銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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第一章「無窮の焔」
1.「湖畔の陰よりはじめまして」


 

「ああ、お父様! お母様! 我が妹リリン、エマ! そして誉れ高き純黒の王よ! 私はついに、アーヴェントの未来を手に入れました……!」

 

 噛み締めるような歓喜に打ち震える少女の言葉が、少年には露程も理解できなかった。

 だって彼女は恩人だ。どこの誰とも知れぬ少年の命を、仁徳をもって救ってくれた善人なのだ。

 

 それがどうして、彼岸に咲く花びらのような微笑みを浮かべながら、命を奪うと宣言している? 

 

「ええ、ええ。酷を承知で宣言しましょう。あなたの命を奪う者として、その責務から逃げたりはしない」

 

 

 全身の筋肉がこれ以上なく強張っていくのを実感する。

 嫌な汗で湿りゆく背中の感触がじっとりと肌を(ねぶ)りまわす。

 警鐘のように鳴り響く心臓は、内から胸を食い破って飛び出そうだ。

 

 

 対して、少女は言う。

 古傷だらけの無骨で小さな手を、まるで魂魄を迎える天使のように差し出しながら。

 

「あなた、我が一族の贄となりなさい」

「………………はぁッ!?!?」

 

 

 

 ────奇想天外の発端は、時を数日ほど遡る。

 

 

 

 

 ◆

 

(冷てぇ)

 

 暗闇の中を揺蕩う自我が、幽かな刺激を受けとった。

 脳の奥から光が広がっていくような錯覚をおぼえる。神経回路がパチパチと起動を始め、少しずつ、少しずつ、虚ろだった肉体という感覚が取り戻されていく。

 

(暗い……浮いてる? 奇妙な感覚だ。上か下かも分からねぇ)

 

 接地の手ごたえはまるでなく。柔和で流動的な、それこそ羊水の中でも漂っているかのような浮遊感。

 本能的に、一呼吸。

 

「──!? ご、ぼっ……!?」

 

 肺臓へ流入したのは空気ではない。水だ。命を奪う、無制限の真水だった。

 ツンと貫かれるような凍てついた激痛があっと言う間に鼻腔を串刺す。

 予想だにしない出来事に意識が一気に覚醒する。しかし既に混乱という濁流に呑み込まれてしまった体は、もはやコントロールなど出来るはずもない。

 

 情け容赦なく雪崩れこむ流水と暗闇の閉塞がさらなるパニックを呼び、肺の中の最後の空気までも、纏めて絞り出してしまうほどに。

 

(がばっ、ばっ!? なんっ、な、なにがどうなっ、溺れ……る……!? まずい、息が、息が……!!)

 

 ばたばたと(もが)く。誰にも届かない悲鳴を上げる。

 何が起こっているのか理解出来ない。見当もつかない。どうして水中で目を覚ましたか、理解する術なんてどこにもない。

 

 ただ一つ、確信を持って言えるのは。

 明確な死の足踏みが、一歩一歩近づいているという現実だ。

 

(死ぬ、死、死──嫌だ、死にたくない、ちくしょう誰か! 誰か……!)

 

 粘つくドス黒い恐怖の闇が、精神の支柱を残酷なまでに蝕んだ。

 バキバキと心が悲鳴を上げる。まるで白蟻に巣食われた柱のようだ。

 誰に看取られることもなく、理不尽への抵抗すら許されず、湖に落ちた赤子のように無力のまま死にゆくことが、こんなにも恐ろしいなんて。

 

(どうする、どうすれば──光? 光が見える。こっちだ、こっちが水面だ!)

 

 ならばせめて最後まで足掻かんと、残された力を振り絞る。

 手足を縦横無尽にバタつかせ、焦点の定まらない視界の中を必死に足掻く。

 しかし体を動かせば動かすほど、水の中へ溶け出していくように、僅かな体力までもが奪われる始末。

 

(だめだ、もう息が、いき、が……)

 

 

 

 意識が純黒に染まりゆく、まさに刹那の瀬戸際だった。

 

 

 

「ぶはっ!!?」

 

 

 

 不意に腕を掴まれたかと思えば、針にかかった魚のように水上へと引き上げられた。

 暗黒から一転、刺すような日の光が網膜を焼く。

 体内を蹂躙していた水がとめどなく吐き出され、入れ替わるようにして、求め続けた空気がドッと肺に押し寄せた。

 

「げほっ!? ごほっぶほっ、げほっ!?」

 

