口づけを交わすと顔が入れ替わる、魔法の口紅。

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ゴースト・アクタージュ

 大女優だった母は私を残して死んだ。

 美しいままこの世を去った。

 醜い私を残して。

 

 葬儀には多くの人が参列した。

 母の死に涙する、たくさんの顔を見た。

 女優の母の知り合いにはやはり女優が多く、綺麗な顔がたくさん並んでいた。そんな彼女たちを見て、私は二つの感情を抱いた。

 

 ――いいなぁ、羨ましいなぁ。

 ――泣き顔も綺麗なんてズルいなぁ。

 

 最初に抱いたのは羨望。

 きっと、毎日鏡を見るのも楽しみなんだろうな。

 立ち並んだ顔を見てそう思った。

 

 ――ちょっと、あの子どこの子?

 ――しっ、真城(ましろ)さんの娘さんよ。

 ――え? 嘘でしょ? 全然似てないじゃない。

 ――醜い子ね、真城の唯一の汚点だわ。

 

 次に抱いたのは劣等感。

 ついさっき美しい母に見せた綺麗な泣き顔は、醜悪な私に向けられた途端に醜く歪んだ。

 まるで鏡のようだった。

 

 

 それから時間が流れて、高校生になった。

 体は大きくなったけれど、私の醜い顔は生まれた時のままだった。怯えを残した三白眼、引き裂けたかのように大きな唇。頭髪は鼻を覆い隠し、まだ蛙の方が愛嬌があるくらいに醜い顔。

 

 おおよそ役者には向いていない。

 私を見た人は、たちまち吐き気を催すだろう。私の醜さは顔だけではない。周りから見られることに怯えて縮こまった背筋は猫背、肩には余計な肉が乗っている。役者どころかスーツアクターにだってなれやしない。

 

 だけど、私は演劇部に入っていた。

 きっと、引退するまで照明係。中学の時もそうだった。もしかするとゴブリンC役なんかがあれば抜擢されるかもしれないけれど、そうでもない限りは奈落の底だ。光は私から逃げていく、まして日の下に飛び出すことも不可能。

 

 私はしがみ付いていた、舞台の端に。

 暗くなり、他の部員が帰った後、私は一人で練習をしていた。無駄な事だと思った。それでも、いつか、母の娘だと言って貰える日が来るんじゃないか。そう信じて練習を続けた。

 母が遺した、母が演じた台本の数々。びっしりとメモが残されたそれを参考にして、練習した。

 

「僕が運河へ行きさえしなければ、カムパネルラは死なずに済んだんだ。だから……」

 

 発声練習は独学だ。

 だけど、私は母の演技を何度も見てきた。母が主演を務めた映画を何度も繰り返し視聴してきた。私の耳は、母の声を覚えている。

 

「カムパネルラ!!」

 

 ちょうど、その時だった。

 扉が「バンッ」と開かれて、誰かが講堂に入って来た。声を張り上げたせいで警備員に見つかったのだろうか、早く下校しなさいと怒られるのだろうか。そんな考えは甘かった。

 

真城(ましろ)さん……?」

「……赤井先輩、どうして」

 

 街灯に照らされて現れたのは、帰宅したはずの先輩である赤井ヒカリだった。嫌な汗が溢れ出す。

 

「もっと、読んでみて。真城さん」

「っ!」

 

 見られた。

 こんな醜悪な顔して、主役のセリフを読んでるところを……。いたたまれなくて、惨めさで胸がいっぱいになって。

 ……走ってその場を後にしようとした。

 逃げ出してしまった。

 

「真城さん! 逃げないで! お願い!」

 

 だけど、捕まった。捕まってしまった。

 罪悪感が膨れ上がり、バツが悪くなった私は目をそらし、どうにか口を開けて謝罪した。

 

「あ……あの、ごめんなさい……私なんかが」

「『私なんか』? ふざけないでよ真城さん」

 

 怒られる。

 ごめんなさい。醜い私が光を求めて。

 ごめんなさい。舞台を私が踏み荒らして。

 

 謝ります。だから、罵倒しないで。

 問い詰めるような目で私を見ないで。

 

