いよいよ剣と魔法の稽古初日。
今まで日の出と共に起きていた生活リズムを変え、メルンが起きるタイミングに合わせて起床する。
とはいってもメルンが起きる時間もかなり早い方なので特に以前と変わりはなかった。
変わったことと言えば皆で朝食を囲むことが出来るくらいだろうか。
寝巻から動きやすい格好に着替え朝の食卓に顔を出すとヒュース以外の全員が明るく迎え入れてくれる。
メルンが隣の椅子をニコニコしながらばんばん叩く姿を見てなぜ彼が朝からああも機嫌が悪いのかがなんとなく分かった。
たった一ヶ月しか共に暮らしていないのになんで分かってしまうのか。
そしてそれが良いことでないならなおさらだ。
自分の分の朝食が置いてあることに喜びを感じるが、それ以上にここらを漂う殺気が気持ちを落ち着かせてくれない。
「たくさん食べてね」
「ありがとうございます」
ここに来てからもう一ヶ月を経過しているが、なんだかんだでヒビヤがエレゼンの作る朝食を食べるのは初めてだった。
理由は単に朝家を出るのが早すぎるからで、最初はエレゼンも『よかったら作ろうか?』なんて言ってくれたが申し訳なさから断っていた。
ヒビヤは早寝をしているがエレゼンは夜遅くまで仕事をしているのだ。
さらに起きる時間を早くしてしまっては負担が大きくなってしまう。
そのため朝食には困っていたのだが、それに気づいた優しい街の人達がヒビヤに朝食を与えていた。
朝早い近所の人や鍛冶屋の奥さん、本屋で働いている店員さんにそれに気づいてから朝早く起きるようになったお母さま方。
その理由は的確だったり口実だったり、とにかくヒビヤに断るという道を断つものばかりで有難く頂いていた。
最初は一口いかがという感じだったが最終的には一人二人じゃ食べきれない量を抱える始末。
この街の人達は皆優しいのだ。
手を合わせ食べ物の神様に祈りをささげる。
ああ、神様どうか。
この目の前の男を────「お前、夜だけでなく朝まで娘を盗るつもりか?」
「え?」
祈りを邪魔するように我慢の限界だったのかヒュースが言葉を発する。
いきなり何を言っているのか分からず固まってしまっていた。
予想していたよりもはるかに頓智気なことを言う。
三秒固まってその犯罪臭い言い方に顔をしかめた。
「お前が来てからメルンはずっとお前にしか行かないんだよ、どうしてだ!まだ俺には朝のひと時があったってのに……それさえも奪うのかお前は!」
ヒュースの暴走は止まらない。
何かすごい勘違いをしている気がするが今はそんなことを言っても通じないのだろう、それがヒュースだ。
たった一ヶ月なのにここまで理解できちゃうんだから。
これだけで済めばいいのだが。
「パパうるさい」
「うそ、ちょっとメルン冷たくない?」
「私はずっとお兄ちゃんといるの。パパは黙ってて」
メルンが鋭利なナイフでズバッとヒュースを切り捨てる。
どれだけ戦いに優れた人間でも愛娘からの攻撃には一切の耐性がないようでへなへなとその場に崩れ落ちていた。
ああやってしまった、ああ。
3、2、
「おいヒビヤ」
「早いよ」
キッと矛先がヒビヤへと向く。
「面倒事は嫌です」
「決闘だ」
「だから面倒事は────「いいからさっさと外に出ろ」
そう言って勢いよく立ち上がると服の襟を掴み引きずっていく。
もう手遅れだ。
服が伸びるだなんだ言っても一切の聞く耳を持たない、この人は本当に大人なのだろうか。
こうなるのは割と最初から分かっていたのだ。
理由までは流石に当てられなかったけれど。
「あのー、朝ご飯あるんですけど」
「そんなの後で食えばいい」
「……エレゼンさーん」
「私の作ったご飯は冷めても美味しいわよっ」
「いや、そういうことじゃ」
頼みの綱が一瞬でちぎれてしまった。
八方塞がり、もう逃げ道はない。
彼の決死の抗議も虚しく。朝食を背に家から放り出された。
その光景をいきなりの出来事で全く話に入れていなかったフィリアは憐れんで見ていた。
