「おい、兄ちゃん。急にどうした、ボーっとして。リンガ食うか?」
「あ、れ……え?」
「どうするんだよ。食うのか、食わねぇのか」
「昨日も言わなかったっけ。俺、天衣無縫の無一文」
「冷やかしかよ! とっととどっか行きやがれ!!」
こちらの世界でも言語は通じる事を確認した時に話した厳つい顔の果物屋の主人。気が付いたらここにいた。
一体何が起こったのか分からなかった。
つい先程まで周りは薄暗く、吹雪が吹いていたはずだ。それが今はどうだ。太陽は燦々と煌めいており、雪のゆの字もない。
「一体どうなってんだ……」
地面も凍っていたはずで、最後にはスバルも――
「なぁ、おっさん。昨日って雪降ったよな?」
「はあ? 昨日はこれでもかってぐらい晴れだっただろ。頭でも打ったか?」
「しょうもない嘘はやめろって。一面真っ白になるぐらい吹雪いてただろうが」
「本当に大丈夫か? 危ねぇ薬とかやってるんじゃねぇか?」
嘘をついている様子はない。ともすれば、あれは一体何だったのか。
まさか夢という訳ではあるまい。夢にしては鮮明が過ぎる。スバルは赤髪の彼女との会話は全て覚えているし、蹴られた感覚から吹雪の感覚まで様々な感覚がリアル過ぎた。
悪質なドッキリ、という線もないだろう。
一言二言話しただけのスバルを標的にする意味も理由もない。
「となれば、まさか幻か……?」
あれが全て幻だったというのも信じられない話だが、ここは異世界。そういう魔法があっても不思議ではない。
が、その場合、かなりマズイ。何がマズイのかと言うと、スバルが異世界で生き残る難易度が爆上がりする。
「現実と間違えるぐらいの幻覚見せられる有名な能力者とか、いたりしない?」
「幻覚だ? そういう魔法は聞いた事ねぇな。幻覚が見たいならカラフルなキノコでも食っときな。てか金持ってないならさっさとどっか行った。商売の邪魔だ」
果物屋の店主にシッシッと追い払われ、スバルは大通りに沿って歩みを進めた。
「いや、さすがにないよな。そういう眼を見た覚えも技の発動も見ちゃいねぇんだ。これで本当に幻術とかなら理不尽過ぎる。何か取られたわけでもなし、俺をターゲットにした意味も分からん」
止まっていても答えが分かるわけではない。
動いたからといって答えが分かるわけでもないが、スバルは少しの間歩いた後、大通りから曲がって裏路地に入った。
昨日――か、どうかは怪しいところだが、記憶の中で入った路地とは別の場所だ。
同じような造りの場所が多いためにほとんど見分けはつかないが、一つ違う所がある。隅に置かれているのが木箱ではなく樽なのだ。
いつものスバルならばこんな細かい所まで見ていないが、赤髪の彼女が話していたものだ。スバルはしっかり覚えていた。
「さて、これからどうしたもんか……」
段差の部分に腰を下ろしてポテトチップスの袋を開けた。そして片手でつまみながらもう片方の手で携帯電話をポケットから取り出す。
そしてその時間、日付を確認すると、
「日付が変わってねぇ」
日付、そして時間が記憶の中で裏路地に来た時とほとんど変わっていなかった。時間は、まだ分かる。二十四時間経てば一周して戻るからだ。
だが、日付は戻らない。日付が戻るとすればそれは一年が経ったときのみ。なんとなくで八桁のパスワードを設定しているこの携帯電話の設定を弄って時間を戻すというのも非現実的な話。そもそもこの世界に携帯電話が扱える人間がいるとは思えないが。
ここで、スバルにある考えが浮かぶ。
それこそひどく非現実的で、まだ設定を弄られたと考える方が自然だが――
「おう、兄ちゃん。ちょっと俺らと遊んでいこうや」
ポテチを半分ほどまで食べた時、体感で数時間前に遭遇したチンピラ三人組がスバルの前に現れた。
▼△▼△▼△
「俺の事、覚えてたりしないよな?」というスバルの問い掛けには当然の如く「知るかボケェ」という答えが返ってきた。ジャージというこの世界では珍しい服装に、前回の遭遇では『剣聖』と彼らが恐れていた彼女もいたのだ。そうそう忘れないだろう。
チンピラたちとのやり取りで荒唐無稽な仮説に信憑性が増していった。
ほとんど確信に至った結論。すなわち時間の巻き戻り。