「すごいじゃない!!」

 

 どうやって逃げるかばかりを考えていたのに、掛けられた言葉は称賛だった。

 

「声もいい! 演技もできる! しかもずば抜けて! どうして役に立候補しなかったの?」

 

 とどめに「役やろうよ、役」という彼女に、硝酸を飲み込んだような気持ち悪さがこみあげる。こんな思いをするくらいなら、罵倒された方がマシだった。

 

「……何も分からないから、そんなこと言えるんですよ」

 

 私は、手を振り払った。

 それから、今度こそ逃げだした。

 肺が悲鳴を上げるまで走り続けた。

 先輩の、私を呼び止める声なんて知らない。

 ただひたすらに、遠くへ、遠くへ行きたかった。

 

「……」

 

 私の手には、彼女の手の感覚が残っていた。

 

 

 それから、数日後の学校。

 私が演劇部に行かなくなったのは、言うまでもないと思う。私は晒したんだ、己の醜態を。行けば惨めな目に合うことが分かっている、それを我慢してまで得たいものなんてあそこにはない。

 

『――本当に?』

「母さ……っ!?」

 

 幻聴が、聞こえた。

 

(そんなはずないか。母さんは死んだ。醜い私を残して死んだ)

 

 どうして私は生きている。

 美しいあなたではなく、醜い私が。

 

(母さん……)

 

 辛いよ。どうして母さんは私を生かしたの。

 この顔で生きていくには、世界はあまりにも冷酷すぎます。人々の視線は私の心を突き刺します。掛けられた悪意も善意も、みんな私の思いを踏みにじります。

 

『――もし、もしもよ? 本当に本当に、本当につらいときは、ママの鏡の引き出しの中の「赤い口紅」を……』

 

 そのあと、母がなんて言ったかは覚えていない。

 ただその口紅は、肌身離さず持っていた。

 

「真城さん、ちょっと話せる?」

「……赤井先輩」

 

 不意に教室の扉が開け放たれて、赤井先輩がやって来た。あれからずっと接触してこなかったのに、今更どういう風の吹きまわしだろう。

 

「朝のSHRが始まるまででいいから」

「……ぁ」

 

 そう言って、先輩は私の手を取り走り出した。

 それから、屋上に向かう階段の踊り場。

 そこに着いてから、先輩はこう言った。

 

「ごめんなさい、真城さん。あの時の私は、あなたの気持ちを少しも知らなかった」

「……今は、分かるみたいな言い方ですね」

「うん。今なら、分かるよ」

 

 踊り場に取り付けられた、縦に長い窓ガラス。

 先輩はそこから外を見て、語り始めた。

 

「少し前にね、俳優発掘オーディションの5次審査があったの。最大手芸能事務所のスターズの……って、演劇部なら知ってるわよね」

「……」

 

 知っているか知らないかであれば知っている。

 例年3万人が応募する狭き門。

 

「……落ちたんですか?」

「ううん。受かったの。最後の4人に残ったのよ」

「……良かったですね」

「あはは、もうちょっと心配してる風を装ってくれないと、先輩泣いちゃうぞ?」

 

 それは無理な相談だ。

 私があなたに抱いているのは嫉妬と羨望。

 綺麗な感情なんて、あいにく持ち合わせてなんかいない。

 

「……でもね、私、辞退しようと思うんだ」

 

 先輩は、そんな言葉を口にした。

 

「……は?」

「5次審査はさ、12対5の集団オーディションだったの。そこでね、一人、すごい役者さんがいたの。きっと最終オーディションを勝ち抜くのもその人よ」

「……」

「役者は子供のころからの夢だったけど、怖くなっちゃったの。おじけづいちゃったの。本物を目の前にして、本物になれない自分をさらけ出すのは、すごく怖い」

 

 先輩は、窓から私に視線を移した。

 哀愁に満ちた顔は、それでも美しかった。

 

「真城ちゃんも、こんな思いだったのかな? そう思うと、苦しくて、辛くて。私、真城ちゃんに酷いこと言っちゃって……」

 

 美しい先輩が、私の気持ちを汲んでくれたこと。

 それは本当に、本当にうれしかった。

 ……でも、違う。

 

