三寸先に迫った切っ先。
金切り声を上げる本能が促すまま咄嗟に半身を捻り、同時に楔丸を眼前に翳した。
瓦礫に身体操作を阻害されながら、針に糸を通すが如き繊細さで危機に抗う。
「―――!!」
ギャリリィ!
鋼が擦れる耳障りな悲鳴が鼓膜を突き刺す。
やかましく騒々しい。 しかし、これこそが生に実感をもたらす妙薬だ!
峰を横から押し当て、血塗れの太刀の軌道を強引にずらした。
――顔の横を貫いた切っ先によって害されたのは、たった一房の頭髪のみ。
はらりと舞うそれを尻目に、腹と足腰の粘り強さで跳ね起きる。
「はっは、やるなぁ!!」
瓦礫を突き破り姿を見せた狼に傷一つ無いことを認め、赤錆の男は黒い頬当ての中で大きく嗤った。
大きく広がる土埃を抜き放った分厚い太刀で振り払い、とてもとても嬉しそうに瞼を細める。
カラカラと嗤うその様だけを見れば、気の良い大男という印象を受けるに違いない。
――ここが戦場でなければ。
何故、敵に笑いかける事ができる。
何故負の感情を纏っていない?
つい先程までは泥よりも尚淀んだ殺気を放っていただろう。
気が狂っているのか、ただ自己を律しているのか。
……どちらにせよ、狼には理解の及ばぬ精神構造だ。
光を通さない純黒の瞳で睨みながら、四肢の末端に至るまでに細心の注意を払う。
視線を逸らさぬまま筋骨に電気を流し込み、とんとんとん、と機敏に地を踏み宙を跳ね、間合いを測った。
そうやって常に切っ先で威嚇する彼女に何をするかと思えば、殺意を向けるでもなく悠々と眺めるだけだ。
……益々意味がわからない。
ほんの僅かな重心の揺らぎさえ見落とさぬよう目を凝らし、男の思考を暴こうとする。
――が、それを知ってか知らずか。
男はいっそ無防備な程に自然体で、狼の警戒さえも物ともせず太刀の腹を弄んだ。
刃をするりと撫で埃を払う姿は隙だらけに見えて、しかし斬り掛かるにはどうしても躊躇を覚えてしまう。
刃を吹きかぶった一寸先に、自身の四肢を切り裂かれる幻影がチラついて仕方がない。
……不可解な男だ。
狼は一層警戒心を強め、どうとも言い難い底知れぬ不気味さを漂わせる男を睨みつけた。
「くくく、随分とまあ……たまらぬ殺気で焦がしてくるものよ……」
刀身に滴る血糊を掬い上げ、指先を擦り合わせながら柄を握りしめる。
男は――いっそ、愛おしげにも見える眼差しで狼を見つめ、柔らかく剣先を傾け正眼に構えた。
そして
からから、くつくつと。
何が面白いのか、頻りに嗤う。
そうして身構える狼を、心底嬉しそうに眺めるのだ。
狂気的だ、と思う。
浮世離れした気配は何処か朧げで、水面に映る月のようにあやふやだ。
まるで――心をこの場ではない何処かに、ぽつんと置き去りにしているよう。
現実味が伴っていないから、夢心地だからこそ支離滅裂な振る舞いを繰り返す。
……いいや、流石にこれは邪推というものか。
ともかく、狼に言えることはただ一つ。
この上なく、やり辛い。
……いっその事、開口一番で殺意露わに斬りかかってくれた方が楽な物を。
「…………」
眉間に力が籠もる。
刃渡り、凡そ三尺足らず。
刀身は太く厚く、非常に鋭利。
その振る舞いとは打って変わって、巨木が如き深みを見せる剣気。
狼の喉が知らずの内にごくりと鳴った。
紛うこと無き難敵である。
何度も
今回は何度目で攻略できるのか――
――ああ、いや……もう死ねないのだったか。
骨肉に染み込んだ
それがもはや存在しない過去のものであると、狼は今になってようやく実感する。
今生では始めて為す、難敵との命を懸けた殺し合い。
敗北なぞ許されないという自己を糾す重みが双肩にのしかかった。
……これが竜胤の呪いを受けた後であれば気負わず、ただ斬り合えば良かったのだろう。
しかし今回の狼は
人斬りとしての才気を磨こうと、空を飛ぶほどの斬撃を放てようと――結局の所、ただの人に過ぎぬのだ。
死ねば、そこで終わりだ。
そんな当然の事さえも何処か新鮮で――とても■らしい。
願ってはならぬのに、欲してはならぬのに。
主を守る為という一点のみで、身を焦がす我欲が
「ふぅ………」
――白霧の呼気に合わせて、脳髄を満たす狂おしい熱気を吐き出した。
いくら思考を回したところで今この場には関係ない。
狼にできる事は、ただ殺めるのみ。
死ぬかも知れぬが、死なぬかも知れぬ。
どうせ引けぬのだ。
ならば押し通るしかないだろう?
