どくん、と空気が哭いた。
「?」
涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃな少女の頭を鷲掴み、舌に輝く先天の異能を発動させんとする、まさに刹那の狭間だった。
エマは油の切れた機械のように首を傾げる。
鳴動。
嵐の前触れのような、冷たくてざわざわとする震え。
背筋を伝い、肌を泡立て、神経を滑走する波濤のようなナニカ。
どくん、どくんと。
心臓の鼓動のように、脈打つうねり。
「これは……」
到来する気配の根源は背にあった。
「一体、どういう?」
シャーロットから手を離す。
ゆっくりと、膝に手をついて立ち上がる。
「腕を斬り落としました。心臓を抉りました。確実にです。生きていられる生物など存在しません」
振り返る。
目に映ったのは、幽鬼のようにゆらりと立つ男の姿。
死者が蘇った? いや、これはそう単純な話ではない。
床に散った赤黒い血肉が、千切れ飛んだ左腕が、まるで独立した意思を持つかのように、ヴィクターの傷口に舞い戻っていくのだ。
時間を巻き戻しているかのような異様極まる光景。
流石のエマも、瞠目せずにはいられなかった。
「それも手品のひとつでしょうか」
間違いなく息の根は止めたはずだ。
右手を挽肉に変えた。左腕も千切り飛ばした。心臓に大穴を穿った。生きていられるはずがない。
ならば、この五体満足で蘇った男をどう説明する?
無理だ。説明なんて出来るわけが無い。
(なんでしょう、あの真っ黒な腕)
訝しむとすれば、明らかな変異を遂げた両腕か。
ヴィクターの腕は、光を呑むほどの純黒に染まり切っていた。
腕の形をした闇とでも言うべきか。肘から指先に至るまでが、直視するのも憚られるほど禍々しい変容を遂げている。
既視感。
あれは、そう。
霊廟に眠る遺骸と同じ。
(全くもって理解出来ませんが、まさしく純黒の王のもの。彼の身に何が起きて……?)
思考を回す。しかし結論は出ず。
ならば余計なことは考えまいと切り捨てる。
ただただ現状を把握する。ヴィクターはどんな絡繰りを使ったか、死の谷底から這い戻った。
産毛が逆立つほどの、根源的恐怖を呼び起こす怖気を携えながら。
「流石に驚きました。何をするかわからない方だとは思っていましたが、まさか死すら覆すとは。こればかりは感服です」
「……」
「そんな貴方に一抹の敬意を表して、ここは見逃して差し上げてもかまいません。さっきも言いましたけど、貴方みたいなひと嫌いじゃないんです。邪魔さえしなければ、わたしも深追いしませんから」
「…………」
沈黙。
されど語外に、男の意志は眼で語られる。
死ぬまで殴るのを止めないと言わんばかりの、怒気と闘争心に満ち溢れた瞳。
「交渉決裂のようで」
刀剣に匹敵する眼差しと共に手向けられたそれは、業炎の如き猛々しい怒りを内包していた。
もはや煮え滾った殺意に比肩するほどの、腹の底から燃え盛る闘志。
ヴィクター自身をも灰にしかねないほどの、爆熱を伴う焔だった。
「理由を伺っても?」
女は問う。
不屈の男へ、なぜそうしてまで立ち向かうのかと。
「確かに、彼女は貴方にとって恩人でしょう。しかし同時に、命を奪おうとした敵でもあります。何故そこまで固執するのです? そんなボロボロになってまで体を張る理由は? 命を賭ける意義がどこあるというのでしょうか?」
「俺は正しいと信じるもののために戦う」
二つ返事。
それは、揺るぎない信念の証左。
「お前は許せない。だから、戦う」
放たれた答えを、エマは瞳を閉じながらゆっくりと嚥下した。
「なるほど。義気ですか」
理解はできない。エマの価値観では、ヴィクターがシャーロットのために身を粉にする必要性を感じないからだ。