彼女は彼女でメルンにちやほやされているヒビヤが嫌なのだ。
「あー、お腹空いたなぁ」
庭に座り込み悪態をつく。
せめてこれくらいの抗議は続けてもいいだろう、どうせ聞いてはいないのだから。
シーボルト家の庭は家の4,5倍の大きさがある。
そもそも家のサイズがけた違いのため庭のサイズもそれ相応のサイズだった。
これが街の当主というものか。
なんて感心も今じゃしていられない。
何せ空腹の状態で放り出されたのだ、それも食卓を目の前にして。
こんな無慈悲で悲惨な行為をほかに知っているだろうか。
これが当主でよく今までもってきたものだ。
拷問で犯罪だ。
食べ物の恨みは大きいんだぞ。
「ほら、剣を抜け」
「剣って、フィリアは中にいるでしょう」
「ちげーよあいつは使うな」
「じゃあどうやって」
「うるせぇ行くぞ」
いつにもまして人の話を聞かないヒュースが剣を抜刀し踏み込み走ってくる。
剣の稽古の時間でも無いし剣を握らせないなんてどういう性根をしているんだろうと純粋に思った。
尊敬よりもそっちの方に大きく傾きつつある。
おまけに先ほどの踏み込みで庭の床が凹んだ。
その怪奇現象にヒビヤの表情まで歪む。
見たことはあったがどうしてそれを今発動する。
おかしいおかしいおか────
「って本気で剣抜く人がいますか!!」
目の前まで来たヒュースに慌てて腰につけてあった短刀二本で応戦する。
この前買い物に出た時に武器屋で買ったもので正直扱いには慣れていないが剣が無いときの代用品として持っていた。
急なときのためにと買ったわけだが勿論こんなときのためではない。
ヒュースが振り下ろした剣に二本を重ねてガードする。
うち一本が砕けるのを目の当たりにし、再度顔がゆがむのをヒュースが楽しそうに見ていた。
「本気で殺す気だこの人」
「当たり前だ。心配するな、埋葬する骨が無くなるくらい粉々にしてやるから心配するな」
「そんなこと誰も心配してないですよ!」
目の前で目をぎらつかせている人にため息をつくがそんな余裕などあるはずもない。
だがなんだろう、冷静になるとこちらも阿保になってしまいそうなこの空気は。
一見真剣な決闘を装っているがこの状況のどこにそんな雰囲気がある。
誰かが笑ってくれないとこっちが吹き出しそうだ。
「おい小僧、これを使え!」
声のする方を見ると先日お世話になった鍛冶屋のおっさんことアッシュが長剣を庭に投げ入れていた。
目の前に鞘ごと突き刺さり、ちょうど柄が上に向いている。
人の庭に穴を開けているわけだがこれは大丈夫なんだろうか。
「これ、貰ってもいいんですか?」
「構わん、昔使ってたやつだ。手入れはしてある、お前さんまだ一本も持っていないんだろ?」
「そうですね」
「ならタダでくれてやる」
アッシュの優しい笑顔に甘え、剣を抜く。
剣は柄に多少の傷がついていることを除けば新品と大差なかった。
光沢が酷く眩しい。
「油断は禁物だヒビヤ」
「……っ!」
背後から聞こえた声に反射で伏せると先ほどまで頭があった位置を剣先が掠める。
ヒュンという寿命を縮める音が頭上を通過していた。
素早く体勢を立て直し一度深く深呼吸をする。
相手は本気だがまだ自分は本気を出せていない。
いつまでも冗談だと舐めていては今度こそ殺される。
なんでそこまで、なんて考えるのもそろそろやめにすることにした。
もう一度剣を構えヒュースを睨みつける。
その顔を見て彼はようやくその余裕そうな顔を歪めた。
元々ヒュースはこの顔が見たくて──
「やっと、ましな顔になったじゃねえか」
「何を言っているのか僕にはわかりませんよ」
「娘は返してもらう」
「またそうやって」
訳の分からないことを口にしながらヒュースが距離を一気に詰める。
その速さに一瞬体が硬直するもすぐに応戦するため踏み込むが、目の前に杖を持った女の子が立ちふさがったため慌ててブレーキをかけた。
このタイミングで間に入ってくるとは、それに女の子が。
