ぎりぎりぎり。
日光照らす森の中。
隠れ里のように広がる平田屋敷の中央を、一切無遠慮に斬り裂いたのは鉄の悲鳴だ。
起伏に富み、竹林が茂り、豊かな緑に満たされている――それは最早、過去の姿に過ぎない。
今となっては焼け焦げた土と、炎が燻る材木が散らばるばかりである。
加え、本来なら屋敷をぐるりと囲っていた塀は砕かれた後。
侵略者によって齎された破壊の痕跡は無惨に散らばり、焦げた瓦礫や漆の姿が哀愁を誘う。
「……ぅ、はぁ……っ」
――その瓦礫の影から、カチカチと歯と歯がぶつかる音が響く。
頬当ての中で反響するそれがなんとも苛立たしく、赤備えの男は大きく舌を打ち鳴らした。
あの弦を引き絞る音が響く度に一層肝が冷える。
ああ、肝が冷えすぎて砕けてしまいそうな程だ。
これ迄に何度と無くこれを聞き、そしてその度に仲間達の命を刈り取られたのだ。故に、心腑を凍てつかせる恐怖というのは……至極真っ当な感情の発露だろう。
……しかし、ああ。だからと言って怯えていては話しにならぬだろう。
だからこれは違う。そんなものは赤備えに相応しくない!
男は唇を噛みちぎる程の勢いで食いしばり、強引に震えを殺した。
何から何まで許せぬ。
平田も、忍びも、絡繰りも。そして何よりも攻めきれぬ己達が。
戦の余波の中にあっても辛うじて残った燻る材木の影。
陽光を以って輝く"赤"を纏いながらも、今となっては隠れ潜むしか能が無い兵士だ。
「口惜しい……口惜しいなあ」
同じ材木の影に潜む仲間達も……戦意に溢れているとは、とても言えなかった。
さすが、籠城戦というだけあって中々攻めきれない。
屋敷の構造や地形を極限まで活かした素晴らしい戦運びだ。
敵ながらあっぱれという他無し。
……とはいえ、己等という総体は未だそう減っておらず、どう転んでも平田の者共に勝機など無いのだが。
そうと知っているからこそ、男達は未だ平静を保つことが出来ていた。
――いや、訂正だ。憎悪に狂いつつ、無秩序に走らない程度には自身を律している。
「来るぞ……!!」
「
大気が震え、轟いた。
屋敷の周囲に在る瓦礫目掛け、幾十条もの殺意が飛翔する。
外壁の至るところから顔を覗かせる砲門が次々と鏃を吐き出し、全方位目掛けてやたらめったらと連射する。
狼が手ずから組み立てた機構は如何な人間にも扱えるようにと考案され、その上装填さえも自動化されているのだからたまらない。
赤備えの兵から見るともはや――悪夢そのものだ。
風切り音が響く度に、今度は誰が死ぬのかと震えを走らせた。
「……忌々しい平田め……」
赤備えの指揮官は泥を吐き出すように呟く。
頬当ての位置を調整し、血走った
この侵略戦を始めてどれ程の時が経ったのだろう。
日が昇り、沈み、また昇る。それを繰り返して……もう、四日目になるのか。
内府様の号令によってこの葦名を襲撃したまでは良かった。
一匹の梟の手引きと、精強なる内府の軍。
これらによって易易と平田を制圧できる――筈だったのに。
「……ちィ」
しかし……よもや、これほどまでに手こずるとは!
兵は薄弱?ただの庶家?
何だそれは、ふざけているのか。
剣聖以外は粒はあれども玉は無く、内府の力を以てすればどうとでもなると?本当にそう確信していたのか?
男は自分自身を深く憎んだ。
平田を、綻んだ情報網を、梟の手引きを、何よりも己自身を!
濁った眼を取り替えて見れば、どうだ。一介の庶家が真田丸にも劣らぬ要塞を築いているではないか!