 呼吸器官が裏返ってしまいそうなほど荒々しくむせ返る。体が生きようと必死になっているかのようだ。

 やがて、どうにかこうにか発咳は鎮まっていく。

 

「はぁーっ、はぁーっ」

 

 視界が明滅している。

 瞼の裏で星のような点滅がパチパチと瞬いているのだ。きっと酸欠のせいだろう。

 

 突き刺さるような眩しさを手で庇いながら、重い瞼をゆっくりと引き上げた。

 霞んでいた視界が定まっていく。初めに映ったのは憎たらしいほど青々とした晴天と、メレンゲのように柔らかい雲だった。

 

 ふと、動いていないにも関わらず景色が流動していることに気付く。

 どうやら誰かに両脇を抱えられ、泳ぐのを諦めたラッコのように運ばれているらしい。

 

 成されるがまま漂い続け、やがて陸地へと引き上げられる。

 脇に差し込まれていた支えが無くなり、ドサリと体が地に落ちた。

 湿った泥のムッとくる匂い。柔らかな草葉のクッションが背をくすぐる感触が、陸地の頼もしさを届けてくれた。

 

「ねぇ、ねぇ」

 

 ぺちぺち。頬を叩かれる感触がする。

 

「ねぇ大丈夫? 私の声、聞こえてる?」

 

 鈴を転がすような凛とした声が、水の詰まった耳道を通り抜けた。

 僅かな力を振り絞り、うなずく。すると顔を覗き込んでいた声の主も、安心したように頬を上げて、

 

「ん……意識も呼吸もあるわね。良かった、思ったより水は飲んでなかったみたい」

 

 眼球に張り付いた水滴と影のせいでよく見えないが、声からして女性のようだ。

 氷柱のような鋭さを帯びながらも、春に吹き抜ける風のように透明で爽やかな声色は、どこか安心感を与えてくれる。

 

「あなた運が良いわね。日課で泳ぎに来てたから見つけられたけど、少しでも遅かったら死んでたわよ?」

「……っ?」

「しっかし一体どこから来たの? 突然水の中へ現れるなんて。……なーに? 湧水と一緒に湧いてきたって感じ?」

 

 髪から滴る雫をわしゃわしゃと手で払いつつ、ケラケラ笑いを零す少女。

 上体を起こした少年は、頭を振って水を払いながら、恩人へと視線を向けた。

 

 十人の男がすれ違えばその十人が振り返りかねない、容姿端麗な少女だった。

 

 生まれたばかりの恒星を閉じ込めたような蒼い瞳。滑らかな線美を描く高くて小さな鼻。気高い漆黒に深い蒼穹を孕む、夜の海を彷彿とさせるセミロングの髪。

 生半可な麗句では賛美など到底叶わぬ端麗さ。命を助けられた身としては、もはや女神にすら思えてしまう。

 

 しかし真に目を惹いたのは、浮世離れた美貌ではなく少女の手だ。

 名も知らぬ彼女の手には、大小さまざまな古傷が刻まれ、皮は厚く、指の節々が太く逞しくなっていた。

 まるで長年の研鑽を積んだ武術家のようだと、直感で感じるほどに。

 

 水を絞るため捲られた上着の隙間からは、スマートに割れた腹筋が覗く。

 大腿は豹のようにしなやかで瑞々しく、相当に練り上げられていると一目瞭然だ。

 一朝一夕のものではない。出会って幾許も無いが、この少女が日頃から何かしらの鍛錬を積んでいるのは明白だった。

 

 そんな少女は一通りを水気を払い終えると、どこか気まずそうにそっぽを向きながら、枝に引っ掛けてあった大きなタオルを少年へ放って。

 

「あー……えっと……その。と、取り合えずそれあげるからさ、前だけでも隠してもらえたら助かる、かも」

「前? ──うぉっ! すまん!」

「気にしないで、不可抗力だから。こっちこそ裸んぼのまま放置しちゃってごめんなさい。まさかこの泉で人が溺れてるなんて思わなくて、ちょっと気が動転しちゃって。……それ、気休め程度だけど体拭くのにも使っちゃっていいからね。寒いでしょ?」

「ああ。何から何まで……恩に着るよ」

 

 急いで水を拭い取り、布を腰に巻く。

 どうして服を着ていないのか混乱したが、しかしそれ以上に、胸を打つほどの少女の仁愛が、グッと魂を震わせるようだった。

 

「本当にありがとう。君は命の恩人だ。なんて礼を言えばいいか」

「お礼なんていいわよ。私はアーヴェントの末裔だもん。溺れてる人を見殺しになんて出来っこなかっただけ」

「……アーヴェント?」

 