「ヒュースさん、それくらいにしてください」
すっと間に杖を入れると、首をぐわんと動かしヒュースを睨みつける。
その眼光は子供とは思えないほどに鋭利なものだった。
「嫌だってこいつがメルンを──「朝は私がもらうって、昨日決めましたよね?」
少女が一歩前に出ると同時にヒュースが一歩下がる。
何の話をしているのかさっぱりだが、異様な空気が立ち込めているのだけは分かった。
「まさかとは思いますが、まだご飯を食べていないとか言わないですよね?いや、食べるのを邪魔したとかでしたら論外ですよ論外。魔法使は食事が大切なんですよ?それにヒビヤ君は今日が初日なんですから」
その言葉でようやく気付く。
この目の前にいる女の子はただの女の子ではなくマキナだと。
まさかこんな小さな子が以前サポートをしてくれた魔法使だとは。
背丈だけで言えばフィリアよりも小さく見えた。
「いやまさかね、朝のウォーミングアップだよウォーミングアップ。可愛い子には旅をさせろってね」
「何を言っているのかさっぱりですがあなたが嘘をついてることだけは分かりますよあなた馬鹿ですからね。要するに、あなたは初日からやらかしたわけですね。私との約束をこうもあっさりと破って」
「はいそうです。どうもすみませんでした」
これ以上は無意味であると気づいたのか先ほどまでの抗議とは打って変わって頭を垂れていた。
ここまで素直な人間なら少しはこちらにも気を遣うことはできないのだろうか。
そんな頭上で杖を構え、マキナは口を開いていた。
「無限なる雫よ、汝を
「ちょっと待てそれは」
杖の先をヒュースに向け詠唱をする。
彼女の持つ杖の周りを紋が彩り、やがて先端へと集中していた。
「
少女の翳した杖の先から弾丸のような水が生み出される。
その魔法は目の前にいるヒュースにゼロ距離で放たれていた。
その魔法に慌てたヒュースが剣を重ねると、瞬時に勢いを失いヒュースの体へと降り注いだ。
ダメージは無く、ただずぶ濡れになるだけに留まっている。
「あれ、もしかして魔法ってそんなに強くないですか?」
戦闘から離脱したヒビヤが傍まで来ていたエレゼンにそっと聞く。
剣と重なるだけで威力を失うとなれば当然剣よりも弱いのではと考えるのが普通だ。
正直な話ヒビヤは魔法を会得するのが密かに楽しみではあった。
戦闘スタイルの大きな変化は勿論、魔法というものに触れたことが無いヒビヤにとっては新鮮なものである。
それが必要のないものだと教わる前に分かってしまうというのは良いことでもあるがひどく落胆させるものであった。
それが表情に出ていたのかエレゼンは小さく笑うと頭をぽんぽんと叩く。
「違うわ。あれはヒュースが魔法を切ったの。そうね、普通の人間が同じことをしたのなら剣もろとも頭に風穴くらいは開いているかしら」
ふふっと笑いながらそんな物騒なことを言ってのける。
夢や理想が崩壊することは免れたが、同時にひどく恐怖を植え付けられたような気がした。
「斬れた理由はそうね、そういう能力があるっていうこととマキナが放つ魔法を詠唱で把握していたというのが大きいかもね。それでもそう簡単に出来るものでは無いから真似しようとは思わない方がいいわ」
すっとしゃがんだエレゼンは口の前に人差し指を立てにこっと笑う。
何の合図かは分からないがそんな神業をやろうだなんてそんなこと微塵も思わなかった。
確かに今後役に立ちそうな技ではあるがそれとこれとは別の話である。
やるなと言われたらやりたくなるなんてそんなの幻想だ。
「それでは早くご飯を食べさせてください。午前中は私の時間なんですから」
「すみませんでした」
エレゼンと話している間に二人の方も終わったようでずぶ濡れのヒュースが心までどぶったみたいに歩いてきた。
あのヒュースをここまでにするとは。
戦闘という場面以外でも相当な実力者だと伺えた。
なんて考えていると不機嫌そうなヒュースが家では無くこちらに向かってくる。