火を出す、水を出すといった比較的現実でも想像しやすい異能ではない。スバルが無意識に行ったか、他者によるものかどうかは分からないが、そう思った方が辻褄が合う。
事実、チンピラたちは記憶であった通り、真ん中の中肉中背がナイフを持っていただけで左右の二人は無手。身体能力はスバルで張り合えるものだった。
そのためスバルはまず武器を持った真ん中を先制飛び蹴りからの顔面踏み付け、左右の長身と小柄を鼻頭パンチとこめかみハイキックで一瞬戦闘不能にすると、大通りへ出た。
「さすがにここまでは追ってこれねぇか」
小物臭のする三人だった。この人通りの多い場所で追い剥ぎなど出来ないだろうという予想だったが、どうやら正しかったようだ。
スバルは大通りを下りながら細い路地への入り口を覗く。目印は木箱。スバルがこの世界で唯一頼れる、かもしれない彼女がいたというアレだ。
似たような造りの場所は多いが、最初に彼女と出会った路地と同じように入った突き当たりに木箱が置いている場所はかなり少ない。
「ここ、か?」
しばらく歩いてスバルはようやくそれを見つけた。
正面に大人が五人ぐらい入りそうな木箱にあり、なんとなく前に来た気がする。
彼女がいると、スバルは直感で確信した。
とはいえ、彼女の姿は見えない。『隠伏の加護』と彼女は言っていた。名前からして姿を隠す能力やその類だろう。
不器用ながらも親切にしてくれた彼女がそんな意味もない嘘はつかないはずだ。
少し離れた所から見ると木箱の横に誰かが乗っている様子はない。だが、目の前まで来て目を凝らすと、
「……!」
本当に針の穴を見るように目を凝らすと、箱の横に少女の輪郭があったのだ。
一度その姿が認識出来ると、見つかった相手には効果が半減するという制約でもあるのか半透明ではあるが、彼女の全体像が見えてくる。
彼女は、木箱の横で膝を立てて座っていた。いわゆる体育座りの姿勢だが、膝の腕に両腕が乗っており、そこに顔をうずめている。
「…………」
スバルは一瞬、声を掛けても良いのか迷った。彼女は気付いていないのか、分かっていてそうしているのかは分からないが、顔を上げたりはしない。
「あの、もしも〜し」
「っ……!?」
意を決して声を掛けると、彼女は青い目を見開いて顔を上げた。
そしてその直後、猫かというほどの素早い身のこなしで壁を飛び越えていった。
「えぇ、なんで……?」
何故かスバルが彼女に逃げられたような形だ。
何もしていないのに。いや、急に声を掛けられたら誰でも驚くか。
ただその場にいただけでなく、本来見つからないはずの能力のようなものを使用していたのだ。それが見つかったとなればパニックにもなる、のかもしれない。
とはいえ、スバルには壁を登って屋根の上を走るなどという芸当は出来ないため、彼女を直接追う事は出来なかった。
彼女はマント付きの全体的に白を基調とした礼服――剣を背負っているので戦闘服かもしれないが――を纏っている。かなり目立つため聞き込みでもすればすぐに見つかるだろうが、このまま追い掛けても良いのか。
「しかしまぁ、それよりも寝床の確保だよな」
ただ、それよりもだ。
仮に、仮にではあるが、時間が巻き戻っていた場合、今夜は大雪が降る。外で過ごすのは論外でどこか屋内に避難する必要がある。
だが、現状スバルにこの世界で使える所持金はなく、一泊させてもらえるような知り合いもいなかった。
▼△▼△▼△
予想通り、案の定ではあるが、スバルのようなどこの馬の骨とも知れない者を家の中に入れてくれるようなお人好しはいなかった。
もちろん、全ての家を回ったわけではない。ほんの数軒程度だが、その数軒でスバルは諦めた。例の果物屋の店主とその隣の店の主人、向かいの店の店員だけに話し掛けられただけでもスバルは頑張った。
そして、行く宛もなかったスバルは彼女と共に訪れた高台にいた。
登るのにかなりの労力が必要なだけあって、この場にいるのはスバルただ一人。
「はぁ……マジでどうすりゃいいんだよ」
出来る事もなく、時間だけが過ぎていく。
最悪の場合でも、あの雪さえなければ外で過ごす事は不可能ではないのだが。