 聞き慣れない言葉をオウム返しすれば、少女がきょとんと小首を傾げて。

 

「アーヴェントを知らないの? こんなところに居ておいて?」

「ああ。聞き覚えがなくてすまないが、有名なのか?」

「有名も何もここは私たちアーヴェントの地よ。普通は入ってくることすら出来ないんだけど……すっぽんぽんで泉に湧くといい、何かよっぽどの事情がありそうね」

 

 少女はしばし考え込んで、「まぁひとまず、自己紹介といきましょうか」と胸に手を当てながら、ふわりと花のように微笑んだ。

 

「私はシャーロット。シャーロット・グレンローゼン・アーヴェント。純黒の王が眷属、アーヴェントの由緒正しき末裔よ」

 

 フフン、とどこか誇らしげである。

 どうやら口振りからして、高貴な家柄の娘らしい。

 

 確かにこの少女──シャーロットの仕草にはひとつひとつ気品が滲み出ていたように思える。なんというか、オーラが違うのだ。

 少年の語彙では具体的に言い表せないが、足運びや手の動きに流麗な線が見えていた。 

 王族と錯覚するほどの堂々たる雰囲気は、身に纏う簡素な無地の運動着をまるで格式高いドレスにすら幻視させるほど。

 

 ただそんな少女がどうして付き人も無く、こんな山奥の泉で泳いでいたのかという疑問は残るが。

 

「それで、あなたは?」

「え?」

「え? じゃなーい! 私が名乗ったんだから次はあなたが口にする番よ。というか、今更だけどあなたどこの誰? どうしてこの泉で溺れてたの? 説明してちょうだいな」

 

 本当に今更としか言い様がなくて、少年は思わず自嘲の苦笑いを浮かべてしまった。

 

 

「そうだな、君の──」

「シャロでいいわ。堅苦しいの好きじゃ無いの」

「──シャロの言う通りだ。えーっと、俺は」

 

 改めて、名を口にしようと記憶の箱に探りを入れる。

 だが。しかし。

 

「俺の名前は、だな」

 

 記憶へ触れようとしたら、虚空を掴んだように空ぶった。

 浮かばない。自分の名前が浮かんでこない。

 

 いや、それどころか。

 記憶という中身が詰まっているはずの箱が、空っぽなことに気が付いて。

 全身が時間でも止まったかのように硬直した。

 

「名前……なんだ?」

「ん?」

「名前が分からねぇ」

「なんですって?」

 

 空白なのだ。

 頭の中にあるはずの思い出が。自分を象っているはずの経験が。そして自分の名前さえもが。跡形もなく抜け落ちてしまっていた。

 

 自分自身と言う『枠』は認識出来るのに、中身がごっそり削られている。

 意識を持ったハリボテのようだ。長年厚塗りを続けてきた油絵が、真っ白に塗り潰されてしまったかのような感覚だった。

 

 途端に脂汗が溢れ出す。ゾッとするような自分の中の空白をはっきり自覚した瞬間、少年は濁流のような動揺に一瞬にして呑み込まれてしまった。

 存在しているのに存在していない、パーソナルへの致命的な矛盾。 

 生じた歪みは自己そのものへ亀裂を生み、言いようのない不安の津波となって情け容赦なく押し寄せていく。

 

「思い、出せねぇっ……俺は、誰だ? 誰なんだよ……!?」

 

 寒気が酷い。腕が電極でも刺されたように震え出して止まらない。

 今度こ水底へ沈んでしまいそうな錯覚が、度し難い恐怖の蔓となって襲い掛かった。

 

「思い出せない、全然思い出せないんだ! お、俺は、誰で、どうしてこんな所に、なんで、水の中でッ!?」

「……その狼狽ぶり、嘘じゃないみたいね。よしよし落ち着きなさい。ほら、息を吸って。ゆっくりよ」

 

 頭を抱えてうずくまる少年の背を、シャーロットは宥めるように優しく摩る。

 言われるがままに深呼吸を繰り返す。そうしているうちに、襲い来るパニックの嵐は少しずつ晴れて、頭もだんだん冷えてきた。

 

「しかし参ったわね、記憶が無ければ帰すアテも……。うーん、仕方ない。私についてきなさい」

 

 言いながら、シャーロットは少年の腕を引っ張って立ち上がらせる。

 そのまま手を引いて、足早に森の中を進み始めた。

 

「お、おい。どこへ行くんだ?」

「私の家。ショックで記憶を失ってる可能性もあるし、少し休めば治るかもしれないでしょ?」

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