「しかし……突破口は、ある筈だ」
充血し赤く染まった瞳で、至るところから砲門が生えた屋敷を検分する。
所々に瓦礫などの障害物はあるものの――それだけだ。
間違っても伝令なんぞは通り抜けられないだろう、強固に構築された包囲網。
これだけでも、まず孤立していると見て間違いない。
加えて言えば。奴らには補給線は存在せず、正面切って戦えるような戦力もそう多くない。
対してこちらはどうか。
何処を見ても多くの赤備えや孤影衆が陣取っており、人員不足という言葉とは無縁である。
血の気の余った輩がちくちくとちょっかいを出し続け、敵方に継続して少量の出血を強いているのだ。
その上十分な量の兵糧が有り、消耗戦という状況であっても内府の側が圧倒的に優勢。
状況を見るに……持久戦を挑むべきか。
どうせ、こちら側には腐るほどの兵士が居る。
絶え間なく攻め続け、向こうの人員と物資に消耗を強いるのだ。
当たって砕けよ、火の玉と成れ。
攻めきれないならば、攻め続けろ。
この起伏に富みすぎた地形の妨害など無視して、只管に体当たりを続けるのだ。
……とはいえ、あの絡繰りは脅威だ。
下手を打てば大した消耗を押し付けることも出来ずに死に絶えてしまう。
精密すぎる大矢は攻め手を封じ、辛うじてそれを抜けた兵達を鉄砲や地中から飛び出す無数の槍が迎え撃つ。
このままでは攻め落とすまでに日数が掛かり、何らかの対策を取られてしまうかもしれない。
――ならば、どうする?
男は乱雑に積み上げられた策を捏ねくり回し――一つ、大きく頷いた。
もし周囲にその考えを聞くものがあり、正常な思考回路を持つのであれば即座に止めに掛かるだろう。
いっそ悍ましいと言わざるを得ない暴論を以て、男の指針は決定してしまった。
――"攻めて攻めて攻めて、幾百の屍を積み上げてしまえば道になる筈だ"。
"一人の命で押し通れないならば、百の死で押し通る"。
戦略とも作戦とも呼べない無能の極みだが――男はそれを良しとした。
絡繰りと地形を活かした砦? 実に結構。 内府に対抗するに足る牙城だろう。
策を弄し、頭蓋を捻った叡智の結晶は、その道に疎い……というよりも、そういった知性とは程遠い男にさえ輝かしく見える。
ああ、まさに鉄壁!金剛石のように堅牢だ!
「それも当然だろう」
"
言ってしまえば、このあまりにも堅牢過ぎる陣は――そう、当然の事である。
――それを"力"でねじ伏せてしまえば、どれだけ
想像するだけでも……股座が、いきり立つッ!!
「――行け、往け、逝けェ!! 竜胤を手にしたモノには!魂からをも溢れる褒美が授けられようぞッ!!」
「おお!内府様への忠義を示せェ!!」
「おおおおォォ!!!」
影から、せめてもの存在を主張するように怒声で喉を震わせた。
喉が張り裂けるほどに唾を飛ばし、冷めかけた兵の心胆に活を入れる。
頬当ての中でじっとりと滲んだ汗をも振り払うように、強く大きく熱を上げた。
"怒り"を多分に孕んだそれに呼応し、男がいる影とは別の影から熱気が広がる。
「よい、よいぞ」
男はかすかに破顔し、満足げに頷いた。これでこそ誉れ高き"赤備え"である。
背を預ける材木の影から顔を覗かせ、次なる一手を打つためにも平田屋敷を睨めつけた。
そうとも。
男には部下たちを十全に使いこなし、眼前の砦に攻め込み、求められた戦果を主人のもとへ持ち帰る必要がある。
多少の無理は押してでも、活路を切り開かねば。
……その道中での被害?失われる人命?掛かった費用?
ああ、
高々いくらかの人命が失われただけだ。
恐ろしいものは他にあるだろう?
それよりも、何よりも――恐ろしいのは"人の欲"。それのみよ。
ある
内府様――徳川家康公が沸き立ち、それを手にする為に全霊を尽くすのは実に自然なことである。
熱に狂い、眼を輝かせ、辣腕を振るう。
あらゆる障害を乗り越え、万人が求める夢を掴むために何でもする。
夢とは、そういうものだ。
だから、そのために幾つもの屍を積み上げる。
だからこそ、己達は派兵されたのだ。
この様な小国まで遥々と、幾千万の兵を引き連れて。
――その過程で、力ずくでねじ伏せられるなら尚良し。
徳川の"力"を学のない民にも分かりやすく伝えられるし、訳が分からないという恐怖を植え付けられる。
そして何よりも、
狂おしい程に身を焦がす憎悪を、心を砕く苦難を、兵の命を背負う筈の思案を!
