「ぐぁッ!?」
焼けた鉄槍で引き裂かれたような激痛がヴィクターの背を駆け抜けた。
歯を食いしばり、即座に振り返って渾身のブローを叩き込む。
砂袋が破裂したが如き轟音。めり込む拳。貫かれんばかりの衝撃に飛ぶ影人間。
だが次の瞬間、吹っ飛ばした影人間の背後から別の爪が入れ違いに飛んできて、ヴィクターの腹へ生々しい異音を奏でながら突き刺さった。
「があ"ッッ!? づッ、ぐッォォおおおおあああッ!!」
肉を掻き分け内臓を破かんと、凄まじい力で押し込まれる爪を全力で食い止める。
顎に掌底を穿ち、怯んだ隙に脱出。豪速のラッシュを見舞い影人間を霧散させた。
直後、眼前を爪が掠め去った。
間一髪で事なきを得たものの、体勢を崩し仰向けに倒れてしまう。
影人間たちが追い打ちをかける。矢継ぎ早に次々と放たれる無機質な殺意の槍を、転がり続けて避けていく。
背が木に当たる。行き止まりを悟ったヴィクターは両足の力でバネのように跳ね上がると、ボイラーツリーを盾に追撃を避け、攻勢に転じず脱兎の如く走り去った。
(ド畜生が! 一体一体はそんなに脅威じゃないが幾らなんでも多すぎる! ひとまず距離を取らねえと……!!)
カースカンが招来した影人間を撃退したのも束の間。再び十の敵数を増やされ、どうにかそれを退ければ間髪入れずまたも続投されるという地獄のイタチごっこの果てに、ヴィクターはじわじわと追い詰められつつあった。
負傷。出血。疲労。
人間である以上、蓄積し続けるダメージから逃れることは出来ない。
酸素不足に喘ぐ肺臓からは常にエマージェンシーが鳴り響き、乳酸に溢れかえった全身の筋肉が悲鳴を上げる。
足が棒のように凝り固まって精密性を欠き、バランスを崩す場面が増えた。
上着は泉にでも飛び込んだかのように汗を吸い、絞ればとめどなく溢れてくる始末。
失血と発汗のせいで脱水が加速し、脳機能の低下による判断力の欠如まで現れ始めている。
初めは一対一の状況を作れていた影人間の包囲網を崩せなくなってきた。
敵の攻撃を捌き避けるのに手一杯で、反撃する余裕がまるでない。
(このままじゃジリ貧にされて負ける! 少しでもいいから休まねぇと……!!)
足に鞭を叩く。限界だと訴える心肺に喝を入れ、力の限り腕を振るう。
森の中をジグザグに走り抜けていく。目的地は問わない。とにかく身を隠せる場所であればどこでもいい。
しかしこの森は異常空間に支配されている。
あまり距離を稼ぎすぎると座標を引き戻され、折角突き放した影人間と鉢合わせする危険があった。
(だが周りにゃどこにも隠れられる場所が──いや待て、あるぞ。上だ!)
立ち止まり、天蓋を見る。
森の頭上は、茂る枝葉で空を塞ぐ紅の樹冠だ。登って身を隠すにはうってつけの隠れ家だろう。
最後の力を振り絞って木を登る。
幸い冷却期間にあるボイラーツリーに火傷を負わされるような熱は無く、ヤドリギの仲間か、幹に絡まった頑強なツルがロープ代わりになってくれた。
出来る限り高く、早く、易々と発見されない位置にまで登っていく。
「はぁっ、はぁっ、ふー……ちょい、休憩」
太い枝と幹の椅子に凭れかかり、脱力。
下を見るも影人間の姿は無い。完全にヴィクターを見失ったらしい。
「痛ッ……結構深くやられちまったな……」
ぬるりとした背の感触に顔をしかめ、指を這わせれば手のひらが真っ赤に染まってしまった。
背だけではない。腹にも穴が開いている。グリグリと爪を押し込まれたのが響いたか、シャツを捲ると凄惨な傷口が露わになった。
幸運なことに内臓や骨には達していない。致命傷ではない。
だがズキズキと身を苛ませる強烈な痛みが悩みのタネだ。
アドレナリンが品切れしたらしい。脇腹や腕、足に頬など、植えられた裂傷たちの自己主張が段々と強まっている。
シャーロットと違い、ヴィクターは高い治癒力など持ち合わせていない普通の人間だ。
念のためポーチから水薬を取って飲み干してみたものの、効果は止血程度の応急処置に留まっている。傷は開いたままだ。
無論、飲まないより遥かにマシだが。
(不味いな。あまりにも分が悪い)
水分を補給し、呼吸を整え、疲労が抜け始めると、すぐさま現実という獣が牙を剥いて威嚇してくる。
これまで不利極まる戦況でもどうにか打開策を模索し続けてきた。しかし今回ばかりは話が違う。
そもそも戦いの土台にすら立てていない。一方的に嬲られているだけだ。
相手は損耗を知らない無限の兵団。対するヴィクターの勝利条件は大将首。
なのにこちらは攻め手のひとつも無いときている。このまま防戦一方では、敗北を招くは
(カースカンの言葉通り、あの影人間は倒しても倒してもキリがねえ。まともに相手すれば物量で押し切られちまう。どうにかしてカースカンをぶっ飛ばさねえと埒が明かねぇが、奴の居場所は霧の中。龍颯爆裂拳の射程距離にすら近づける手立てがねえときた)
最悪過ぎる状況に笑いが出てくる。
せめてシャーロットのように魔法が使えさえすれば何か作戦を練られたかもしれないが、そんなのは捕らぬ狸の皮算用だ。
(近づけさえすりゃこっちのモンだが、カースカンの野郎は絶対に俺の前に姿を晒すような真似はしねえ。きっと挑発も通じない。いっそ森を走り回って探し出すか? いや駄目だな、アイツは俺を常に監視してんだ。探し出そうとアクションを起こせばすぐ場所を変える。
理屈は不明だが、黄昏の森は何らかの方法により空間を隔絶されている。
今の森を鳥籠に例えるとすれば、カースカンはその持ち主だ。籠の外に居る可能性だって十分に考えられるだろう。
(もしそうならいよいよ打つ手が無いってのに、認めたくないがその可能性は高いときた。アイツは外から籠の中を俯瞰するように全体を把握出来てるんだろう。じゃなきゃ、常に俺の位置を把握して影人間を正確に出現させられるわけがねえ)
