星の刻印による支配が消滅し、絵儡の世界は人知れず崩壊を迎えた。
隔絶された境界が泡沫と溶けゆく渦中に佇むヴィクターは、断崖から森を一望しながら息を吐く。
(さて。こっちは片付いたし、早くシャロと合流しねーと……と行きたいところだが、コロポックルたちをどうするかな)
振り返る。
カースカンの盾として利用されていた、4人の
寄せ集まって身を固め、濡れた子犬のように震えながら、涙で潤んだ瞳でヴィクターを見ていた。
(完全に怯えさせちまったな。無理もねえ。今の今までカースカンの野郎に奴隷扱いされてたうえ、不可抗力とはいえ俺から殴られたんだからな。怯えて当然だ)
断っておくが、彼らに一切の負傷は無い。
両の黒腕が秘める万物干渉の異能が、ヴィクターの望むままに接触対象の選別を可能とし、植え付けられた隷属の魔道具のみを木端微塵に粉砕したからである。
だがしかし、彼らの視点からすれば、理由はどうあれヴィクターは急に攻撃してきた見ず知らずの人間だ。
命の危険に晒され、人質に取られ、数日近く満足に食事もとれない極限状態に置かれていたことを鑑みれば、冷静な判断を求めるというほうが無理だろう。
例えカースカンを倒した姿を目撃していたとしても、今の彼らはヴィクターの存在を易々と受け入れられるほど寛容な精神状態ではない。
(となりゃ、落ち着くまで付き合わないとな。焦りは禁物だ)
背丈の高いヴィクターが立ったままでは威圧感を与えると考え、腰を落としてその場に座り込む。
ヴィクターの一挙一動に、
中には恐怖に瞼を固く結び、仲間の胸に顔を埋めるように縮こまってしまった者もいる。
「すまん、さっきは怖がらせちまって悪かった。あの野郎から助けるためには、ああするしかなかったんだ」
出来る限り優しくゆっくりとした声を心掛けながら、ヴィクターは深く頭を下げた。
「どうか怖がらないで欲しい。俺は敵じゃない。お前らに危害を加えるつもりは一切ない。難しいかもしれないが、信じてくれないか」
「…………」
「いや、信じなくてもいい。俺を疑っても良いから、とにかく話だけでも聞いてくれ。悪い奴は俺がぶっ倒した。生き残った仲間もいる」
「! 仲間?」
クリクリと大きな目が、幽かに色を帯びて反応した。
「待って。嘘かも」
「また騙されちゃう。酷いことされちゃう」
「あぅぅ、もう痛いのやだよぉ」
「でもこの人、悪い人間やっつけた」
「あの腕、王様の腕。英雄の腕。悪い人に見えない」
「んう……たしかに」
ひそひそと話し合う声が聞こえる。信頼に値するかどうか審議中のようだ。
ヴィクターは刺激しないよう動かず、彼らが納得いく答えを出すまで岩のように待ち続けた。
沈黙の中で瞳を閉じ、そよ風が肌を撫でる感覚に身を委ねていると、「クロウデ」と呼ぶ声がして。
「クロウデ。痛いことしない?」
「ああ、もちろん。絶対しない」
「ほんとに? 嘘つかない?」
「誓って嘘はつかない。なんなら俺が仲間を連れて戻ってくるから、信じられるまで待っててもいいぞ」
真っ直ぐと瞳を見て真摯に徹する。
信じてくれることを願って、ヴィクターは
「……あなた、私たちのこと助けてくれた」
「怖かったけど、お陰で生きてる」
「もう痛くない。苦しくない」
「だからコロポックル、あなた信じる」
ぷにぷにした子供のような手を差し伸べられて、ヴィクターは微笑みを返しながら受け取った。
「ありがとう、信じてくれて」
嘘偽りの無い気持ちが伝わってくれたことに安堵を浮かべた。
「よっし! じゃあ仲間のところまで帰るか!」
「うん!」
「ところで、怪我とか大丈夫か? 少し距離があるからな。歩けない奴が居たら負ぶってやるぞ」
「私たちは大丈夫」
「でもこの子、足挫いちゃった」
「任せな。安心して乗っかってくれ」
「ありがとう、クロウデ」
足を痛めた
よじよじと登ってきた
「クロウデ。どうして森に来たの?」
「友達の妹が病気でな。治すために世界樹の花蜜が必要で、そいつを探しに来たんだ」
「せかいじゅ?」
「あー、火山に生えてるドデカい木らしい。俺も見たことないからよく分かんねーんだけど」
「! 木の王様!」
「おやまに行くの?」
「おやま、ヌシのおうち。とても危ない」
辰星火山がヴィクターの目的地であることを知った途端、
ヌシという言葉に首をひねるが、ダモラスが「世界樹は竜の巣だ」と忠告してきたことを思い出す。
(竜……竜か。とんでもない生き物らしいが、たしかにこんなボロボロで巣に殴り込むってのはキツイよなぁ)