けれど納得は出来た。これまで共に生活し、観察してきたがゆえか、男の本質を垣間見た気がするのだ。
思えばこの男は、利己のために戦ったことは一度も無かった。
決闘を選んだのも自分の命を守るためではなく、シャーロットの暴走に歯止めをかけ、殺人という咎を背負わせんとする決意からだ。
今もそうだ。魔力の無い身でありながら策を練ってまでエマに挑んだのは、決して自分のためではない。
エマという水面下の悪を見定め、それを許すことが出来なかったからこそ、こうして立ち向かってきたのだ。
ヴィクターが持つ、烈火の如き闘志の源泉は義気にある。
自分がどうなるかなんてこれっぽっちも考えていない。
ただ許せないから。エマの犯した悪行を、見過ごすことなんて出来ないから。
拳を握り、再び立ち上がったのだ。
「嫌いじゃないけれど、ちょっと気味悪くすらありますね」
ほんの少し、ほんのちょっぴりだけ、エマは背筋に冷や水が伝うような悪寒を認めた。
今にもエマに飛びかかり、喉笛を食い千切らんと怒気を差し向ける、この男の尋常ならざる闘争心に対して。
「記憶を失くしているというのに、貴方にはあまりにも強く太い芯がある。魂そのものとも言うべき信念が。普通の人は手を捥がれたらもう戦えないんですよ。戦おうという気すら起きないんです。貴方の義気は狂気に匹敵する。常軌を逸している」
「ごちゃごちゃ五月蠅えんだよ」
ゆらり。男は動く。
強く、強く。決して止められぬと悟らせるほどの、重々しい一歩を踏み出して。
「狂気だ? 常軌を逸してる? てめえが言えたクチかボケ」
「……良いでしょう。気は進みませんが、出来る限り苦痛を与えることなく終わらせてあげま」
暗転。
「────―は?」
暗い。
突如として光が消えた。
何も見えない。真っ暗だ。
光の消えた世界に、流石のエマも戸惑った。
何が起こったのかと、頭が渦潮に吞まれたように掻き混ぜられた。
魔力灯が消えたわけではない。視界の端に微かな灯の残滓が伺える。
けれどおかしい。光はエマの背後から降り注いでいた。
これではまるで、床に突っ伏しているかのような。
(柔らかい。硬い)
この額に触れる絨毯越しの床のような感触は何だ。
(痛い。痛み? どうして痛みなんか)
この顔が破裂したような痛みは何だ。
(苦しい。鼻で息が出来ない。それにこの、ムッとくる臭い、まさか)
顔を持ち上げる。
赤い雫が垂れ落ちた。
もはや語るまでもないソレは。
「血……? 血ですってッ……!?」
ボタボタと滴る血潮を受け止めた手が真っ赤に染まる。
鼻骨が叩き折られていた。
それは紛れもなく、痛烈な一手を見舞われた証左に他ならない。
(殴り飛ばされた!? このわたしが!? そんな馬鹿な!?)
──エマに宿る人錬の刻印は、対人戦闘において無類の力を発揮する。
触れた人間を思いのままに改造する限定的な異能。
それは自身も例外ではなく、肉体をノーリスクで改良するところから始まる。
竜の猛攻にすら耐えるほどの頑強さ。放たれた矢を目視で捕捉し、掴み取る動体視力と反射神経。大岩を素手で叩き割るほどの圧倒的怪力。
さらに異能を応用すれば、第三者がほんの少しエマに触れただけで挽肉に加工するような、絶対的防護を纏うことまで可能である。
臨戦態勢の整ったエマに人は触れることすら叶わない。
ましてや殴打などもっての他。エマとの肉弾戦は、即ち死を意味するのだから。
だというのにヴィクターは五体満足で、エマが地に伏している。
自己改造を重ねた肉体。掠めただけで命を刈り取る異能。
二つの障壁を歯牙にもかけず、いとも容易く手傷を負わせたのはどういう理屈か。
(わけがわからないッ……!! でも、考えられるとすれば、やはりあの黒い腕! しかし何がどうなって……!?)