初めは木の上にでも隠れているかと思ったが、この鬱蒼とした茂り具合だ。身を隠せても地上の様子を伺うことは難しい。
それに落ち葉の投影体で見たカースカンは、野山へ足を踏み入れるというにはあまりに相応しくない洒落た礼服で身を包んでいた。カムフラージュの意図などまるで感じられないのだ。
認識阻害を使っている線も薄い。
ヴィクター自身にも理由は分からないが、そういった隠蔽の魔法は看破出来るのである。かつてエマが施した本のページや、隠し通路を見抜いた時のように。
(つーことはやっぱ空間の外にいる可能性が高いか。どっかの高台に腰かけてのんびり絵でも描きながら、俺たちの様子をほくそ笑んで見てるんだろう。…………いや、ちょっと待て。
気付く。
ひとつの取っ掛かりを。分厚い障壁を吹き飛ばす可能性を秘めた、小さな爆弾の香りを。
(そうだ。カースカンは俺をずっと見てるんだ。探知魔法とかで位置を把握してるんじゃない。肉眼で見てるんだ。じゃなきゃ俺が休めてるわけがない)
追い詰めたヴィクターをカースカンが見逃す理由は無い。仮にわざと放置しているにしては時間が長すぎる。
とっくの昔に影人間は送り込まれてきているはずなのだ。なのに一切のアクションが無い。
カースカンはヴィクターを本当に見失っている。そうでなければありえない。
(つまり死角があるってことだ。カースカンの監視には穴がある)
条件は不明だ。木の上に隠れたのが功を奏したのか、それとも運よく視野角から逃れたのか。
何でもいい。死角が存在するのだという事実さえ分かれば問題ない。
(よーし、ピンと来たぞ。早速実践してみるか。へへ、暗雲に光が差し込んできた気分だぜ)
監視網に潜む穴の条件は探し出せる。
探し出せさえすれば、この絶望的な状況をひっくり返す切っ掛けを掴み取ることが出来るかもしれない。
(問題はマジのマジで賭けになるってとこだな。
ポケットに手を突っ込み、小さな紙切れを五つ取り出す。シャーロットから譲り受けた護身用の魔法符である。
うち三つは炎魔法を封入したもので、ひとつは隠蔽魔法、もうひとつは防護魔法が刻印されたものだった。
(……この勝負、相手の思考を読み負けた奴が土を舐めるぞ)
手札を握り締め、ヴィクターは木から身を投げた。
◆
「ふむ。動きが変わったね」
黄昏の森を抜けた先。辰星火山の麓に、豊かな森林地帯を一望できる切り立った崖があった。
雄大な紅葉の絨毯と澄み渡る青空が織り成す二色の絶景。
椅子に腰かけながら景色を眺めるテンガロンハットの男は、キャンバスに走らせていた絵筆を止めながら声を零した。
「影の撃退から移動を中心に舵を切っている……何か考えがあるらしい。作戦でも思いついたかな?」
カースカンの前には画架が二つ並んでいた。
ひとつは現在進行形で絵具を塗りつけている絵画の蛹。もうひとつはキャンバスと言うにはあまりに巨大な、奥行きのある樹海と森を輪切りにした断面図を隅々まで描き切った大作である。
大岩に立てかけなければまともに立てることすら叶わない大絵画には、深海色の髪をした少女と醜い化け物が戦う姿、そして森の中で影人間に追われる一人の男が描かれていた。
見事な芸術だった。森ひとつの断面図をキャンバスに収めると言う、前代未聞の圧倒的なスケールもさながら、これほどの規模であってもまるで手を抜かれていない、思わず感嘆が漏れ出すほど繊細で優雅な筆致。
まるで命を吹き込まれたかのような躍動感と、書き手の魂が宿った呑み込まれるほどの表現技法。
美に聡くない者であっても心奪われずにはいられない、色彩と造形の晴れ舞台がそこにあった。
「しかし残念だ少年。君がどんな策を講じようとも、我が『
カースカンの左手に煌々と輝く紋様があった。選ばれし者のみが宿す先天たる魔の則があった。
深緑色の波濤を放つは血管や神経組織で形成された天然の異能。星の刻印である。
「私の能力はこの手で描いた対象を絵の中に閉じ込めることさ。一度描けさえすれば、森をまるごと封じるなんて真似も出来るんだよ。まぁちゃんと描かないといけないから、これだけの規模を絵に綴じるとなると時間がかかっちゃうのが欠点だがね」
だから先回りして黄昏の森で待ってたのさ──誰に語るでもなく、いいや、聞こえていないことを前提でヴィクターに語りかけるカースカンの声は、実に穏やかな波模様だった。
カースカンが宿す『絵儡の刻印』には、大きく分けて二つの能力が存在する。
ひとつは描いた対象を絵の中に閉じ込めること。
もうひとつは、新しく描きこむことによって絵の世界に干渉すること。
例えば、自らの意思を乗せた登場人物を送り込んだり。
影人間がそれだ。あれはカースカンが『鋭利な爪で人を襲う影の異形』と設定して投入した怪物である。
絵の中の登場人物を直接攻撃したり、紙を破くなどして存在を抹消するといった真似は出来ないが、絵画に閉じ込められた世界は完全にカースカンの支配下へと置かれるのだ。
「使い勝手は悪いけど気に入ってるんだ。封印さえすれば私の許可なく脱出することは絶対に不可能。綴じた空間は外から見ても異常に映らないし、絵の中で起こった出来事は生き物の生死以外反映されない。暗殺にはもってこいだろう?」
面倒な発動条件と制約が多い点を除けば、カースカンはこの能力に無類の信頼を置いていた。
発動さえすれば無敵とさえ思っている。絵の中の人物はカースカンに手も足も出ず、仮にカースカンの刺客を退け続けたとしても、結局は飢えと渇きでいずれ死ぬ。
脱出の手は無い。例え世界最高戦力と名高い三聖だろうと、捕らえさえすれば攻略不可能だという自負があった。
「ただの影を殴り飛ばしたその腕には面食らったがね。話に聞く『純黒の王』の腕とやら、私の持つ知識の遥か先まで届くようだ……が、たった画布一枚隔てた私に届かないとは、何とも皮肉でならないよ」
