『──時は満ちた』
『邪悪は日の元に暴かれた。心するがよい、無銘の贄よ。試練の時は訪れた』
『痛みを越えよ。信念を捧げよ。意思の灯火に血を
『さすれば我が冠亡き骸、祖なる
『剣よ。灰生まぬ無窮の焔よ。
◆
灼熱の激痛。失血の極寒。
絶命まで数秒足らずの刹那、ヴィクターの脳は限界を超えて活動していた。
泉から目覚めてほんの数日足らずの出来事が、濁流のように過っていく。
魂に刻み込まれるほどの一大事から、気にも留めていなかったはずの細事まで。それはもう分け隔てなく隅々まで。
人は、それを走馬灯と呼ぶのだろう。
「────」
死を目前に控えたヴィクターの意識は、驚くほど穏やかに鎮座していた。
こと切れる寸前の彼が抱くは死への絶望、痛みへの慟哭──ではない。
それは地の底をうねる溶岩より熱く、極北の氷塊より冷え切った一握の情動。
ただただ、繰り広げられた唾棄すべき悪道への、どうしようもない怒りだった。
──なぜ怒る?
頭に響く誰かの声。
自問の言霊が、今にも散らばりそうな命を煽った。
(命の恩人が、あそこまで虐げられてんだ。身も心も、肉親との記憶も、たった一人の妹さえ凌辱されたんだ。頭に来ねぇわけがねぇ)
──恩人? 素性を知るやいなや
──なのになぜ、体を張ってまで守ろうとした?
(あ? だからどうだってンだ)
ああそうだ。その通りだ。だからなんだというのだ。
過程がそうだったから、どうだというのだ。
歯を食いしばる。
奥歯を砕かんばかりの力が顎を伝わる。
血が滲む。鉄の味が染み出ていく。
ふざけたことを。よく考えてみろ。
そもそも、彼女のどこが冷徹か?
泉の中へ気泡のように現れた怪しい男を、躊躇なく助けてくれたあの少女が。
自分を憎めるよう、非情な姿勢を不器用にも演じていたあの少女が。
どうして無情なやつだなんて、そんな一言で吐き捨てられるのか。
『恨みたければ恨みなさい。怨嗟を吐きたかったら吐けばいい。あなたにはその権利がある』
悲痛な面持ちでそう告げた彼女は、果たして冷酷残忍な悪党か?
否定する。例え声が枯れようとも断固として否定する。
それは大きな間違いだ。盛大かつ甚だしい思い上がりだ。
(アイツは根っからの善人だ。底抜けに良いヤツに決まってる。だってそうだろ。重すぎる人生を一身に背負って、それでも人の心を捨てなくて、悲劇を呑み込んでまで高潔であろうとして! 舌を噛み切りそうな思いで信念を曲げてでも、愛した人々に報いようとした仁愛の女が、冷酷非道なわけがない!!)
彼女の行動原理はいつだって自分のためではなかった。
火災に呑まれ、命を落とした家族と従者の弔いのため。
汚名を被せられた一族の屈辱を晴らすため。
非業の死を遂げた最愛の妹の意志を受け継ぎ、アーヴェントの未来を掴むため。
暴走しがちではあったが、親愛なる者たちへ報いるために、少女は独り戦い続けてきたのだ。
そこに『シャーロット』はいなかった。
自分の将来だとか、幸福だとか、そんなものは一抹だって紛れ込んではいなかった。
あるのは生き残ってしまった者としての責務だった。ただそれだけの十字架だった。
女としての自分を殺し、『シャーロット』をひたすら削って、血のさだめと愛に忠を尽くさんと、裸足で雪原を歩み続けるような辛酸の人生。
普通なら発狂も免れない苦痛の道だ。
声を上げて泣いたって、もう無理だと蹲ったって、流れる血の宿命から逃げたって、誰も責める権利など無いはずだ。
なのに彼女がたった一度でも、弱音なんて吐いたことがあったのか?
世を恨み、非業を呪い、全部お前のせいだって、自暴自棄に八つ当たりしたことがあったとでも?
否。否。断じて否。
涙が枯れ、心が擦り切れようとも、未来へ進もうとする金剛の意志が儚くも勇敢に宿っていた。
ヴィクターはこの眼で確かに、彼女の中の揺るぎない黄金の輝きを目撃したのだ。
それこそが、シャーロットの仁愛と覚悟の証。
(もし……あいつが平和な人生を生きていたら)
これは仮定の話だ。
捕らぬ狸の皮算用と切り捨てられても反論できない、妄想染みた机上の空論だ。
(きっと、いや間違いなく、すっげぇ女の子になってただろうって確信がある。立派な娘だって、両親が胸を張って誇れるような、そんな素敵な女の子に)
そう。これはもしもの話。
もしも彼女が普通の生活を送れていたら? その先にはどんな光景が広がっていた?
断言する。シャーロットはきっと、誰よりも素敵な女の子に育っていた。
穏やかな家族と従者に囲まれ、眩しいまでの恋をして、美しい人生を歩んでいた。
皆が微笑み、福を分かつ幸せな日々を。
それを奪ったのは誰だ。
平穏な未来を。暖かな団欒を。当り前であったはずの幸福を。
踏みにじり。辱め。嬲り。嘲り。利用して。利用して。利用して。
泥の底を這いずり回る蛆よりも卑しい生へ貶めたのは、どこのどいつだ。
背負う必要のない業を担わせ、艱難辛苦の谷底に突き落とし、血反吐を吐いても吐き足らないような地獄へ引きずり込んだのは────
「──……る、かよ」
傷が呻き、鮮血の滲む音がした。
そこに痛みの居場所はなかった。
ヴィクターは
ましてや賢者のように明晰でもなければ、全て合理で俯瞰できるほど強靭な理性も持ち合わせていない。
だからもういい。もうたくさんだ。
爆熱のような怒りがこの胸を焼き焦がすには、あまりに充足し過ぎていた。
「許せるかよッ……!」
立て。
誰かの叫ぶ声がした。
拳を握れ。
穿たれたはずの心臓が唸りを上げた。
立ち上がるのに御託はいらない。死の淵だなんて関係ない。
涙の落ちる音がした。絶望に咽ぶ少女がいた。
「許せるわけ──ねえだろうがッ!!」
十分だ。とっとと歯を食いしばって命を燃やせ。
てめえの敵は、まだ目の前で嗤っているぞ。