TSおねショタ隻狼伝説   作:豚ゴリラ

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絶対に働きたい狼vs絶対に休ませたい九郎

「ああ、これ!動くでない!まだ結わえてる途中じゃ!」

 

「………承、知」

 

 

遍く世を照らす偉大なる太陽。

その光輝を余さず受け止める平田屋敷は、古めかしくも厳かな情緒を見せつけている。

 

ああ、素晴らしきは母なる大御神!

そのご利益()は、きっと葦名を包み込んでいるに違いない。

故にこそ平田の屋敷は常と変わらず――いいや、この日ばかりは何故か普段以上に平和だった。

 

強く響いた老婆の叱咤と、若い女性達のころころ高鳴る笑い声。

こんなもの、平和なくして溢れることなどありえないだろう?

 

老婆――"野上のおばば"はしぶしぶ得られた了承の意を満足気に受け止め、再び指先を動かす。

そしてその指の先が弄ぶのは、狼の長く伸びた頭髪だ。

狼は仲の間(使用人の部屋)に敷かれた座布団の上に座り込み、所在なさげに視線を彷徨わせた。

 

 

「……これは、必要か」

 

「当然よのう。おぬしは若様の付き人だろう? それがみすぼらしい身なりをしていては、若様自身の品格を疑われてしまう………それは、おぬしも望んでおらぬだろう?」

 

「む……」

 

 

そう言われてしまうと、狼は強く出ることができない。

……けれどだからといって、このような意味のない行為をする必要など何処にもないだろう。

 

徹底的に無駄を排す。それは狼が何よりも重んじなければならないものだ。

故にこそ狼は何が何でもこの場を辞す為に、それに足る理由を押し付けなければならない。

 

――つまり熟達の忍びが誇る、鋭き舌鋒の見せ所である。

(はかりごと)、弁舌、情報戦。それら全て忍びの専売特許。

狼は自慢の脳髄から有効な言葉を引き出すために思考を回す。

 

 

野盗を討伐せねばならない。

――近隣の野盗は全て根切りにした。

 

平田屋敷の改造を施さねばならない。

――この屋敷はもはや要塞だ。最高効率で無駄も不足も無いよう整えた。これ以上の仕掛けを増やしたところで、ただ持て余すだけの無駄を生み出すだけだ。

 

主を護衛しなければならない――。

――否。

……他ならぬ九郎自身の言葉で、前もって()()()()()()()

そう、()()()()()()()()()

 

 

仕方なくそれ以外の言い訳を吐き出そうとするが……そもそも、吐き出すための中身が存在しない事に愕然とする。

 

開かれた口からは声が出ず、代わりに空気が掠れる音が寒々と響くのみ。

開いては閉じ、開いては閉じ。どうにか頭蓋から実りある言葉をひねり出そうと四苦八苦するが――結局、終ぞそれが形を得ることはなかった。

 

 

「………なんと」

 

 

結局口を衝いたのは、まったくもって意味のない戸惑いの言葉。

静かに胸中を満たし始めた諦めの念が多分に籠められ、だからこそ一層虚しく響く(嗚呼、無情)

 

 

「…………」

 

 

……狼は珍しく、弱音を吐き出したくなってしまった。

だがそんなもの、忍びである自分は許してはならない。

故にそれを堪らえようと、ゆっくりと天を仰ぎ――仰ごうとしたその直前、おばばに頭を掴まれ止められた。

 

 

「動くんじゃあないよ」

 

「は」

 

 

――もはや万事が無駄である。

 

逃げることも、逃避することもできない。

狼はあらゆる退路を立たれてしまっているらしい。

 

何故、こうも上手く行かないのだろう。

仏陀は眠ってしまっているのか? はたまた、これも掌の上の出来事なのか……。

 

 

…………。

 

………………。

 

 

………非常に。非常に気は進まないが――()()()()()が無いのもまた事実。

故に仕方なく、力んでいた両足から力を抜いた。

 

 