まだ何かするのではないかと身構えるとエレゼンが手で制して立ち塞がっていた。
「ご飯が不味くなっちゃうわ」
「いやエレゼン、お前さっき冷えても美味しいって」
「温かい方が美味しいに決まってるじゃない。今日の夕ご飯はヒュースが当番ね」
「え、ちょっ、エレゼンさーん?!」
よろしくねーと手を振りながら家に戻るエレゼンにすっかり取り残されたヒュースは、思い出したかのようにヒビヤの方を見るときーっと子供のように睨みつけ足早に家の方へと消えていった。
なんだろう、とりあえずこれ以上尊敬できない人間になるのだけはやめてほしいというのがヒビヤの率直な感想だった。
「ぶぇあっくしょん!!」
なんで自分がボコられたのにあの人の方が可哀そうなんだ。
「それで、君がヒビヤ君かな?」
ローブについた砂を軽く払うとヒビヤの前で顔を覗き込むように話しかけてきた。
だが背丈は当然ヒビヤの方が高く、どこか自分が大人びているということをアピールしているようにも見えた。
無意識なのかもしれないが日頃やっているせいで身についてしまったものなのかもしれない。
近くに来れば来るほど小さいことが分かる。
前言撤回、フィリアどころかメルンと同じくらいだった。
ということは、メルンは同年代の子に魔法を教わっているということになる。
「ん、待てよ」
確かにこの子は前回の戦いに参加していた、ヒュースやエレゼンが言っていたのだから。
それにその時限りではあるが確かにこの声で魔法を詠唱しているのも耳で聞いている。
つまり、同年代と思われるメルンも戦いに参加できるということだ。
その事実にヒビヤは戸惑いを隠せないでいた。
勉学はしっかりと行った、だがどの書にもいつから戦いに狩りだされるかなんて書いてはいなかった。
もしかしたら地方によって違うのかもしれない、子供は一切関与しない街もあるかもしれない。
だがこの際他の街なんてどうでもよかった。
この街は、リープウィルは。
子供を戦闘に狩りだすのだ。
「聞いていますか?」
考え事で俯いていた顔にまた更に下から見上げてくる。
ちょうど懐に収まるくらいでかなり顔が近かった。
「すみません、ちょっと考え事で」
「やっぱりお腹が空いて頭が回らないんですね。まったく、あの人は初日から一体何をしているんですか」
もうっ、と怒る姿はメルンと大差なかった。
一度目に付くとそういうことばかり考えてしまうのは悪いところなのかもしれない。
「どうですか、魔法は。面白いでしょう?」
「あ、はい。さっき何が起こったのかはエレゼンに説明してもらいました。魔法ってほんとにすごいんですね」
「あれは初級魔法ですけどね。でも大体魔物と対峙するときは初級中級が基本ですから。基本、大事ですよ」
ニコニコしながら魔法についてを簡単に説明してくる。
どうしてこういう話を笑顔で言えるのだろうか。
魔法を使える人達は皆笑いながらこういう話を。
寒気がしてきた。
「魔法は良いですよ、攻撃魔法だけが魔法というわけでは無いですから」
「というと?」
「まあそうですね。回復したり相手を足止めしたり地形を変えたり。自分で下さない手も多くありますから。まあ、物騒な話はもう少ししてからですかね」
そう言って背後に隠してあった杖を再び取り出した。
その先を何故こっちに向けているのかと思うが本能がそれを察していた。
きっとこれはこういう人達には絶対に言ってはいけない質問だったのだ。
「この名は陰と陽を結ぶもの、陰を地に陽はわが手に!『
杖が向けられた瞬間上から何かに押しつぶされるような感覚に襲われる。
それが地に引っ張られているということに気づくのもすぐだったが、とにかく身動きがまるでとれなかった。
重い、という感覚で合っているのだろうか。
「お……おも……重い、って!」
無理やり地面から立ち上がろうとすると魔法が解けたのか一気に軽くなった。
ヒュースとは違い良識のある人なのだろう。
どうせなら一言あってからやってほしかったものだが。
