魔法学校入学。
それは、カタリナ・クラエスの人生が破滅のレールに乗ったという何よりの証拠。
この学園生活を各生徒が波乱万丈に富みつつ進んでいけば、それだけでカタリナ・クラエスは破滅する。それが定められた未来。
運命に愛された女の宿業。
の、はずだったのだが。
「おのれカタリナ・クラエスゥゥゥゥゥゥゥ! 酒! 飲まずにはいられないッ!」
愉悦の味とは程遠い、苦みと渋みが舌を抉るワインをがぶ飲みする俺がいた。
その理由は他でもない、カタリナ・クラエスのせいだ。俺がこうして荒れるのは大体カタリナ・クラエスのせい、とも言うが。
今日こうして荒れているのは、これまで順調に俺の思惑通りに破滅への道を歩いてきていたカタリナ・クラエスが、魔法学校へ入学するなりその破滅への道筋を踏み外し始めたからに他ならない。
カタリナ・クラエスといえば悪役令嬢。
乙女ゲームの主人公に数々の嫌がらせをしてヘイトを集め、ジオルド王子やキース様といったヒロインの攻略対象にすらも疎まれ、成敗される。それがあるべき姿、人生の意味。
だというのに!
無事魔法学校へ入学した、主人公たるマリア・キャンベル様。
彼女は持って生まれた光の魔力によって注目されるのみならず、ひたむきな研鑽によって手に入れた聡明さをもって入学直後の学力テストでジオルド王子に次ぐ2位の成績をマーク。それによって生徒会への参加を許されるという栄誉を得た。
それでこそ主人公。それでこそ世界の中心。
一方、カタリナ・クラエスは諸々平凡。成績も平均ラインで格の違いというものを見せつけられていた。
俺は思った。これはイケる。
カタリナ・クラエスなのだからそりゃーもう恨むに違いない。平民出のマリア・キャンベル様が自身の上を行き、婚約者たるジオルド様と共に生徒会で過ごすなど到底看過できることではないだろう。
これは、間違いなく嫌がらせが始まる。そうすれば破滅への道は決まったようなものよ!
「どうぞ、カタリナ様」
「ありがとう! ……ん~、おいしい! やっぱりマリアの作ってくれるお菓子は最高だわ! ね、モノ!」
「……さようでございますか」
……なのになんで仲良くお茶してるんだあああああああああ!!!
マリア・キャンベル様はまさしく思った通りの方だった。
美しい容姿に清らかな心、明晰な頭脳。
人の中心となる資質を秘めた、まさしく運命の乙女と呼ぶにふさわしい女性。
だからこそジオルド様たちが心惹かれるに足るものであり。
……だからとて、カタリナ・クラエスまでもがめっちゃ懐いているのはどういうことなのか!
ジオルド王子たちの要望でカタリナ・クラエスが生徒会活動に参加するようになったのはいい。それによって接する時間が増えれば、必然マリア・キャンベル様に対する恨みを募らせる。悪くない展開だと思ったのだが、社交界のパーティ会場でお菓子を持って帰りたいとかぬかす生来の意地汚さはここでも遺憾なく発揮され、マリア・キャンベル様に手作りのお菓子をねだり、それによって懐柔されるという有様を見せやがるとは……!
カタリナ・クラエスと菓子と言えば、思い出すのは過去のこと。
まだ幼かったころの俺が、たまにメイド長や使用人頭、庭師のトムさんからお菓子をもらうたびにどこから嗅ぎつけてか姿を見せたカタリナ・クラエスによこせと言われ、断れるはずもなし。
半分で済めばいい方で、全て取り上げられたこととてザラだった。
それで奪うのみならず、一口食べて下賤な味と捨てられたときは、怒りでどうにかなりそうだった。
しかも、ある時を境にそうしてゆすり取った菓子を素朴で美味しい、とのたまって嬉々として食べるようになった。
何だその心変わり! 忘れていないぞ、過去の屈辱は……!
そんな有様を見せられて、最近飲酒量が増えている、というわけだった。生まれ変わったこの世界には未成年飲酒云々という概念はないからセーフ!
……しかしマズいな。これはなにかしら手を打たなければ、下手をするとカタリナ・クラエスが主人公たるマリア・キャンベル様を妬むのではなく、むしろ攻略される側になりそうな勢いだ。
乙女ゲー主人公の魅力を考えればあり得る話。そして、そうなってしまえばカタリナ・クラエスが破滅に至らない……!