ああ……本来ならば職務を理由に逃れることが出来たのだろうに……。

残念ながら、今日の狼は()()()()()()()によって平田の屋敷に縛り付けられている。

護衛という口実が使えないのもその所為であった。

 

 

 

 

 

 

――半刻と少し(一時間半)前。

朝餉を終えたばかりの九郎は、狼を傍に呼んだ。

 

狼は無論、即座に有形の構えを解く。

 

 

……二人が出会ってはや、一月になる。

光陰矢の如しとはよくいったもの。天体の律動は微かな残光のみを残して移ろいゆき、未来に"結果"を生み出すのだ。

 

故に、この月日は多くを実らせる。

狼と九郎の間にあったいくらかの気まずさを解消し、主従としての信頼を築かせるのにも十分な時間であった。

 

 

だからこそ、その呼びかけにも慣れたもので――どちらにせよ拒まないが――逡巡することもなく九郎の眼前に跪く。

 

 

――それこそが、この忌まわしき現状の呼び水であるとも知らずに。

 

 

「おぬし、今日は休養の一日とせよ。職務は他のものに回す」

 

 

一瞬、狼は何を言われたのか分からなかった。

というよりも理解したくなかったのだ。

脳が駆動を拒否し、呆然と聞き返すほどに――到底受け入れられない指示である。

 

 

「いいから、休むのだ……狼よ。そのままでは体を壊してしまう」

 

「なりませぬ……!」

 

 

――瞬時に湧き出たのは、一切取り付く島のない否定。

拒絶、拒否、否認、峻拒。

あらゆる言の葉を積み重ねても尚及ばないほど、響く声音は鉛のように重かった。

 

九郎が普段聞く言葉も確かに重苦しいが、これはそれらの比でない。

"断じて認められない"、"妥協など、緩みなど不要"と、言霊から熱が溢れ鼓膜を焦がした。

 

 

「あまりにも、無意味でございます」

 

 

そうとも、当然だ。故に必然である。

これまでに経験した全てを判断材料に、口端を歪め憮然と反論した。

 

もし、もし、その綻びが大事に発展してしまえばどうするのか?

九郎(竜胤)を求める存在はいくらでも存在するのだぞ?

 

ああ、確かに常日頃からあらゆる脅威を潰している。

それは事実だ。

襲撃などという愚を拒絶し、義父の付け入る隙すら埋めるよう(決して伝えないが)にと刃を振るった。

 

 

――しかし、だ。

あり得ないことなど、あり得ないのだ。

狼は常に那由多の果てにある可能性すら恐れている。警戒している。

 

故に――この要求は通らない。

 

そのような妥協こそが隙となるのだ。

その隙を埋める為の働きに、一体どんな不満があるというのか。

万が一、億が一に備え、常に守護の任を果たすために動き続けるべきだ、と。

 

珍しく饒舌に回し、重苦しくも長々と語った。

絶対にここで仕損じてはならないと考えてしまえば、多くを語ることに否はなかった。

 

そうとも。現在の施策の()()にこそ"完璧"なる結末がある――決して、己は間違えていないのだ。

 

 

「いや、もう億が一も無いのでは……? というか多少の危機が訪れた所で、今更痛痒を受ける筈がない。それこそ軍でも無くては不可能であろう。

おぬしの働きで、一体どれだけの防備を整えられたと思っているのだ? 御当主も脱帽していたぞ。

加えてもっと言えば――おぬしが疲労して十全に動けない方こそが、もっともっと大きな危険では無いのか?」

 

 

――正論だった。

 

想定を越え提示された(視界から外していた)理由に思わず鼻白んだ。

矢継ぎ早に跳び出した理論武装は、なるほど。その殆どが的を射ている。

つまり九郎は、"これ以上"こそが無駄であると――狼に言外を経て告げている。

 

 

「なり、ませぬ」

 

 

――しかし、だから何だというのだ。

 

関係ない。()()()()、だ。それでも異を唱える。

拒絶の意を高らかに主張し続けなければならない。

 

