「ただいま。帰ったわ、エマ」
泉からそう離れていない地。年季の入った風情ある建物があった。
石造りの巨大な館だ。素人目でも豪華絢爛と分かるインテリアや骨董品が散見していて、偉大な王族の末裔というシャーロットの言葉に真実味を帯びさせる。
人気のない原生林の奥にある隠れ家でありながら、威光を感じずにはいられない豪邸だった。
「はーい、お帰りなさいお姉様。すぐそちらへ参りま──はぇ、え、え?」
エントランスの奥からトテトテと歩いてやってきたのは、シャーロットと同じ深海色の髪と純朴そうな丸眼鏡が印象的な、エマという名の少女だった。
どうやらシャーロットの妹らしい彼女は、福相でも貧相でもない、ベージュを基調とした丈の長い衣装と真っ白なエプロンを身に着けている。
頭には長髪を仕舞ってあるだろう、ふっくらとしたクラゲ型の帽子が乗っていた。もしかしたら料理でもしていたのかもしれない。
姉妹というには髪色以外あまり似ていないものの、凛としたシャーロットとは対照的な小動物らしい雰囲気を持つ少女は、少年を見るなりくりくりとした大きな目をびっくり仰天と見開いた。
無理もない。出かけていた姉がニア全裸の男を連れ帰ったのだ。幻覚を疑うレベルである。
眼鏡のレンズをゴシゴシと拭い、これは現実なのかと確かめ直す。
一拍、二拍。
この光景は幻ではないと脳の処理が追いついたらしく、それはそれで驚愕のあまりあんぐりと口を落としてしまった。
「ど、どど、どちら様ですかぁっ!? なな、なぜお姉様が裸の殿方をお連れに……ハッ! もももしやお姉様、泳ぎに行くなんて言っておきながらポータルで町まで男の子を攫いに行ってたんですかっ!? 駄目です駄目です不健全です! いくらお姉様がお年頃だからって、そんなの絶対いけません! 今すぐ元の場所に返してきなさいですぅっ!!」
「アンタ私を何だと思ってんの!? 彼は泉で溺れてたから助けただけ! 混乱するのは分かるけど他意は無いの!」
「い、泉で……? いやしかしこの島は──」
「ああ、不可解なのは分かってるわよ。私もまだ理解が追いつかないけど、れっきとした事実なの」
溜息。シャーロットは頭に手を当て、やれやれと言った具合に首を振る。
「しかも厄介なことに記憶喪失らしくてね、見ての通り身ぐるみ一つない有様で。どうやってここに来たのかすら見当もつかないから、とりあえず保護したって感じ」
「ええ……保護って……」
エマは口元を手で覆って、ちらりと少年に視線を寄越した。
奇特を孕んだ眼差しだ。まるで珍妙な動物を目撃したかのような──いや。
9割全裸の男相手では無理もないと言えるが。
「事情は分かりましたが……いくら何でも裸の殿方を保護って、その、あまりに不用心では」
「言いたいことは分かるけど大丈夫、悪人かどうかくらい見分けられる。彼は礼節もある良い人よ」
「お姉様がそう言うなら、そうなのでしょうが……」
「とにかく、彼を客人としてもてなしてあげて。代えの服と暖かい食事をお願い。私はお風呂の準備してくるから」
「は、はい。……えっとそちらのお兄さん。失礼な態度をとってしまって申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げるエマに、少年はいやいやと慌てて手を振った。
「そんな、謝罪なんてしないでくれ。こんな怪しいやつ相手じゃ当然なんだ。俺の方こそ、もう恩に着っぱなしで申し訳ないくらいでさ」
「……ふふ、確かに悪い方ではなさそうですね。わかりました。すぐに準備しますから、少々お待ちくださいねっ」
「じゃあその辺で悪いけど、適当な椅子で
「何がいいって、名前か?」
唐突に問われ、少年はきょとんとしながらも、諦観に近い笑みを浮かべた。
「何でもいいさ。俺には記憶も何も無いんだ、お前呼ばわりでも別に気にしない。これだけ親切にされてるのに、そこまで贅沢言わないよ」
「ダーメ。名前は大事よ、在るだけで自分の柱になるもの。まぁ、頓着しないって言うなら私が勝手に考えてあげるわ」
顎に手を当て、シャーロットはうむむと頭をこねる。
幾許過ぎて、ポンッと手を叩く。