「……致し方ない。かくなる上は事態打開のため、秘技・脳内会議を!」
なお、脳内会議は多数の脳内俺によって開催される意見交換の場であり、最後にはキャンディのつかみ取り大会も開催される。
「……閃いた!」
◇◆◇
魔法学校の生徒会室は、成績優秀者の集うサロンのようなもの。
今年度は生徒会長のシリウス・ディーク様を筆頭に、ジオルド王子やマリア・キャンベル様たちが学園の運営に寄与している。
その中に一人、本来の選定基準とは異なる理由で呼ばれたメンバーこそ、カタリナ・クラエス様。
ジオルド王子たちの熱望によって参加が許された特別な人。
だからこそ、生徒会としての職務には携わらず、ただそこにいるのみ。
しかし、そうあればこそジオルド王子の心は安らかになるという。
ゆえにカタリナ・クラエス様は今日も生徒会室でのんびりと生徒会長閣下が手ずから淹れたお茶を飲み、マリア・キャンベル様が手作りしてきたお菓子を堪能する。
平和そのもの、といった一幕がそこにはある。
「カタリナ様。本日のお茶菓子はマリア・キャンベル様がお作りになられたクッキーでございます」
「わーい、クッキー大好き!」
「お茶は生徒会長閣下が。……申し訳ありません、本来ならばカタリナ様の従者である私がするべきことですが、生徒会長閣下の入れるお茶が一番見事だとカタリナ様がおっしゃるので」
「いえいえ、僕が好きでやってることですから」
そうなるように、俺も少々尽力させていただいた。
マリア・キャンベル様がお菓子作りのため食堂の調理場の隅を借りていたのをクラエス家経由で正式に頼んでもっと堂々と使えるようにと交渉し、材料の調達や下ごしらえの手伝いなどなど。
そのようにいくつかを整えれば、それだけでカタリナ様は嬉々として生徒会室に入り浸るようになった。
マリア・キャンベル様は手製の菓子を喜んでパクつくカタリナ様に対して嬉しそうに笑う。
だが一方、ジオルド王子はそんな二人をどこか複雑そうな目で眺め、書類を書き損じたらしく慌てている。
ククク……どうやら計画通りに事が進んでいるらしいな……!
そう、単純なことだったんだ。
カタリナ・クラエスを破滅に導くために必要なのは、「マリア・キャンベル様が幸せな結末に辿り着くこと」ではなかった。
本物のマリア・キャンベル様の人となりを知ってしまえば、そんな風に考えていたことを恥じ入る思いだ。
カタリナ・クラエスの破滅はマリア・キャンベル様の幸福によって押しのけられた結果ではなく、カタリナ・クラエスの醜い我欲が自身を奈落の底へと蹴り落としたことによるもの。
カタリナ・クラエスが、欲しいと思った物を手に入れられない。その状況こそがこの女を破滅へと導くのだ。
つまり!
カタリナ・クラエスがマリア・キャンベル様に懐いているのなら、とことんまで懐いていただけばいい。マリア・キャンベル様はあれだけの人格者。多くの人に好かれることは確実で、その中にはマリア・キャンベル様自身の運命の人もいることだろう。
その結果、間違いなく、カタリナ・クラエス以外の誰かと結ばれる。
たとえばマリア・キャンベル様がジオルド王子と結ばれたとして、そのときカタリナ・クラエスはどうするか。ジオルド王子かマリア・キャンベル様か、どちらに対してであれ「奪われた」と思うことは確実! 嫉妬に駆られたその時に、どう動くか。
破滅へつながる行動になる! と断言しよう!!
ああ、やはり世界は俺に味方している。
どうぞ幸せな時をお過ごしくださいませ、カタリナ・クラエス様。
遠からず失われるその甘い幸福に浸れば浸るほど、喪失の絶望がお前を破滅へ導くのだからなぁ……!
ただひと時、破滅へ続く
◇◆◇
そんなある日のこと。
俺は魔法学校での用事の手伝いとしてカタリナ・クラエスに呼び出された。
さすがはカタリナ・クラエス。魔力を持たない俺をすら学校の用事に駆り出そうとは見下げ果てた傲慢と怠惰よ。
なので、喜び勇んで手伝いに馳せ参じた。
この状況、傍からすれば「我を通して従者を不当に駆り出している公爵令嬢」の図であり、俺はそんな主に泣く泣く従う哀れな従者。カタリナ・クラエスの評判を下げられるのなら多少の労働など苦でもないわ……!
