「ああ、これ!動くでない!まだ結わえてる途中じゃ!」
「………承、知」
遍く世を照らす偉大なる太陽。
その光輝を余さず受け止める平田屋敷は、古めかしくも厳かな情緒を見せつけている。
ああ、素晴らしきは母なる大御神!
その
故にこそ平田の屋敷は常と変わらず――いいや、この日ばかりは何故か普段以上に平和だった。
強く響いた老婆の叱咤と、若い女性達のころころ高鳴る笑い声。
こんなもの、平和なくして溢れることなどありえないだろう?
老婆――"野上のおばば"はしぶしぶ得られた了承の意を満足気に受け止め、再び指先を動かす。
そしてその指の先が弄ぶのは、狼の長く伸びた頭髪だ。
狼は
「……これは、必要か」
「当然よのう。おぬしは若様の付き人だろう? それがみすぼらしい身なりをしていては、若様自身の品格を疑われてしまう………それは、おぬしも望んでおらぬだろう?」
「む……」
そう言われてしまうと、狼は強く出ることができない。
……けれどだからといって、このような意味のない行為をする必要など何処にもないだろう。
徹底的に無駄を排す。それは狼が何よりも重んじなければならないものだ。
故にこそ狼は何が何でもこの場を辞す為に、それに足る理由を押し付けなければならない。
――つまり熟達の忍びが誇る、鋭き舌鋒の見せ所である。
狼は自慢の脳髄から有効な言葉を引き出すために思考を回す。
野盗を討伐せねばならない。
――近隣の野盗は全て根切りにした。
平田屋敷の改造を施さねばならない。
――この屋敷はもはや要塞だ。最高効率で無駄も不足も無いよう整えた。これ以上の仕掛けを増やしたところで、ただ持て余すだけの無駄を生み出すだけだ。
主を護衛しなければならない――。
――否。
……他ならぬ九郎自身の言葉で、前もって
そう、
仕方なくそれ以外の言い訳を吐き出そうとするが……そもそも、吐き出すための中身が存在しない事に愕然とする。
開かれた口からは声が出ず、代わりに空気が掠れる音が寒々と響くのみ。
開いては閉じ、開いては閉じ。どうにか頭蓋から実りある言葉をひねり出そうと四苦八苦するが――結局、終ぞそれが形を得ることはなかった。
「………なんと」
結局口を衝いたのは、まったくもって意味のない戸惑いの言葉。
静かに胸中を満たし始めた諦めの念が多分に籠められ、
「…………」
……狼は珍しく、弱音を吐き出したくなってしまった。
だがそんなもの、忍びである自分は許してはならない。
故にそれを堪らえようと、ゆっくりと天を仰ぎ――仰ごうとしたその直前、おばばに頭を掴まれ止められた。
「動くんじゃあないよ」
「は」
――もはや万事が無駄である。
逃げることも、逃避することもできない。
狼はあらゆる退路を立たれてしまっているらしい。
何故、こうも上手く行かないのだろう。
仏陀は眠ってしまっているのか? はたまた、これも掌の上の出来事なのか……。
…………。
………………。
………非常に。非常に気は進まないが――
故に仕方なく、力んでいた両足から力を抜いた。
ああ……本来ならば職務を理由に逃れることが出来たのだろうに……。
残念ながら、今日の狼は
護衛という口実が使えないのもその所為であった。
――
朝餉を終えたばかりの九郎は、狼を傍に呼んだ。
狼は無論、即座に有形の構えを解く。
……二人が出会ってはや、一月になる。
光陰矢の如しとはよくいったもの。天体の律動は微かな残光のみを残して移ろいゆき、未来に"結果"を生み出すのだ。
故に、この月日は多くを実らせる。
狼と九郎の間にあったいくらかの気まずさを解消し、主従としての信頼を築かせるのにも十分な時間であった。
だからこそ、その呼びかけにも慣れたもので――どちらにせよ拒まないが――逡巡することもなく九郎の眼前に跪く。
――それこそが、この忌まわしき現状の呼び水であるとも知らずに。
「おぬし、今日は休養の一日とせよ。職務は他のものに回す」
一瞬、狼は何を言われたのか分からなかった。
というよりも理解したくなかったのだ。
脳が駆動を拒否し、呆然と聞き返すほどに――到底受け入れられない指示である。
「いいから、休むのだ……狼よ。そのままでは体を壊してしまう」
「なりませぬ……!」
――瞬時に湧き出たのは、一切取り付く島のない否定。
拒絶、拒否、否認、峻拒。
あらゆる言の葉を積み重ねても尚及ばないほど、響く声音は鉛のように重かった。
九郎が普段聞く言葉も確かに重苦しいが、これはそれらの比でない。
"断じて認められない"、"妥協など、緩みなど不要"と、言霊から熱が溢れ鼓膜を焦がした。
「あまりにも、無意味でございます」
そうとも、当然だ。故に必然である。
これまでに経験した全てを判断材料に、口端を歪め憮然と反論した。
もし、もし、その綻びが大事に発展してしまえばどうするのか?
