プロローグ
僕にはお父さんとお母さんがいた。
かっこいいお父さんと優しいお母さん。
何も思い出せないけど、きっと楽しかったはずだ。
それからしばらくして、母は僕らの元からいなくなった。
ある日、突然。
母は僕を強く抱きしめると、ごめんねごめんねとただひたすらに謝り続けた。
母がなぜ謝るのか分からないまま、どうしてこんなにも肩がぶしょびしょに濡れているのかもわからないまま。
母は僕たちの前から、この家から姿を消した。
父はひどく悲しい顔をしていたが、止めようとはしなかった。
それからは父と二人の生活だった。
父の笑顔が一度も戻ることはなく、向けられるのは虚ろな微笑み。
子供ながらに親の笑顔が嘘のものであることくらいは分かる。
それがどうしてなのかはわからないまま。
本当の父は母が出ていった瞬間どこかへ消えてしまった。
数年後、朝早くに僕は家の端にある小部屋へと連れていかれ、何かの陣の上に座らされる。
連れてくる間父は何も言わず、僕もまた何も言わなかった。
それから父は何かを淡々と呟き始めた。
ただ静かに鎮座する僕には目もくれずに黙々と。
目を合わせようとしない父を不思議に思ったが、父の頬を流れる涙がその一線を越えるのを拒ませた。
何に拘束されるでもなく、逃げ出そうと思えばきっと簡単にこの場から離れることが出来ただろう。
だが僕は逃げるでも父に話しかけるでもなく、ただ静かにこの場に留まった。
足元にある文字が光始めることに気づくも、一歩も動きはしなかった。
やがてその発光が強くなると同時に正面にいた父が突然こちらをばっと向く。
顔のほとんどが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった父が。
そんな父の顔を見て、僕はきっと笑っていたと思う。
こんな見るに堪えない父を僕は初めてみて、それでいてどこか可笑しかった。
手を伸ばす父と、その手をもう片方の手で抑える父。
そんな父を見ても僕は何もしなかった。
何もしないことが正しいと分かっていたかのように、何もしないことが間違っていると分かっているのに。
僕はもう一度、ただ小さく微笑んだ。
父と母と生活した日々はきっと楽しかったと思う。
母の顔なんてほとんど思い出せなくて、父はほとんど笑わない人だった。
どこに遊びに行くでもなく見慣れた土地でただのうのうと過ごす日々。
そんな日々が僕はきっとたまらなく好きだった。
暗い、暗い世界。
僕の中から父と母との楽しい、楽しかった日々は全て無くなっていた。
何も思い出せなかった。
■ □ ■
「おーい、聞こえてるー?」
暗闇のなか、誰かの声が聞こえてくる。
聞いたことのない、高い声だ。
「ちょっとー聞いてるのー?」
今度は体に何かが触れた。
小さくてか細い手。
いきなり体に触れ揺さぶる手だったが、不思議と悪い気はしなかった。
無理やりどこかに連れていく気だろうか。
それならそれでいい。
もう少しだけ、この心地の良い感覚を堪能させてほしい。
「おーきーろー!」
その声で意識がはっきりとする。
がばっと起き上がり周囲を見渡した。
広がるのは一面草原の大地。
のどか、というのが酷く似合う光景で木がそこらに生える以外には麓にある街らしきもの以外これといった建物は無かった。
ひとしきり見渡したのち、目の前の女の子を見る。
突然起き上がったことに驚いているのか、ぽかんと開けた口が塞がっていなかった。
「ごめん、驚かせちゃったね」
ぽかんとしていた少女だが発っせられた言葉が自分に向けられたものだと気づくとようやく我に返り少年の方を見る。
少年の言葉に返事をすることは無く、立ち上がると少年の周りを一周し、うんと頷くとまた先ほどの位置に座りなおした。
「あの、えっと……」
座りなおすだけで何も言葉を発さない少女を不思議に思いもう一度声をかけようとする。
それに気づいたのか少女はもう一度丁寧に座りなおすとこほんと言いながら右手を伸ばしてきた。
小さくてか細い手。
そんな手には不釣り合いなほどに満面の笑みで。
「私は、君の友達だよ!」
訳の分からないことを自信満々に言ってのけた。