(なお、従者に作業を頼むのは魔法学校の主たる層である貴族の子弟としてはごく普通のことであり、主人によく仕える立派な従者としか見えていないのだが、モノは知らない。)
ともあれ、そうして用事を片付けたあと、中庭沿いの通路を歩いていた時のこと。
「……あら?」
「――マリア・キャンベル様のお声が聞こえます。他にも何人かご令嬢のお声も」
カタリナ・クラエスが気付いたのは、風に乗って流れてきたどこか穏やかではないと思しき会話の声。
声の方へと目を向ければ、中庭に数人の女生徒たち。
位置関係からして、マリア・キャンベル様一人に対して残り全てのご令嬢という組み合わせのようだ。
距離はあるのに声が聞こえてくる。マリア・キャンベル様以外の方たちの、だが。
取り囲む様子はまるで逃げ道を封じるようで、詰め寄っているようだと言えば俺たちの見た雰囲気が通じるだろう。
それはまるで、ゲームの主人公に降りかかる難癖イベントのようで。
……マリア・キャンベル様に、嫌がらせを?
カタリナ・クラエス以外の人間が……?
「っ! モノ!!」
「はい」
カタリナ・クラエスの叫びに一声応え、中庭と廊下を隔てる腰ほどの高さの柵を飛び越え走る。
近づき詳しく見えはじめる様子は、まさしく怒れるご令嬢方と怯えるマリア・キャンベル様の図。
一言二言聞こえた話によると、「邪魔」「ふさわしくない」などなど。
そして、マリア・キャンベル様を詰る集団の中心人物らしき女性の手に燃え上がる魔法の炎。
……いけませんねえ、そんなことをなさっては。
◇◆◇
「わからせてあげるわ、あなたの身の程というものを……!」
マリア・キャンベルは怯えていた。
魔法が使える、ということで魔法学校への入学を許された。
光の魔力を持つことで注目された。
奇異の目で見られないようにと続けた勉強の成果が実り、生徒会の一員となった。
それら全てが、今この瞬間に繋がっている。
向けられる憎悪と嫉妬の目、目、目。
口々に放たれるのはマリアという存在の否定。
望んで得た力、望んで辿り着いた場所ではなかった。
失われてしまった家族との温かい時間を、せめて取り戻したいと願い、祈っていただけだった。
生徒会のみんなやカタリナたちが優しくしてくれていたから忘れていた、疎まれ、腫物扱いされていた以前までの日常という名の絶望が再びマリアの心を締め付ける。
ああ、やはりこれが自分の運命なのか。
人に嫌われ、疎まれ、憎まれるという運命に愛されているのか。
じわじわと近づけられる炎の魔法で燃える手。
ちりちりと頬を焦がす熱は涙がこぼれる暇すら与えず迫り。
「――いけません、お嬢様方」
「え、えぇっ!?」
突如その熱が引き、声が増え。
驚き開いたその目の先に、燃える手をなんと素手で掴んでマリアから遠ざけるカタリナの従者、モノの姿が現れていた。
◇◆◇
ああ、うるさい。
手が燃える? そうですね、魔法を使っているあなたと違って、俺の手はあなたの手を掴んでいる限り、あなたがこの魔法を止めない限り燃えますねそのうち炭になりますねそれがどうした。
このままだったら、マリア・キャンベル様が傷つくじゃあないですか。
マリア・キャンベル様が、カタリナ・クラエス以外の誰かによって、傷つけられるじゃあないですか。
そんなことはこの俺が許さん。
あなたたちは、その器ですらないのですよ。
仕える相手ではないとはいえ、貴族の令嬢たる方に対する基本としてのうっすらとした笑顔を浮かべつつ手を掴んでいると、遅れてカタリナ・クラエスが駆け付けてマリア・キャンベル様を庇う。
語るに曰く、魔法学校は純粋な実力主義であることや、マリア・キャンベル様は努力の人である、などなど。全くその通りである。
「そんなことをしていると……破滅するわよ!」
カタリナ・クラエスの眼力のせいか、一目散に逃げていくご令嬢方。
いやあ、わかっているじゃあないかカタリナ・クラエス。そうだよ破滅するんだよ。お前がな。
「……あっ、あの! モノさん、そ、その手……」
「はい、どうかなさいましたかマリア・キャンベル様?」
「いやいやいや、どうしたかじゃなくて! なにしてるのよモノ! 手が火傷してるじゃない!」
「……はぁ、当たり前でしょうカタリナ様。火に触れたら火傷する。常識ですよ?」
「知ってるわよそんなこと!?」
「そう思っていたのですが、以前まだまだ熱いスープを我慢できずに勢いよく飲もうとして口中火傷しておられやがりましたよね忘れてませんよ」
「……すみません、手を貸してください。私が治します」
とかなんとか言っていたら、マリア・キャンベル様が光の魔力で手の火傷を治してくれた。
いやあ、ありがたいです。このままだと日々の使用人業務にも支障が出そうだったので。
「なんで、こんな無茶を……」