竜種。一概にドラゴンと称されるそれは、遍く生命の王として君臨する星の頂点捕食者である。
二対の肢に一対の翼を持つ現存する唯一の六足種族にして古代種であり、遥か太古の時代より生き永らえる伝説だ。
一枚一枚が分厚い
竜種の絶大な力は、魔物の天敵として唯一定められるほど規格外に位置しているのだ。
そんな怪物の巣へ、満身創痍に等しい体を引きずって向かおうなど。傍から見れば正気の沙汰ではない。
(まぁ、竜はわざわざちっぽけな下位存在を意に介することはないらしいし、テリトリーを荒らさなきゃ大丈夫だろ。多分)
竜は強大な生物だ。しかも非常に高度な知性まで持ち合わせている。
それゆえか絶対強者としての余裕のようなものが備わっており、武装した騎士団が縄張りに押し掛けたならいざ知らず、たった二人の人間がテリトリーへ足を踏み入れた程度では気にも留めないのだという。
つまるところ、縄張りを荒らすことなく、礼儀正しく在れば大丈夫なはずだ。
シャーロットの知識を信じて、ヴィクターは「大丈夫大丈夫。チョロッと行ってくるだけだからよ」と心配そうにする
そうこうしていると、前方へシャーロットの姿が見えてきた。
隠れ家に居た
距離が縮んで解像度が増してくると、何だか妙に赤い服を着ているなと思ったソレが夥しい血痕だと気が付いて、ヴィクターは顔を蒼褪めさせながら一目散に走り出した。
「シャロ!」
「あ、ヴィック。良かった、無事だったのね。丁度今から探しに行こうと思ってたのってどうしたのその怪我!?」
「お前すげー血塗れじゃねえか! 大丈夫かよ!? 血をバケツいっぱい被ったみたいになってんぞ!?」
「お腹も腕も裂けちゃってるし全身火傷したみたいに真っ赤っ赤だし上着ないし! 何があったのよ!」
互いに互いを案ずる威勢の良い声が重なって、一拍の静寂が訪れた。
見た目ほど酷くはなさそうだなと、妙に可笑しくなって二人揃えて笑みを零す。
ひとまずヴィクターの背にしがみ付いていた
「派手にやられたな。相当ヤバかったのか?」
「は? 余裕だし。ちょっと転んだだけだし」
「自分が死んだことをわかってない亡者みたいな見た目で何を」
「それを言うならあなたもよ! 何この切り傷と火傷? 髪もチリチリになってるじゃない」
「大丈夫だ唾つけとけば治る」
「シンプルにバカなの?」
言いながら、シャーロットはポーチから水入れや無色透明の液体が入った瓶と、清潔感あるパッケージされた針や糸、脱脂綿を手早く取り出した。
ヴィクターは活け造りを目前にした魚の如く真顔になった。
「あの。シャーロットさんそれは? まさかだよな? いやまさかですよね?」
「はいちょっと痛いからお目目閉じててくださいねー」
「やっぱ縫う気かよ! ここで!? お前が!?」
「安心して。道具もちゃんと殺菌処理してる医療用のやつだし、技術もエマに教わって、痕ほとんど残らないくらい出来るのよ。魔剣の練習に失敗しちゃって自分の体縫ったこともあるんだから」
ほら、とシャーロットはズボンを少しだけ捲ってふくらはぎの一部を見せた。
言われてみれば確かに、縫い痕のようなものがうっすらとだが伺える。
が、それも言われなければ分からない程度のモノで、これを自分で施したのであれば相応の技量を持っているという発言に嘘はないのだろう。
が、それはそれ。ヴィクターは滝のように汗を流し引き攣った笑みを浮かべ目を泳がせながらズザザザッと後ずさった。
「いやっでもっ治癒の魔法とかっ」
「あんまり治癒魔法得意じゃないの。私クスリ飲んだらすぐ治っちゃうし、アレって人体への深い知識と理解がなきゃ出来ないから。さぁさぁ、傷開きっぱなしだとばい菌入っちゃうから早く処置しましょ。というかこんなバックリいってても平気なのに何で縫うのは嫌なのよ」
「いや~~なんつ~~かな~~怪我とか痛みは気にならないんだけど縫ったり注射したりとかはすげ~~嫌なんだよな~~~っ!!」
「つべこべ言わない! 我慢なさい!」
「んぎゃ──っ!!」
消毒剤と治癒の水薬を含んだ綿を傷口に押し当てられ、ヴィクターは沁み込んでくる激痛に絶叫した。
チクチク丁寧に縫われていく。かつて骨ごと腕を潰されようが雷に貫かれようがまるで怯まなかった男が、瞼をぎゅっと閉じて震えている姿がなんとも奇妙で、シャーロットは思わず声を殺すようにくっくっと笑った。
縫い終わった傷に治癒力促進剤を再びかける。