「ああ……いいなぁ、おぬし」
大男が恍惚と呟く。
まばゆい宝石を眺めるような狂気を浮かべた瞬間――。
眼前、目と鼻の先の位置に影が瞬く。
コマを飛ばしたかのような脈絡の無さで、赤錆の男が天を突き刺すように
「―――ッ!?」
――寄鷹斬り、逆さ回し。
脳髄が命令を下すよりも尚速く、脊髄反射の域で行われる斬撃と離脱。
右の斬り手が太刀とかち合うとほぼ同時――上体を翻し、天と地がぐるりと反転する。
素早く左の手で体を支え、跳ね返し、空を舞う軽業を以って幾ばくかの距離を奪った。
「はっはァ!!」
それと同時に唸る轟音。
赤錆の足は巨岩の様に大地を踏み締め、空いた距離を再び疾走する。
大気を巻き込み震わせ、殺意の権化たる剛剣が牙を剥いた。
狼の頭目掛けて残光と共に振るわれ――余裕を持って翳された楔丸は、正確にその刃金を弾く。
「たまらぬなぁ、たまらぬなぁ!素晴らしいじゃあないか、貴公!!」
次いで大上段、逆袈裟斬り、水平抜き打ち。
瞬く間の内に乱舞する赤い閃光を見切り、往なし、弾く。
斬り結び生まれた火花は幾百を超え、見開かれた狼の昏い瞳を明るく照らして消えていく。
瞬きさえも許されぬ殺意の交流は恐ろしく早い調子で繰り広げられ、当然の帰結として狼の体幹をすり減らした。
幾度目かの交錯。
狼は少しばかり充血した瞳で、ほんの僅かな機を見計らう。
男が大きく上に振り被り、両腕の筋骨の重みを乗せた一撃を放ち――それが狼の額を裂く寸前にひらりと横へ跳ねた。
「はぁ……!!」
好機。
大きく体を捻り、遠心力を十全に活かした右から左へ流れる水平斬りを――
――というのは、囮である。
「なに!?」
狼の斬撃を防ぐために、左側面にて天を刺すよう立てられた太刀を無視し――そして、この瞬間のみは楔丸さえも意識より外す。
刀を握る右腕を瞬く間に折りたたみ、防御をすり抜け強かに肘を叩き付けた!
「が、ぁ――ッ!」
拝み連拳、破魔の型。
尊き仙峯寺に伝わる武僧の業だ。
赤い甲冑を徹し腹を叩く肘打ちに次いで、今度は左の掌底を腹に打ち付ける。
その動作は狼の研ぎ澄まされた技巧故にいっそ美しく、赤の甲冑を透過し男の柔らかい臓物をかき乱す。
さしもの男も小さく咽た様を視界に写し、しかし何の情動もなく更に続けて背撃を見舞った。
「――は、はは……何とも奇天烈な女よ!!」
……しかし、流石の大男である。
いやあ驚いた、と馬鹿のような理由でからからと嗤い、直様
つまりはほぼ無傷。
……解せぬ。
解せぬし、納得もできぬが……推察は出来る。
その巨大な体躯を支える筋骨は並外れた強度を誇る。故、会心の連撃は――どう見ても、
……そんな、あまり想像したくもない理由だろうか。
ああ、本当に想像したくない。理解したくもない。
そんな理由だとすれば、先の決起は一体何だったのか。
実に、実に忌まわし過ぎる生命力だ。
親にでも感謝すべきだろう。
狼はそれはもう眉間に大きく皺を寄せたし、瞳を濁らせた。
自信のあった連撃が
ただ体が強いから?