だって……そうでなくては、恐ろしいだろう。

那由多の果てにある可能性が九郎()を奪い去ることが、クモ糸さえ手繰り寄せる義父の謀略が。

 

用心を重ね、恐怖で身を包み、刃を常に握り締めるぐらいが丁度いい。

故に――

 

 

「梟にもそうするよう、狼への指示を頂いている」

 

「む……!?」

 

 

――あまりにも予想の外から飛来する言葉に、しばし思考が断たれた。

 

あの義父が……ここぞと言わんばかりに掟を持ち出してきた、と。

九郎は良かれと思って行動しているのかもしれないが――しかし、今回この場面においては悪手であると上申したい。

 

だって――それはつまり()()()()()()()()()()()()()()()()()という事。

 

あくまで、狼は"忍び"である。

(企み)も見ておらず、未来の苦難も未だ知らぬ。

 

故にこそ"狼"という女がそれに背くことは、あまりにも()()()過ぎるのだ。

あまりにも強力な一手であり、それを跳ね除けるならこちらも相応に――いや、釣り合いが一切取れぬ程の対価が必要。

 

……なんだそれは、馬鹿げているだろう?

殆ど知りもしない罵倒の言葉をひたすら投げかけたくなるほど、お手本のような有効打突。なんと……なんと忌々しい。

 

 

「忍びの掟、そのいち――親は絶対。逆らうことは許されぬ、であろう?」

 

 

――断れ、ぬか。

 

 

狼は臍を噛むような思いだった。

 

まだ……その時ではない。

まだ"何も知らない"、ただの忍びである必要があるのだ。

 

 

「…………御、意」

 

 

事実上の敗北である。

 

 

 

 

 

 

そうして、当たり前のように何もすることが無くなってしまう。

途方に暮れ、天井裏に潜ることもせず使用人の控室でしばし立ち尽くした。

 

――そこを野上のおばばに見つかったのは、狼にとってこれ以上無くマズかった。

 

 

「いいかい? 鏡を見ながらしっかり覚えるんだよ」

 

「………は」

 

 

なんと恐ろしい……。

狼の精神をやすりにかける鬼の所業だ。

どんどん、どんどんと気力や正気が失せ、怖じ気が心を満たしていく。

 

……しかし当然ながら、おばば自身には悪気は欠片も無い。しかし……だからこそ、手に負えない。

故に、彼女に出来ることは耐えることだけ。

冬来たりなば春遠からじ(今は辛くとも、いずれ幸せが訪れる)と、ただ信じることしか出来ぬのだ。

 

鏡に映る自分の瞳を見つめ、ぼうっと思考を閉ざす。

 

 

「…………」

 

 

仄暗い。

光は変わらず差しているというのに、何処か暗く濁っているようだ。

なんとも不思議だなあと、ゆるゆると他人事に思った。

 

そういえば、目は口ほどに物を言うと伝え聞く。

この活力の欠片のない瞳は……狼の精神を如実に写しているのか。濁った純黒はきっと、その表れだろう。

 

 

「……………!」

 

 

――まさか、義父の狙いとはこれだったのだろうか。

 

狼の脳裏に電流が奔る。

この狼の精神を打ちのめし、弱らせるには……なるほど、確かに効果的だ。

内心で義父の智略に対し惜しみのない賛辞を投げ付ける。

 

なんと、なんと恐ろしい事を思いつくのだ。

これが大忍び梟……なんと卑怯で、鮮やかな手前よ。

 

 

「これが、丸髷。時々でおたま返しや片外しを使っても良いねえ」

 

「…………」

 

 

――しかし、そんなものおばばには関係なかった。

自分の足並みで結わえ、解き、また結わえる。

 

なに、苦しい? しかし儂は大丈夫じゃ。つまり問題はない。

 

 

「どう、この艶紅!この前行商の方から買ったのよ!」

 

「綺麗ですね……!」

 