「はっはっは、大したことはありませんよマリア・キャンベル様。カタリナ様に仕えていれば火傷だの骨折だの食当たりだのは日常茶飯事なので」
「えぇ……」
「ちょっ、モノ!? 最近はそんなことないでしょう!? あくまで子供のころの話で……!」
「お黙りやがりくださいカタリナ様。それは最近私が慣れてきて事前に止められるようになってるだけだってことくらい気付けよオイ。今だってマリア・キャンベル様が作ってきてくれたお菓子、落ちたの拾い食いしようとしてやがりましたよね」
「そ、それは……。というか、あれ!? マリアの作ってくれたお菓子がなくなってる!?」
「拾い食いしようとしてやがるの等お見通しでございますよカタリナ様。げふー」
「あの、モノさん……? 今、言葉遣いが……」
「はい、なんでしょうかマリア・キャンベル様? あ、手作りのお菓子美味しかったです」
「アッハイ」
今回はなんとかなったが、どうやらマリア・キャンベル様が持つ人を惹きつける力は、カタリナ・クラエス以外にもよくないものすら惹きつけてしまうようだ。
これはよくない。
カタリナ・クラエスの動向のみならず、彼女に対する周囲の感情も注意して、守護らねば……。
「ちょっとー!? 私の分も残しておきなさいよ、モノ!」
「……申し訳ありません、マリア・キャンベル様。また近いうちに同じものを作ってきていただけますか?」
「……ええ、喜んで」
◇◆◇
「お疲れさまです、モノさん。少しよろしいですか?」
「はい、なんでございましょうか生徒会長閣下」
「や、あの……閣下はさすがに……」
穏やかな声を掛けられる。
その声の主は、魔法学校の生徒会長を務めるシリウス・ディーク様。
カタリナ・クラエスと違って極めて聡明で、生徒会長としての実務能力もカタリナ・クラエス等及びもつかない優秀な人物であった。
俺はカタリナ・クラエスの従者として時折生徒会の方々と時折話をすることもある程度だが、それでもシリウス様はしっかりと俺の顔と名前を憶えてくれているらしい。さすがである。
俺は基本的に、カタリナ・クラエス以外の人は全て好きです。
「実は、先日マリア・キャンベルさんが巻き込まれたトラブルに関わったと聞きまして。少し話を聞かせてもらえませんか?」
「はい、お任せください」
そんなシリウス様が声をかけてきた理由は、先日のマリア・キャンベル様詰問事件についてだった。あのあと、マリア・キャンベル様の光の魔法による治癒で俺の手はすぐに治った。
さすがです。土を数㎝盛り上がらせる程度のことしかできないカタリナ・クラエスと比べるとまさしく奇跡。人として、知的生命体として、そして魔法使いとしてすらカタリナ・クラエスとは格が違うのですね。
そんなことを思いつつ、シリウス様からの質問に答えていく。
あの場の状況、詰問していた女生徒の特徴、話した内容などなど。
着々と答えていく。
「――ところで、モノさん。カタリナさんのことはどう思っていますか?」
その質問がひと段落して。
シリウス様が聞いてきたのがカタリナ・クラエスについてだった。
少し風が出てきただろうか。
首筋の辺りを、冷気にひやりと撫でられた気がした。
「どう、と仰いますと?」
「モノさんはカタリナさんに仕えて長いと聞きました。ジオルド王子たちがあれほど気にかけているカタリナさんがどんな人なのか、あなたの目からどう見えているのか気になったんです」
特に寒い時期でもないし、気のせいだろうか。
シリウス様からは特に不穏な気配も感じないし、なによりシリウス様はあのカタリナ・クラエスの傍若無人な注文にも笑顔で応えてお茶を淹れる人格者。人を害する、ということなどしはすまい。
そう、この世の中に「悪」とはまず第一にカタリナ・クラエスのこと。それ以外は、先日マリア・キャンベル様に詰め寄っていた女生徒たちですらかわいいものだ。
「――カタリナさんに仕えていて、辛い、苦しいと思ったことはありませんか?」
「辛かったこと、ですか?」
シリウス様の灰色の瞳が、少しだけ黒みがかったように見えたのは光の加減だろうか。
「カタリナさんは、たくさんの人に慕われていますから。それ以外の一面も知れたら、と思いまして」
「なるほど、さすがは生徒会長閣下です」
そんなシリウス様が聞きたがったのは、カタリナ・クラエスに関わるネガティブなエピソード。
任せてくださいシリウス様。いくらでもある、というかカタリナ・クラエスとの記憶はそのことごとくが艱難辛苦の積み重ねなのですから。
シリウス様の話の上手さ、聞き上手さもあって、従者として言ったらダメかなレベルの暴言は抑えつつ、それでもかつての、そして最近のカタリナ・クラエスの暴虐エピソードを話していく。その気になれば一晩無限に怨嗟の言葉を述べることもできますが、何か?