仮説は立てられる。ヴィクターは王の遺骸に認められ、右手に印を刻まれていた。
命の危機に呼応した遺骸がその肉体を依代として置換し、破壊された部位を修繕したのだ。それしか考えられない。
(だとしたら、刻印の力を度外視したのにも説明がつく。あれが純黒の王の腕ならば……!)
人智を越えた純黒の王の力、すなわち黒魔力の真髄。
それはあらゆる法則より逸脱し、思うがままに『個』を振るう絶対王政にある。
物は燃やせば炭と化す。水に浸せば濡れる。風に晒せば朽ち果てる。
そういった世界を成り立たせる当たり前の法則や影響を無視し、使用者の意のままに掌握することこそが本領。
炎を掴み、水を千切り、雷を投げ、地を引き抜く──黒の魔力とは
つまりあの腕は、ヴィクターの『敵を倒す』という意志に反応し、エマの異能による影響を完全にシャットアウト、肉体の強度をも度外視して鼻っ柱を殴り折ったのである。
(それでも……わからないことがひとつ。このわたしの眼ですら殴られたことに気付けなかったほどの、不可解なスピードの正体。わたしの知り得ない王の権能が他にも……)
王の力は遥か昔の伝説だ。エマとて全てを知り得ているわけではない。
どれだけ未知の能力が隠されているのか、その引き出しのさらに奥には何が眠っているのか、まるで見当もつかない。
ならば、取るべき選択は一つ。
(この男は危険だ! 放っておけば
決断は早く、刻印が鳴動を上げる。
異能が奔る。目まぐるしい速度で、少女の肉体を人外のものに組み替えていく。
四肢は獣の如く太く。
肉を鎧に、骨を鋼に。
歯牙を、爪を、刃を越えた凶器へと。
もはやあどけない少女の面影は微塵もなく、さながら獅子と大熊を融合させたかのような、身の丈3mはあろう怪物へと姿を変えた。
(小娘の心臓を熟れさせるためだけにどれだけ時間と労力をかけたと思ってる! こんなポッと出のガキ如き、邪魔だてなどさせるものかッ!!)
エマの本能はヴィクターを明確な脅威と断じた。
純黒の王の力をもってエマに傷を負わせた以上、楽観視など出来るはずもない。
ここまで来るのに数年もの時間を要した。微かな手がかりからアーヴェントの所在を探し出し、特定し、優しさに漬け込むと言う賭けに出て、前人未到の隠れ里に忍び込んで。
信頼を勝ち取るためにメイドの真似事までして。念入りに念入りに下準備して。邪魔者をようやく排除して。
忍耐に忍耐を重ね、やっとの思いで辿り着いた。遂に心臓を熟れさせることが出来たのだ。
今さら失敗など許されるものか。
確実に、迅速に、目の前の障害を排除し、エマは大義を完遂する。
(油断はしない! 慢心も捨てる! 全力で叩き潰すッ!!)
人を捨てた獣は吼える。
獲物を狩らんとする獰猛な捕食者は、咆哮と共に数多の魔方陣を展開した。
エマの魔法技量はシャーロットを上回る。隠匿の魔法などという小細工に限らず、多様な魔法を習得している。
むしろ繊細な小細工を労せるほどに卓越したその腕は、ヴィクターの全方位を隙間なく埋め尽くすほど、魔法陣の同時発動を可能とした。
「『
己の魔力を詠唱と共に出力。陣を介し指向性を持たせることで、エネルギーは実体と化す。
顕れたるは金属魔法。無数の刃が瞬く間に形成され、鈍く輝く殺意の豪雨が、男に逃走の余地すら与えんと一斉に襲い掛かり────
「ッ!?」
転瞬。刀身がドロリと溶融し、跡形もなく空気に溶け消えて。
男を包囲したはずの凶器たちが、一斉に命を終えたように霧散した。
残された虚無を前にエマの思考は白紙に帰す。
「ようやく効いてきたようだな」
憤怒の形相から一転、狡猾な鴉のように意地悪く笑む男。
その時だった。全身の血流を堰き止められたかのような猛烈な違和感がエマを襲い、ガクンと膝から崩れ落ちた。
「ぁ、え」
心臓を裏返されたような激痛の槍に貫かれ。
瞬間。鉄砲水のような血の濁流を吐き下した。
「がッッッ!? あがッ、ばッ!? ぁああああああッ!? な、なん、なにがっ、なんですか、これ、はぁっ!?」
一斉に悲鳴を上げたのは血管だ。
強心剤を一気に打ち込まれたかのように血潮が暴れ狂い、眼球、鼻腔、口腔と、粘膜から夥しい鮮紅が噴き出し始めたではないか。
「が、ぼっ……!? はっ、ばっ、馬鹿なッ、魔力が、刻印がコントロール出来ないッ……!!