(先輩と私が同じ? 違う。そんなはずがない。私が先輩だったなら、先輩ほどの容姿があったなら、私はこうも苦しまずに済んだ)

 

 人に顔を晒す事に怯えることも無く、言いたいことを口に出せたなら、照明係なんかに甘んじる必要だってなかった。

 

(先輩と私は違う。同じじゃない。醜い私は、心まで清らかな先輩がこうして優しさを見せてくれても汚い感情しかあらわにできない)

 

 ずるい、欲しい。

 先輩の顔が、先輩の心が欲しい。

 

『――そうね。だから美しくなりなさい』

 

 声が、聞こえた。

 聞き間違えるはずがない、母の声。

 

『その醜い顔を見て、あなたの父はあなたを捨てた』

 

 ご本を読み聞かせるように、藁人形に呪いを打ち込むように、母は言う、母は言う。

 

『だから、顔も心も奪い取ってあげなさい』

 

 ……どうしてだったかは分からない。

 だけどその時、私は母の口紅を取り出していた。

 

(かさね)!』

「アアアアアアァァァ!!」

「真城ちゃ……っ?」

 

 紅を塗り、先輩に組み付いた。

 

「ふざけないでよ。どうして恵まれた容姿を持ちながら諦められるの」

「……それはっ、私より美しい子なんてたくさんいて」

「だったら、一番醜い私はどうすればいい! たった一度のチャンスも無く、ただ無意味に死ぬのを待てとでもいうのか!」

「そんなこと言ってない!」

「だったら――!」

 

 私は先輩に口づけをした。

 魔法の効果は、一瞬で現れた。

 

「――私にも分けてくださいよ、先輩のチャンスを」

「真城ちゃ……!?」

 

 目の前にあるのは、汚い顔。

 見慣れて見飽きた醜い顔、真城累の醜悪な顔。

 

「ひっ!? わ、私の、私の顔!? なんで、返して」

 

 顔の交換(・・・・)

 それがこの口紅の魔法の力。

 

「返して……? ふふっ、返してあげますよ」

「本当!?」

「ええ、でも、最終オーディションには私が出る」

「……っ!?」

 

 ねぇ、先輩。

 優しい優しい赤井先輩。

 

「私の事がかわいそうだったんですよね。人に晒せない醜い顔を持つ私のこと」

「ぅ、うん」

「だったら、先輩が手放そうとしたチャンスを私にくれても構わないじゃないですか。それで先輩は苦しみから解放される」

「……で、でも!」

「それとも、これから私が『赤井ヒカリ』、あなたが『真城累』として生きていきますか?」

「それはっ、いやッ!!」

 

 大丈夫ですよ。

 私があなたの分まで演じてあげます。

 あなたの分まで愛されてあげます。

 だから。

 

「オーディションの詳細、教えてくれますね?」

 

 先輩は、何度も何度も頷いた。

 

「いい子ですね、先輩。それじゃあ、また借りに来ます。言いふらしたらどうなるか、分かっていますね?」

 

 

 そして、オーディションの日がやって来た。

 

(……おかしい。先輩は「最終審査に残るのは4人」と言っていた。この場にいるのも4人。それなのに椅子は5脚)

 

 そして審査は始まらない。

 と、思っていたら。

 

「準備が出来ましたので最終オーディションを開始します。審査は別室にて行われますので皆さんついて来てください」

 

 呼ばれた。

 指示に従って素直についていく。

 そこには学生服の女性がいた。

 彼女も演者側らしい。敗者復活?

