殺してやる。
特定の一個人に対して明確な殺意を抱くことが俺ごときの平凡な人生でありうるとは思っていなかった。
貴族が支配する社会とはいえ、裕福な騎士爵家などというものはそうそうない。爵位なんてものもこの辺りまで来ると親筋の家の威光あっての物種で、父と母、俺と妹の四人家族でさえ相応の見栄やら格式やらを考えると色々大変で、主家から同年代の御令嬢の遊び相手兼付き人見習いをつけたいという招集がかかれば一も二もなく条件に当てはまる俺が差し出されるのも、自然の成り行きだった。
生来どういうわけか親に教えられていないこともすいすいと覚えがよかったせいもあってか見事抜擢され、お嬢様に仕える立場になったのは年齢が一桁だった頃の話。
初めてお目見えとなる日。お仕着せに身を包み、妹のため両親のため家のため、何があってもこの仕事を成し遂げようと心に決めて。
俺は、生まれて初めての殺意を知った。
俺が仕えた相手はクラエス公爵家令嬢、カタリナ・クラエス。
もしも「悪魔」というものが人の中に紛れているのなら、この女こそがそれだった。
カタリナ・クラエスは特別強い欲望に塗れている、というわけではないだろう。
たとえば彼女が望むのは菓子であり、装飾品であり、身の回りの世話程度のもの。
だがそれらが全て、いついかなる時も望む通りにならなければ気が済まず、またその望むところが周囲にとっては理不尽極まりない、という性質だった。
お菓子が食べたい、と従者に命じるのに時を選ばない。
同期にして年上のメイド、アンさんの用意したクッキーが紅茶に合わないからスコーンを出せと言う。用意がないと言われればいいから持ってこいとカップを投げられ、血の流れる額を押さえながら雨の降る街を買いに走ったこともあった。
リボンを持ってこいと言われ、望む通りの色を持っていけば別の色がいいと言う。そのまま癇癪を起こし、リボンで首を絞められかけたときはさすがに死の恐怖を覚えた。力は弱く、あの程度では死ななかっただろうが、躊躇わずその行動に移ったことは恐ろしい。
それが毎日毎日続く。
クラエス家に仕える間中生傷が絶えたことはなく、寝ているときにたたき起こされたことも一度や二度ではない。それで寝癖がついていれば無様と罵られ、鼻で笑われることになる。
おそらく彼女の性質は度の過ぎた強欲でも邪悪でもなく、強烈なエゴだろう。
自分が正しい、世界は自分の望む通りになるべきだ。そういったことを一片の疑いもなく心の底から信じている。
だから、何もかもが許されてしかるべき。
だから、遊び相手はおもちゃと何も変わらない。きっと、壊れたらまた新しいのを親に強請ればいいと、その程度に思っていたのだろう。
尊厳を踏みにじるようなことはしてこない。
そもそも自分が雑に扱う「それ」が同じ人だなどと、思ってもいないのだろうから。
許すものか。許してなるものか。
殺してやる。夜に枕を濡らした涙と同じ数だけそう思った。
家に残る父と母と妹がいて、できるはずもないのに。そのことがさらに悔しかった。
だが、それもじきに変化した。
あの人を殺す? 我ながら、とんでもないことを考えていたものだ。
カタリナお嬢様に置かれましては、その生を最後まで全うしていただきたい。
公爵家令嬢カタリナ・クラエスとして。どこまでもどこまでもその心根のままに生き。
そして積み上げた過剰な自信と誇りの全てを失い、虫ケラのようにその命を終えてくださいますように。
「そうだよ、そうなんだよカタリナ・クラエス……! お前は望むがままに生きるそれだけで、破滅の奈落へ堕ちていく……! そうだよなあぁ……
◇◆◇
俺にとって運命の日となったのは、カタリナ・クラエスが王家の第三王子、ジオルド王子に目通り叶った日だった。
カタリナ・クラエスは城にて面会を果たし、王子の子供ながら端正な顔立ちに一目で入れ込み、既に彼女気取りなのかべったりと腕を組んで城の中の案内を頼んでいた。