不条理だろう?
頭がおかしいのではないか?
実に、実に……。
なんと、云うべきか。
………。
……ああ、そうとも。
並大抵のことでは動じぬ狼ではあるが、今回ばかりは苛立ちが勝る。
そんな心中をぶつけるように、更に激しく気勢を強めて楔丸を振るいに振るった。
「おお、おお!素晴らしいぞ!!」
されど、男はそれさえも上回る程苛烈な連撃で大気を震わせる。
狼が一度剣を振るう間に、男は三度も振るうのだ。
頭がおかしいのではないだろうか?
しかし、狼とてそんな些事で諦めるような女ではない。
正に不屈、正に鋼鉄。
固い決意が衝き動かすまま、斬撃と斬撃の間を縫い刃を徹そうと剣を振るい――振るい……。
……振るう、が……。
……その殆どを的確に防がれ、往なされ、或いは甲冑に阻まれた。
まるで
以前も同じように考えたが……なんと云うか、対処方法が限られるというのは非常に困る。
頭がおかしいのではないだろうか?
狼は頭の片隅でそんな思考を回しつつ――ほんの僅かに剣先が鈍っていることに気付く。
「…………」
全力で稼働を続ける四肢の筋肉は、嘗て無い全力の働きに白熱し痛みに喘いでいる。
いつの間にか、狼の額には大粒の汗が浮かび始めていた。
――けれどそんなものは些末な事だ。
弾けるそれを振り払いながら更に果敢に攻め立てる。
……が、しかし――赤錆の男は、傷を負わずにただ嗤うばかり。
「………っ!」
ギィン!一際大きく鉄が嘶き、それを合図とするように大きく後方へ跳ね飛ぶ。
どれだけ切り結ぼうとも変わらぬ状況はようやく様変わりを見せ、ようやく生まれたほんの僅かな間隙に四肢を苛む熱を排出した。
吐く吐息は白く熱い。
次第に冷めゆく両腕は変わらず楔丸を柔らかく握り締め……冷却されたが故に、一層鋭く粘り強い剣気を纏った。
赤熱した鋼が冷えれば硬度を増すように、精錬する度不純物を吐き出すように。
いっそ慈悲深い殺意が大気を焦がし、地を掴む両の足が今にも飛びかからんと張り詰める。
赤錆の男は常に血走った瞳でその律動を見つめ――そこでふと、視線を横にずらす。
「おう!貴様等は手を出すでないぞォ!!コヤツは儂の獲物よ!!」
「………!」
――ハッと、我に返る。
自己の置かれた状況と位置から逆算し、ようやっと周囲の様相に意識を向けて……そして気付いた。
どこもかしこも赤備えの兵達が居座っている。
散らばる瓦礫の裏側で、焦げた平原の窪みの中で、後方の藪の内側で。
みな、各々の武具を握り締めていた。
……迂闊。
あまりにも軽挙であった。
このような敵陣の真っ只中で剣戟を交わせば当然音が響き、有象無象をいくらでも惹き寄せるなど当然の事なのに。
赤錆の男の脅威ばかりに目線を奪われ、そもそも警戒すべき
「……援護は、できぬか」
瓦礫の隙間を通してちらりと屋敷の方に視線を送れば、射線は開けているものの……同士討ちを恐れてか、実際に弓を引くことは出来ないらしい。
この窮地を脱する為の援護は望めず、かと言って力尽くで逃れるにも……それは厳しいと言わざるを得ない。
これ程多数の敵兵相手に、上手くやれるのか?