ああ、確かに常日頃からあらゆる脅威を潰している。
それは事実だ。
襲撃などという愚を拒絶し、
――しかし、だ。
あり得ないことなど、あり得ないのだ。
狼は常に那由多の果てにある可能性すら恐れている。警戒している。
故に――この要求は通らない。
そのような妥協こそが隙となるのだ。
その隙を埋める為の働きに、一体どんな不満があるというのか。
万が一、億が一に備え、常に守護の任を果たすために動き続けるべきだ、と。
珍しく饒舌に回し、重苦しくも長々と語った。
絶対にここで仕損じてはならないと考えてしまえば、多くを語ることに否はなかった。
そうとも。現在の施策の
「いや、もう億が一も無いのでは……? というか多少の危機が訪れた所で、今更痛痒を受ける筈がない。それこそ軍でも無くては不可能であろう。
おぬしの働きで、一体どれだけの防備を整えられたと思っているのだ? 御当主も脱帽していたぞ。
加えてもっと言えば――おぬしが疲労して十全に動けない方こそが、もっともっと大きな危険では無いのか?」
――正論だった。
矢継ぎ早に跳び出した理論武装は、なるほど。その殆どが的を射ている。
つまり九郎は、"これ以上"こそが無駄であると――狼に言外を経て告げている。
「なり、ませぬ」
――しかし、だから何だというのだ。
関係ない。
拒絶の意を高らかに主張し続けなければならない。
だって……そうでなくては、恐ろしいだろう。
那由多の果てにある可能性が
用心を重ね、恐怖で身を包み、刃を常に握り締めるぐらいが丁度いい。
故に――
「梟にもそうするよう、狼への指示を頂いている」
「む……!?」
――あまりにも予想の外から飛来する言葉に、しばし思考が断たれた。
あの義父が……ここぞと言わんばかりに掟を持ち出してきた、と。
九郎は良かれと思って行動しているのかもしれないが――しかし、今回この場面においては悪手であると上申したい。
だって――それはつまり
あくまで、狼は"忍び"である。
故にこそ"狼"という女がそれに背くことは、あまりにも
あまりにも強力な一手であり、それを跳ね除けるならこちらも相応に――いや、釣り合いが一切取れぬ程の対価が必要。
……なんだそれは、馬鹿げているだろう?