「かなり安くまけてもらえたし、狼さんにもおすそ分けしちゃうわ!」

 

 

すっ、と、紅点し指(薬指)が狼の唇を優しく撫でる。

それを見た三人の使用人は、きゃいきゃいとそれぞれの方式で騒ぎ立てた。

狼はもう何も考えられず、ただただ仄暗い瞳で眺めるのみ。

 

思わず天照の大御神に祈りを捧げたくなるが……悲しいかな。そのような思い、通じる筈がない。

しかしそれでも、何卒と願わずにはいられない。

天に届かせるため、歌や舞でも奉じたい所だが――当然、狼はその様な芸なぞ持ち合わせていなかった。

 

 

「わあ、島田結い!おばば様の指先はすごいわねえ」

 

「ね!放置されてた忍びさんの髪の毛がどんどん綺麗になっていくわ!」

 

「……本当に、すごいです」

 

 

それを眺め、取り囲む三人の使用人は口々に騒ぎ立てる。

 

…………ああ、いや。騒ぎ立てると言うのは失礼かもしれない。訂正しよう。

彼女らは下品ではない程度に、ころころと可憐に声を上げた。

 

 

中心に座る狼を題材に、"この髪にはあれがいい"、"いやこれはどうだ"、"この耳飾りが似合いそうだ"と。それぞれの信じる芸術を発表しあう。

当人の意向は完全に無視した上で、あーでもないこーでもないと語り合う。

そしてひとしきり語って満足すると、集大成として狼自身に装飾品を押し付けるのだ。

 

 

「…………」

 

 

しかし、狼はなんら楽しくない。

見苦しくなければそれでいいだろう、と。そう考えていたし、それが悪いとは露ほども思わない。

だから全てを適当に、一切気を使うこと無く無造作に纏め上げていたのだ。

任務に支障がなければそれでいい。ただそれのみで良いのだ。だって、忍びとはそういうものだろう?

 

そんな狼が自分から飾り立てるなど――あり得ない。ましてや化粧なぞ、施す筈がないに決まっている。

 

……けれど、彼女らはそれが気に入らないらしかった。

興味がない?ならばむしろ、だからこそ美しく!と益々やる気を高め、加速度的に熱を上げていく始末だ。

男時代の気性のまま変わらない狼にとって、彼女らの心情はあまりにも理解できない。

いっその事、目も口も耳も塞いでしまいたい気分である。

 

 

狼は微動だにせぬまま、眉間の皺のみを更に深く刻み込む。

 

ここからどうするべきなのか、なにを考えるべきなのかさえも分からない。

寸前の出来事を省みるのも億劫だ。

事の始まりとは、一体全体何処だったのだろう。何故ここに至ったのだ?

 

……"帰り仏"を拝めば、どうにか不思議な導きで解決してくれないだろうか。

 

無論のこと、「無理です」と拒否されるのは確定事項。しかしそれでも祈らずにはいられない。

 

そうでなければ益々目が濁る。

元々仏頂面しか浮かべることが出来ない女だが、今回ばかりはそれさえ失せた先――無の極地に至りそうだ。

 

 

「せっかく綺麗な髪を授かって生まれたんだし、忍びさんだっておめかししなきゃもったいないよ!」

 

「そうそう!ほら、頭動かさないの!」

 

「忍び殿……すみません。この子達も悪気があるわけではないのです……」

 

「ええい!耳元で騒ぐでないわ!手先が狂うじゃろう!!」

 

「…………」

 

 

ゆるゆると眺める先、三人はなにが楽しいのか、楽しそうに笑っている。

その様を見て、ああ、そういえば……と思い出すことがあった。

 

以前聞いたことがある諺だが――"女三人集まれば姦しい"、という言葉があるらしい。

姦しい――曰く、やかましい、騒々しい様を斯様に言い表すのだと。

 

なるほど、確かにその通りだ。

彼女らから溢れる言葉や社交性の応酬は実に多様。

そしてだからこそ、互いに互いの言葉を引き出し合い、更に更にと会話の密度を増やす。

時間の経過に伴い共鳴に増幅を重ね――一切の悪気無く、狼の瞳を濁らせ完璧に封殺するという偉業を成し遂げていた。

 

だが何もこの様な、身を以て諺の意味を理解する必要など……何処にも無いだろう?