ここまでぴったり閉じておけば、再生能力の低い
「はい終わり。よく頑張りました」
「うっうっ……今までで一番怖かった……」
「なに子供みたいにメソメソしてんのよ。ほら、次は火傷の治療!」
「まだやるんですか!?」
「やるに決まってるでしょ。背中とかまるで火を被ったみたいじゃない。あなたヒュームなんだから無茶し過ぎるとほんと死ぬわよ」
本当に火を被ったせいなのだが、それを言うと怒られそうな気がしてきたので大人しく縮こまることにした。
そういえばシャーロットの怪我は大丈夫なのかと思ったが、どうやらすでに治療済みらしい。血の跡はスプラッタレベルだが、見たところ傷のようなものは見受けられなかった。
背中から覆い被さるような冷感。
最後に薬を塗られて、ようやく応急処置が一段落した。
「ああ、お嬢ちゃんありがとうねぇ」
「恐怖のあまりシワシワに老けてる……」
公園のベンチで日光浴しながらヨボヨボ震えてそうな老人と化したヴィクターは捨て置き、シャーロットは仲間と再会の喜びを分かつ
「生きてた。生きてた」
「よかった。本当によかった」
「あぅぅ、怖かった」
「もう安心。穢れは祓われた」
「二人が助けてくれた」
「感謝。感謝」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、あるいは互いに抱き合いながら、精いっぱいの歓喜を露わにする小さな住人たち。
カプディタスにとどめを刺してからしばらくの後、森全体の空間に異変が生じたのをシャーロットは察知していた。
異変というより、澱みが消えたとでも言うべきか。まるで密閉されていた容器に穴があけられ、新鮮な空気が流れ込んできたような感覚だった。
直感で理解した。ヴィクターが魔物使いの撃破に成功したのだろうと。
すぐに魔力痕を解析すれば、大規模な空間魔法らしき術式が失活した名残を感知し、勘が確信へ変わったことで、一先ず
「足の具合は大丈夫?」
「うん。ありがとう王の血」
「どういたしまして。……その、あなたたちはこれからどうするの?」
問いかけに、言葉を詰まらせる
互いに顔を見合わせている。表情は行き場の無い混迷に染まっていた。
暗い面持ちでうつむきながら、ぽつりぽつりと言葉を漏らす。
「もうこの森には住めない」
「森が怒ってる。私たちを穢れだと思ってる」
「別の場所にいく。住める場所探す」
──この世界における人類の定義とは、言語を介し文明的で社会的な生活を営む二足歩行動物である。
定義的に
様々な違いはあれど、大きな相違点は食生活にある。
彼らにとって重要なエネルギーの大部分は魔力なのだ。
地殻を這う冥脈より大地へと還元されたマナの余剰分を吸収し、代謝、希釈して放散することで、生命活動に必要なエネルギーを得つつ、周囲環境の魔力飽和を防ぐ役割を持っている。
ゆえに、物質的な食事は最低限しか要しない。
シャーロットたちが訪れるまで数日近く不眠不休の絶食状態でも耐えられたのはこれが理由だ。
彼らはその生態ゆえ、魔力の濃い『禁足地』を主な生活の場とし、魔力を識別する特別な目を持つ。
森が怒っているという感覚はシャーロットには理解できないが、きっとその第六感によって知覚しているものなのだろう。彼らにしか分からない独特の感覚があるのだ。
(推測だけど、たぶんカプディタスのせいね。アレはコロポックルを食べて成長していたから、構成要素のほとんどがコロポックルで占められてたはず。そんな魔物が呪詛を振りまいた影響で、彼らの魔力そのものに森の冥脈が拒絶反応を起こしてるのかもしれない)
いずれにせよ、
魔力資源の豊かな環境を目指して、遠く遠くへと旅に出るのだ。
辛い旅になるだろう。
仲間を失い、心も体も癒えないまま、それでも生きるために、身を引きずって行かねばならない。
理不尽に見舞われた不幸への清算も、仲間の弔いも果たせぬままに。
シャーロットは、それがどうにも見過ごせなかった。
「……ヴィック、魔物使いってどんな人だったの?」
「とんだお絵描きクソ野郎だった」
「お絵描きクソ野郎」
「エマの仲間だ。俺たちを狙うために、いや、理想の絵を描くためだなんだ言って、コロポックルを魔物に変えた挙句食わせやがったんだ。マジのサイコ頭だよ」
顔を顰めながら忌々しそうに物語るヴィクターを尻目に、シャーロットは
この森で起こった惨劇は、エマの仲間がシャーロットの心臓を狙うために引き起こしたものだった。
それだけ分かれば、シャーロットの答えを固めるには十分だ。