目を離すとどんな失礼があるかわからないから、とついていくように言われたことを当時は嘆き、今は感謝している。
カタリナ・クラエスの度を越した入れ込みようはジオルド王子をしてすら御しきれるものではなく、浮かれて歩いて間抜けにも縁が浮いた敷石に躓き、頭から転ぶ次第となった。
その時咄嗟に手を出してしまった自分のお人好し加減、昨日までなら呪わずにはいられなかったが、今は違う。それらすべては今日この日、俺が祝福を授かるための過程だったのだと心の底から信じられるのだから。
カタリナ・クラエス、転倒により額に裂傷を負う。
傷跡を縫い、公爵家令嬢としては社交界において致命的ともいえるような顔の傷を抱え、数日の高熱にうなされたその陰で、伸ばした手を取られて死なば諸共とばかりに引きずり倒され、固い石畳で頭を打った付き人がいたことなど一応の介抱を任された使用人以外誰も気にすることはなく。
再び目覚めたときに、俺は理解した。
カタリナ・クラエス。
ジオルド王子。
その双子の弟たるアラン王子。
彼らの存在と名前と境遇と魔法の存在、魔力を持つ者の魔法学校入学義務。
偶然で片づけるには多すぎる数の符合をもって、俺は結論を下す。
「……ここがFORTUNE LOVERの世界か」
目覚めの第一声はこれで、前世の記憶を思い出した俺にとって正しく生まれ変わったかのように世界が輝いて見える気分だった。
「FORTUNE LOVER」。
いわゆる乙女ゲーであり、前世が男であった俺の耳にもその名が届く程度の知名度と、多少なりと内容を知ることになるほどのアレさを誇るゲームだった。
魔法と貴族のファンタジーな世界観。学園ものなストーリーにおいて、ごく普通の家に生まれた健気で特殊な力を持った主人公が、数々の困難を乗り越えて運命の男性と結ばれる王道展開。
とくに有名だったのはメインの攻略対象たる王子の婚約者であるお邪魔キャラの公爵令嬢で、辞書で「悪役令嬢」の項を引けば彼女を指すだろうと言われるほどの王道ぶりだったという。
件の悪役令嬢、生まれは高貴にして性格は傲慢、わがまま。王子に想いを寄せられる主人公を妬み、恨む。頭脳も魔法もお察しながら、生まれ持った家の権威と取り巻きの数、そして己の望みを阻む者は決して許さないという執念深さがいろんな意味で愛され玩具にされ、それはもうゲームをプレイしていない勢にすら知れ渡るほど。
その邪魔者の名は、カタリナ・クラエスということを、思い出した。
俺は心から納得した。
あの人並外れたエゴと非情さ、乙女ゲーのメインヒロインをいじめ抜く悪役令嬢だからだ、と考えれば頷ける。
カタリナ・クラエスはまだ8歳。FORTUNE LOVERのストーリーが始まる15歳まではまだ6年の歳月があり、その間をかけてその苛烈にして自己愛に満ちた性格と、王子は自分のものだという歪んだ認識をさらに育んでいくのだろう。
その先に生まれるのは嫉妬に狂い、怨念に取りつかれた狂気の怪物。
ジオルド王子と結ばれるかもしれないFORTUNE LOVERの主人公は、それと相対することになるだろう。
――そして、カタリナ・クラエスは破滅する。
例えばヒロインがジオルド王子のルートに入った場合、ハッピーエンドで国外追放、バッドエンドならば望んでやまなかったジオルド王子自身の手によって斬り殺されることとなる。
公爵令嬢、カタリナ・クラエス。FORTUNE LOVERの攻略対象たる国の重鎮次世代たちとも縁深い彼女は、それ以外の道筋でも悪役令嬢の宿命として破滅へつながる道が数多い。
そう、つまり。
あの女を、俺が殺すまでもない。
いやむしろ、生きてもらうべきだ。
そうすれば、全てが思うままになると信じて疑わなかったその果てに、何もかもが思い通りにならないという最悪の絶望が待っている。
俺はこの日、前世の記憶を取り戻した日を境に心を入れ替えた。
これから先、いかなる苦難があろうともカタリナ・クラエスに仕え、その望むところを成そう。