それら一切を薪に焚べた快楽の炎は、より一層強く燃え上がる。
つまり、壁は大きければ大きいほど良い――この災いこそ福音の兆しよ。
難行の果てに乗り越えた時、己はどれ程心地良くなれるのだろうか。
……ああ、無論
御上様は竜胤を求める。己は力でねじ伏せる快感を求める。
この二つは両立できるとも。
つまり、
上様にとって、一匹の梟によって目の前に吊り下げられた餌は極上の極み。
寸前に考えていた餌はどこぞへと放り投げ捨て、竜の尾を追い続ける。
……それ故に、"熱意"が過去例に無いほど高まっているわけで――だからこそ、己のような狂人が起用されてしまった。
「明日には更に七千の兵が到着する!彼奴らに手柄を渡したくなかろう!!」
「応とも!」
「ここまで攻め込んだのは我らの功ぞ!」
「ならば往け!
おおおおおぉぉぉ!!!と大気と大地を揺らす鬨の声が木霊する。
それに合わせて四方八方の瓦礫の中から真紅の兵士たちが姿を表し、重量級の甲冑を物ともせずに地を駆けた。
全方位から中央の屋敷を目指す様はまさに圧巻!
槍に刀に鉄砲に大砲に。
幾百人の男達は獲物を掲げ、我先にと屋敷目掛けて疾走する。
「まだじゃ……まだ……もう少し引きつけよ」
「……はい」
――それを、感情を押し殺した瞳で睨みつける。
荒れ狂う土煙を覗き穴から認めた翁は、周囲の使用人達と共に取っ手を握り締めた。
本来
絡繰り仕掛けは雄々しく牙を剥き、溜め込んだ力の解放を待ち望んでいる。
これら
「今じゃァ!!」
「承知!!」
「撃て!撃てェ!!」
バシュ、という木材が鳴らす擦過音。ドン!と火薬が破裂する発射音。
居間、廊下、土間。
屋敷中、外壁に面する部屋の全てから絡繰りの稼働音が響く。
地から地へ降り注ぐ流星群は過剰なほどに破壊を齎し、また幾つもの命と引き換えに束の間の膠着状態を生み出した。
「……一先ず、しばらくはこのままか……」
「……そう、ですね」
「少し、休むか?」
翁はちらりと視線を振った。
自身の担当する
同じ種別の絡繰りを制御している
「いえ……まだ、大丈夫です」
「……そうか」
嘘だ。
この状況下では満足な休息が取れるはずもなく、汗と土埃で汚れ、目の下には隈がこびりついている。
その様相を見て、誰も大丈夫等とは思えないだろう。
しかし……翁には、それを指摘できるだけの言葉はない。
それに、多少の無理を押してでも動かざるを得ない状況でもある。
できることは、ただ多少声をかけて気を紛らわせることだけだ。
「不安か?」
ぴくりと眉が震えた。
半ば反射的に瞳を細め、深く呼気を吐き出す。
お市は乱雑に纏められた頭髪をするりと撫で付け――さて、なんと返すべきかと眉をひそめた。
「………不安、ではあります」
前代未聞の大侵攻。
それも単なる葦名への侵略ではなく、明確な目的を持って――この平田を襲撃しているのだ。
明らかに不釣り合いなほどに戦力が供給されていることは誰でも分かる。
なら、何故これほどまでに戦力を集約している?
何に対してそれほどの価値を見出した?
……想像したくはない。考えたくもない。
しかし、それでもだ。
この場にいる面々は事の起こりを理解している。
「徳川が、竜胤を狙っている」
「……そうじゃな」
「日ノ本が……敵に回る」
――この戦国の世に突然表れた、不老不死の霊薬。
何処から情報が漏れたのか?