殆ど知りもしない罵倒の言葉をひたすら投げかけたくなるほど、お手本のような有効打突。なんと……なんと忌々しい。
「忍びの掟、そのいち――親は絶対。逆らうことは許されぬ、であろう?」
――断れ、ぬか。
狼は臍を噛むような思いだった。
まだ……その時ではない。
まだ"何も知らない"、ただの忍びである必要があるのだ。
「…………御、意」
事実上の敗北である。
そうして、当たり前のように何もすることが無くなってしまう。
途方に暮れ、天井裏に潜ることもせず使用人の控室でしばし立ち尽くした。
――そこを野上のおばばに見つかったのは、狼にとってこれ以上無くマズかった。
「いいかい? 鏡を見ながらしっかり覚えるんだよ」
「………は」
なんと恐ろしい……。
狼の精神をやすりにかける鬼の所業だ。
どんどん、どんどんと気力や正気が失せ、怖じ気が心を満たしていく。
……しかし当然ながら、おばば自身には悪気は欠片も無い。しかし……だからこそ、手に負えない。
故に、彼女に出来ることは耐えることだけ。
鏡に映る自分の瞳を見つめ、ぼうっと思考を閉ざす。
「…………」
仄暗い。
光は変わらず差しているというのに、何処か暗く濁っているようだ。
なんとも不思議だなあと、ゆるゆると他人事に思った。
そういえば、目は口ほどに物を言うと伝え聞く。
この活力の欠片のない瞳は……狼の精神を如実に写しているのか。濁った純黒はきっと、その表れだろう。
「……………!」
――まさか、義父の狙いとはこれだったのだろうか。
狼の脳裏に電流が奔る。
この狼の精神を打ちのめし、弱らせるには……なるほど、確かに効果的だ。
内心で義父の智略に対し惜しみのない賛辞を投げ付ける。
なんと、なんと恐ろしい事を思いつくのだ。
これが大忍び梟……なんと卑怯で、鮮やかな手前よ。
「これが、丸髷。時々でおたま返しや片外しを使っても良いねえ」
「…………」
――しかし、そんなものおばばには関係なかった。
自分の足並みで結わえ、解き、また結わえる。
なに、苦しい? しかし儂は大丈夫じゃ。つまり問題はない。
「どう、この艶紅!この前行商の方から買ったのよ!」
「綺麗ですね……!」
「かなり安くまけてもらえたし、狼さんにもおすそ分けしちゃうわ!」
すっ、と、
それを見た三人の使用人は、きゃいきゃいとそれぞれの方式で騒ぎ立てた。
狼はもう何も考えられず、ただただ仄暗い瞳で眺めるのみ。
思わず天照の大御神に祈りを捧げたくなるが……悲しいかな。そのような思い、通じる筈がない。
しかしそれでも、何卒と願わずにはいられない。
天に届かせるため、歌や舞でも奉じたい所だが――当然、狼はその様な芸なぞ持ち合わせていなかった。
「わあ、島田結い!おばば様の指先はすごいわねえ」
「ね!放置されてた忍びさんの髪の毛がどんどん綺麗になっていくわ!」
「……本当に、すごいです」
それを眺め、取り囲む三人の使用人は口々に騒ぎ立てる。
…………ああ、いや。騒ぎ立てると言うのは失礼かもしれない。訂正しよう。
彼女らは下品ではない程度に、ころころと可憐に声を上げた。
中心に座る狼を題材に、"この髪にはあれがいい"、"いやこれはどうだ"、"この耳飾りが似合いそうだ"と。それぞれの信じる芸術を発表しあう。
当人の意向は完全に無視した上で、あーでもないこーでもないと語り合う。
そしてひとしきり語って満足すると、集大成として狼自身に装飾品を押し付けるのだ。
「…………」
しかし、狼はなんら楽しくない。
見苦しくなければそれでいいだろう、と。そう考えていたし、それが悪いとは露ほども思わない。
だから全てを適当に、一切気を使うこと無く無造作に纏め上げていたのだ。
任務に支障がなければそれでいい。ただそれのみで良いのだ。だって、忍びとはそういうものだろう?
そんな狼が自分から飾り立てるなど――あり得ない。ましてや化粧なぞ、施す筈がないに決まっている。
……けれど、彼女らはそれが気に入らないらしかった。
興味がない?ならばむしろ、だからこそ美しく!と益々やる気を高め、加速度的に熱を上げていく始末だ。
男時代の気性のまま変わらない狼にとって、彼女らの心情はあまりにも理解できない。
いっその事、目も口も耳も塞いでしまいたい気分である。
狼は微動だにせぬまま、眉間の皺のみを更に深く刻み込む。
ここからどうするべきなのか、なにを考えるべきなのかさえも分からない。
寸前の出来事を省みるのも億劫だ。
事の始まりとは、一体全体何処だったのだろう。何故ここに至ったのだ?