仕上げ前の作品から筆を離し、油絵具が少し乾くまでのしばし。森の中を逃げ惑うヴィクターの絵を見やる。
時折木の影に隠れられたり、どこかの木に登ったのか、姿を見失ってしまうタイミングがあった。
刻印の力は強力だが万能ではない。巨大な森を絵の中に閉じ込めるため、遠近法の関係で人間の尺度は非常に小さくなっている。
そのせいもあって、ちょこまかと凄まじいスピードで動き回りながら背景に隠れてしまうヴィクターは、常に注視しなければどこに行ったか分からなくなってしまう。
巨大なカプディタスが常に張り付いているシャーロットと違い、目印が無い分、影人間を送りたくとも筆が止まる空白が生まれる。
「ネズミのように粘るね。だが隠れても無駄さ。君がどこで何をしようと絵の世界からは逃げられない。折れるまで根競べといこうじゃないか。時間はたっぷりある」
描きかけの絵に再び意識を向けながら、ヴィクターが見えるようになるまで静かに待つ。
姿を現したらすかさず影人間を描いてぶつける。ただそれの繰り返し。
獲物を刻印に絡めとった今、カースカンの心境は穏やかだった。
彼が抵抗する力も尽きて、這い蹲って命を請いながら切り刻まれるその時まで、いつまでもいつまでも待ち続ければいいのだから。
そうしてカースカンは数多の屍を描いてきた。
暗殺は天職だった。趣味を満たせて資金まで得られる。これほど道楽的な商売は無い。
「何だかんだ言って、一番楽しいのはこの待ってる時間かもしれないね。例えるなら、そう、料理に似ている。大きなお肉をじっくりオーブンで焼いている時、漂う香りに食欲を擽られながら、出来上がりの味を想像して唾が出るだろう? まさにあれだよ」
うっとりと、恍惚に、忘我に。まるで自分へ「だから我慢の時なんだよ」と言い聞かせるように唇を動かし続ける。
口の端から銀の糸が滴って、顎先から零れそうになった粘液をハンカチで拭った。
「さあ描けたぞ、私に怒りを滲ませて今にも食ってかからんばかりの君の姿を。義気の炎に燃える若き青年の勇気と気高さ……うん、我ながらよく表現できたと思うね」
画架からキャンバスを持ち上げ、満足そうに頷いて脇に置く。
真っ新な画布と交換したカースカンは、手持ちの道具でパレットと筆を一度洗った。
「あとは君の最期をこの純白に綴じれば、私の美がまたひとつ完成となる。帰りに少女の心臓を回収して仕事は終わりだ。出来ることなら彼女の絵もちゃんと描きたかったが……生憎私の手は二つしかないし、
空間拡張バッグからコンロを取り出し、火属性の魔石に魔力を流して着火する。
ヤカンに水筒の水を注いで湯沸かし。最中、煎った豆の粉末を円錐形の紙パックに詰めながら沸騰を待った。
湧いた湯をパックへ潜らせてカップに注ぐ。
香り立ち昇る珈琲にゆっくりと口付けて、湯気と共に吐息を溶く。
「……ん? おやおや?」
前かがみの姿勢。カースカンは食い入るようにヴィクターの絵を凝視した。
疲労が限界に達したか、気力が尽きたか、それとも些細な判断ミスが招いたのか。
理由は分からないが、善戦を繰り広げていたヴィクターが影人間に袋叩きにあっていた。
血飛沫が舞っている。銀色模様の芝生を鮮血が彩り、親指程度の縮尺具合でもはっきりと分かるほど苦悶の表情に染まっていた。
対集団戦において、一度悪化した戦況を単独で覆すことは至難を極める。
森一帯を纏めて消し飛ばすような人智を越えた力でも持っていれば話は別だが、ヴィクターにはそれがない。
這いずり回りながら弱々しく抵抗しているが、無駄だ。
切り裂かれ、踏み躙られ、叩きつけられ、屈強な男がボロ雑巾のように蹂躙されている。
思わずカースカンの手に力が入った。
まるで佳境に入ったスポーツ観戦に熱の籠った檄を飛ばすように、「いけ、いけ、そこだ」と拳を振って影人間を応援している。
しかし手負いの獣はなんとやら。常人ならばもはや立つことすら叶わない負傷の中で、ヴィクターは影人間を消滅させてしまう。
「おお、おおおおお、素晴らしい。これほど追い詰められながら何という生への執念。燃え盛る意志の光が強く輝けばこそ、尽きた時の暗澹もまた深みを増し幻想的な闇の美を演ずるというもの。天晴だ少年、君は逸材だよ。──んん? ほう! 少女も頑張っているじゃあないか」
シャーロットの様子を伺えば、こちらも随分と白熱した展開になっていた。
呪詛を喰らって悶え苦しみながらも岩陰へ逃れ、癒着したカプディタスの肉芽を削ぎ落し、辛苦の津波にのたうっている。
痛みと恐怖に体が強張り、岩陰から動けなくなってしまった少女の姿に、カースカンは脊髄から電流が流れるような悦楽に身を抱かれた。
「嗚呼、至福よ。これぞ我が人生よ。実に実に実に素晴らしい。あああ、今すぐにでも君のもとに跳んでスケッチがしたい。それを許されないことが歯痒くて気が狂いそうだ。君がアーヴェントでさえなければ、
カースカンはエマと旧知の関係にある。ただし別に仲間でもなければ同僚でもなく、ましてや友人だとか肉親の縁があるわけでもない。
ただシンプルに、命を失うことが多い裏稼業に浸かった身でありながら、長年生き残ってきたカースカンは、同じ世界に身を置くエマと情報や依頼を交える機会が多かっただけだ。
今回の依頼を受けるにあたり、カースカンはシャーロットやヴィクターに関する概ねの情報を受け取っていた。
ヴィクターのプロフィールはほとんど謎だらけだったものの、シャーロットについては詳細なデータがあった。
最も目を惹いたのが、魔剣ダランディーバに関する情報だ。
「少年の腕と違って、
流動する絵の戦況に眉をひそめる。
心折れたように項垂れていた少女が再び立ちあがり、カプディタスへ勇猛果敢に魔剣を突き付けていたからだ。
少女の逆襲が始まった。
数多の魔法を駆使し、縦横無尽に森を舞って強大な魔物を相手取る血濡れの少女。