「話に聞いてた通りだな。こりゃあ初手で使わなくてよかったぜ、
エマは視た。
赤く染まった視界に、この異変の正体を確かに視た。
「簡単なことだぜ! 魔力のない俺がお前に勝つ一番手っ取り早い方法は、魔法を使えなくさせることだ!! 不思議に思わなかったのか!? それとも万策尽きたと思い込んだかッ! 罠や暗器だけで満足するほど、俺ァお前のことを舐めちゃいなかったのさ!!」
拳を固め、地を蹴って、這いつくばるエマに肉薄する男と、その傍らに落ちたズタ袋。
袋に収められていただろう、群青色に明滅する奇妙な塊。
そこから噴き出る、禍々しい粉末。
マナヨドミ。ごく稀に森の奥地で発生する猛毒の菌糸類。
その身は喰らえば血を濁し、胞子を吸うだけで魔力の循環不全を引き起こす劇毒である。
「お前がぶっ飛んでくれて助かったぜ! お陰でシャロに警告する猶予が出来た! 思う存分バラ撒いてやったんだ!!」
言われて、いつの間にか移動していたシャーロットが、己とリリンフィーの鼻を布で覆っていることに気付く。
(こいつ……! シャーロットが部屋に現れた時、かたくなに退けようとしていたのはこのためだったのか! マナヨドミの毒に、シャーロットたちを巻き込むのを恐れてたんだ!!)
直視し難い真相から目を背けさせんとする優しさもあっただろう。しかしそれだけではなかったのだ。
今なら解る。エマから魔法というアドバンテージを奪う、最大の切り札を切るための言葉だったのだと。
エマの鼻を真っ先に砕いた理由もソレだ。
嗅覚を封じ、マナヨドミの存在を悟らせないためだった。
殴り倒された時から敗北は決定していた。
不発に終ったはずの一策を、たった一度の逆転で解き放って。
須臾の勝機を、確実に掴み取ったのだ。
(この、男)
背筋が凍るようだった。
刻印を剥奪され、魔法を奪われ、毒の分解も回復もままならず。
迫り来る脅威を迎撃することも叶わぬまま、血染めの視界は、拳を引き絞る男を眺めることしか出来ない。
けれど、身を引き裂くような怖気の源泉は、この絶望的な状況ではなく。
圧倒的優位を覆された屈辱でも、ましてやマナヨドミの猛毒でもない。
度し難い悪行を目撃し、煮え滾る血潮に頭を焼かれているにも関わらず、着実にエマを仕留めんと盤を動かし続けたこの男の存在そのものだ。
(何故そこまで冷静に動ける……!? 怒りに呑まれてるはずなのに! 脳ミソ全部が、わたしに対する憤怒で埋め尽くされてるはずなのに! 一手一手と戦局を詰めていく、そのゾッとするほどの冷ややかさはどこからッ!?)