「そもそもなんで急に雪が降るんだ。体感的に春か秋ぐらいだぞ、これ」
暖冬でスキー場に雪が足りないというニュースは何度か見たことはある。
だが、暖かいとは言ってもそれは例年の冬と比べての話。今この瞬間の気温の方が普通に高い。
まさか誰かが魔法でも使って降らせているわけでもあるまい。
「て言うかせっかく異世界に来たのにそれっぽいやつ見てねぇな、魔法。ラインハルトちゃんは使えんのかな。使ってたか」
半ば現実逃避気味に空を眺めるスバル。その空は赤みを帯びてきている。
もうすぐ夕暮れだ。正確な時間は分からないが、一度体験したあの時間が繰り返されているとすれば吹雪になるまでもう時間はあまり残っていない。
「また戻るのか、それとも……」
実感はない。だが、ほとんど確実に時間は巻き戻っている。
となれば、今回もまた時間は巻き戻るのか。それとも戻らないのか。戻ったとして、その次も戻るのか。
いわゆるループものにはそのループを抜け出すためのキーとなるものが往々にしてあるものだが、それらしきものも一向に見られない。
「いきなりハードモード過ぎるだろ。初心者にはもっと優しくしろよ……」
ただ徒に時間が過ぎていく。スバルはベンチに座り、ただその時を待った。
そして――
「何だ、あれ…………」
彼女が指差して貧民街だと言っていた辺りに周囲の建物の何倍もの大きさである化け物が出現するのを見た。
▼△▼△▼△
「どうした兄ちゃん、急にぼーっとして」
「……いや、何でもねぇ」
「急に止まるからビビったぞ。ところでリンガ食うか?」
「あー、言ってなかったっけ。俺、今無一文」
「冷やかしかよ! 何も買わねぇんなら邪魔だ! とっとと帰れ!」
気が付けば、やはり戻っていた。
これで三度目となる果物屋の店主とのやり取りだ。
スバルは大通りを歩きながらポケットに入った携帯電話を確認した。
「やっぱり戻ってるな」
確信していたが、日付と時間が戻っていた。更には半分ほど食べ進めていたはずのポテトチップスも新品の状態だ。
時間は巻き戻っている。確定だ。
「となると、このループを抜け出さなきゃいけないわけだが」
前回と前々回、全くと言って良いほどヒントも何も無かった。
だが今回、前回の最後に見たものがある。
「条件はあの怪獣の討伐ってところか? 無理ゲー過ぎて笑えてくるな」
最後、貧民街に突然現れた巨大な怪物。アレが現れてから雪が降り始めた。王道から考えても確実に避けて通れない道だ。
とはいえ、スバル一人ではどう足掻いてもあんな怪物を倒す事など不可能。
「頼るしかない、か」
スバルは赤髪の彼女の姿を思い浮かべて迷うことなくある場所へ向かった。
▼△▼△▼△
初めて会った時はチンピラにナイフで刺されそうになったところを助けられる形だった。二度目に会った時は――あれが会ったと言えるのかどうかはおいておくとして――スバルから声を掛け、驚かせてしまったのか彼女は逃げてしまった。
これから会うのはスバルにとっては三度目になる。場所は覚えていたので会おうと思えばすぐにでも会えるが、スバルから声を掛けた場合、二度目と同じ結果になる可能性が高い。
ならば、一度目と同じように彼女からアクションを起こしてくれるのを待つ必要がある。
「金目のもの、全部出してもらおうか」
「生憎、俺は一文無しだ。金目になるようなのは持ってない」
どうすれば良いか、そう考えたスバルの前にあらわれたのはお馴染みになりつつあるチンピラ三人組。裏路地へ行くと絶対に遭遇するようにでもなっているのか。
二回目は違う場所だったはずだが、裏路地を回ってカモを探しているのだろうか。
「ならその珍しい服でも置いてけや!」
ともあれ、結果オーライだ。
あとはスバルの命が危なくなればきっと彼女は動いてくれる。彼女の善意に縋るようで罪悪感はあるが、現状を打破するには彼女の力が不可欠だった。
「俺が本気を出したらお前らなんか秒でボコボコなんだが、逃げた方が身のためだぞ?」
もちろん、嘘だ。一瞬怯ませるぐらいは出来るだろうが、ボコボコなどスバルにはとても無理だ。
ハッタリも甚だしいが、こうして煽ればこういう手合いはすぐにやる気を出して武器の一つでも取り出すはずだ。