「……こんなところでいかがでしょうか」
「……えっ、あ、はい。そ、そうですね。ありがとうございました。――少し用事があるので、これで」
「はい、生徒会長閣下」
そうして話を終えると、シリウス様はそそくさと席を立った。
さすが、生徒会長ともなると多忙なのだろう。俺は俺で、そろそろカタリナ・クラエスが帰ってくるわけだし、クラエス家使用人としての仕事に戻るとしよう。
◇◆◇
「バカな……そんなバカな……!」
魔法学校の廊下を足早に歩くシリウス・ディーク。
普段のシリウスを知る者であれば、その思いつめた表情に驚くだろう。
温和にして冷静、全生徒の模範たることを自然にこなすかのシリウス・ディークが、まるで追い詰められて逃げているようですらあるのだから。
「モノ・クラウディオ……どうして、どうして『僕の魔法』が効かないんだ……?」
学業優秀な生徒会長としての評判は仮の姿。
ある事情により、マリア・キャンベルが持つ光の魔力と対になる闇の魔力を持つ魔法使いだった。
闇の魔法は他のどの魔法とも異なり、人の心に作用する。
人が持つ怒りや憎しみ、そういった負の感情を増幅させ、操ることができる禁断の邪法。
その力を持ち、人を操り、上手く立ち回ることができれば人の世において不可能はない。そういう類の力だ。
人間の心は複雑を極める。
どれほど優しく、聖人のようだと讃えられる人格者であろうとも、その心に一片の怒りも恨みもないなどということは、ありえない。
闇の魔法は、その一欠片の憎悪で心の全てを満たすことができる。
昨日まで微笑みとともに全てを許していた人格者を、破壊と狂乱に狂う悪魔に変えることすらたやすい。
その、はずなのに。
(モノ・クラウディオにも、確かに闇の魔法をかけた……! なのにカタリナ・クラエスへの態度が変わらないなんて……!)
自然な会話の中でカタリナ・クラエスへの不満を想起させ、闇の魔法で増幅させた。
しかし、間違いなく闇の魔法を使い、その後の様子をうかがって、それでもモノ・クラウディオの態度に変化はなかった。
カタリナ・クラエスに仕える中で起きた出来事や苦労を、時に笑みさえ交えて話す。
それらがモノの中ではただの思い出になっていることはあきらかで、それが怒りと憎悪に塗りつぶされたようには、どうしても見えなかった。
そんなことはありえない。
人が人の心を持つ限りありえない。
もし、そんなことがあるとしたら、それは。
「まさか、本当に、混じりけなしにカタリナ・クラエスに善の感情しか抱いていない……?」
そう考えるしかない。
それが、闇の魔法で人の心を知り尽くすシリウス・ディークの結論だった。
「……ダメだ。彼を契機にカタリナ・クラエスを切り崩すことはできない。作戦を練り直さないと」
◇◆◇
なお、当のモノ・クラウディオはというと。
「ふぅ、生徒会長閣下にカタリナ・クラエスへの恨みを話せて気分がいい。……ククク、待っていろよカタリナ・クラエス。お前の悪行、その全てが清算される日は近いのだからなああああ……!」
『混じりけなしにカタリナ・クラエスに悪の感情しか抱いていない』ため、闇の魔法で増幅するまでもなく怒りと憎しみだけで心がたっぷたぷなので、効果はあったものの実質影響がゼロだけだったりするのだが、誰も気付いていなかった。