もはや指先ひとつ動かすことすら叶わなかった。
敵が至近距離に居ると言うのに。その純黒の拳が、エマの顔面を正確無比に捉えんとしているのに。
影を縫われていた。毒ではない。エマの体は、行動そのものを放棄してしまっていた。
決して燃え尽きることの無い、灰生まぬ無窮の焔のような闘争心。
なのにその眼は爆熱に冒されず、あまりに冷ややかに、獲物を食い破らんと着実に王手をかけていくほどの狂気的な理性。
こんなものを見せられてしまったら、最早どうしようもない。
胸の奥に湧いて出た粘着く悍ましい存在を、認めざるを得ないじゃないか。
それは本能からくる原始的な反応。
どれほど骨肉を弄り回そうと、生物である限り決して逃れること叶わぬ宿痾。
即ち──恐怖である。
「イカれてる……!!」
「だァァああああああああらッッッッしゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああ──────────―ッッッッ!!!!」
刹那。エマの瞳を埋め尽くしたのは破壊だった。
男の握拳が残像を連れて解き放たれる。十を超え、百を超え、千を超える鉄拳の到来はまさに嵐の如く。
肉を打つなどという次元ではない。狂瀾怒濤と襲い掛かる突きの豪雨は、砲撃の一斉掃射に匹敵するほどの衝撃となって女の骨肉を撃滅した。
もはや悲鳴を上げることすら叶わず。
善性の被膜を被った怪物は、壁に激突する轟音と共に倒れ伏した。
◆
「お前には、やってもらわなくちゃならねえことが2つある」
──自分の身に何が起こったのかは分からない。
このどす黒い腕も。猛り狂う心臓も。まるで理解が及ばない。
心臓には確実に穴が開いていた。両腕は再起不能なほど壊された。ヴィクター自身、それをはっきりと認めている。
一生に一度も味わうはずの無い感覚を幾度も味わったのだ。幻であるはずが無い。
なのにヴィクターは生きている。
どころか、自分自身でも理解出来ないほどの力を発揮して、圧倒的格上であるはずのエマを叩き伏せた。
一体何が起こったのか。けれど、そんなことはどうでも良かった。
「言ってたよな、シャロの心臓を狙ったのは世界を救う大義のためだと。大義は一人だけで抱けるもんじゃねぇ。お前のバックに着いてる連中はなんだ? 誰の差し金でこんな真似が出来た? 吐け」
「ぐッ、う……!!」
「もうひとつはシャロの妹だ。さっさと治しやがれ。出来ねえとは言わせねぇぞ」
勝敗は決した。
エマはもう、満足に立つことすら叶わない。
魔力のコントロールを奪われ、刻印を剥奪され、徹底的に叩きのめされた。
なのに。
その顔に浮かぶのは、まるで歪みのない綺麗な微笑み。
「ククッ、ク、フフフフ……治す……そうですね……千年果花の霊薬でも飲ませれば治るんじゃないですか……? あればの話ですけど……フフ……」
敗北など微塵も意に介していないかのような、実に晴れ晴れとした笑顔だった。
「何笑ってやがンだ?」
笑顔。それはまさしく余裕の暗示に他ならず。
エマが血の唾を吐き捨てて笑った瞬間、ヴィクターは即座に肉薄するとエマの喉を鷲掴み、渾身の力で壁に向かって叩きつけた。
不自然な動きをしていた腕を間髪入れず捻り折る。若木が
「ぎッッ……ィぁ……!!」
「勘違いしてんじゃあねーぞ。お前に許されてる次の行動は、俺の質問に答える、ただそれだけだ」
折られた腕から力が抜ける。袖の中からペンダントが音を立てて落下した。
魔石が組み込まれた明らかな魔道具。恐らくエマに逆転をもたらすはずだったそれを、ヴィクターは念入りに踵で磨り潰していく。
「正直に言うぜ。いたぶるのは趣味じゃねえ。殺すなんてもっての他だ。けど、ここでお前を逃がすのはそれを差し引いても得策じゃねえ。お前の後ろで誰かが絵を描いてンなら、情報を持ち帰る敵には心を鬼にしなくっちゃあダメだ。だから、次何か企んだら一本ずつ骨を折る」
「っ……!!」
「さっさと答えろ。そうすれば、無用な苦痛は与えないと約束する」
僅かに喉への圧力を緩め、発言の許可を合図する。
激しい喘鳴が腕を伝った。彼女を苛む苦痛が音の形をしているかのようだった。
しかし満身創痍のエマに抵抗する力など残されていない。折れた両腕では、もはやヴィクターを振り解くことなど叶わない。
にもかかわらず。
頬を釣り上げる笑みだけは、凪のように揺るがなかった。
「誰が……貴方の言うことなど……聞くもんですか。ここまで来るのに……どれほどの時間と労力をかけたと……? あと少し、ほんの少しだったのに……それを貴方が台無しにした。死んでも……言うことなんて聞くもんか……!」
次の瞬間、エマの身に霹靂の如く異変が起こった。
舌に刻まれた異形の紋様が輝きを放ったかと思えば、まるで一気に空気を吹き込まれた風船のようにエマの体が膨らんで。
刹那。水の入った巨大な袋が弾けたかのような爆発が巻き起こった。
「なっ!?」
しかしそれは、苦し紛れの反撃ではない。
エマの肉体が破裂したのだ。木っ端微塵に吹き飛んで、血潮と臓物の散水をヴィクターに浴びせかけたのだ。
(こいつ……刻印の力を使って自分自身を!?)