「はっ、おもしれぇ。やれるもんならやってみな」
スバルの狙い通り、真ん中の一人がナイフを取り出した。
「お、おい、武器はズルいだろ!」
「この場にルールなんかねぇんだよぉ!」
そしてすぐさま及び腰になって一本後退り、相手が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
スバルは土下座のタイミングを伺うが、その前に何かで躓いて尻もちをついた。
「あ、ヤベ」
チンピラはナイフを振りかぶりながらスバルに迫る。
後ろに彼女がいるのは確認済みではあるが、本当に来てくれるかどうかは正直賭けだった。このままでは本当にナイフで刺されてお陀仏だ。
スバルは心の中で彼女の名前を連呼し、助けを求めた。
「――そこまでよ」
「……あぁ?」
ナイフが振り下ろされる寸前、どこまでも透き通った美声がその場を支配した。
「本当は黙っていようと思ったけど、命に関わる事は見過ごせないから」
長い赤髪と青い瞳が特徴的な少女。
『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア。
一度目の世界でスバルは彼女を天使と呼んだ。
それは決して間違いではなかった。
「出来るなら、手荒な真似はしたくない」
「け、『剣聖』……!? ふざけんな! こっちだってお断りだっ!!」
チンピラたちは走って逃げていった。
一度見た事のある光景だ。それはスバルにとってはどうでも良い事。
本当に大切なのは、このまま何も言わずに去ろうとしている彼女を引き止める事だ。
「ちょっと待ってくれ! 話があるんだ!」
スバルは身を翻して去ろうとしていた彼女に声を掛ける。
彼女は足を止めて振り返った。
「…………。あなた、私が誰か知っているの?」
返ってきた言葉は初めて会った時と全く同じもの。
だが、スバルはあの時とは違う。
「知ってるさ。『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアさん、だろ?」
「……そう。ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ」
「急に私みたいなのが出てきて気分を悪くしただろうから」
これが初めての会話だったら、スバルは彼女が何を言っているのか分からなかっただろう。
しかし、今なら分かる。
力がある。ただそれだけの事で恐れられ、人と関わりを持つ事を避けるようになってしまった。
確かに彼女の力は常人と一線を画すものだろう。大き過ぎる力が恐怖の対象となる事も理解は出来る。
でも、彼女は一人の少女だ。
無差別に暴れる特撮に出てくるような怪獣とは違う。
スバルは決めたのだ。彼女の味方になると。
「そんな悲しい事言わないでくれよ。俺は君に救われたんだ。君がいなかったら殺されてたかもしれない。だから、気分が悪くなるなんてあるわけない」
「…………」
「助けてくれてありがとう。あと、ありがとうついでにちょっと話したい。ちょっと、付き合ってくれない?」
▼△▼△▼△
スバルは裏路地の小さい階段状の段差に腰を下ろし、彼女はスバルの前に立った。
一瞬彼女が隣に座る事を期待したスバルだったが、それは仕方ない。彼女からすればスバルは初対面だ。
一先ず対話出来る状態になったのだ。スバルは慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「あのさ、この辺の建物の何倍もあるような怪獣に心当たりとか、あったりしない?」
「…………心当たりが無い事もない」
現状での最優先はあの怪物の討伐、ひいてはそのための情報収集だ。
まず言うまでもないが、スバルはアレの正体がが何なのか全く知らない。故に対策の立てようがない。
「――白鯨」
「白鯨?」
彼女の口から出た白鯨という言葉をスバルは思わず反復した。
「白い鯨って事だよな? まぁ、確かに鯨ならその辺の建物とかより余裕でデカいかもしれねぇけども。俺が聞いてるのは水の中じゃなくて陸上の怪物の事なんだけど……」
「違う。白鯨は水中生物じゃない。三大魔獣に数えられる、れっきとした陸上に現れる魔獣」