余程の変人でもなければ、きっと殆どの人間が不要と断じるに違いない。実に不毛極まる。無意味の極みだ。なんと馬鹿らしいのだ!

 

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。

賢者たる狼は実際に経験する必要などない。

 

――だから逃して欲しい。働かせて欲しい。

この様な無駄など、必要ないだろう?

 

僅かに残った気力を振り絞り、鏡越しに見つめたおばばに嘆願した。

対し、おばばは指先を休めず狼を一瞥し――

 

 

「駄目じゃ」

 

「……………そう、か」

 

 

――九郎から下された命令(お願い)の効力は強力無比。狼が淡く抱いた願望さえも微塵に粉砕した。

平田の者達を味方につけられ、ほんの僅かな手心さえ存在しない。正しく蹂躙だ。

 

それ故無情に流れていく、未来への布石を打てない時間――為すべきを為せない空虚な一時。

過去に例を見ない恐ろしい所業は、狼の鍛えに鍛えられた不動の精神に大きな衝撃を打ち付けていく。

 

……もはや、ここに至っては狼に抵抗する術も、気力もない。

無情、無常。

 

ただただ、整えられていく身なりを眺める他無し。

殺し合いであれば金剛石が如き強靭な精神を宿していようと……この場では無意味だと悟ってしまった。

逆らえぬときには、逆らえぬのだ。狼は新たな啓蒙(いらない)を得た。

 

どうして――狼はただ、御子様を守りたいだけだったのに。

ただ完璧に、完全に、一切の綻びも想定外の危機もない未来。それのみを求めていた、だけなのに……!

 

そのあるべき未来は、あまりにも理解を外れた現実の前に脆く崩れる。ああ……無情。

一周回って眉間の皺さえ無くなりそうだ。

 

 

「きゃあ!似合う似合う!これならどんな殿方も一撃必殺よ!」

 

「これが名高き忍殺というやつなのね……」

 

 

――"奥の歯"を無性に噛み締めたくなった。

そんなもの、無いのだけれど。

 

きゃいきゃい騒ぐ女性達から必死に視線をそらし、茫洋と虚空を眺める。

 

 

「よーし!若様に見せに行きましょう!いいでしょう、おばば様!」

 

「……まぁ、大体は教えた。あとは自由にするがええぞえ」

 

「いや、あの……忍び殿、すごい目してるのですが……」

 

「いいじゃないの。むしろ今の内に()()して、休むことの重要性を覚えさせましょう?」

 

 

やいのやいの。4つの口から放られる言葉が狼の鼓膜を震わせ、しかし意味をなさずにすり抜けた。

あまりにも未知。あまりにも苦痛。あまりにも恥ずかしい。

いくつもの衝撃に打ち据えられた狼は()()()()、呆然としたまま手をひかれる。

 

 

「さあさ、こっちよ」

 

「……………」

 

 

このように、これ以上無く消耗しているからであろう。

普段は気を張り詰めさせて多くを――あらゆる全てを必死に覗き込んでいたが、今この瞬間にはほんの最小限しか見えていない。

 

だから最小の世界――自分自身のみに焦点が合わせられた。

着飾り、未知の体験に慄き、流されるままにある自分。

 

 

――そこで気付けた。

 

 

「忍びさんでも、こんな風に気を抜けるのねぇ。なんだか安心しちゃったわ」

 

 

己がすっかりと大人しく気を抜いている現状に。

この、()()だ。

 

 

「……!」

 

 

――思い至り、ずっ、と静かに目を見開いた。

 

珍しく大いに表情を揺らがせ動揺する。こんなもの、あり得ないだろうと困惑した。

今日経験した中で一番意味がわからない。通理が通らないだろう?