なぜなら、前世の記憶として未来を知る俺が、俺だけが、カタリナ・クラエスの破滅の未来を知っているのだから。
もしその素行を矯正することが叶うならば、カタリナ・クラエスを救うことすら可能だろう。
そして救うことができるということは、「救わない」こともできるということ。
願うがままに生きよ、カタリナ・クラエス。
羞恥を知らず、自尊心のみで生まれた者よ。そのエゴを肥え太らせたその果てに、望んだすべてを失う破滅の顎がカタリナ・クラエスを食いちぎることは必定。
俺はただ、その日を迎えるのを待てばいい。その時こそ、我が満願成就の日。
これまでカタリナ・クラエスが俺に成した数々の侮辱と悪罵。それらは必ずや清算される日が来ると、今この時に確信できたのだから、どれほどの苦難も乗り越えられる。
――これより、私が誠心誠意お世話させていただきます、カタリナ・クラエス様。
15歳を迎えての魔法学校入学と、その後の学園生活。それら全てお望みのままに進むよう、お仕えいたします。
そして、その果てに。
破滅し候え、我が主。
◇◆◇
これは、一人の男の物語。
家族の為と己に言い聞かせ、あらゆる痛苦に耐える覚悟で公爵令嬢に仕える男。
「キース! キース出てきて! 扉を開けて!」
「カタリナお嬢様。鍵を持ってまいりました。『
「……! でかしたわ!」
(ククク……! 引きこもってる扉を斧でブチ破るなどシャイニングの所業……! これでキース・クラエスの性格がひん曲がってロイエンタールみたいになることは確実よ……! また一歩破滅に近づいたなぁ、カタリナ・クラエスゥゥゥ!)
これは、一人の復讐者の物語。
かつて味わった理不尽と辛酸、その全てを定められた破滅に導いて清算させようという決意の行く末。
「あの、あなたは……私のことを変だと思わないんですか? カタリナ様みたいに……」
「お言葉ですが、ソフィア・アスカルト様。人の価値を決めるのは外見ではありません。その心と行動。それこそが人を人たらしめるものなのです。バケモノとは髪や目の色が人と違う者ではなく、人を人とも思わない傲慢と理不尽を兼ね備えたモノをこそ言うのです……!」
「アッハイ」
そしてこれは、多くの者に語り継がれる物語。
公爵令嬢、カタリナ・クラエス。王子を、宰相の子息を、関わる多くの人たちを魅了し、救った彼女に仕え、陰に日向に支えた無二の忠臣として語られる、従者の姿かくあるべしと讃えられる、そんな男。
以心伝心、一心同体。心と心が通じ合っているかのような、誰もが羨むその主従。
「カタリナ様、危ない! 失礼いたします……死ねぇ!」
「あの、義姉さんを僕のゴーレムから助けてくれて本当に良かったと思うんですけど、死ねって言ってませんでした……?」
「何のことでございましょう、キース様。私はただ必死にカタリナ様をお救いするべく力いっぱい突き飛ばしただけでございます」
「フゥハハハハハ! ジオルド王子のみならずアラン王子、果てはその婚約者にまで好かれてるっぽい波動を感じたときはどうなるかと思ったが、むしろそれでこそ! このまま人間関係がこんがらがりにこんがらがるよう、お前が『おもしれー女』ムーブを続ければ、必ずや破綻と破滅が待ち受ける……! その最後のピースたるマリア・キャンベル様。あなたとの出会いを、私は一日千秋の思いでお待ちしていますともさああああ!」
「くっ……! マリア・キャンベルすら抱きこんで生徒会を『逆ハーレム~百合の香りを添えて~』にするとは……! 仕方ない、こうなったら、次の策を練るため、フィナーレにはキャンディーのつかみ取り大会もある秘技、脳内会議を!」
なお、そのツーカーぶりは主従ともによく似ているからだったのだが、そんな風に思われていることを当人たちは知らないし、従者に至っては周囲の評価を知ったら過呼吸を起こして卒倒すること疑いないが、知らぬは当人ばかりであった。