「え、そうなの?」
鯨と言うからてっきり海の中にいるものだと思ったが、どうやら違ったらしい。
陸にいる鯨とは、何かの比喩なのか。それともこの世界にいる鯨は陸上の生物なのか。
それはスバルには分からないが、今はそれはいいだろう。
「じゃあさ、もし仮にその白鯨がここに現れたら倒せたりする?」
スバルにとって重要なのは倒せるか否か。それがスバルが知っている鯨でもそうでなかったとしても、それは関係ない。
「倒すこと自体は、出来る。でも私には出来ない。それをするのは私じゃないから」
「白鯨専門の人がいるってこと?」
「そう。私のお祖父様」
「おじいさんが、か」
仮にアレが白鯨だとすると、彼女のおじいさんは間に合っていなかった。何の前触れもなく突然現れれば仕方のない事なのかもしれないが、このまま任せる事は出来ない。
「白鯨の能力は? 雪を降らせるとか」
「そんな話は聞いた事がない。白鯨が出すのは雪じゃなくて霧」
「霧? ならアレは、白鯨じゃないのか」
スバルが見たのは比喩抜きで体が凍えるような吹雪。どう見積もっても霧などではない。
三大魔獣などと呼ばれている存在が現れてすぐに出した能力が知られていないとは考えにくい。となれば、アレは白鯨ではないのか。
スバルがそう考えていた、その時。
スバルと彼女の頭上を影が通り過ぎた。
「なんだ……?」
スバルたちを飛び越えたその影は金髪の少女だった。すぐに飛び越えた勢いのまま走り去ったため、それ以上の情報は得られなかったが、だからといって問題となる事もない。
スバルは話に戻ろうと視線を戻すと、今度は彼女の視線がスバルとは違う場所に向っていた。
その視線を追って振り向くと、そこには銀髪の少女が立っていた。
▼△▼△▼△
「まぁ、なんだ。そういう時もあるって。元気出していこうぜ」
「…………」
スバルは地面に座り込んで膝を抱える彼女を元気付けようと苦心していた。
何故こんな事になったかといえば、先程現れた銀髪の少女が原因だ。
エミリアと呼ばれた少女は詳しい事は話さなかったが、ほんの少し前に走り去っていった金髪の少女を追い掛けていたらしく、ラインハルトが「手伝いま……」まで言ったのだが、それを言い終わってもいないのにキッパリと断られてしまったのだ。
親しい関係なのか、エミリアが現れてから彼女のテンションが僅かに上がったのをスバルは感じ取っていた。故に、上がったテンションのまま、良い感じに話を進めようと思ったのだ。
しかしその矢先に彼女は手伝うという提案を一蹴され、当のエミリアは既に去った。一蹴と言っても、申し訳なさが全面に出ていたが、彼女には効果抜群だったようでこのありさまだ。
「布団が吹っ飛ん……は駄目なんだった」
膝を抱えて顔を伏せている少女に話し掛けるというのは大変やりにくい。
スバルは心の中でエミリアに恨み節を唱えながらもなんとか彼女を立ち直らせる方法を考える。ここで本来なら食べ物でも買って来る事が出来れば良いのだが、生憎とスバルはこの世界で使える金を持っていない。
「ここは直球が吉か……」
残念ながらスバルには彼女を慰められるスキルがない。
「付き合ってもらいたい所があるんだ。頼む。俺についてきてほしい」
もう手札の無いスバルは全力でお願いする事にした。
▼△▼△▼△
スバルのお願いに、彼女は思ったよりもすんなりと立ち上がった。だが、行き先を貧民街だと言うと、彼女の表情は曇った。
初めはその理由が分からなかったが、年季の入った建物が並ぶ場所に足を踏み入れて少し。スバルはその理由を理解した。
「なんだよ、あいつら……!」
「私は、何を投げられても当たらないから」
スバルたちは何度か物を投げつけられたのだ。酷い物は石の入った泥団子まであった。
彼女に向っていった物は全てから当たる直前で不自然に軌道が曲がり、彼女の顔や衣服が汚れる事はなかったが、投げつけられたという事実がスバルを苛つかせる。
彼女の手を引きながら進む。
気にしていない様に彼女は振る舞っているが、傷ついているのは見ていて容易に分かった。
すぐにでも投げ返してやりたかったが、今はそれよりも重要な事があった。