「魔法ってすごいですね。奥が深いというか可能性を感じ──どうしたんですか?」
「……やっぱり効かないのね」
「え?なんですか?」
「何でもないです。ほら、早くご飯食べに行って来てください」
「あ、はい」
言われた通りに一度家に戻ることにする。
お腹は空いているのだが時間も時間なのでご飯は後でいいだろう。
少なくとも責められるのはヒュースであってヒビヤではない。
ご飯は大切だと言われたがもっと大切な時間を食われてしまったのだ、少しくらい無理をしてもいいだろう。
今日はヒビヤにとって大切で楽しみにしていた一日なのだから。
家に入っていくヒビヤをマキナは興味深く見つめていた。
他の皆が家に入っていったのを確認すると、先ほど使った魔法をもう一度唱える。
そこに足元に転がる石ころを投げ入れると勢いよくその石は地にめり込んでいた。
「やっぱりちゃんと発動はしていますよね」
小さくつぶやくと拳を握り締め、そして脱力する。
「まあ、ヒュースよりはまだましですかね、魔法は教えていないでしょうし」
もう一度彼が入っていった扉を見つめ、これから受け持つ生徒に対し小さくため息をついた。
家に入りエレゼンに食事の件を伝えた後、自室のある二階へと上がり一度部屋へと戻った。
服装はそのままでいいのだが、短刀が一本粉々にされてしまったのでストックしていたものを足す。
街の中で襲われるなんてことは普通無いが、念には念を。
実際今朝ヒビヤはここ近郊で一番の猛獣に襲われたわけなのだから。
「そうだ、この短刀」
折れた短刀はヒビヤが買ったものだ。
後でヒュースに新しいものを買ってもらおう。
短刀を腰に携え、あまり長く待たせてはいけないと思い玄関へ向かうと、エレゼンが杖とローブを手にして立っていた。
「これ、魔法使いになるなら必要でしょう?」
杖は必要かもしれないけれど、ローブはいるのだろうか。
心の中で考えているとエレゼンが小さく笑っていた。
「職業はまず形からよ」
「あれ、声に出てました?」
「ううん、そんな顔をしてただけ」
その言葉に甘え、杖を受け取る。
杖を手にするとローブはエレゼンが着せてくれた。
サイズは丈が腿あたりまで。
少し動きにくい気がするがこんなものなのだろうか。
マキナがどんなものを着ていたのか確認しておくべきだった。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「家の前ですよ?」
常套文句ならいいのだがエレゼンが言うと冗談に聞こえない。
一体何をするのだろうか。
「それでも、よ」
エレゼンが優しく微笑む。
こんなに信じられない笑顔がほかにあるか。
「ヒビヤ」
扉に手をかけたタイミングでふっとフィリアの声がした。
エレゼンと代わるように玄関にきたようだ。
彼女はしっかりと朝食を済ませたのだろうか。
「どうしたの?」
「別にどうってわけじゃないけど、私は何したらいいのかなーって。朝も昼も稽古でしょ?」
「そうみたいだね。今日はヒュースの方はどうなるか分かんないけど」
どこか所在なさげにもじもじしているフィリアを見ていると、やっと何が言いたいのかが理解できた。
いままでヒビヤが彼女を振り回していたせいで突然暇になってしまいどうしようということだろう。
確かにここ一ヶ月は風呂と寝るとき以外はほとんど一緒にいたようなものだ。
何から何までお世話になり自分の時間というものをほとんど与えられなかったのかもしれない。
そう考えるとかなり申し訳ないことをしていたことに今更になって気づいた。
「ごめんね、気づけなくて。フィリアの好きなことでいいんだよ、今までありがとね」
「うん」
「じゃあ、行ってくるね」
そう言って扉を開け、そして何事も無く閉まる。
玄関には扉の音だけが鳴り響き、そのあとは静寂が包み込んだ。
そんな中一人宙ぶらりんな状態で立ち尽くす。
「……そういうこと、行って欲しかったわけじゃないのに」
その言葉は誰にも届かなかった。