一対一であれば勝機が那由多の果てにでもあろうが、ここまで数が多いとそうも言っていられない。
しかし、まあ……できるかできないかではなく、やるしか無いのだが。
「ふぅ……」
己の裡に、深く深く埋没する。
勝利への道程を歩むために。死を逃れるために。
脳内を雑多に泳ぐ雑念を残らず追い出し、極限の集中を為すべく、ただ専心した。
……彼奴は、
律儀にも周囲の赤備えや孤影衆も、「また始まったか」と言わんばかりに呆れた
挙句の果てには、懐から取り出した
それを流し見た狼の視線に、鋭く冷たいものが混じるのも……まあ、無理はない。
今この瞬間にも平田の人々は殺める時を見計らっているというのに、なんとも……こう、考えなしと言うべきか。
狼には一切理解できない人種であることに、まあ違いはないだろう。
目の前で静かに腰を落とす赤錆の男も、そんな兵達の様を当然とでも言うように受け止める。
故に端から欠片も気にも止めず、ただ只管に精神統一をしているらしい。
彼のその姿勢だけは、それだけは見習っても良いかも知れない。
呼気を吸い、吐き出す工程を只管繰り返す最中というのに。思考の隅で、そんな無駄な敬意がふと浮かんだが――しかし、それが定着する前に吐息に乗って空に解けた。
「ふぅ―――」
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
一度繰り返す度に裡に沈み、二意の無駄が大気に溶け込み、三相はみな戦意を滾らせ統一される。
自己暗示を幾重にも唱え、一世一代の大勝負へ挑むための素地を拵えた。
「――――」
排除する。
排除する。
排除する。
「貴公……」
あらゆる
そうすることが最善であり最適であると、無心のままに確信していた。
故に、強く、強く、強く、ともすれば強引な程に自我を削り整形し、
十秒経つ頃には視界も次第に色を失い、赤備えは無色の兵士へ変生し、孤影衆はただの石ころへ成り果て、
「おォ……何という……」
そうしてしまえば――その場に残るは一柱の
無駄なく構えられた刃は万物を斬り裂く気迫を纏い、
狼の内に秘められた、本来ある筈のない過剰な程に騒ぐ
それはそれ自身を起爆剤とし、本来は未だ到達する筈のなかった領域へと一時的に押し上げていた。
「――
研ぎ澄まされた剣気が氾濫する。
一切を斬り裂く程攻撃性が極まった防衛反応が駆動し――
胸中に溢れる熱い想念が瞳を熱し、唐突に現れた極上の餌のみに視線が吸い寄せられる。
「は、はハ」
微かに震える瞼の内側で、一体何を思い浮かべているのだろうか。
一秒にも満たぬ刹那、その蕩けて血走った瞳が僅かに細められる。
――率直に言ってしまえば。
男は大いに感動している。
焦げ付いた殺意に、狂気を孕んだ殺意に、慈悲深き殺意に。
……その殺意の中に、きらりと輝く"たからもの"。
殺意、殺意、殺意だ。
これこそ戦の醍醐味。
殺意のままに刃を振るい、斬り裂き、斬り裂かれる。
血と血の応酬こそが愛おしい。
実に芳ばしく、鼻孔を満たす
叶うのならば目の前の女を直ぐ様捕えて、その小さな体躯の尽くを縛りつけて、組伏せて――彼女が発する
脳髄がそんな叫びを喧しく騒ぎ立てる程に、男の内側をめちゃくちゃにぐちゃぐちゃにかき乱す。
ただただ、愛おしい。
肉欲にも似通った男のそれは獣へと駆り立て、天にも昇るような快感が全身を走り回る。
ああ――この刃がこいつを貫いた時、どれほど気持ち良くなれるのだろう。
「おおぉ」
頬当てがギチリと軋んだ。
固定する紐が震え、ぶつぶつと繊維が千切れて果てた。
「おおおおォ――」
両足が撓み、何時でも大地を駆けられるよう姿勢を制御する。
左手を添え手に、右手を斬り手に。
武士の作法に則った大上段は美しく、しかして泥臭い。
これこそが、男の
寄って斬る。
寄らねば、寄って斬る。
とにかく斬る。
何が何でも斬る。
その一念こそが男を生かし、活かし続けてきた。
「――おおおおおおォォオォッッ!!!!!」
――轟音。
同時、焦げた土をさらに熱する眩い火花。
一足で
「………!!」
防がれたと見るやいなや、男は一瞬の間に手首を返し、極めて機敏に刃を引く。
示し合わせたかのように互いの刃金は離れ――須臾の後には再び互いへ食らいついた。
「一文字」
「かァ!!」
震える大地、裂ける大気。
ただの剣圧のみで土埃が跳ね上がり、それを薄汚れた太刀が斬り裂き振り払う。
如何な備えをも無視して必ず斬る必殺は、まるで時を早めたかのように煌めく剣閃に堰き止められる。
……つまり、足りぬ。
ならば、足せばいいだけの事である!
