一心の国盗り戦から、二十余年。
日の本に燻る戦火は未だ衰えず、内府――徳川家康公の指先はこの葦名にも届いていた。
だからこそ薄汚い"鼠"がそこかしこに湧いているのだ。ああ、穢らわしい!
梟の許で忍びとして成長した"狼"も、やはり職業柄その手の話をよく聞く。
これまで、義父に随行する形で――はたまた、仮の拠り所である寄鷹衆としての任務の中で。やはり彼奴らと相見えることは多々あった。
その何れもが熟達の忍びだったが、大忍びや御子の忍び――未来の、ではあるが――を殺めるには不足にすぎる。
いとも容易く心の臓を刺し貫き、それで終い。
ただでさえ前回の技術を覚えたままなのだから、今更多少の難敵に遭遇したところで――負ける道理などない。それは許されない。
だから狼は優れている。忍びとしても人斬りとしても、実に優れた従者だ。
故に来る日も来る日も尽きぬ職務を不足なく遂行する。彼女を遊ばせておく余裕などこの葦名の何処にも無かった。
密偵が居た。殺せ。
情報操作の痕跡があった。探せ。
防諜に勤めろ。十全に。
一日の大半はこれに尽きる。
自身に割り振られる仕事の多さに目が回るようだった。
ただでさえひっきりなしに内府の鼠が入り込んでくる現状、"寄鷹衆"の仕事量は半端なものではない。
忍び達の精神的な負担もまた甚大。
遥かな未来であれば、国が制定した"労働基準法"に唾を吐きかけているようなものだ。
実に哀れ、と侍達に同情されるのはいつもの事。
日陰者であるが故に軽んじられることが多い忍び達ではあるが、今回ばかりは誰にも軽視出来なかった。
あの葦名一心も評価してくれているのか、特別賞与なるものもたんまりと与える程に。
そもそも、金を使える機会なぞないのだが。
例えば狼の場合。
彼女は元々娯楽の類に興味はなく、"今生は女だから"といって装飾の類に熱を上げるわけでもない。
"前"も"今"も忍びの鑑と呼べるような、只管に職務な忠実な女であった。
しかし、それはそれとして。
他の忍び達はそうではない。
確かに職務に忠実だ。葦名に捧げた忠誠はまことの輝きを放っている。
だが。だからこそ、楽しみというものは大事である。
万全の休養なく熟練の技術が冴える通理は無い。
――太陽が空高くに登り、燦々と陽の光が降り注ぐ。
にもかかわらず少しばかり薄暗い、荘厳なる葦名城の片隅。その詰め所。
比較的重厚なヒノキによって作られたこの平屋は、忠実なる寄鷹衆の為に拵えられたものだ。
任務を終えたばかりの狼は、僅かな休息の合間に荷物の整理をしていた。
パンパンに膨れ上がった雑嚢から取り出した品は多種多様。
それらを狼用の箪笥に放り込み、丸薬や飴など必要な品を仕分けていく。
これは毎度毎度の恒例事項であり、同僚たちにとっても見慣れたものだった。
「……保存用丸薬……保存用月隠の飴……保存用にぎり灰……」
というのも、移動している最中に――或いは対象を殺めた後にも、常に欠かさず道具を拾い集めているからだ。
戦場で死体漁りをしていた頃に拾い癖が染み付いたのか、最早狼にとって呼吸と同義である。
狼はそうして得た物品の内、戦闘や将来に役立ちそうにないモノは全て適当な人物に押し付けている。
云うなれば変若の御子にひたすら柿を食わせるような感覚だ。
もちろんだが意味など無い。
変若の御子の胃袋? 狼には関係のないことだ。
暫し詰め所の中を見回す。
淡い陽光が差す室内を巡り、はたと隅に視線を留めた。
狼の視線の先には一人の男。
彼はぼんやりと座布団に座り込み、束の間の休息を堪能しているらしかった。
飯を喰らうでもなく、煙を吐くのでもなく、ただただ虚空を見つめるその姿。
いっそ虚しさや哀しさを感じさせる風体からは、その老いた身に詰め込んだ疲労を察して余りある。
"こやつにしよう"
狼は一人頷き、此度の標的に音も無く歩み寄る。
二十年と少しの時を経て大きく育った体はすらりと伸び、実にしなやか。梟のような巨体ゆえの圧迫感とは無縁である。
左の白指に持ち上げられたのは葦名の酒。
右手には盃。
つまるところ不要な品の在庫処分も兼ねている。
「ああ、梟の倅か……」
それに構わずぽい、と放られた盃。
僅かな空中散歩の後危うげなく忍びの手に渡り、掌の内に収まった赤い漆を慣れた様に弄ぶ。
「……茶だ」
「忝ない」
これだこれだ。これこそが数少ない楽しみの一つ。
忍びは嬉しそうに口許を緩めた。
日々の激務はこの上なく辛いが、このように合間にある憩いの時が実に沁みる。