……"帰り仏"を拝めば、どうにか不思議な導きで解決してくれないだろうか。
無論のこと、「無理です」と拒否されるのは確定事項。しかしそれでも祈らずにはいられない。
そうでなければ益々目が濁る。
元々仏頂面しか浮かべることが出来ない女だが、今回ばかりはそれさえ失せた先――無の極地に至りそうだ。
「せっかく綺麗な髪を授かって生まれたんだし、忍びさんだっておめかししなきゃもったいないよ!」
「そうそう!ほら、頭動かさないの!」
「忍び殿……すみません。この子達も悪気があるわけではないのです……」
「ええい!耳元で騒ぐでないわ!手先が狂うじゃろう!!」
「…………」
ゆるゆると眺める先、三人はなにが楽しいのか、楽しそうに笑っている。
その様を見て、ああ、そういえば……と思い出すことがあった。
以前聞いたことがある諺だが――"女三人集まれば姦しい"、という言葉があるらしい。
姦しい――曰く、やかましい、騒々しい様を斯様に言い表すのだと。
なるほど、確かにその通りだ。
彼女らから溢れる言葉や社交性の応酬は実に多様。
そしてだからこそ、互いに互いの言葉を引き出し合い、更に更にと会話の密度を増やす。
時間の経過に伴い共鳴に増幅を重ね――一切の悪気無く、狼の瞳を濁らせ完璧に封殺するという偉業を成し遂げていた。
だが何もこの様な、身を以て諺の意味を理解する必要など……何処にも無いだろう?
余程の変人でもなければ、きっと殆どの人間が不要と断じるに違いない。実に不毛極まる。無意味の極みだ。なんと馬鹿らしいのだ!
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。
賢者たる狼は実際に経験する必要などない。
――だから逃して欲しい。働かせて欲しい。
この様な無駄など、必要ないだろう?
僅かに残った気力を振り絞り、鏡越しに見つめたおばばに嘆願した。
対し、おばばは指先を休めず狼を一瞥し――
「駄目じゃ」
「……………そう、か」
――九郎から下された
平田の者達を味方につけられ、ほんの僅かな手心さえ存在しない。正しく蹂躙だ。
それ故無情に流れていく、未来への布石を打てない時間――為すべきを為せない空虚な一時。
過去に例を見ない恐ろしい所業は、狼の鍛えに鍛えられた不動の精神に大きな衝撃を打ち付けていく。
……もはや、ここに至っては狼に抵抗する術も、気力もない。
無情、無常。
ただただ、整えられていく身なりを眺める他無し。
殺し合いであれば金剛石が如き強靭な精神を宿していようと……この場では無意味だと悟ってしまった。
逆らえぬときには、逆らえぬのだ。狼は
どうして――狼はただ、御子様を守りたいだけだったのに。
ただ完璧に、完全に、一切の綻びも想定外の危機もない未来。それのみを求めていた、だけなのに……!
そのあるべき未来は、あまりにも理解を外れた現実の前に脆く崩れる。ああ……無情。
一周回って眉間の皺さえ無くなりそうだ。
「きゃあ!似合う似合う!これならどんな殿方も一撃必殺よ!」
「これが名高き忍殺というやつなのね……」
――"奥の歯"を無性に噛み締めたくなった。
そんなもの、無いのだけれど。
きゃいきゃい騒ぐ女性達から必死に視線をそらし、茫洋と虚空を眺める。
「よーし!若様に見せに行きましょう!いいでしょう、おばば様!」
「……まぁ、大体は教えた。あとは自由にするがええぞえ」
「いや、あの……忍び殿、すごい目してるのですが……」
「いいじゃないの。むしろ今の内に
やいのやいの。4つの口から放られる言葉が狼の鼓膜を震わせ、しかし意味をなさずにすり抜けた。
あまりにも未知。あまりにも苦痛。あまりにも恥ずかしい。
いくつもの衝撃に打ち据えられた狼は
「さあさ、こっちよ」
「……………」
このように、これ以上無く消耗しているからであろう。
普段は気を張り詰めさせて多くを――あらゆる全てを必死に覗き込んでいたが、今この瞬間にはほんの最小限しか見えていない。
だから最小の世界――自分自身のみに焦点が合わせられた。
着飾り、未知の体験に慄き、流されるままにある自分。
――そこで気付けた。
「忍びさんでも、こんな風に気を抜けるのねぇ。なんだか安心しちゃったわ」
己がすっかりと大人しく気を抜いている現状に。
この、
「……!」
――思い至り、ずっ、と静かに目を見開いた。
珍しく大いに表情を揺らがせ動揺する。こんなもの、あり得ないだろうと困惑した。
今日経験した中で一番意味がわからない。通理が通らないだろう?