 

「最終審査は『無言劇(マイム)』になります。声を使わず、身振りや表情のみでこちらが用意した設定を一斉に演じてみせてください」

 

 ……このチャンスは、千載一遇。

 先輩が手放して、ようやく私に舞い降りた唯一の好機。取りこぼすわけにはいかない。

 

「社長から何か?」

 

 髭のおっさんが呟いた。

 すると隣の、修羅場をいくつも潜ってそうな、還暦手前くらいの女性が口を開く。

 

「私は幸せになれる役者しか育てない。実力は関係ないわよ」

 

 ……意味が分からない。

 だけど、私は今幸せだ。

 醜い顔を脱ぎ捨てて、堂々といられることがこんなにも心地よいなんて。

 

「――で、“設定”だが」

「野犬よ」

 

 設定を告げようとしたおっさん。

 それを社長は遮って告げた。

 

「あなた達の目の前には、一匹の野犬がいるわ」

 

 社長の言葉足らずを補うように、おっさんが続ける。

 

「お前達は、深い森へ迷い込んだ。野犬に出逢うとは運が悪かったな。鋭く尖った瞳、牙、爪……。すべてがお前たちに向けられている」

 

 気が付けば、深黒晦冥の森に立っていた。

 そこから一匹の野犬が顔をのぞかせた。

 その顔は、酷く醜く、まるで――

 

「そいつ腹空かせてるぞ」

 

 ――真城累(わたし)のよう。

 

「っ」

 

 やめて。付きまとわないで。

 ようやく光が当たる場所まで来れたんだ。

 そんな恨みがましい目で私を見るな……っ。

 

(肺が、苦しい、……ぇ?)

 

 だが、次の瞬間。

 野犬は興味を失くしたかのように視線をずらした。その先にいたのは、5人目の候補者。

 

(はぁっ、はぁ……誰、あの子)

 

 遅れてやってきた女子学生。

 重心を落とし、警戒態勢を敷いている女子高生。

 誰もがそっちに釘付け。

 

(……ああ、この子か。先輩が言ってたすごい役者)

 

 痺れは取れた。

 はっきりわかった。

 目の前のこの野犬は、私じゃない。

 

 真城累は美しいものを直視できない。

 赤井ヒカリには自己嫌悪なんて存在しない。

 してはいけない。

 表に出すな。内に秘めるな。

 

(私は今、赤井ヒカリ!)

 

 あれだけ渇望した演技の場。

 ようやくこの場に立てたんだ。

 

(負けられない!)

 

 その時、野犬が制服少女に襲い掛かった。

 女子高生は自身の片手を犠牲にしようとした。

 

 だから、私は、彼女を突き飛ばす。

 

「……っ?」

 

 突き飛ばされた彼女の目が大きく見開かれる。

 その双眸が、私だけを捉えている。

 彼女だけではない。ここからは私のステージだ。

 主役は誰にも譲らない。

 

 私は犬に噛まれるだろう。

 腹をすかせた野犬に喰われるだろう。

 だが、だからどうした。

 

 赤井ヒカリは、そんな醜悪な動物にだって優しさを向ける人間だ。彼女の心は美しい。そんな彼女になった私もまた美しい。

 

 野犬が私の胸にとびかかった。

 見えない力に弾かれて、地面に組み伏せられる。

 

 獰猛な眼が、飢えた牙が、私を捉えた。

 

 だから私は、泣きながら微笑んだ。

 

 最期に見たのは、私の喉を食いちぎる野犬。

 

 最初に聞いたのは、まばらな拍手。

 

「いやー迫真だった」

「映画みたいでしたね」

 

 口々にほめたたえる声。

 その大半は私に向けられたもの。

 

 むくりと起き上がる。

 流した涙をハンカチで拭う。

 拭ったまま、私の心は慟哭を上げていた。

 

(あんなにも苦しかった賞賛が、どうしてこんなにも快感なの……。これが、赤井ヒカリが感じていた世界なの?)

 

 届かない、届かない。

 私が一生這ったって、この場所には届かない。

 

(知らないままの方が良かった。またあの地獄に戻らないといけないの? いやだ、ずっとこの天国に居たい)

 

 そして、気付いた。

 母の顔が、母の物ではない可能性。

 けれどそんな事はどうでも良くて。

 

「決定したわ。俳優発掘オーディション、グランプリ受賞者は――」

 

 決着はここに。

 

「――赤井ヒカリ」

 

 芝居の喜びを垣間見た。

 芝居の面白さには果てが無い。

 一生かけても味わい尽くせない。

 

「ああ、母さんも感じたんだ。この違いを」

 

 私は小さく、小さく、誰にも聞こえないように呟いた。

 