「ヴィクターはどう? 私のパ……お父様のヴィクトールから拝借したんだけど。気に入らなかったら別のを考えるから言ってちょうだい」
「そんなことない、良いと思う! なんというか、響きがしっくりくるぜ」
「そう? 良かった。じゃあヴィクター、悪いけどここで少し待っててくれるかしら」
「いや、俺も出来ることがあったら手伝うよ。任せっきりじゃ流石に悪い」
「ダメ、大人しくしてなさい。さっきまで溺れて死にかけてたの忘れたの? それにほとんど裸なんだし、そのまま安静にしてて」
わかった? と念を押され、エマが持ってきた小さな椅子に腰を下ろすよう促された。
申し訳なさそうにしつつも、ヴィクターは納得してちょこんと座る。
「ヴィクターさん、すぐにお洋服とご飯用意しますからね! あっ、わたしの名前はエマって言います。エマ・ロロナン・アーヴェント、シャロお姉様の妹です。気軽にエマと呼んでくださいな」
「こちらこそよろしく。こんな見ず知らずの男に温かくしてくれて、感謝してもしきれない。この恩は必ず」
「いえいえ。わたしたちは誇り高きアーヴェントの末裔ですから、困ってる人は見過ごせないのですっ」
にぱっと花のように微笑んで、エマはシャーロットと共にその場を後にした。
静寂を闊歩し、離れていく靴音。
独りになったヴィクターは、命の危機という大きな波瀾が過ぎ去ったことをひしひしと実感する。
透明な時間が訪れる。自然と吐息が零れ落ちた。
(本当に良い姉妹だな。彼女たちに出会えたのが最大の幸運だった)
腕を組みながら椅子の背もたれに身を預け、深く息を吐く。
(にしても静かだなぁ。こんな広い屋敷なのに。まだ誰か居ても良さそうなもんだが)
上を見上げる。辺りを見回す。
エントランスホールだけでも首が痛くなるほど高い天井と、見渡すほどの敷地面積。
とんでもない豪邸だ。本当に王族の末裔なのだろう。
だというのに閑古鳥が鳴いている。従者の一人だって見当たらない。
そもそも高貴な身分にあるはずの二人が、自ら家事に出向いているというのがおかしな話だ。
記憶の無いヴィクターでも、その違和感はありありと見て取れていた。
(まさか、あの二人以外に居ないのか? この広い家で?)
信じ難いものの、そうとしか思えないほどの静けさだった。
森から流れる木々の葉音と、鳥のさえずりのコンサートが五月蠅く感じるくらいだ。人の気配がまるでない。
(古い焼け跡や修繕箇所があるのも気になる。何か事情がありそうだが、まぁ考えるだけ野暮か)
──ふと、気紛れに送った視線の先に絵画があった。
肖像画だ。大勢の人間が描かれている。
髭をたくわえた優しそうな面持ちの男が中心に座っている。隣の椅子には麗しい淑女が腰かけていた。
二人の膝にはそれぞれ子供が乗っている。淑女の顔によく似た幼い女の子で、きょとんとした表情を浮かべていた。
周りを囲んでいるのは従者だろう。みな一様に、朗らかな微笑みを浮かべている。
(家族の肖像画か。この女の子はたぶんシャロだな。隣の妹っぽい子は……あんまり似てないがエマか? どっちかって言うとエマは髪が赤いこの従者に似てる気がする)
屋敷は見た目こそ絢爛だが、ところどころ手入れが行き届いていないところが見受けられる。
仮にあの二人しか住んでいないとすれば致し方の無いことだろう。広大な家をたった二人で維持するのは、並大抵の努力では不可能だ。
それでもこの絵だけは、まるで描いて間もないかのように手入れが行き届いていた。
額縁は新しく、傷もない。飾ってある壁周りも他より丁寧に掃除されているのか、際立って綺麗に見える。
(よほど家族愛が深いんだな。従者たちの表情も自然でやわらかい。きっとみんな仲が良かったんだ)
これは絵だ。第三者によって描かれた作品だ。直接光景を切り取った写真ではない。
けれどヴィクターには十二分に理解できた。まるでその場に自分も居合わせていたかのように、幸せに満ちた「家族」の情景が目に浮かぶのだ。
けれど、だからこそ気になるというものである。
(寂れた豪邸にたった二人だけ。他の家族は影も形も見当たらない。そして所々の焼け跡……この家で何があったんだ?)
