かっていないと思うよ。」
そう、言ったあと、彼は大きくため息をついた。
「しかし、こういくつも残していくものがあると逝く時も楽じゃないねえ……本当、生きてる間に全部片づけておけばよかった。全く、私は生まれてくる時にはこんなに人生が短いだなんて聞いてなかったんだぞ。」
「冗談はおやめください、先生。回復されてまた我々を導いてくれるのを待っております。」
「苦虫噛み潰したような顔で言われてもねえ、私が死期を悟ったんだ。間違いなく私は死ぬよ。」
見えないからと言って油断していただろう、と彼は笑ってみせる。彼は、入院中病室に出入りする者の表情を言い当てるのを娯楽としていたのだ。そして、これが初めての見舞いであるノルデンはそのことを知らない。
「全く、それに仮に回復してもだ。目は見えない、歩けない、座るのも苦痛、まともに動くのは右手だけという人間を、またこき使うつもりかい?」
「‥‥‥」
「ノルデン、聞いてくれ。私は死ぬ。君が私の回復を前提にして党を運営してたのは聞いている。が、私は後継者に君を指名した。もう、君の好きなように運営しろ。」
「あなたは無責任な人だ‥‥‥我々に散々夢を語っておきながら、全部放り出してとっとと自分は退場してしまう。残された方も楽ではないのです、先生。」
「そうか、なら責任をとろう。」
彼は表情を消し、ベットの下へと手を入れる。出てきたのは―――拳銃だった。
「先生、」
慌てて近づいてくるノルデンのこめかみに寸分違わず狙いをつけ、彼は言い放つ。
「ここで君を撃ち、入ってきた残りにもこの銃弾を叩き込む。それで終わりだ。これで党は、もう保てない。」
ノルデンは、これが死の淵にある人物が出していい覇気ではないと思った。その迫力は、彼が本気で引き金を引く気であると示していた。その上で、ノルデンは頷いた。
「撃ってください、先生。」
「分かった。」
彼は引き金を引く。
だが銃口はノルデンとは明後日へ向き、銃撃は壁に穴を空けただけで終わった。
「ヤ―ネフェルト先生!?」
銃声を聞いたクランツが慌てて病室のドアを開けようとするが、彼はそれを「来るな!」と一喝した。
「‥‥‥死んだかい、ノルデン。」
「‥‥…いえ。」
完全に硬直してしまったノルデンは、否定の意味を持つ空気の揺れを起こすのが限界だった。ヤ―ネフェルトの吐き出すオーラは、病室内を完全に制圧していた。
「いや、確かに死んだ。私はフリードレク・ノルデンが脳天を撃ち抜かれて死んだのを確かに見た。」
「先、」
「いいや、違う。ノルデンは今死んだはずだ。今の声は誰だ?もしや悪魔か?ああ安心してくれ。もうすぐ私も彼についてゆく。」
「先生、おやめください‥‥‥!」
ようやく硬直から抜け出したノルデンが、師から拳銃を取り上げ、傍らへと放り投げる。
「‥‥‥私の最も不出来な弟子は今死んだ。悪魔よ、今私の銃を取り上げた者の名前を教えてくれ。」
「ノルデン、フリードレク・ノルデンです。あなたの弟子にして、アウグスト・ヤ―ネフェルトによって夢を与えられた者です。」
ノルデンはそう叫ぶ。逝かないでくれ、そう今にでも泣き出しそうな顔でヤ―ネフェルトの手を取る。
「そうか、なら一人にするよう言ってくれ。私は、もう疲れたのだ。」
彼は、そう言い残すとノルデンの手を振り払った。
病室を覆っていた彼のオーラが消え失せ、深夜の病院には静寂が戻る。ノルデンは、汗でびしょ濡れになった額を拭い、退出しようと歩を進める。そこで、師に呼び止められた。
「ノルデン。」
「はい。」
振り返ると、彼はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
「すまなかった。私は君の人生をもうどうしようもないくらいに変えてしまった。」
「いえ、先生。これが本望でした。なさけないことに、自分では引き金を引けなかった。そんな男なのです。私は。」
彼は、それでいいと笑った。
「殉死なんて、してくれるな。一度死んだのだ。そのあとくらい、自由に生きてみたっていいだろう。」
残り僅かの命を抱えた男は、うらやましそうに言ってみせる。「ああ、私にもあと10年、いや20年の命があったら」と。
「達者で、ノルデン。ヴァルハラで君の残りの人生の話が聞けるのを楽しみにしているよ。」
「さようなら、ヤ―ネフェルト先生。再会を心待ちにしております。」
それが、最後に交わした言葉だった。
その12時間後、予想に反し夜明けを迎えた彼は、一山越したと安心し誰も居なくなった病室で静かに息を引き取った。
その最後の最後で、最も太かった鎖を撃ち抜いた彼は、スウェーデンの大地に大量の呪いを残しながらこの世を去ったのである。