この、己が――"竜の忍び"が! まことに平和に遠くあるのなら、茫洋と気を抜くなどありえないのだぞ。
例え何時いかなる時あろうと、絶対に。
……ここで、一番最初の疑問に立ち返る。
「
……狼は無意識のまま、左手で懐の"帰り仏"を握り締めた。
手の皮を柔らかく押し返す仏様は、やさしく、暖かい。
そして思うのだ。
――
その答えは既に――右手の先で主張している。
なにが楽しいのか、幸せそうに笑っている女性達。
"妙"は戦を知らぬ柔らかな手付きで、狼を引っ張っていた。
"お市"は嫋やかに、優美な足取りですぐ傍を共に歩んでいる。
"花"はそれをニヨニヨとニヤけながら眺め、ゆっくりゆっくり足を動かすのだ。
その情景は一切の不純物無く狼の網膜に映り込み、ただ素直な感想を抱かせるには十二分で。
だから――その、なんだ。意外と……平和ではないか。
「………………」
すとんと腑に落ちた。
単純明快な一文は、意外なほど軽く狼の腹の中で消化される。
きっと、自分自身でも
未来はさておき、
けれど何もせずに居るなど、何も出来ずに居るなど――恐ろしくて、恐ろしくてたまらなかった。
あの日、生涯の主を貫いた感触が叫んでいるのだ。
怖じ気を、後悔を、怨嗟を。
だからこそ、それを振り払うために走り続けた。
――しかし、それこそが狼の嫌う無駄だった。無意味ではなくとも、過ぎたるは及ばざるが如し。
或いは却って悪い結果を呼び寄せてしまうかもしれない。
もしそうなってしまえば、それこそ……狼は狼自身を許せなくなってしまう。
狼は勤勉だ。
怠惰を嫌い、努力を続ける。
故に決して愚者ではない。
己に非があれば改める。
それが出来なければ死ぬしか無いのだから、自然とそう身に染み付いていた。
……だから、そう。
己は、立ち止まるべきなのだ。
人生を一周したにもかかわらず、遥か年下の女性たちにこうして教えられるとは。
………過去救えなかった人々に救われてしまう、とは。
なんとも……ああ、なんとも皮肉なものだ。
僅かに歪んだ口許は如何な感情の現れか、狼自身にも分からない。
傍に立つお市が不思議そうに狼を見つめるが……何かに
そうとも。最早為せるべき人事は尽くしたのだから――あとは、時を待つだけ。
それしか出来ぬし、それ以上は無い。
だから――そう、平和を謳歌するために。
狼はこれから始まる恥辱の時を、決死の覚悟を持って乗り越えねばならない――!!
「……よし!若様、失礼してもよろしいでしょうか!」
「む、ああ……妙殿か……。 どうぞ、入ってください」
「失礼します!」
「御機嫌よう、若様。 大人数で押しかけてしまい、誠に申し訳ありません」
「今日は、お見せしたいモノがありまして――」
<TIPS>
「妙の艶紅」
平田屋敷の使用人、"妙"が狼に分けてくれた化粧品。
乾燥した状態では玉虫色に輝く、特に良質なものだ。
これは「小町紅」とも呼ばれ、平田の女性達はこの紅をこよなく愛した。
狼は時折これを握り締め、一人自問するのだ。
決して、忘れぬように。
――"平和とは、なんぞや?"