 

 黒山墨字は困惑していた。

 

(なんだコイツは。前に見た時はつまんねェ役者だったはず。いや、つまんねェのは今も変わんねェ。だが、なんだ、この表現力は)

 

 彼にとってこのオーディションは、一人の役者の為の踏み台に過ぎなかった。前回のオーディションで偶然見つけたダイヤの原石、夜凪景。これは彼女の為の舞台だった。

 

 もっとも、彼女は5次審査で落とされている。

 しかし無理やりねじ込んだ。

 星アリサにこの世界でしか生きられない人間の幸福を思い出させてやるために。一人の少女を芝居の道に引き込むために。

 

 そうして行われた最終審査。

 用意したお題を星アリサが私情で変更したが、その程度、問題ではなかった。それならそれで、夜凪の糧にするまでだった。演出家として。

 

 黒山墨字には確信があった。

 夜凪景であれば、想像の産物を幻視させる事すらできるはずだと。その為の助力を自身ならできると。

 

 一つ、誤算があったのは、夜凪より早く反応した役者が存在したこと。

 

(赤井ヒカリ、お前は一体何者だ)

 

 能無しの役員たちは気付いていないかもしれない。最初に反応したのは夜凪景だと思っているかもしれない。だが、彼は気付いた。夜凪景より早く、赤井ヒカリがイメージを確定させたことを。

 

 最初、野犬は間違いなく赤井の方を向いていた。

 それを夜凪が奪ったんだ。そこまでは問題無い。

 それくらいしてもらわないと困るというものだ。

 

(夜凪に集まった視線を、あっという間に掻っ攫いやがった)

 

 突然、激しい動きをした夜凪に、一同の視線は吸い寄せられた。場の緊張感が高まり、野犬が夜凪に襲い掛かる、その一瞬。

 その一瞬で、夜凪が主演から助演に降ろされた。

 

 そこから先は彼女の独壇場。

 野犬のイメージをぼかすことなく、それどころかより鮮明に映し出した。

 

(この短い期間に何があった!? 野犬に喰い殺される瞬間、奴は確かに悲しみの中にいた。ただの悲しみじゃねェ。弱者を憐れむような、遥か高みから見下ろす高慢な優しさを孕んだ哀しみ)

 

 それができる役者だったなら。

 5次審査の時に見落とすはずがない。

 

(それに、なんだこの違和感は。やつは最後まで赤井ヒカリだった。だというのに、アイツは誰かになり切っていた)

 

 黒山は自身の思考に頭を悩ませた。

 矛盾している。

 

「……考えたって仕方ねェか」

 

 現状は情報が少なすぎる。

 ピースの欠けたパズルにどれだけ時間を割いたとしても、正解にはたどり着かない。

 

「夜凪がスターズに取られなかったんだ。それだけで良しとするか」

 

 

「え?」

「聞こえなかったんですか、先輩?」

「本当に、本当に受かったの?」

 

 赤井ヒカリは真城累と会っていた。

 理由は簡単。顔を返してもらうためである。

 

 実際には、魔法の効果は12時間。

 それを過ぎれば自然と元に戻るのだが、真城累本人も、まして赤井ヒカリもそんな事は知らない。交換した顔を元に戻すには再び口づけを交わすしかないと思っていた。

 

「ん」

「――っ」

 

 細い路地、暗い夜。

 二人の少女の顔が入れ替わる。

 

「先輩の顔で、落ちるはずがないでしょう」

「……っ」

「照れないでください。口説いてるわけではないので」

「て、照れてないわよ!」

 

 元の醜い顔に戻った真城は、すぐにマスクをつけた。口裂け女のような顔の大半が、真白に染まる。

 

「……ただ、すごいなって」

「……」

「私は諦めちゃったから。夜凪さんには敵わないって認めちゃったから。打ち勝った真城ちゃんが、羨ましくて、本物になれない私が申し訳なくて」

「……」

 

 思い知った、知らされた。

 赤井ヒカリが本物になれないのは、才能が無いからだということを、目の前の少女が証明してしまった。

 