それは、お市達には一切わからない。
しかし……少なくとも
その事実だけでも……絶望的と、言わざるを得ないだろう。
「……それに」
乾いた唇をちろりと舐め、二の句を告げることが出来ずに黙り込んだ。
ぎゅっと力を込められた眉間は、いつぞやの
脳裏に思い浮かべるのは、不愛想で、不器用な女性の姿だ。
「……………」
「いえ、何でもありません」
ため息一つ。
垂れた前髪をさっと耳にかけ、再び絡繰りに向き合った。
歯車がギリギリと歯を噛み鳴らし、木と鋼とバネによって構成された自動装填の機構が作動している。
狼が手ずから造り上げた
食料などの備蓄はそれなり以上に蓄えられているが、砲弾や大矢などの特殊な物品はそう多くない。
。
それに、備蓄では人員の消耗は埋められない。
不眠不休で動き続けるにも無理があり、この様な状況では寝入ろうとも疲れが取れるはずがない。
人員と物資の限界の足音が、ゆっくりと近付いて来ていた。
「……忍び殿」
――故に、起死回生の一手が必要だ。
「…………あ?」
ずるり、と刃が心腑を貫き、赤い赤い生命の水が泉を作った。
喉笛に一閃、胸を一突き。
平田屋敷の周辺を囲う様に散らばる瓦礫。 その影にて楔丸を振るい、気取られぬように少しずつ兵士達の命を奪っていく。
日の出とともに平田屋敷を脱出し、ちまちまと屍を積み上げて四時間程。
予想はしていたものの、内府の戦力は……気持ちが悪いほどに強大だ。
こうして一人ひとり削っていった所できりがない。
少しでもお市や妙の労力を減らそうと努力したものの、やはりこれ以上は無駄だろう。
「御免」
左手で緩く合掌の型を作り、一瞬の祈りを捧げる。
倒れ伏す赤を身に纏う兵の瞼を下ろしてやり、しばしの黙祷を捧げた。
忍びは殺しを生業とするが、しかし決して一握りの慈悲を忘れてはならぬ。
なんとも滑稽極まる願いだが、それ故に心胆に刻み込んだ。
「………」
最後に一瞥をくれ、踵を返した。
最初は小走りで、次いで駆け足に。
とっ、とっ、とっ。限りなく小さな音のみで地を踏みしめ、障害物の影から影へ跳び移る。
可能な限り見つからぬよう
――そうしていれば、あっという間。
強靭な足腰と優れた隠形が合わさり、忍びらしい最優の移動が実現される。
敵に見つかりたくない?争いが嫌い? ならば誰にも見つからずに走れば良い。
ただそれだけで包囲された屋敷の姿は次第に遠のき、竹林が茂る下り坂へと辿り着く。
……目指す方向は、屋敷通りの先の先。
歴史ある竜泉川の端の端に、丁度野営地を拵えるのに丁度いい開けた場所がある。
何もそこに野営地があるとは断言できないが――目ぼしい場所から片っ端から探さねば、
軽く呼気を整えながら、下り坂を睨みつけ――
「………ッ!」
――視界に赤が映る。
狼は半ば条件反射的に地を蹴り飛ばし、道のすぐ横に茂る竹林に体を滑り込ませた。
「ん?何だ……?」
三人の歩兵が刀を握り締め、悠々と坂を登ってきている。
連絡兵なのだろうか?素早く移動できるようにか軽装に身を包み、平田の包囲陣へと向かっているらしい。
一瞬だけ目にした狼の影を追い、あちらこちらへ視線を彷徨わせている。
「……………」
足を止めた今が
静かに思案を回す。
連絡兵、という事であれば、指揮役と指揮役を繋ぐ役割を果たしているということだ。
こやつらを尾行することで指揮官の居場所も判明する筈だ。
狼は素早く考えをまとめ上げ、小さな体を更に小さく縮こませ、極小の衣擦れの音と共に後をつけた。
ああ、赤備えという存在はこの上なく目立つからありがたい。
それこそ、戦場では的になりそうな程だ。
「……まあ良い。行くぞ」
「応」
がちゃりがちゃりと甲冑が鳴らす呼吸を響かせ、坂を登り、包囲陣へ目掛けて走る。
焼け焦げた土と炭の匂いが狼の鼻孔を擽り、するりと抜けていった。
来た道を引き返す形ではあるが――まあ、首級への道案内を見つけられたと考えれば、そう悪いことではないだろう。