◆
「うッッッッッッま!? なんだこれメチャクチャ美味い!! いくらでも食えるぞ!」
「でしょでしょそうでしょ! エマの料理は世界一美味しいのよ! 毎日堪能できるのが至極の贅沢と思えるくらいね! ほんと自慢の妹だわっ!」
「もう、お姉様ったら。でもお口に合ってなによりです。好きなだけおかわりしてくださいね」
たった三人で囲むにはあまりに長大過ぎる、雅な赤を帯びた木製のテーブル。
入浴を済ませ、身支度を整えたヴィクターたちは、その一角に集まって香り豊かな料理を三者三様につついていた。
深い緑を湛える葉野菜、命煌めく緑黄色野菜、自然の栄養をそのまま捥ぎ取ったかのような果実──それらを一個の芸術として完成させた輝かしいまでのサラダ。
太陽をじっくり溶かし煮込んだような黄金色のスープは、いったいどれほどの食材の旨味を凝縮して造り出されたのだろうかと、厨房の神秘さえ感じる逸品だ。
ふっくらとした焼きたてのパンは、大地の結晶と呼んでも憚られない芳醇な穀類の
ほんの少し押すと指が埋もれてしまうほど柔らかい。なのに表面はサクッと嬉しい歯ごたえで、中はもちもちと優しい舌触りときた。もはや魔法の領域だろう。
香草と塩で味付けされた肉は、風味からして家畜ではなく野獣だろうか?
しかし獣特有の臭さは無く、余分な脂を落とされてサッパリと仕上がっている。かと思えば、噛めば噛むほどガツンと訪れる濃厚な肉汁が、申し分ない満足感を与えるのだ。
ヴィクターは品の全てに瞠目し、舌を巻き、無我夢中になって楽しんだ。
断言できる。これほど食欲という本能を湧き上がらせる食事は、記憶を失う前でも味わったことが無いだろうと。
「ああ本当に美味い! まさかこんな夢みたいな食事を味わえるなんて感動だぜ! ……しかし凄いなシャロ。まだ昼前なのにその肉の量、食べきれるのか?」
「いつもコレなのよ、問題ないわ。
どこか得意気なシャロの前には、ヴィクターのモノとは違う種類の、極厚で大量の肉が山盛り積まれていた。
比喩ではなく、肉の山なのだ。見栄えもクソもない盛り盛りなステーキ山脈なのだ。
ヴィクターは体格のいい少年だ。引き絞られた肉体はさながら兵士のようで、衣服が盛り上がるほど発達した筋肉を持ちながら、ボディラインは細く無駄がない。
しかし剛健な肉体は燃費の悪さと同義である。それを見越してか、提供された食事はエマの倍だった。
そんな彼を遥かに上回る量を平らげながら、一切の苦を見せないシャーロットは驚くほど健啖家だろう。
その体の何処にこんな肉が消えていくのかと、イリュージョンでも鑑賞している気分だった。
けれど、ヴィクターは古傷に覆われた少女の手を見て納得を浮かべる。
(剣タコに細かな傷痕……姿勢も良い。泉で見た時も思ったが、相当鍛えてるみたいだ)
どうやらシャーロットは何かしらの鍛錬を積んでいる。
それも並の修練ではない。不可抗力で肌を目にしてしまった時もそうだったが、少女特有の柔らかさより、贅を削がれた逞しさが見受けられるのだ。
ならばこの量も当然の帰結か。そんなわけない。多分元から大食いなのだ。
そうこうしている内に、テーブルに広げられていた皿の数々が綺麗さっぱりになっていって。
「はぁ~腹いっぱいだ、ごちそうさま! 本当にありがとう、命を救ってもらったばかりか風呂に服に食事まで。……なぁ、何か俺に出来ることはないか? 何でも言ってくれ。少しでも恩に報いさせて欲しいんだ」
「気にしないでいいってば。あたりまえのことをしただけだから」
「お姉様の言う通り。世の中助け合ってなんぼですよ!」
「それだと俺の気が収まらねえよ! 頼む!」
「うーん……そうねぇ……」
シャーロットは腕を組んで目をつむり、考え込むように天井を仰ぐ。
一拍。少女は「そうだ」と手を叩いて、
「じゃあヴィクター、あなたここに住みなさい」
「……ん? 住む?」
「そそ。記憶が無くて行く当てもないんじゃ、この先どうしようもないでしょ? 数日したら記憶が戻るかもしれないし。それに泉から突然現れた以上、あなたとこの地には何か関係があるはず。だから留まってた方が良いと思うのよね。あ、もちろん住んでる間は働いてもらうわよ? この広い館に二人暮らしだから、ちょうど人手が欲しかったところなのよね」
「なるほど、確かにそうだな。おし、任せてくれ! 何でもやるぞ!」
「決まりね。じゃ、まずは食器洗いからやってもらおうかしら。エマ、炊事場まで案内してあげて。私が洗濯もの片付けてくるから」
「はーい。ではヴィクターさん、わたしについてきてくださいねー」
──かくして記憶を喪った無銘の少年と、森の奥深くに住まう不思議な少女たちの生活が始まった。