一際強烈なオレンジの光明が瞬いたかと思えば、カプディタスがあっと言う間に業火へ呑み込まれて。
次の瞬間、純黒の極大魔法が魔物を森ごと葬り去ってしまった。
沈黙、数泊。
「……参ったな、カプディタスに勝つか。森中のコロポックルを食わせて太らせていたんだが……流石はアーヴェント。魔滅の騎士の末裔といったところかな」
目を細めて頬を掻く。
焦りは無い。が、少しばかり急を要する事態になったなと吐息。
「幸い二人とも満身創痍。少年はもう一歩も動けない。優先すべきは厄介なアーヴェントのほうだ。影を送ってとどめを……いや、ダメだな。この少女はまだ空間の異変に気付いていない。魔法や刻印の知識に明るい彼女なら、影を送れば私の存在と刻印のタネを察するだろう。それは駄目だ。今の優位性を自ら手放すことになってしまう」
エマの情報が正しければ、カースカンはシャーロットと非常に相性が悪い。
理論上、絶対の自信を持つ『絵儡の刻印』を破られる可能性を秘めた唯一の人間である。
出来るだけ存在を露見させず、能力の片鱗も悟らせたくないのだ。
だからこそ、直接顔を見せたのはヴィクター独りの時だけだった
しかしどちらにせよ、勘付かれるのは時間の問題ではある。
重要なのはタイミングだ。カプディタスの核にとどめを刺したら、シャーロットはまずヴィクターの援護に向かうだろう。
救護されればせっかく瀕死に追い込んだヴィクターが復活してしまう。
おまけに異空間の絡繰りに気付かれてしまえば、カースカンは二人同時に相手取らなくてはならなくなる。
「手負いとはいえ、二対一は避けたいな。特にアーヴェントはまずい。カプディタスを葬った実力者に油断は禁物だ。であれば、まずは少年を始末して確実なる安全を得るとしようか」
筆とパレットを手に取って、最後の影人間を仕向けんとヴィクターの絵に目を滑らせた。
だが、彼の姿はどこにもなく。
「……隠れた? ああ、なるほど。
取った筆とパレットを傍らへ戻しながら、カースカンは口髭を摘まんで形を整えた。
絵に近づいて手を伸ばす。
指が触れないよう少しだけ浮かせて、ヴィクターの痕跡らしき、森の奥へと続く血塗られた銀の草原をなぞっていく。
「影が現れるタイミングの違いで私の死角に気付いたか。フフ、鋭いな。若いと頭が柔らかくて羨ましいよ。私は独り言を喋り続けないと脳ミソが回らないというのに」
命からがら逃げ延びている──だけとは考えない。楽観的思考はしない。
影を撃退し続けていたヴィクターの立ち回りが、途中から明らかに変わったのを見ていたからだ。
間違いない。あれは死角を探っていた。
影人間を倒しながら、どの木の陰に隠れれば追加で現れないのか。それを確かめつつ監視網の穴を計っていたのだろう。
聞けば、ヴィクターという男は義気に猛る熱血漢染みた性格とは裏腹に極めて冷静な男であり、異常なまでの闘争心と精神力を秘めた人物だという。
瀕死の重傷を負ってなおエマの喉笛へ喰らいつき、エマから勝ち星を捥ぎ取った経緯は本人から耳にしていた。
息の根を止めたと確認するその時まで、ヴィクターは反撃の機会を伺っていると考えておいて損は無い。
であればわざわざ死角を探り、身を潜めた理由はひとつしかない。
「狙っているね。感じるよ、君の思考の息遣いを。私が直接絵の中に入ってくる瞬間を待っているんだろう? フフフ」
──思考を巡らす。
「君は……そう、信じているんだ。
慌てず、ゆっくりと。ボードゲームの駒をひとつひとつ、頭の中で詰めていくように。
「そうか……君ときたら、わざと袋叩きにあったね? 変だと思ったんだ。あれほどの影を退けてきた君が、いきなり滅多打ちにされ始めたんだから。初めは体力の限界が来たんだろうと思ったが、なるほど。私の注目を少女へ向けないようにするためか。ッフフフ、まったく随分と体を張る。いじらしいじゃあないか」
皺の刻まれた頬が吊り上がる。
夜に腰かける三日月のように、満面と引き裂かれていく。
「どれほど重傷を負ったように見せかけても、隠れれば君の生死は不明瞭なままだ。だから慎重な私は直接確認せねばならなくなる。……ひとつ分からないな。隠れ潜んだ君を探し出せる刺客を放たれるとは思わなかったのか? あの魔物のように──」
言いかけて、閃く。
「……ああ、何度隠れても死角に追撃が来なかったところから、私の干渉に限界があることを見抜いたんだね。落ち葉に姿を投影して遠隔操作できるのに、わざわざ影に襲わせていたところも理解に拍車をかけてしまったな。私の失態だ、これは」
星の刻印は強力無比な異能力だ。しかし完全無欠ではない。
如何なる力であろうとも、長所と短所は表裏一体として存在する。
『絵儡の刻印』の場合、封じ込める規模と反比例して干渉能力が弱まるのだ。
少しばかりの範囲を封じるだけだったなら、ヴィクターを地の果てまで追跡する猟犬や森ごと粉砕するような巨人型の怪物も放てていただろう。
しかし今回はカプディタスがいる。封印にリソースを割かなければならない理由がある。
魔物という禁忌を扱う上で最も重要なのは逃がさないことだ。
もし魔物の使用など露見しようものなら、騎士団に首を狙われるのはカースカンである。
そうなれば本末転倒だ。制御術式で多少のコントロールが利くとはいえ、万が一でも逸走を避けるために、広範囲の森を絵に閉じ込めねばならなかった。
「その通りだ少年。今の私にこれ以上絵の外から干渉する力はない。隠れた君を迅速に始末するには、直接絵の中に入らなくてはならない」
つぷ、と。
絵画を水面とするように、カースカンの指先が絵の中に入り込んで。
「だが勘違いするな少年よ。これは君の思惑通りに動いているわけではない。アーヴェントの姫君に急を要され、干渉能力へ枷を嵌められたがゆえに同じ土俵へ立つのではない。どのみち私はこうしていたさ。これはプライドの問題なんだ。私は必ず、獲物の死を自分の目で見届けると決めているのでね。……最も新鮮で、星屑のように刹那を瞬く、美の輝きを焼きつけるためには、多少の危険も已む無しだよ」
