強くならなきゃと、私は涙を伝わせた。
私に妹が生まれた日。かわいくて、小さくて、暖かい命が産声を上げてくれた最高の日。
けれどリリンは人の身に過ぎた『純血』を宿し、みんなの期待と希望を一身に受けながらも、虚弱に体を呪われてしまっていた。
毎日のように病でうなされ、苦しむ妹がぎゅっと私の指を握ってきた夜の帳。
何もしてやれない自分のことが、本当に本当に嫌いだった。
泣いて、吐いて、助けてと訴える妹へ、何も出来ない自分の無力さに腹が立った。
悔しくて惨めで、溶けた鉄のような涙が何度こぼれたか分からない。
リリンの手を固く握り返しながら、私は強くなるんだと決意した。
だって私はお姉ちゃんだから。リリンフィーは、私が守ってあげるんだ。
私は、甘えた子供であることを捨てた。
強く在るんだと、私は涙を呑み込んだ。
憎々しい紅蓮の業火が瞳を埋めた日。私の人生が焼き尽くされた最悪の日。
父も。母も。従者も。家も。思い出も。何もかもが灼熱と黒炭の奈落へ沈んでいった夜の檻。
灰に埋もれた墓標なき家族の焼け野原で、私はどうすることも出来なかった。
叫ぶことも。泣くことも。取り乱すことさえも。
幼い妹がいたからだ。あの子が流す涙と痛みを、私が拭ってあげなくちゃいけなかったからだ。
リリンを守るとあの夜に誓った。その決意と覚悟に一片の揺るぎもない。
だから私は強く在れた。強く在らなきゃ、この子を守れないと知っていたから。
小さな小さな可愛い妹。私のたった一人の愛しい家族。
あなたを守るためならば、私は全てを捨てたってかまわない。
吐き気がするような現実も、胸を抉られそうな思い出の甘みも、あなたの分まで呑み込んで、私があなたの盾になる。
私は、か弱い女の子であることを捨てた。
強いだけでは足りないのだと、私は涙を火に
妹を守るために我武者羅で生きた。子供であることも女であることも捨てて、私はリリンを守る姉として生きてきた。
焼け残った財宝を売り払って、生活を立て直す資金を作った。宿を借りてリリンが安心できる居場所を作った。稼ぎを得るために東奔西走を繰り返した。
無暗に身分を明かせない血筋に、年端もいかない子供という弱者の立場が絡みつく現実は、想像以上に過酷で辛酸に満ちた生活だった。
千年も隠遁してきたアーヴェントに社会福祉なんてセーフティネットは使えない。リリンをまともに病院へ行かせることすらままならない。
不幸中の幸いだったのは、身元が不透明でもギルドが仕事をくれたことだろうか。
それでも得られる報酬なんて雀の涙。エマと二人三脚で、どうにかリリンの薬と日々の糧を得る毎日。
けど私は、きっと幸せだったのだと思う。
あの子のためなら仕事が大変でも耐えられた。あの子が笑ってくれるなら、貧しくなったって平気だった。
苦しかったけれど、少しずつ少しずつ前に進んでいく日常が、日々増えていくリリンの笑顔が、私に力をくれたから。
目標だって出来た。私もリリンも成長して一人前になったら、また島に戻ってやり直そうって約束した。
災厄の日から止まってしまった私たちの時計を、私たち姉妹の手で、もう一度動かすんだって笑いあった。
失くした過去は戻らない。焼け落ちた時間は戻せない。
肌身を刺すような現実という茨の抱擁を受け止めて、目指すべき未来という憧憬を、私は夢見ることが出来るようになっていった。
リリンが亡くなったと知らされるその時までは。
3日間。私は大きな仕事を遂げるために家を空けて。
そして。そして。ああ。
帰って来たら、真っ赤に眼を腫らしたエマから振り絞るように告げられて。
──ギルドから舞い込む仕事をこなしていくうちに、私は『
報酬も目に見えて増えた。始まりの頃と比べれば、生活も随分楽になった。
この大仕事だって、そうして掴み取った明日への一端だったんだ。
やっと、やっと。
もう一度やり直せるんだって思ったのに。
思えるように、なったのに。
私の何が間違っていたんだろう。
私たちの何が、間違っていたんだろう。
私たちが
この世界に存在してはならないから、ただ静かに生きることさえ許されないとでも?
こんなものが、こんな結果が、度し難い残酷な仕打ちが、辿るべき運命の微笑みだったとでも?
違う。
違う。違う!
違う違う違う違う違う!!
認めるものか。認められるものか。
私たちは間違ってない。何も間違ってなんかいない。
ただひっそりとその日その日を暮らしてただけだ。
悪事を働いたことなんて一度もない。誰も不幸になんかしていない。
幸せに生きられたら、他には何も要らなかったのに。
それさえ許されないのなら、人間は全員大罪人じゃないか!