「もっと奥か……? クソッ、正確な場所が分からねぇ」
例の怪物が現れる場所は貧民街の真ん中辺り。高台から見た景色であるため、正確な位置など分かるはずもない。
加えてあの怪物が現れたのは一瞬。それまでは影も形もなかったのだ。召喚者のような存在がいれば事前に察知する事も不可能ではないかもしれないが、現状それも無理。
今のスバルには彼女の手を引いて進むしかなかった。
「待って。今、音が……」
しかし突然、彼女は足を止めた。
意図せぬタイミングで後ろ向きに力が加わった事でスバルは変な声が出そうになるが、なんとかこらえる。
彼女の手がスバルの手から離れ、彼女は90度方向を転換して走り始めた。
スバルでも追い付けるスピードなので一応スバルの事は忘れていないらしいが、急に駆け付けなければならなくなるような音はスバルには聞こえなかった。
「ここは?」
「分からない。でも――」
彼女が立ち止まったのは周囲の建物よりも一回り大きな蔵の前だった。
そして彼女が分厚い扉を開け放った瞬間、
「ぇ……?」
視界に飛び込んできたのは赤。
直後にそれが血だと理解した。
その理由はバタリと倒れた白い影。少し前に会った銀髪の少女が倒れ、その床には赤い液体が広がっていく。
「え、エミリア様……?」
その時スバルは脇目も振らずに駆け寄る彼女に、黒い物体が迫るのを見た。
それが刃だと気付いたスバルはとっさに彼女を押し飛ばした。
「ッづ、あ……!?」
彼女を襲うはずだった刃がスバルの背中を襲う。
刃物で斬られた事などないスバルは初めて経験した焼けるような痛みに喘いだ。
「どうして……」
「へへ、女の子を守りたいって思うのが、男の子なんだよ」
スバルは痛みで顔を歪めながらもなんとか彼女に言葉を返す。
動けたのは奇跡と言って良かった。彼女に迫る凶刃に気付いた偶然と、そこにいたのが紛れもない彼女であった事実が重なった結果だったのだ。
「あらあら。格好いいのね」
それはスバルの言葉でも、彼女の言葉でもない第三者の言葉。
首を声のする方へ向けると、そこに立っていたのは黒い外套を纏った一人の女。妖艶な雰囲気の美人だ。前を開けた外套の中から出るところの出たナイスバディが覗いている。
出会う場所が違っていたら見惚れていたかもしれない。その手に血の付いたナイフを持っていなかったらの話だが。
「それにしても、面白い偶然もあるものね。『剣聖』とこんな場所で会えるだなんて」
ねっとりとした視線が右へ左へ動く。
その先にスバルは金髪の少女が血溜まりに倒れているのを見つけた。服装から、それは裏路地で見たエミリアが追い掛けていた少女だと分かった。
「エミリア様が、このままじゃ…………そうだ、フェリス、フェリスなら……」
自分の傷はどうなのか分からないが、金髪の少女もエミリアも、助かりそうにはなかった。
スバルは彼女に掛ける言葉を探すが、スバルが何かを言うよりも先に黒い影が口を開く。
「その子はもう駄目よ。絶対に助からないわ」
それは無慈悲な宣告だった。
この世界に来てから一番多くの時間を共に過ごしたのは孤独な少女だった。言葉の端々からは人との関わりを拒絶する感情が感じ取れた。
そんな彼女が繋がりを持ったエミリア。
きっと、否、考えなくても分かる。大切な人だった。それを、踏みにじったのだ。
「それよりも、私と踊りましょう?」
両手に一本ずつ黒い刃持ってクルクルと回している。
それはまるで、自分の手で切り裂いた人間の事など眼中にないようで。
「…………さい」
「何かしら?」
「――うるさい!!」
直後、エミリアの側に跪いていたはずの彼女が黒い女のいた場所で拳を振るっていた。
何かが潰れるような音と共に一つの影が消える。
スバルが何が起きたのかを理解したのは蔵の壁の一部がなくなってからだった。
彼女があの女を殴り飛ばしたのだ。
動きは全く見えなかった。スバルは彼女の実力を改めて認識した。
「すぐにフェリスを……」
そしてそんな言葉を残して彼女は蔵を出ていった。
エミリアや金髪の少女のように床に伏せる事にはならなかったスバルは幸いにも傷が浅かったらしい背中の痛みに耐えながら一人残される事となった。