「二連――!」
再度轟く鉄の悲鳴。
馬鹿の一つ覚えのようにもう一度輝く斬り下ろし。
それは正しく刹那の間に繰り返された。
狼が睨めつけた業の矛先たる赤錆の男は、先の一撃を受け止めた姿勢のまま。
ついさっきまではそこに在った斬撃を防いでいるように、虚空へ向けて刀身を翳している。
――男が、再び襲いかかる牙へ向け対処するよりも尚早く。
一度の防御に二撃を与えるのだ。
それ故に削り取られた体幹を取り繕う隙もなく、痛痒を重ねるように全く同じ箇所に食らいついた。
「ぬゥ!?」
振れる体幹。
揺らいだ姿勢。
――"おお、剛剣の頂点たる一文字を讃えよ!"
いつかの日、葦名衆の一人は酒の席で高らかにそう叫んだ。
その時はみな、呆れながらも同意し、事実そう疑わずに一文字の利点の数々をつらつらと語ったものだ。
狼はその席から逃れることが出来ず、耳にタコが出来るほどにその賛美歌を聞かされていた。
故にこそ思う。
その想いは間違っていなかったぞ、と。
例え剛力無双の益荒男だろうと、一文字の前では笹の葉のように揺らぐのみ!
赤錆の甲冑を無様に傾け、初めて明確な隙を晒している。
――それを、狼が見逃す理由はない。
「………!」
銀閃が眩く奔る。
速く疾く捷く、袈裟に横に下から! 縦横無尽に剣腕が唸り、連続する体重移動の重みを乗せた刃が踊る。
葦名流に於ける異端の一つ。
"源の宮"と呼ばれる秘境に産まれ、やがて主と共に葦名へ参った女武者が編み出した業――"浮き舟渡り"。
それはさながら舞いのように。
流麗な剣戟が男の四肢に、腹に喰らいつき、甲冑の綻びを的確に縫い――ついに、その巨体から血を流させた。
失われた血と共に活力まで流れ出たのか、巨体が更に大きく揺らぐ。
――後必要なのは、致命の一撃。それのみだ。
最後に断つべき、最も有効な部位を探し視線を這わせ……"そこ"はすぐに見つかった。
いざ終焉を。
とどめを刺さんと更に強く柄を握り、新たな"首無し"を生み出すべく横一文字に楔丸を叩き込む――
「舐めるなよ……!!」
――が。
強引に、不条理に。
握り締めた獲物に己の体を押し付けるように、肉体に満ちる類稀な筋肉を大きく隆起させる。
膨張し、重くなり、異様な圧を放つままの全身を太刀に乗せ――。
そして、刃を首元に翳す。
ただ、
それのみで会心の一撃を無効とし……例え防がれようとも、それでも生まれる筈だった隙さえも押し殺された。
さながら、巨岩の如し。
狼の連撃は、技ではなく――自然の摂理を以って封ぜられたのだ。
――赤錆の男、背丈は凡そ
対する狼の背丈は
"上背に差がある"という事は、腕の長さや足の長さの違いはいっそ残酷な程明確に別れ、あらゆる間合いに格差があるという事。
加えて言えば、体の大きさが違えば体重も違う。
それ即ち、あらゆる攻撃の
遥か過去の世より連綿と続く、大いなる物理法則が定めた不文律である。
ギリギリと重なる刃の鍔迫り合いの最中、赤錆の男は当然の権利のように全体重で狼を押さえつける。
剥がれかけの頬当ての下で鋭く尖った歯を剥き出し、口端を裂くように大きく笑った。
「はァ!!」
男の膂力に任せた強引な体重移動。
瞬間的に爆発するかのように刃と柄を押し込み、狼の体幹を強引に打ち崩す!