きっと苦労があるからこそ、幸福が色濃く浮かび上がるのだろう。
今となっては博打も物見遊山も遠い夢の中であるが、
葦名の酒を呑む忍びは、気分良さげに盃を揺らした。
重ねて言うが、この行いに意味があるわけではない。
強いて挙げるなら未来で攫われる御子――そもそも攫われないように動くが――を救いに葦名城に赴く際、いくらか楽になれば良い……という程度の、淡い淡い思惑だ。
如何ほどの効果があるのか?と問われれば、気休め以外の何物でもないが。
しかしながら、その細やかな気配りは狼の想定以上に効を為している。
なにせ男ばかりのむさ苦しい職場だ。日々の労働で疲れ果てる中、数少ない女性――それも若く、美しい人物からの差し入れであれば実に甘露。
単純な
狼が形の良い眉を常に不機嫌そうに歪める様を見て、怒り顔と誤解されることも多いがそれはそれ。
美人であれば華があるというもの。
加えて
「……あぁ……良いなぁ、実に良い。任務の合間のこの時間こそが至福の時よ」
「………そうか」
「お前は変わらず言葉少ない女よ……はは、それでこそ忍びとも言えるがね」
「…………」
むっつりと黙り込んだままの狼。
表情は微塵も変わらず無愛想なままだが、忍び達にとっては見慣れたもの。
むしろこの表情にこそ愛嬌があるのではないかとさえ感じている。
……まあ、この無愛想な女の満面の笑みというのも、一度は見てみたくあるが。
「ああ、そうだ……お前、平田氏の方で主を頂くんだったか」
「……そうだ」
「そうかぁ……寂しくなるなあ。お前、向こうに着いたらいくらかは愛想よくしておけよ。忍びが眉間にシワ寄せていたところでそうそう悪く思われることはないだろうが、いい第一印象を抱かれておいたほうが上手くいくだろうさ」
「……善処する」
「はっは!まあ頑張ってくれや」
酒の香りを口の中で楽しむように、舐めるように盃を傾ける。
酒精で喉を湿らせて、腹から這い上がる悦楽に気分を良くした。
やはり酒は良い。どんな時でも、どんな状況でも"楽しさ"を忘れさせない万能の薬だ。
男は知っている。
人間、そういったものを忘れてしまえば、あとは転がり落ちるように人から外れていくものなのだ。
その行き着く先がどのようなものであれ、決して良いものとは思えない。
だから、"楽しむ事"は大事だ。
故にこそ、それを提供してくれていた狼には恩を感じていた。
"
「一応、耳寄りな事だ」
役に立つかもわからない。しかし貴重な情報。
これまで凄まじい貢献を為していた後輩に対して適切かは分からない。分からないが、男に出せる感謝の気持ちとしては最上のものだった。
「大手門にある井戸……その壁面に隠し扉がある。中は極一部の寄鷹衆と侍が管理してる書庫でな……葦名に於いて、特に珍しい情報が収められている。もしなんかありゃあ探してみると良い。読むぐらいなら……まあ、バチは当たらんだろうさ」
「……それは」
「言ったろう?バチは当たらんさ。あんな所に用が出来るとは思わんがね」
「そうか」
忍びはそう言って、再び酒を呑む。
目の前の娘であれば――この葦名の産まれでさえなければ争いとは無縁な生活を送れたろうに。
本来こう思ってはならないのだろうが、それでも想わずには居られなかった。
「忍びの掟は忘れまいな」
仄暗い一室に、深く淀むような声が響く。
声の主たる梟は闇の中、己が娘に言い聞かせる。
即ち忍びの掟。忍びの心得。忍びとして、何よりも芯に置くべき絶対のモノ。
「親の次に大事なもの、お前の心に刻むがよい」
「…………」
とっ、とっ、とっ。
梟が踏み締める畳の嘶きは一室に染みて消え、その場に残るは義父から齎される最後の指南。
心の裡に大事にしまい込み、すぅと肺の空気を入れ替えた。
城を離れ、この平田の屋敷に到着したのは先程の事だ。
道中も家屋も、植生に至るまでが何から何まで変わらない。
そしてこの一室の一場面もまた、一周目と同じだ。
生涯の主を仰ぐ直前の光景。ああ、なんとも懐かしい。
これまでに積んだ修練の果てに待つ、終着点にして始発点。
「あれが、今日からお前の主だ」
じっと顔を持ち上げた。
襖の隙間より差す光が左目を照らす。寸分の時を掛け瞳を慣らすと――やはり、居た。
あの時と同じように、じっとこちらを見つめ返す童が。
――再び顔を落とす。
これより始まるは主従の儀。
一瞬とはいえ再び見ることが出来た主の姿に、どこか胸が弾むような感覚を覚えた。
……もう一度。今度こそ。守らねばならない。
だから、ここからなのだ。