カースカンは、そのまま身を落とすように絵の世界へと侵入した。
◆
現世とまるで変わらぬ原風景。
しかし命の息吹を肌に感じない静寂の渦中は、ボイラーツリーのジリジリとした熱波を忘れそうなほどの寒冷を孕んでいる。
銀毛の草原に男は立った。
空を仰ぎ、鬱蒼とした天蓋を眺め、深く息を吸って、森の清涼を肺に取り込みながら視線を落とす。
樹海の深奥へ点々と続く赤の篆刻。
カースカンは葉に付着した血痕へ指を這わせ、乾燥した血糊を
「かなりの出血だね。君の身長とおおよその体重から考えて……満足に体を動かせる負傷具合でないのは確実だな」
指の腹に残った血の残り粕を舐めとると、カースカンは杖を突きながらゆっくり痕跡を辿っていく。
奥へ、奥へと進む。血痕は途絶えることなく連続しており、深手を負っているという事実が色濃くなっていくのを実感した。
やがて、大木に凭れかかった人影が、薄暗い森の中で映えてくる。
「やぁ、少年」
不気味なほど気さくにカースカンは声を投げた。ついでに軽く手も振ってみる。
返答もリアクションもない。全身を血と泥に染め上げられたヴィクターは、力尽きたように項垂れて浅い呼吸を繰り返している。
しかしその両目だけは、常にカースカンを中心へと据えていた。
「随分と派手にやられたね。息も絶え絶えとはまさにこのこと」
「カー……ス……カン……」
「だが感動したよ。君の闘志は未だ衰えていないらしい」
ピクッ、と。力なく落ちていたヴィクターの手がほんの少し動いたのをカースカンは見逃さなかった。
流れるような所作で懐から物体を投擲する。それは寸分の狂いもなく一直線にヴィクターの右胸目掛けて突き刺さり、苦痛の喘ぎと共に血潮を吹き出させた。
ナイフだ。研ぎ澄まされた銀刃が、ヴィクターの胸に食い込んでいた。
「む? 心臓を外したか。はぁ……私も年だね。パワー不足で内臓まで届かないとは、寄る年波には敵わないなぁ」
「げふっ、ご、ぼっ……!」
「さておき、何を企んでいるかは知らないが近づかないし生かさないよ。
「──!」
「君はここで死ぬんだ。絶対にね」
カースカンがスケッチブックと筆を取り出し、パラパラと適当な白紙を選んでいく。
絵画の世界に飛び込んだ今、干渉能力の枷から解放されたカースカンに生み出せないものは何もない。
刻印の力で産み落とされる『生きたキャラクター』は、カースカンの設定に従うままヴィクターの命を食い殺すだろう。
手始めに首を食い千切るほど屈強な猛犬を──と、筆を走らせたカースカンは、全体像のラフを描き上げたところで手を止めた。
「…………」
見回す。
その場からは動かず、首だけを回して辺りを見る。
一点。傍の木の樹皮が、ほんの少しだけ浮いていることに気がついた。
杖で捲れば、明らかに自然のモノではない術符が巧妙に仕込まれていて。
「ふむ。対魔獣用トラップを改造したものか。近くで魔法を使うと発動するタイプだね。術式からして炎魔法かな?」
「ッ……!!」
「フフ。よく見たらあちこちの木に傷がついているじゃあないか。ボイラーツリーの樹液は強力な燃料だから、もし私が魔法を使おうものなら一瞬で火だるまになっていたワケだ。やはり君自身が釣り餌だったな」
瞬間。ヴィクターが飛び掛かるよりも早く、ほくそ笑む芸術家は奪い取った術符に魔力を込めた。
火炎が芽吹く。強制発動された術符から劫火の大蛇が唸りを上げて解き放たれ、あっと言う間にヴィクターを丸呑みにした。
「がッッあああああああああああああああああああッ!? うォォああああああああああああッ!?」
「礼を言うよ少年。おかげで余計な絵を描く手間が省けた。代わりに君の最期を、じっくりと描くことが出来そうだ」
紅蓮に包まれ、ヴィクターは森を転がり回る。
だが火の勢いは凄まじく、まるで衰えることはない。
絶叫が樹々の間を走り去った。灼熱に身を食い潰されゆく想像を絶するほどの激痛に、抵抗も許されず悲鳴を上げる。
火は消えない。手立てはない。
足掻けど藻掻けど、万事休すは覆らず。
灼熱に身を食い潰されたヴィクターは、炎に抱かれながら倒れ伏した。
「……嗚呼、なんと美しい。眩い正義を胸に抱く善良な少年が、念願果たせず無念の灰と散ってしまった」
バチバチと。バチバチと。火花散る。
男の体を薪にして、炎熱が勇ましく燃え上がる。
「おおおお、リビドーが込み上がってくるぞ。これぞ至福の極みよ。止まらぬ筆が白亜の紙面へ美を刻みゆくこの瞬間が、私に生の潤いを与えてくれる」
忙しなく走り続ける男の手。
筆先が紙を疾駆する響音だけが、森の中で許されるただひとつの奏楽となった。
「聞くに焼死とは、そのほとんどが大量の煙を吸い込んだことによる窒息が直接的な原因らしい。しかし君は全身を丸焼きにされて息絶えた。体が燃えていく苦痛は想像を絶するというが、少年はどんな表情で死出の旅に出たのかな? きちんと顔を見せておくれ」
ヴィクターの死に顔を拝もうと、腰をかがめながら闊歩して。
「────?」
須臾。カースカンは困惑に目を細める。
乾いた小枝が圧し折れたような感触がブーツから伝わって来たかと思えば、
「な、何ッ!?」
理解不能が絶叫となって雷鳴のように轟いた。
手に持っていたはずの杖が
右足首。重力に反逆し、カースカンを縛り上げた逆賊の正体がそこにあった。
ツルだ。木のツルだった。親指ほどの太さながら頑丈で、大の男一人を宙吊りにしても何ら苦を見せない天然のロープが、カースカンの自由を奪い去っていたのである。
(なんだこれは、いつの間に絡みついた!? ……まさかあの小枝を踏んだ感触、獣用のくくり罠か!?)