 真城累は本物だ。

 だというのに、たった一つ。容姿に恵まれなかったというだけで本物になる機会すら奪われた。

 

「ケンタウルス」

「……ぇ?」

「ヘラクレス座」

「……ア、アルクトゥルス?」

 

 ふと彼女が顔を上げると、真城累は空を見上げていた。それから「カシオペア座」、「アンタレェス」、「M23」、「スピカ」。演劇部で発表予定の、『銀河鉄道の夜』だ。

 

 二人はしばらく星をなぞった。

 それから、真城が切り出した。

 

「赤井先輩、私たちが見ている星空は、同じだと思いますか?」

「え、そうなんじゃないかな」

「……私は、そうは思いません」

 

 真城は地面に視線を落とした。

 

「赤井先輩は今日、星を掴みました。一握りのスターになったんです。もう、二人で同じ星は見れません」

 

 その肩は、震えていた。

 

「一見平面に散りばめられた星々は、近い星もあれば、遠い星だってあります。先輩はこれから、見たことも無い星空を見ることになると思います。地上からは見れなかった星空を見ることになると思います」

 

 赤井は、胸が締め付けられるような気がした。

 

(……そうだ、私は、子供のころからの夢を叶えた。なりたかった役者になれた。でも、それは真城ちゃんのおかげで……)

 

 自分一人の力では無理だった。

 同じ夢見た少女は地に伏せたまま。

 自分だけが星空に瞬く光になろうとしている。

 

「さようなら、先輩。お元気で」

「ま、待って! 真城ちゃんも一緒に……っ」

「行けませんよ、一緒には。分かっているでしょう。私の魔法は顔の交換。同じ顔にはなれません」

「違うよ! 一緒に行かないといけないんだよ!」

「……?」

 

 意味が分からないという顔をする真城。

 赤井自身も、よく分かっていなかった。

 ただ、引き留めなければいけないと直感が訴えた。彼女は直感に従った。それだけ。

 

「真城ちゃん、私にはあなたが必要なの」

「……何言ってるんですか?」

「私は本物になれない。真城ちゃんもそう。お互い、一人では本物になんてなれやしない」

「……」

 

 赤井ヒカリには才能が欠如している。

 真城累には容姿が欠落している。

 

「でも、二人でなら誰にだって負けない!」

「……分かってるんですか? 私があなたの顔で演技をするということは、あなたが受け取るはずだった賞賛を私がかすめ取ることになるんですよ」

「うん。私はあなたが受け取るはずだった名誉を奪うからお相子ね」

 

 だから、赤井ヒカリは真城累の手を取った。

 

「真城ちゃん。真城ちゃんの顔は、私じゃダメ?」

「……っ」

 

 真城累は、初めてだった。

 自身に向けられる刺々しい眼差しでもなく、赤井ヒカリを演じた時の容姿を称賛する眼差しでもなく、心の内側に触れてくるような眼差し。そんなの、初めてだった。

 

「……」

 

 真城はしばらく、口を開いたり閉じたりした。

 何か言おうとしているようだが、それが言葉の体をなさない。霞のように曖昧な吐息だけが零れる。

 

「真城ちゃん!」

「っ!」

「じゃないと、真城ちゃんの秘密、バラしちゃうよ」

「……何を」

「顔の交換……、これが業界に知られたら、真城ちゃん、もうデビューできないかもね」

「できるんですか? 優しい先輩に、そんなこと」

「したくないわ。だから、させないでくれると嬉しいな」

 

 渇望と遠慮。

 真城の葛藤はそこにあると赤井は推測した。

 だから、彼女は暗に「遠慮する必要はない」と口にした。真城もそれを理解した。

 

「本当に、お人好しですね」

「何の事かな?」

「後悔しても知りませんよ」

「真城ちゃんの手を離す方が後悔するよ」

 

 

『カムパネルラはあのとき死んでいたんだ。溺れた僕を助けようとして、あの黒い運河の流れに飛び込んだ』

 

 赤井ヒカリ。

 彼女の評価が変わったのは、彼女が高校生のころ。スターズの俳優発掘オーディションでグランプリに選ばれたころである。

 

『僕のせいで死んだんだ』

 