「命を賭して守り、たとえ奪われるとも……必ず取り戻すのだ」
「………は」
――襖が開かれた。
途端に仄暗い一室は光に満たされ、内にある忍びの姿が顕になる。
主――九郎の傍に侍る平田家当主は、思わず感嘆のため息を漏らす。
九郎は、跪いた忍びが女性であることにまず驚いた。
どうしても肉体的強度で劣る女性では荒事に向かないからだ。
己の
なんせその血に宿る力を求める存在など、文字通りの意味で腐る程に溢れているのだ。
葦名の武家もそうだろう。葦名の主を継ぐ者もそうだろう。寺に住まう探求者もそうだろう。それこそ内府とて、その存在を知れば何が何でも手に入れようとするに違いない。
だから、それを跳ね除ける力が必要だ。
何があろうとも守り通し――仮に失ったのならば、如何な手段を用いてでも必ず取り戻す。
その上で身体能力の不利を考えてしまうと……やはり、男の忍びが訪れるのだろうと、そう考えていた。
しかし目の前の女性はどうか。そんな性差の不利を埋めてまで九郎の前に跪いている。
……武に疎い九郎でさえ分かる。
年若い姿には見合わぬ程に高濃度で身に秘められた――否、溢れ出す剣気。
寄れば切り裂かれそうなほど、鋭く重い。
御当主が見惚れるのも無理はない。
「面を上げよ」
「………」
九郎の言葉を受けて、目の前の忍びはゆっくりと顔を上げた。
ようやく見えた
九郎はそれに思わず呆れの表情を浮かべそうになるが――まあ無理はないだろうと理由をつけ、なんとか堪えた。
黒く長い頭髪を後頭部で無造作に纏め、垂れる前髪の隙間から覗くは一筋の刀傷。
あくまで殺しを生業とする忍びだからだろうか。意図して美しく整えているようには見えない。
にも関わらず、何処か危うげで不思議な美を体現しているようだ。
……とはいえ。そのように表現したものの、九郎には未だに女体に対する欲の類は芽生えていない。審美眼と呼べるものも発展途上だ。 が……しかし、目の前の女性を見れば「なるほど、美女とはこのような者を言うのだろう」と納得できる。
――されども、斯様な感嘆は一度傍らに置こう。
まず遠路遥々訪れた勤勉なる者に報いねばなるまいて。
「……そなたが、狼か」
「は」
「私は九郎と云う。これよりそなたの主となる男だ」
「………は」
九郎は傍に置かれた桐箱を引き寄せる。
丁寧に蓋を開け、内にある宝物を取り出した。
「これは"楔丸"。平田の家に伝わる
黒い鞘に黒い柄。堅牢な造りの打刀。
闇の中でも目立たぬように拵えられ、狼のような忍びにとって何よりも頼れる相棒となろう。
ゆっくりと栗形を掴み持ち上げた。
「………っ」
九郎は狼に歩み寄りながらも、益々肌を突き刺す威容に舌を巻いた。
これ程の忍びが自身に仕えるという。
この葦名中を探しても、これに優る猛者はそう多くないだろう。
正直に吐露してしまえば……僅かな気後れと、どこか誇らしい気持ちが同居しているようだ。
だからこそ。自分は誠意を持って、言葉を投げかけねばならない。
「狼よ……主従の約定に従い――命を賭し、我に仕えよ」
楔丸が差し出された。
幾度の戦場を共に走り抜けた相棒は、今も過去も未来も変わらずに美しく輝いている。
決して折れず、曲がらず、欠けない。
そんな在り方は、いつもいつも狼を助けてくれた。
――その相棒を縁に、今再び主従の契約の時へ至る。
眼前に在る楔丸をしばし見つめ、狼は自問する。
それはある種の躊躇だった。
僅かな刹那を奔る逡巡。
どうするのか?
どうしたいのか。
どうやって、主を守り通すのか。
どうしたら願いを叶える事ができるのか。
己は為すべきことを為せるのか。
……狼は、ありもしない奥の歯をじっと噛み締める。
狼の腹の中は二十年前から――いいや、もっと前から決まっている。
何を為すのか、何を為したいのか。
……どの様に為すのか。
どちらにしろ、どうあってももう後戻りなど出来ないのだ。
苦悶の叫びを上げようと、身を焦がす怒りに晒されようとも関係ない。
あるがままに万象は回る。
――ならばこそ、これよりは戸惑いも躊躇も妥協も許されない。
時の逆行など二度も望めるべくもなく、望むべきでもないのだから。
狼に出来るのは――一人の従者として、これからの苦難に全霊を賭す事のみ。
「御意」
<TIPS>
「赤い漆の盃」
特別豪華でも優美でもなく、なんら変哲のない、実に普通の盃。
狼が酒を振る舞う際、相手方に手渡すもの。
葦名に尽くす忍び達は思う。
苦難の果てにこそ幸福はあり、故にそれは一等輝くものなのだ。