構造は至極単純。よくしなる柔軟な枝へロープを巻き付け、それを地面に突き立てた杭と結び、起爆用の枝を組み合わせることで完成する狩猟目的のトラップである。
枝を踏み抜くと仕掛けられたロープに足を絡め取られ、バネの如く跳ね上がる支柱の力で吊るされてしまうというものだった。
(馬鹿な、こんな初歩的な小細工を見抜けないはずがない! 何故気付かなかったんだ!?)
未曽有が理解を飛び越えた。思考回路が混乱というバグに冒される錯覚があった。
樹皮の裏に隠された術符を看破するほどの洞察力を持つカースカンが、獣しか引っ掛かる余地のないアナログな仕掛けに翻弄された事実を、まともに直視できなかったのだ。
けれど。
その答えは、己の足首に燦然と輝いていて。
「認識阻害の術符、だと!?」
貼り付けた物体の存在解像度を低下させ、路傍に転がる石ころのように意識の外へ追い出させる初歩的な隠蔽魔法。
罠が発動したために効力を失った紙切れが、森を彩るどんな紅葉よりも色濃く瞳に映り込んだ。
途端にカースカンの混乱が加速した。
この魔法は、あくまで
観察眼に優れた者であれば肉眼でも見抜くことは容易い。
ましてや弓状にしなる枝に括り付けられたロープが地面を這っていれば、赤子だろうと嫌でも目に付く。見逃す道理はどこにもない。
それこそ、罠より遥かに存在感を放つものが注意を惹かなければなんの意味も、
「……………………………罠より存在感を放つ?」
気付く。
気付かされる。
「君は、まさか、冗談だろう?」
銀の草原に点々と残された、居場所を伝える血痕の道しるべ。
行きつく先に力なく項垂れる、血と泥まみれの満身創痍の男。
樹皮の裏に隠された、逆転を匂わせる炎魔法の術符。
それを逆手に炎を浴びせられた少年は、もがき苦しみながらこと切れた。
「ミスディレクションだったとでも言うつもりか……!? 自分が燃やされることさえも含めてッ!?」
──ザリ、と。
強く、強く、草地を踏みしめる軍靴の音色。
幽鬼のようにゆらりと立つ、燃え尽きたはずの男の影。
その瞳は。漆黒の瞳は。
ただ一心に、吊られた男をじっと見つめていた。
「馬鹿な、あれだけの炎を浴びて生きていられるはずがッ!?」
「……ああそうさ。丸ごと暖炉にぶっこまれた気分だったよ。お陰でお気に入りの一張羅が真っ黒焦げだぜ。ったく、全身ヒリヒリしてたまったもんじゃねえ。こいつが無けりゃとっくにあの世行きだった」
襤褸と化した上着をヴィクターはおもむろに脱ぎ捨てた。
服の下からハラハラと舞い落ちる、きめ細やかな銀灰色のナニカ。
「俺が一番怖かったのはな、カースカン。燃やされることじゃねえ。影人間から滅多刺しにされることでもねえ。シャロが魔物に負けてしまうか、お前が俺を無視してシャロを狙いに行くか。ただそれだけが怖かった」
葉だ。植物の葉を纏めた束だった。
それは黄昏の森に自生する固有の植物群。
辺り一面に繁茂する、耐燃焼能力に優れた天然の防火剤である。
ヴィクターは無数の下草を服へ詰め込み、守れない頭部を濡れた泥の被膜でカバーすることで、業炎を絶え凌いだのだ。
「ダランディーバなら──いいや、シャロならこの意味不明な空間を抜け出せる可能性は十分にあるからな。お前が俺に近づこうとしなくても、シャロと合流しさえすれば勝ち目は十二分だった。最悪なのはお前がシャロを殺して、俺をボイラーツリーの蒸気で蒸し焼きにする戦法をとることだ。それをされちゃあ、マジで打つ手が無かったんだよ」
「くッ!!」
「シャロが生きてるか! お前が俺と同じ空間に入ってくるか! ひとつでいい! ひとつ達成すればそれでいい! ああ信じてたぜ、シャロが魔物に勝ってくれることを!! テメエが必ず俺の死を見届けにくることを!! 賭けに勝ったのは俺だッ! 俺を選んだ時点でテメエの負けだッ!!」
咆哮一迅、紫電一閃。
羅刹と化した男が雄叫びを連れて肉迫する。
カースカンは吊られた衝撃で手放してしまった杖に向かって腕を伸ばした。
間一髪の瀬戸際でグリップに指先が引っ掛かる。
抜刀。それは杖状の仕込み刀。スラリと音を裂いて露わになった銀刃を、カースカンは己が足に絡みつくツルへ向けて全力で振る舞った。
「!?」
しかし。
まるで金属同士が激突したかのような高周波が耳奥へ突き刺さったかと思えば、ただの木のツル如きに曇りなく研がれた一刀を弾かれてしまう。
否。ただのツルではない。
この拘束具に薄く覆い被さるベールのような魔力の膜は、対象物の強度を飛躍的に底上げする強化魔法に他ならず。
「『
ギチッ、と。そよ風のように頬を掻く軋み音。
それは五指を圧する鉄拳の遠雷。捻られた腰に全体重を積載し、極限まで引き絞られゆく純黒の剛腕。
握り固められた憤怒の巌が、カースカンの視界を占領した。
「────刻印よ、私を外へ解放しろ」
だがしかし、悪辣なる芸術家は耐えようにも耐え切れんと唇を歪ませ、満面に喜色を蔓延らせた。
その拍子だった。ヴィクターの拳がカースカンの顔面を捉える寸前で、カースカンの背後から液体とも気体ともつかない不鮮明な膜が現れ、彼を連れ去ってしまったのだ。
「危なかったよ。まさかあそこまで体を張ってこの私を騙そうとするとは、中々にクレイジーな奴だ君は。正直に言うと、吊り上げられた時は流石に肝を冷やしたな」
ヴィクターは直感で理解した。
男の左手に輝くエマのものと酷似した紋章は間違いなく星の刻印で。それがこの異空間の元凶で。
光に呼応して現れた半透明の被膜のようなソレは、現実世界へカースカンを連れ戻すためにこじ開けられた、次元の裂け目のようなものなのだと。
「だがね少年、私はプロだ。ピンチに陥った時のために逃げ道を用意しておくのは定石なんだよ。君が私を追い詰める可能性を考えなかったとでも? 不測の事態に対応する術も何も無く、能天気にノコノコと君の土俵へ立ったとでも思ったのかい?」
裂け目は強化されたツルをまるで剃刀のように断ち切ると、カースカンへ自由を与えたばかりか、現実世界へ続くたった一つの通り道を、ヴィクターを置き去りにして収縮し始めてしまう。
「君の精神力は認めよう。しかし勝ったのは私だ。賭けなんかじゃあない。私の力が君の小細工を上回っていただけ────」
「おおおおおおおおおおああああああああああああああああァ──────―ッッ!!」
「────―!? なッ!?」
刹那。信じられない事態が巻き起こった。
裂け目が完全に閉じる、ほんの一秒足らずの直前だった。ヴィクターの腕が裂け目の間へ割り込むように次元の被膜を突き破って現れ、腹の底から震えるほどの筆舌に尽くしがたい破壊音を奏でながら、無理やり異空間をこじ開け始めたのだ。
「何をやっているんだ君はッ!? 素手で次元の断層をこじ開けるなど、馬鹿なッ!?」
「ぎ、づ、づ……!! 影人間をぶっ飛ばした時、お前言ってたよなぁ……!!