私は証明すると決めた。
子供であることも、女であることも、『シャーロット』であることを捨ててでも。
私たちは、この世から失せるべき禁忌なんかじゃないのだと。
海の果てに追いやられ、千年も罪を被せられ、陰の中を生きることを強いられたアーヴェントの結末が。
何の罪も犯していない、私の家族の結末が。
こんな終わり方で許せるわけがあるか。こんな運命が認められるものか。
ならば、生き残ってしまった者としての責務を果たす。
アーヴェントを復活させる。そして世界に証明する。
私は、私たちは、消えなくちゃいけない存在なんかじゃない。
私たちは、何も間違ってなんかいないんだ。
◆
胸を刺すような夢を見ていた気がする。
「……ん」
薄暗い部屋で目が覚めた。
体を起こそうとすると、節々に鈍い痛みが駆け抜けた。
関節からパキパキという異音。テーブルへ突っ伏すように寝ていたからか、油の切れたブリキのように錆びついている。
「いけない、寝ちゃってた。調べ物の途中だったのに」
乱雑に開きっぱなしになっていた書物たちを整頓する。
内容は魔法医学、薬学、禁忌魔法、呪いの解呪にまつわるものなど様々だ。
言うまでもなく、リリンフィーを蝕む奇病を治す手段を模索している最中だった。
(星の刻印は唯一無二、この世に二つと同じ能力は存在しない。けれど、能力の理論構造は魔法とよく似てる。肉体を自在に改造する呪いや禁術があれば、そこから逆算してリリンの足を治せる方法が見つかるはず……)
あの事件から数日。リリンフィーは延々と眠り続けている。
エマが施した睡眠魔法のせいではない。シャーロット自ら、リリンフィーの周辺時間を凍結した影響だ。
リリンフィーの首元に存在する、光を呑むほど真っ黒な、時針の存在しないダイアルだけの懐中時計。
物理法則へ意のままに干渉するという黒魔力を注ぐことにより、指定した空間の時の流れを堰き止めるアーヴェントの秘宝である。
リリンフィーの体はエマの持つ『人錬の刻印』によって改造され、もともと在った足から新たな足が無数に発生してしまうという極めて歪な状態にある。
そんな体のまま放っておけば、次々と増殖する自身の器官によってどんな影響がリリンフィーに降りかかるか想像もつかない。
元々リリンフィーは、自身が抱える『純血』のもたらす高負荷によって体が極端に弱いのだ。
ある意味、今までエマが
エマがリリンフィーの心臓ではなくシャーロットの心臓を熟れさせようと目論んだところからも、その虚弱体質は星の刻印をもってしても克服できなかったと窺い知れるだろう。
だからシャーロットは呪いが解けるその日まで、妹の時を止めることを選択した。
「……リリン」
背後で眠る妹を見る。
治癒魔法の仮説理論を証明するために書き殴った紙を、いたたまれないように握り潰して床に放り投げた。
同じようにくしゃくしゃに丸められた失敗作が、一面中に散らばっている。
「……ごめんなさい」
妹の顔を直視出来なくなっていた。
シャーロットとそっくりだった深海色の髪は漂白され、肌は日の光を拒んだように白く褪せ、足は異形に、華奢だった体はさらに瘦せ細ってしまった妹の姿。
変わり果てたリリンフィーを瞳に映すと、罪悪感という万力に押し潰されて耐えられなくなる。
(私のせいだ。私がエマの企みを見抜けなかったから。アーヴェントの再興なんて妄信に取りつかれて、馬鹿みたいな努力に縋って誤魔化して、その裏で、ずっとこの子を苦しめてた。洗脳されてたなんて言い訳にならない。エマの手のひらで踊らされてた私のせいだ。この子を守るって、誓ったはずなのに)
自責。後悔。無力感。
苦悩の灰汁が、少女の中身を重く満たして抜け落ちない。
膿んだ傷口から染み出す漿液のように、心を冒す疼痛がジクジクと胸いっぱいに広がっていく。
「私……どうしていつも……こうなのかなぁっ……」
リリンフィーが病に伏した時も。家族を失った時も。妹を失ったと脳を書き換えられた時も。
傍らにあるのは無力感だった。現実が何も出来ない自分の姿を見せつけてくる鏡のようで、それを振り切るために、シャーロットは強く在ろうと歯を食いしばり続けてきた。
その結果がこれだ。
頑張って、頑張って、必死に頑張って、いつも無為に還っていく。
「ぅ……っ」
消えてしまいたい──たまらず吐き出しそうになった言葉の汚泥を、唇を噛んで堰き止めた。
言っては駄目だ。一度でも口から出してしまえば止められなくなる。
そうしたら、きっと元には戻れない。曲げられた鉄板の折り目は二度と直らないように、辛うじて繋ぎとめている『シャーロット』が消えてしまう。
でも。
もう、どうしたら良いのか分からない。
(リリンを治す方法は見つからない。エマが言い残した千年果花なんて伝説の霊薬も見つかりっこない)
調べられるものは全部調べた。考える限りの方法を模索した。
それでも答えは出なかった。出なかったのだ。
縋っていた希望が湿気た花火のように消えていく。シャーロットの魂魄さえも、芥へ還してしまうように。
(疲れた)
頭の奥底がどろりと濁った。
眼の前が全部灰色になったみたいだった。
(もう終わらせてしまおうかしら)
キィ、と椅子を引いて立ち上がる残響。
ゆっくり、ゆっくり、少女は魂を失くした亡者のように揺れ歩く。
(アーヴェントも。私も。リリンも。ぜんぶ)
シャーロットは、眠る妹の頬を赤子に触れるように優しく撫でて。
虚空より喚び寄せた魔剣の柄を、ぎゅっと力強く握り締めた。
「よぅシャロ!! 邪魔するぞ!! んでもって、ちょっくら遊びに行こうぜ!!」
一切合切を吹き飛ばさんばかりにドアを開け放って現れたそれは。
少女の足に絡みついた冥暗の瀬を、灼き払わんばかりの太陽だった。