狼の体はその小ささゆえに浮き上がってしまい――それに逆らわず、むしろ自分から空へ舞い靭やかな四肢のばねを活かす事で姿勢を正した。
慣性に従い後方に流れる力が腰を伝い、足へ下る。
そしてそれが地へ逃れる寸前に、狼は靭やかな両膝を柔らかく折り曲げ、逃れる筈だった力を全て残らずその場に留めた。
「―――ッ!!」
そして飛ぶ。
反発する足は常よりも更に強く地を踏み抜き、赤錆のそれにも劣らぬ縮地を為し得た。
同時に翳す楔丸が日光を受けて銀に輝き、追撃を放とうと大上段に振り被られた右腕を斬り落とさんと袈裟の型にて滑走する――
――が、男は何を思ったのか、握り締められた左手を突き出した。
「づァ!!!」
「……は」
ガァン!と、鋼と肉が打ち付けられたにしては異常な音が響く。
……それを見て、思わず目を見開いた。
男はあろうことか、楔丸の側面を
想定の外を爆走する奇策は見事狼に動揺を齎し――どちらにせよ変わらぬだろうが、横合いから軸をずらされたが故に体幹が大きく揺らいでしまった。
両手で握っていたはずの楔丸から左手が剥がれ落ち、右の指先は吸い付いて離れなかったものの……切っ先はあらぬ方向を泳ぎ、右腕ごと宙を遊んでしまう。
つまり、がら空きというやつだ。
正に絶体絶命。
赤錆の男がそれを見逃す筈もない。
そして何をするのかと思えば、握り締めた左手を狼の腹に押し付けた。
「―――!?」
――香る
ジリジリと焦げ付く炎の悲鳴。
握り締められた掌の中には、大きな爆弾。
「さあさ!しっかり堪能してくれ給えよォ!!」
左手さえも犠牲に捧げ、もろとも狼の腹を吹き飛ばす。
文明の叡智の集積体たる黒色火薬は、その性質から火薬ではなく
瞬間的な反応を表すのなら、燃焼よりも爆発。
それこそ、人体を爆破するのなら丁度いい塩梅だ。
――つまるところ、絶体絶命の危機。
例え身に余る程の加護で器を満たしていようとも、無防備な腹を破裂させるなんぞの鬼畜な所業を受ければ……当然、あえなく臓物を撒き散らすだろう。
そこにはこうある。
結果として、狼の旅路はここで終わってしまうのだ、と。
御子を守れず。
義父の願いを叶えられず。
友人の思いを裏切って。
無様にも二度目の一生を棒に振ってしまうのだ。
――――。
……本当に?
本当に打つ手はないのか?
ただ己の死を待つ他ないと?
生存の道を模索すべく、超高速で回転する脳漿の電気がのたうち回る。
極限まで引き伸ばされた感覚の中、停滞する時間の中で男の指先が引き金に掛けられた。
大きく見開かれた狼の瞳はこんな状況でも――いいや、こんな状況だからこそ、ギラギラと輝き飢えた眼光で宙を焦がした。
どう動けば回避できる?
死の宿命を逃れるには――。
――避ける。
不可能。
体幹が大きく崩れている。
防ぐ。
不可能。
楔丸を握る右手は制御を失っている。
反撃。
不可能。
同上の理由故に無謀。
道具。
不可能。
本当に……打つ手はないのか?
……確かに、ない。
取れる手は何もなく、死を待つ他にない。
――しかし、だ。
自力で足りぬのならば、外部から持ち出せばいい。
例えば――仏に祈るなぞ、この状況にぴったりではないか。
「
隔離された時の流れの内側で、吽形の真言を音もなく――口腔を閉ざしたままに口ずさむ。
狼は、過去に幾度となく吽護の加護を賜り、その度に命を救われていた。
今回もその焼き増しだろうか?