裂け目が開いていく。
無理やり引き裂かれゆく次元断層の凄絶な悲鳴と共に、穴が確実に広がっていく。
「俺ァ頭悪いからよーッ! 万物干渉だの独裁の権能だのいまいちピンと来なかったんだが、お前のお陰でようやく腕の力に合点がいったぜ! この腕は俺が触れたいモンに触れることが出来る腕なんだ! 空気でも、炎でも、影でも! 異空間の裂け目とやらでもぉぉッ!!」
「ッ!!」
カースカンは裂け目を閉じんと刻印の出力を爆発させた。
だが常軌を逸した膂力を前に相殺され、着実に脱出経路が育まれてしまう。
男の額に、初めて冷たい汗が流れ落ちた。
「言っただろ!? 俺と同じ空間に入った時点でッ!! テメエの敗けは決まってんだ!!」
「いいや違うね、未だ風が吹いているのは私の方さ」
もはや抑えきれないと判断した芸術家は、刻印の力を一息に解除した。
抵抗を失った裂け目は完全にこじ開けられ、ヴィクターを現実世界へ招待する。
カースカンは構わず後方へ跳びながら、大きく指を打ち鳴らした。
「我が勝利は揺るがない。何故なら君は善性なる心優しき人間だからだ」
魔法の信管を打ち抜く合図に呼応して、草叢が激しく揺れ動いた。
後ろへ後ろへと退避するカースカンへの行く手を塞ぐように現れたのは、額に奇怪な虫型のブローチのようなものを埋め込まれた
ヴィクターは龍颯爆裂拳を構えた腕を反射的に降ろし、思わず硬直してしまう。
「あぅ、ぅ」
「たすけて。誰か」
「ッ……!! カ―スカァァァンッッ!!」
意識はある。生きている。
しかし何らかの魔法で隷属されられているのか、体の自由を奪われていた。
万が一のために傍の茂みへ潜ませていたのだろう。だが
けれど。
「殴れないだろう? 君に宿る義の心はこのか弱い盾に危害を加えることを許さない。だから私を取り逃がすのさ」
ただカースカンを逃がすためだけに用意された、足止めとしての捨て駒だ。
操り人形のように走り出す
心臓が引き絞られるような胸騒ぎが、ヴィクターへと襲い掛かる。
「さぁ仕切り直しといこうか。君をまた絵に閉じ込めて、今度は徹底的に君が死ぬまで甚振り続けよう」
首元からネックレスを取り出し、握り締めて魔力を込める。
それは小型の
「ほらどうした。追いつきたいなら今しかないぞ。君のパワーで殴れば死んでしまうかもしれないが、コロポックルたちを倒せばまだ間に合うかもな。もっとも、君がやらずともその子たちは全員破裂して死ぬがね」
空間跳躍まで残り10秒。
魔力の瞬きが、時を追うごとに間隔を狭めていく。
「さらばだ少年。君は我が美の中で永遠に生き続けると約束しよう」
目から口にかけて影のように暗い冷笑が広がって、カースカンは飛んだ。
──テレポーターによる座標移動ではない。
顔が引き千切れんばかりの猛烈なインパクトが突き刺さり、恐るべき威力に蹂躙されるまま玩具のように吹っ飛んだのだ。
「ばッッ!!? あがはッッッ!?」
柔らかな地面を二度も跳ね返され、大木に衝突して勢いが止まる。
頭から爪先まで一瞬にして侵略した狂瀾怒濤の激痛が、声にならない悲鳴を絞った。
海老反りになってもんどり打つ。肺から漏れた喀血を噴き出すと、折られた前歯が草葉の上を転がった。
「ぐぁああああああッッ……!!? なん、なんだ、何がッ……!?」
立ち上がろうとして、力を入れた腕が滑り抜けて顔から大地に衝突した。
重機のような力で顎を砕かれていた。伝播した衝撃が脳を揺らし、平衡感覚を滅茶苦茶に破壊されている。
まともに立つことすら叶わない。生まれたての小鹿にも劣る脆弱さで、カースカンは何度も何度も大地と接吻を交えてしまう。
「ばはっ、ばかな、がぼっ、そんなはずはない、
ヴィクターは間違いなく善道を往く人間だ。
悪を許さず、非道を認めない、眩いばかりの義気を携えた人間だ。
ゆえに人質を無下には出来ない。助けを請う弱者を足蹴にすることなど不可能である。
そのはずだ。そのはずなのに。
ヴィクターは何の躊躇もなく纏わりついた
「お前のお陰だよ、カースカン。お前がこの腕の力を教えてくれなきゃ、危うく逃がしちまうところだった」
這いつくばるカースカンを見下ろすように仁王立ったヴィクターが、ナニカをカースカンの目の前に放り投げた。
粉々に粉砕された虫型のブローチの亡骸だった。
それは囚われた
「あぁ、あり、えん、ありえん!! そぉっ、ごぶっ、それは脳に直接干渉して自由を奪う魔道具だぞ……!? ごぉっ、ゴーレムのように精密に引き抜かなければっ、絶対に死は免れられない! あの一瞬で、出来るわけがないッ!!」
「そうだと思ったぜ。
「な、に?」
言っていることがまるで理解出来なかった。
カースカンの持つ常識のどれにも当てはまらない返答は、掻き混ぜられた脳漿へさらに混乱という渦潮をもたらして。
「俺の腕は触れたいものなら何だって触れることが出来る。それをお前が教えてくれた。だからちょいと考えたんだ。俺の意思で触れるものを決められるなら、触れたくないものは逆にすり抜けるんじゃねーかって……
「ッ……!!?」
