銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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11.「焔よ」

『──時は満ちた』

 

 

『邪悪は日の元に暴かれた。心するがよい、無銘の贄よ。試練の時は訪れた』

 

 

『痛みを越えよ。信念を捧げよ。意思の灯火に血を()べよ』

 

 

『さすれば我が冠亡き骸、祖なる(のり)、汝の力と成るであろう』

 

 

『剣よ。灰生まぬ無窮の焔よ。()の嘆きを救いたまえ』

 

 

 

 

 

 灼熱の激痛。失血の極寒。

 ()がれた(かいな)。穿たれた心の臓腑。

 絶命まで数秒足らずの刹那、ヴィクターの脳は限界を超えて活動していた。

 

 泉から目覚めてほんの数日足らずの出来事が、濁流のように過っていく。

 魂に刻み込まれるほどの一大事から、気にも留めていなかったはずの細事まで。それはもう分け隔てなく隅々まで。

 

 人は、それを走馬灯と呼ぶのだろう。

 

「────」

 

 死を目前に控えたヴィクターの意識は、驚くほど穏やかに鎮座していた。

 こと切れる寸前の彼が抱くは死への絶望、痛みへの慟哭──ではない。

 

 それは地の底をうねる溶岩より熱く、極北の氷塊より冷え切った一握の情動。

 ただただ、繰り広げられた唾棄すべき悪道への、どうしようもない怒りだった。

 

 ──なぜ怒る?

 

 頭に響く誰かの声。

 自問の言霊が、今にも散らばりそうな命を煽った。

 

(命の恩人が、あそこまで虐げられてんだ。身も心も、肉親との記憶も、たった一人の妹さえ凌辱されたんだ。頭に来ねぇわけがねぇ)

 

 ──恩人? 素性を知るやいなやお前(じぶん)を生贄にしようとした、あの冷徹な女が? 助けられたなんてひとつの結果論に過ぎないだろう。

 

 ──なのになぜ、体を張ってまで守ろうとした?

 

(あ? だからどうだってンだ)

 

 ああそうだ。その通りだ。だからなんだというのだ。

 過程がそうだったから、どうだというのだ。

 

 歯を食いしばる。 

 奥歯を砕かんばかりの力が顎を伝わる。

 血が滲む。鉄の味が染み出ていく。

 

 ふざけたことを。よく考えてみろ。

 そもそも、彼女のどこが冷徹か? 

 

 泉の中へ気泡のように現れた怪しい男を、躊躇なく助けてくれたあの少女が。

 自分を憎めるよう、非情な姿勢を不器用にも演じていたあの少女が。

 どうして無情なやつだなんて、そんな一言で吐き捨てられるのか。

 

『恨みたければ恨みなさい。怨嗟を吐きたかったら吐けばいい。あなたにはその権利がある』

 

 悲痛な面持ちでそう告げた彼女は、果たして冷酷残忍な悪党か?

 否定する。例え声が枯れようとも断固として否定する。

 それは大きな間違いだ。盛大かつ甚だしい思い上がりだ。

 

(アイツは根っからの善人だ。底抜けに良いヤツに決まってる。だってそうだろ。重すぎる人生を一身に背負って、それでも人の心を捨てなくて、悲劇を呑み込んでまで高潔であろうとして! 舌を噛み切りそうな思いで信念を曲げてでも、愛した人々に報いようとした仁愛の女が、冷酷非道なわけがない!!)

 

 彼女の行動原理はいつだって自分のためではなかった。

 

 火災に呑まれ、命を落とした家族と従者の弔いのため。

 汚名を被せられた一族の屈辱を晴らすため。

 非業の死を遂げた最愛の妹の意志を受け継ぎ、アーヴェントの未来を掴むため。

 

 暴走しがちではあったが、親愛なる者たちへ報いるために、少女は独り戦い続けてきたのだ。

 

 そこに『シャーロット』はいなかった。 

 自分の将来だとか、幸福だとか、そんなものは一抹だって紛れ込んではいなかった。

 

 あるのは生き残ってしまった者としての責務だった。ただそれだけの十字架だった。

 

 女としての自分を殺し、『シャーロット』をひたすら削って、血のさだめと愛に忠を尽くさんと、裸足で雪原を歩み続けるような辛酸の人生。

 

 普通なら発狂も免れない苦痛の道だ。

 声を上げて泣いたって、もう無理だと蹲ったって、流れる血の宿命から逃げたって、誰も責める権利など無いはずだ。

 

 なのに彼女がたった一度でも、弱音なんて吐いたことがあったのか?

 世を恨み、非業を呪い、全部お前のせいだって、自暴自棄に八つ当たりしたことがあったとでも?

 

 否。否。断じて否。

 

 涙が枯れ、心が擦り切れようとも、未来へ進もうとする金剛の意志が儚くも勇敢に宿っていた。

 ヴィクターはこの眼で確かに、彼女の中の揺るぎない黄金の輝きを目撃したのだ。

 

 それこそが、シャーロットの仁愛と覚悟の証。

 

(もし……あいつが平和な人生を生きていたら)

 

 これは仮定の話だ。

 捕らぬ狸の皮算用と切り捨てられても反論できない、妄想染みた机上の空論だ。

 

(きっと、いや間違いなく、すっげぇ女の子になってただろうって確信がある。立派な娘だって、両親が胸を張って誇れるような、そんな素敵な女の子に)

 

 そう。これはもしもの話。

 もしも彼女が普通の生活を送れていたら? その先にはどんな光景が広がっていた?

 

 断言する。シャーロットはきっと、誰よりも素敵な女の子に育っていた。

 穏やかな家族と従者に囲まれ、眩しいまでの恋をして、美しい人生を歩んでいた。

 皆が微笑み、福を分かつ幸せな日々を。

 

 

 

 それを奪ったのは誰だ。

 

 

 

 平穏な未来を。暖かな団欒を。当り前であったはずの幸福を。

 踏みにじり。辱め。嬲り。嘲り。利用して。利用して。利用して。

 泥の底を這いずり回る蛆よりも卑しい生へ貶めたのは、どこのどいつだ。

 

 背負う必要のない業を担わせ、艱難辛苦の谷底に突き落とし、血反吐を吐いても吐き足らないような地獄へ引きずり込んだのは────

 

「──……る、かよ」

 

 傷が呻き、鮮血の滲む音がした。

 そこに痛みの居場所はなかった。

 

 ヴィクターは清廉恪勤(せいれんかっきん)な人間ではない。聖人なんてほど遠く、きっと心の広い人間でもない。

 ましてや賢者のように明晰でもなければ、全て合理で俯瞰できるほど強靭な理性も持ち合わせていない。

 

 だからもういい。もうたくさんだ。

 爆熱のような怒りがこの胸を焼き焦がすには、あまりに充足し過ぎていた。

 

「許せるかよッ……!」

 

 立て。

 誰かの叫ぶ声がした。

 

 拳を握れ。

 穿たれたはずの心臓が唸りを上げた。

 

 立ち上がるのに御託はいらない。死の淵だなんて関係ない。

 涙の落ちる音がした。絶望に咽ぶ少女がいた。

 

「許せるわけ──ねえだろうがッ!!」

 

 

 十分だ。とっとと歯を食いしばって命を燃やせ。

 てめえの敵は、まだ目の前で嗤っているぞ。

 

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