狼はズタボロの遮蔽物から遮蔽物へと渡り歩き、決して少なくない赤備えの兵達の死角を縫い続けた。
包囲陣を組んでいるだけあり、至る所で兵士が戦意を滾らせている。なんとも肝が冷えそうな話だ。
……とは言え手製の絡繰り達の攻撃を恐れてか、皆一様に瓦礫や拵えた防壁の裏でじっと息を潜めているのだが。
それに……正面は兎も角、裏に対する警戒は薄いらしい。
その御蔭ですんなりと尾行を続けることが出来た。
これが本当の
……が、しかし。今回に限って言えばそうではない。
狼が調べた限りでは、一度に侵攻している兵そのものはそう多くないのだ。
ただ一つ言えるのは、そこに光明があるという事実だ。
あらゆる行動で
「む」
――ふと、そこまで考えた所で伝令達が足を止めた。
彼等の正面に立つのは土埃に薄汚れ、色褪せた"赤"を纏う武士だった。
「伝令に参りました」
「うむ、ご苦労!」
瓦礫の隙間から煤けた内部へ潜り込む。
少しでも有益な情報を手に入れるため、彼等の会話にじっと聞き耳を立てた。
「これを」
「ああ、然と受け取った」
ぱさりと紙が擦れた。
受け取った書状を読み進めているのか、しばし言の葉が途切れる。
怒声と悲鳴と絡繰りの音の合唱の中、彼等の周囲だけは嫌に静かだ。
――知らずの内に、じとりと背筋が汗ばんだ。
「……はは、そうか」
一通り読み終えたらしい指揮官は、ぶるりと肩を震わせる。
如何な文章が綴られていたのかは分からぬが――視線を顔面に差し向けると、はちきれんばかりの笑みが貼り付けられていた。
頬当ての上から見ても、明らかに嗤っていると分かる狂笑。
一体それは如何な感情の発露なのか――狼にはとんと理解が及ばぬ。
果たして、何を思えばその様な笑みを浮かべられるのだろうか?
一体どんな人生を送ったのだ?
あまりにも理解の範疇を超えていた。
……とはいえ、彼等はそんな事知らぬし関係ない。
指揮官はもう一度ご苦労!と声をかけ、伝令達を送り返した。
「む……」
――さて、どうしたものか。
小さく唸り、思考回路に熱を入れる。
狼の前には二つの道がある。
ひとつ、このまま包囲陣の指揮官を殺め、平田の一先ずの安全を確保する。
ふたつ、伝令を尾行し、後方の兵達を殺めた後に包囲陣を崩す。
一つ目の選択肢を選んだ場合。
例え危機を脱そうともすぐにまた別の軍勢が襲来し、同じように包囲陣を組まれるに違いない。
それに頭を殺して混乱させた所で、狼だけで
一掃するならば平田の戦力全てを結集する必要があり――きっと、その大勢が死ぬ。
狼自身としては……正直、あまり取りたくない手段である。
ならば二つ目はどうか?
後詰めの指揮官を殺し――いや、それだけでは不足だ。
効果的に痛打を与えるならば……そうだ。兵糧や装備に細工を施そう。
この場にいる兵士とて、何もこの場で食料や装備を調達しているわけではない。
後方の拠点から物資を輸送され、それを燃料に苛烈な攻めを実現する。
ならば燃料に
「…………」
そうと決まれば直様この場を離脱し、さっきと同じように伝令を尾行をすればよい。
自信が埋まっている瓦礫にそっと手を添え、一切の音を立てぬよう抜け出そうと――
「――匂い立つなあ」
――背筋に氷が突き立てられる。
頭頂から心臓までを電流が駆け抜け、狼の本能にやかましいまでの警鐘を打ち鳴らした。
「ああ、いい匂いだ。戦の、血の匂いだぁ」
悍ましい、粘ついた思念が空間を埋め尽くす。
錆びついた鉄球のように重くなった眼球を回し、その発信源に――錆びついた赤に視線を向ける。
――目が、合った。
「勿体ない、勿体ない。そのような香りを纏う女がこそこそしおって……けしからん。私が、戦の何たるかを教えてやる」
次の瞬間。
意識の隙間を突いたように、三十尺はあったろう距離を埋めて瓦礫の前に立っていた。
腰に佩いていた太刀は抜き放たれ、日光を受けて銀に輝く。
血に汚れた切っ先が空を裂き、見開かれたままの左眼に迫った。