「一か八かの賭けだったが大成功だ。コロポックルは誰一人傷ついちゃいねぇさ」
純黒の腕に宿す万物干渉の異能。
それは触れ得ざるものへ関わることを可能とするだけの能力ではない。
そも、黒魔力の本質は一方的な独裁の権能。思うが儘に自然法則に手を触れることを可能とするそれは、逆に拒絶をも自在である。
対象を正しく認識すれば、
「き、みは、この土壇場でっ、賭けに出たというのか……!? 一歩間違えればコロポックルの命を奪っていたかもしれないのに!! き、君が私に向けた義の炎は、あの熱は、輝きはッ! 間違いなく本物だったはずだ!! 何故躊躇もなく手を下せたんだッ!?」
「放っておいてもどの道コロポックルたちは死んでたんだろ。迷う理由がねえ」
その言葉には。
カースカンが描いてきた『ヴィクター』という人物像と、なにか、決定的なまでに食い違う異物感が。
「それによォーッ! お前をここで逃がしちまえば、シャロだけじゃない、この先もっと大勢の人間が苦しむことになる。尚更迷えねえに決まってんじゃねえか!」
清廉恪勤な人間だと思っていた。
弱気を助け、強きを挫く。不当を拒み、悪を憎む正義の男なのだと。
だからこそ優しさという名の甘えのために、逃れられぬ弱さも抱えた愚かで気高い男なのだと。
(私は……最初から見誤っていたのか……?)
ヴィクターは間違いなく義理人情に厚い人間だ。
人のために怒り、涙を流し、愛に報い、救われぬ者に手を差し伸べる、正しいと信じるもののために戦うことの出来る人間だ。
けれど、それだけではない。断じて。
それはヴィクターという人間の本質ではない。
「君は、君はっ」
カースカンは生まれながらの邪悪だ。他者への慈しみを母の胎に忘れてきた生粋の外道だ。
だからこそ、轟々と魂に燃え盛る勇猛な
炎の如き男に潜む、如何な酷熱の炎天であろうと溶けることすら叶わない、絶対零度の怪物を。
「君はっ、正義の味方などではない!!」
訣別の攻防が爆発した。
カースカンは仕込み刀へ雷撃を付与。迅雷と化した一閃を見舞うと同時に、鎌鼬の如き風魔法を無尽蔵に展開、全方位を必殺で覆い尽くし、ヴィクターを細切れにせんと最後の力を振り絞った。
激突。破壊。金属音。
振り抜かれたヴィクターの拳が、雷撃の太刀に合わさるように
叩き割られた刀が虚しく宙を舞う。
しかし遅れて到来する疾風の刃が、次々とヴィクターの骨肉を抉り取った。
出血の演舞を披露するヴィクターにカースカンは頬を緩めたが、転瞬、笑みが急転直下と凍り付いた。
「仕置きの時間だ、カースカン」
止まらない。
例え数多の凶刃がその命を食もうとも、男の拳は止まることを覚えない。
「言ったはずだぜッ!! 千発そのツラにぶちかますってなぁぁ────ッッ!!」
刹那、砲弾に匹敵する拳が暴風雨と化し解き放たれた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!! だァァァらッッッッッしゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────────────────―ッッッッッ!!!!」
百を超える鉄拳がカースカンの視神経を埋め尽くし、絶大な破壊が完膚なきまでに男の骨肉を蹂躙した。
吹き飛ぶ暇すら与えない神速のラッシュは悉くを爆砕する破滅的な打撃音を連続させ、並外れた衝撃波を黄昏の森中に轟かせる。
一際強く振りかぶる。
全身全霊を乗せて叩き込まれたそれは、カースカンに血潮の弧を描かせながら吹き飛ばし、大樹の幹へと激突させた。
──その時。血だまりの中に倒れ伏したカースカンを、熱を散らす光の華が一瞬にして包み込んだ。
炎だった。紅蓮と咲き誇る炎だった。
ボイラーツリーから樹液が偶然漏れ出していたのか。それとも衝突した拍子に何らかの形で引火したのか。
ごうごうと揺らめく悪魔の舌のような炎体は、まるでカースカンに穢された森自身の怒りが、報復を成しているようにすら感じられた。
「おおおお、おおおおおおお……!!」
木に手を伝い、樹液に火力を上塗られながらカースカンは立ち上がった。
「これが……終わり……我が
苦痛に悶える様子は無い。
まるで灼熱の炎に抱かれることを受け止めたかのように、ゆっくりと両手を広げながら、男は空を仰いでいた。
「ああ、描ける……傑作が描けるぞ……! 今まで描いたどんな作品にも勝る傑作が……降って来た……!」
よろよろと男は歩く。
ヴィクターには目もくれず、森を一望できる崖に向かって。
その先に待つ無色のキャンバスまで。
カースカンは燃える手にパレットと筆を持ち、顔料を一心不乱に塗りたくる。
だが満足に絵筆を操れるわけもなく、辛うじて形を成しゆくそれは、落書きにも等しい乱雑な絵画で。
しかしカースカンの瞳は、夢を追う子供のように輝いていた。
「見たまえ少年……! これが、これこそが美だ……! 私は──芸術は燃えている!」
言葉を皮切りに、焼け焦げた男の黒炭が膝から崩れ落ちて動きを止めた。
呪われた芸術家が遺した最期のアートは、己自身の末路を描いたものだった。