いいや、違う。
――そもそもの前提として、今の狼は既に恩恵に肖っている。
仏ならぬ怨霊の力を
本来であれば……人にその様な超常存在の力を宿すことは無理な話だ。
身に降ろした所で、絶えず苦痛が精神を炙り続ける。
「
だからこそ、そう安々と願ってもいいものではなく、どうしても必要であれば――飴でも噛み締めて、必死にそれを耐え忍ぶのだ。
当然狼もまた常に身を軋ませ、苦しみをやり過ごしていた。
幾重にも降り積もる怨霊の呪詛を何とか耐えていた、というのに――
――そこに、更に
人ならぬ神仏の片鱗を、満杯の器に注ぐのだ。
無茶という他ない。
愚かという他ない。
「
しかし、それでもだ。
忍びとは、時にそういった死線を掻い潜ることを強要される。
掟が故か、信念が故か。
狼は引かぬし、引けぬ。全ては
今この瞬間こそが賭け所よ。
――そして、修羅神仏は勤勉なる者にこそ微笑みかけるのだ。
「
纏う
異常と異常が溶け合い、重なり、鬩ぎ合う。
そして互いに互いを邪魔して――互いの威を喰らい合う為に、波濤のように格を高める。
強く大きく気高く美しく……そして、何よりも穢れた麗しの神威。
「――――!!」
号砲を上げる寸前、唐突に
それを視て、感じて、味わって。恐ろしい圧に背筋に震えが走り――咄嗟に、何かに急かされるように焦げた火薬を握り締め爆破を早めた。
――ドォン!!と。
表現するだけでは伝えらぬような轟音が、無遠慮に左手と大気を震わせる。
聞く者の内臓をめちゃくちゃに乱打するような音だけではなく、文字通り、物質的に内臓を破壊する爆炎が使命を背負って特攻したのだ。男の左手という犠牲を背負って、爆炎が狼の腹を焦がす。
……が。
「暴悪、捷疾鬼、威徳……是、護法善神の一尊也」
確かに役目は果たしただろう。
狼の土手っ腹を無惨に打ち砕き、破裂させ、血と肉と骨を周囲に撒き散らさせた。
故に、致命傷を負わせたという事実
――狼が、その傷を一瞬で癒やしたことに目を瞑るのならば。
「く、ははは……何だそれは――」
赤錆の男は肩を震わせた。
目の前で起きた意味不明な超常現象に恐れをなしたからか?
いいや、違うとも。
広い日ノ本を探せば、数は少なくとも
そういった化け物染みただけの存在など……別に居ても居なくたってどうでもいいさ。
しかし、しかし……!
「またまた、
重ねて何度でも叫ぶ。
戦にこそ興奮を感じる男は、自己の内から溢れる快感の波に溺れてしまいそうに震える。
頬当ての亀裂から覗かせる笑顔を赤らめ、戦万歳!と大きく叫び――残った右手で太刀を握り締めた。
しかし、その笑顔は笑顔とは思えぬ血腥い色を携えている。
もはやなんと表すべきかも分からない。
蕩けた瞳で狼だけを見つめ、壊れかけの頬当てを剥がしてそこらへ投げ捨てた。
――そこでようやっと。
周囲の兵達もいよいよ"何かが可笑しい"と感じ始めたのか、広がる戸惑いの海の中でのろのろと腰を上げ始める。
逃げるのか、目を逸らして本来の任に戻るのか、はたまた赤錆の男に加勢するか――ただ見届けるのか。
正直それはどうでも良い。
もう男の視界には、そんな有象無象は欠片も写り込んでいない。
ただ、殺意を。
あらん限りの殺意を向ける。
己を興じさせ、生きた心地がしないほどの快楽を味わわせてくれた返礼を。
狼から見れば迷惑極まりないだろうそれを、これこそが感謝の気持ちだと、なんら疑いもせず瀑布に乗せた。
……だから、前言撤回だ。
先程の口上を、心情の一切合切を投げ捨てる。
この女を捕えて飼い殺そうと、そう思っていた。
思っていた、が……しかし―――辞めだ。
必ず殺す。
最上級の敬意を、お前に刻み込んでやろう。