 彼女の演技は、まさに迫真。

 現実にリアリティはないが、彼女の演技には存在する。そう評されだしていた。

 

『カムパネルラは、僕が殺したんだ……!』

 

 すると、同時期。

 ひそかにささやかれ始めたことがある。

 

「凄まじいな」

「ああ、まるで真城透世(ましろすけよ)の再来だ」

「真城透世?」

「ああ、10年ほど前だったか? スターズにいた大人気女優だよ。『MEISTER』の主演って言ったら分かるか? アカデミー賞を獲得した」

「ああ、あの人! そう言えば全然見ないな。引退したのか?」

「……亡くなったよ」

「……そう、だったのか」

 

 その評判は留まるところを知らない。

 何の変哲もない高校の学園祭。

 それが、赤井ヒカリが演劇をするというだけで講堂中が埋め尽くされるほどになった。

 

「しみったれた話はよそう」

「そうだな。ところで、なんなんだろうな。綺麗なのは分かる。演技が上手いのも分かる。だが、それだけじゃないような」

「突出しているものの正体」

「そう、それだ! それがいまいちわからん」

 

 スターズのトップ、百城千世子なら分かりやすい。徹底的に塗り固められた天使の仮面。それが彼女の突出した武器。

 あるいは後に有名になる、夜凪景でも分かりやすい。極みに至ったメソッド演技。それが彼女の突出した武器。

 

「『執念』だな」

「『執念』?」

「そうだ。理想的な自分になろうとする執念」

 

 観客の予想は、正解に限りなく近かった。

 だがそれでは百城千世子の下位互換に過ぎない。

 真実は少し外れた場所にある。

 まあ、辿り着く事なんてできるはずも無いのだが。

 

 ――自分ではない(・・・・・・)、理想的な何者かになろうとする執念。

 それが答えである。

 

 とはいえ、赤井ヒカリとは全くの別人が赤井ヒカリに成り変わっているなんて、誰が想像するだろう。あるいは彼女の両親であれば、真城が成り変わった赤井ヒカリと接していれば疑うこともあったかもしれない。

 

 もし、真城が赤井を利用していたのなら、そんな時が来ていたかもしれない。だが、彼女らは共犯者だった。赤井ヒカリの顔を、舞台と日常生活で分け合っている。

 

 そのことに気付くものはいない。

 

『……夏が来れば思い出す。星降る夜と、銀河鉄道』

 

 講堂中を、拍手が飲み込んだ。

 誰も彼もが彼女をたたえている。

 

 

「『デスアイランド』?」

「そう。有名漫画の実写化ですって」

「赤井ヒカリも出演するの?」

「ううん、断って来た」

 

 あの日、赤井先輩から差し伸べられた手。

 私は掴んだ。

 後悔はしていない。

 私が光の下に行くためには、依り代がいる。

 

 だけど、最初から割り切れていたわけでもない。

 

『カムパネルラはあのとき死んでいたんだ。溺れた僕を助けようとして、あの黒い運河の流れに飛び込んだ』

『僕のせいで死んだんだ』

『カムパネルラは、僕が殺したんだ……!』

 

 最初は、ジョバンニのセリフが出てこなかった。

 カムパネルラと赤井ヒカリが重なって、赤井ヒカリの好機を奪ってしまった罪悪感ばかりが膨らんで。

 思い悩んだ私に声をかけてくれたのは、赤井先輩だった。彼女は私にこう言った。

 

 ――だったら、真城ちゃんはきっと、誰よりジョバンニを演じられるよ。

 

 彼女は、あまりにも優しすぎる。

 優しい言葉が残酷過ぎて、痛い。

 

「デスアイランドのロケ、実際に無人島でするらしいから。私と真城ちゃん、どっちかしか行けないもの」

「……ごめん」

「約束したでしょ。二人で一緒にスターになるって。だから、言うべきは『ごめん』じゃないでしょう?」

 

 先輩は、あまりにも優しすぎる。

 

「ありがとう、赤井先輩」

「ん、それじゃ、いこっか!」

 

 これは一つの物語。

 二人で紡ぐ、一つの物語だ。


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