 

この、己が――"竜の忍び"が! まことに平和に遠くあるのなら、茫洋と気を抜くなどありえないのだぞ。

例え何時いかなる時あろうと、絶対に。

 

……ここで、一番最初の疑問に立ち返る。

()()、九郎は己に(いとま)を取らせたのだろうか。

 

 

()()()()()()にはしっかり抜かなきゃ駄目よ? 張り詰めさせた紙風船は、簡単に破けちゃうものなのだから」

 

 

……狼は無意識のまま、左手で懐の"帰り仏"を握り締めた。

手の皮を柔らかく押し返す仏様は、やさしく、暖かい。

そして思うのだ。

 

 

――()()()()()()とは、なんぞや?

 

 

その答えは既に――右手の先で主張している。

 

なにが楽しいのか、幸せそうに笑っている女性達。

"妙"は戦を知らぬ柔らかな手付きで、狼を引っ張っていた。

"お市"は嫋やかに、優美な足取りですぐ傍を共に歩んでいる。

"花"はそれをニヨニヨとニヤけながら眺め、ゆっくりゆっくり足を動かすのだ。

 

 

その情景は一切の不純物無く狼の網膜に映り込み、ただ素直な感想を抱かせるには十二分で。

だから――その、なんだ。意外と……平和ではないか。

 

 

「………………」

 

 

すとんと腑に落ちた。

 

単純明快な一文は、意外なほど軽く狼の腹の中で消化される。

きっと、自分自身でも()()()()()()()()()

 

未来はさておき、()()平和の中にあると。

けれど何もせずに居るなど、何も出来ずに居るなど――恐ろしくて、恐ろしくてたまらなかった。

 

あの日、生涯の主を貫いた感触が叫んでいるのだ。

怖じ気を、後悔を、怨嗟を。

だからこそ、それを振り払うために走り続けた。

 

 

――しかし、それこそが狼の嫌う無駄だった。無意味ではなくとも、過ぎたるは及ばざるが如し。

或いは却って悪い結果を呼び寄せてしまうかもしれない。

もしそうなってしまえば、それこそ……狼は狼自身を許せなくなってしまう。

 

 

狼は勤勉だ。

怠惰を嫌い、努力を続ける。

 

故に決して愚者ではない。

己に非があれば改める。

それが出来なければ死ぬしか無いのだから、自然とそう身に染み付いていた。

 

……だから、そう。

己は、立ち止まるべきなのだ。

人生を一周したにもかかわらず、遥か年下の女性たちにこうして教えられるとは。

………過去救えなかった人々に救われてしまう、とは。

 

なんとも……ああ、なんとも皮肉なものだ。

 

僅かに歪んだ口許は如何な感情の現れか、狼自身にも分からない。

傍に立つお市が不思議そうに狼を見つめるが……何かに()()したように、ひとり頷いただけだった。

 

そうとも。最早為せるべき人事は尽くしたのだから――あとは、時を待つだけ。

それしか出来ぬし、それ以上は無い。

 

 

だから――そう、平和を謳歌するために。

狼はこれから始まる恥辱の時を、決死の覚悟を持って乗り越えねばならない――!!

 

 

 

「……よし!若様、失礼してもよろしいでしょうか!」

 

「む、ああ……妙殿か……。 どうぞ、入ってください」

 

「失礼します!」

 

「御機嫌よう、若様。 大人数で押しかけてしまい、誠に申し訳ありません」

 

「今日は、お見せしたいモノがありまして――」

 

 

 

 

 

 

 




<TIPS>

「妙の艶紅」
平田屋敷の使用人、"妙"が狼に分けてくれた化粧品。
乾燥した状態では玉虫色に輝く、特に良質なものだ。
これは「小町紅」とも呼ばれ、平田の女性達はこの紅をこよなく愛した。

狼は時折これを握り締め、一人自問するのだ。
決して、忘れぬように。


――"平和とは、なんぞや?"

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