触れた人間の肉体を思うが儘に操るという『人錬の刻印』。敗北を悟った彼女は最後の力を振り絞ったか、己の異能をもって自ら死を選んだのである。
顔にこびり付いた真っ赤な血脂と生々しい肉片を拭い、瞬きを繰り返して汚れた視力の解像度を上げる。
だがそこで。取り戻した視界の中で。ヴィクターは正気を疑うほどの、信じ難いものを目撃した。
死体ではない。眼窩に意志を宿した目玉が居座り、顎骨の隙間から刻印の舌がナメクジのようにうねり、剥き出しの肋骨の中で拍動する心臓を宿しているそれは。
肉も、
『刻印の力を理解したつもりでしたか? こんな常識外れなんて、予想だにもしてませんでしたか?』
カタカタとしゃれこうべが嗤い、不協和音で象られた歪な声が耳を貫く。
悟る。あの自爆は決して自殺などではない。自らの肉体さえかなぐり捨てた、文字通り捨て身の目晦ましだったのだと。
『わたしは死を恐れない! わたしの忠誠心は挫けない! わたしには命を賭してでもやり遂げるという執念があるッ! ああ初めてですよ、他人じゃなく自分を爆ぜさせるために力を使ったのは!! 例え毒で制御が効かなくても、
「────ッ!!」
『最後の最後で賭けに勝ったのはわたしだ! わたしの執念が掴み取った勝利だ! 「人錬の刻印」は
──考えるより体が動く。
思考は完全に撃滅へと切り替わっていた。拳を弩の如く引き絞って、ヴィクターは肋骨に守られた心臓をぶち抜かんと全身全霊の一撃を叩き込んだ。
だがしかし、放たれた純黒の砲弾はエマの体をすり抜けてしまう。
『不思議に思わなかったのですか? 心臓を熟れさせるためだけに、どうしてわざわざこの島で居残り続けたのか。必要な
表情筋を失いながら、しかし三日月のように笑みを歪める女。
ぬらりと血脂で光る舌の上には、先ほど砕いたペンダントと同じモニュメントが。「わたしはとっくにそこには居ませんよ」と、エマは道化を嘲笑うように言い放った。
それはエマが肉体を破裂させたその時点で、体内に仕込んでいた予備の
『この島は少々特殊なんです。謎が山ほど残ってる。出るのは簡単でも、入るのが難しい。アーヴェントの許可が無ければ二度と戻れないのに、座標も特定できないときてます。だから島を出たくなかったんですよ。確実に出入りできるようになるまではね』
「エマァッ!!」
『今日のところは引き下がります。ですが
最後に見せたその眼差しは、極悪人に相応しくない、高潔さすら感じさせるほどの意志の灯火を抱いていた。
『またいずれお会いしましょう。わたしか、それとも他の者になるかもしれませんが。せいぜい頑張ってくださいね、無銘の生贄さん』
晴れた霞のように、エマの幻影が消えていく。
残されたヴィクターは拳を握り、やり場の無い憤りを壁に向けて叩きつけた。
「……またいずれだと? 上等だ。お前らがどこの誰だか知ったことじゃねえが、望み通りとことん付き合ってやる!」