何より迷える無辜の民草を見捨てようなど、アーヴェントの血に宿る誇りが許さない。
「ねぇねぇ。行くところが無いんだったら私の家に来ない?」
屈んで、
「ウチ人手不足でさ、丁度働き手が欲しかったの。食べるための魔力もいっぱいあるし、自然豊かな良いところよ。もちろん働いてくれた分だけお給料もお休みもあげる。安心して暮らせることを約束するわ。……ヴィックも良いでしょ?」
「シャロが許すなら異論ないぞ。むしろ賑やかになるのは大歓迎だな」
「決まり。どうする? あなたたちが良ければだけど」
述べられた言葉を思うように咀嚼できなかったのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返す森の民。
仲間同士で目配せ。けれど迷惑という色ではなく、むしろ本当に良いのかと戸惑っている様子で。
「いいの?」
「もちろん。……こうなっちゃった責任の一端は私にもあるから」
「違うぞシャロ。お前のせいじゃない」
「うん。けど、せめてお家くらいはね」
どう? とシャーロットは再び問う。
一人の
「行く! 私たち、いっぱい働く!」
「精いっぱい頑張る! 約束する!」
「交渉成立ね。これからよろしく」
「うん! 王の血、ありがとう」
小さな手と握手を交わして、新天地の希望に湧きたつ
大勢の同朋を失い、住処までも追われ、先行きも重苦しい暗雲に覆われていた彼らの表情に日が差し込んだ様子を見て、ヴィクターもまた笑みを作る。
これだ。この優しさこそが、彼女へついていくと決めた理由なのだ。
悲観に窮する者へ迷わず手を差し伸べる揺るぎなき善性に、ヴィクターも救われた一人だから。
「しかし、どうやって連れ帰るんだ? 十人くらいいるぞ」
「それは大丈夫」
シャーロットがポーチから取り出したのは、黒曜石のように透明感のある漆黒を湛えた、手のひらサイズの四角柱だった。
それはシャーロットの魔力に呼応すると独りでに浮遊し、瑠璃色に輝く三重の円環を纏わせる。
「これを埋め込めばポータルとのアクセスポイントを作ることが出来るの。帰りは島まで一瞬よ」
「ああ、前言ってたポータル・オベリスクってやつか。便利だな」
「問題はどこに設置するかってとこだけど」
「あそこがいいんじゃないか? コロポックルたちの隠れ家」
「確かに。ちょっと使ってもいいか聞いて来る」
シャーロットがオベリスクの設置許可を尋ねている間、ヴィクターは樹冠の狭間から覗く遠方を視た。
カースカンの異能から解放され、ようやく目視出来るようになった三角形の霊峰、辰星火山と頂きに君臨する世界樹の姿。
あの山に登って千年果花を手に入れれば、苦難の続いたこの旅にも終止符を打つことが出来る。
世界樹に住まう竜種という、最大の障壁を除けばだが。
◆
休む間もなく進軍することを選んだのは、ボイラーツリーの影響を鑑みてである。
翌日にはまた高温の蒸気が森林一帯を包み込んでしまう。
そうなる前に森を抜け、山の中腹だけにでも到達しておきたかった。
蒸し暑かった森とうってかわって、冷えた溶岩と火砕流堆積物によって形成された裸の斜面はむしろ肌寒いくらいだ。
ゴツゴツと荒々しい坂道は足の酷使を免れられないが、蒸気地獄の心配はない。それだけでも精神的余裕は大きかった。
「──ってな感じで、そいつは黄昏の森を丸ごと檻の中に閉じ込めるみたいに空間を隔絶してたって訳なんだ」
「なるほど、だから森があんなに静かだったのね。もっと早く気付けばよかったわ」
山を登り初めて早くも一日。中腹まで一気に登り詰めた二人は、薄まりゆく空気に体を馴染ませるため、しばしの休憩を取っていた。
もっとも、アーヴェントの心肺機能はこの程度の酸素濃度で支障を来たすほどヤワではない。ヴィクターも卓越したスタミナが功を奏したか、高山病のような症状は皆無だった。
「……ところでそのカースカンって人、こういうもの身に着けてなかった?」
言いながら差し出されたのは、鮮烈な銀に輝く金属で造られた小さなメダリオンだ。
不思議な光沢だった。若い女の肌のように滑らかで、透明な氷のようでもある。
明らかに銀とは異なる材質で象られているソレには、ベールを被った祈りを捧げる女性と薔薇の彫刻が施されていた。
「いや、初めて見たな。何だこれ?」
「これは天蓋領のシンボルよ」
「天蓋領?」
「世界を支配してる組織の名前ね。実質的な王家の家紋といったところかしら」
世界を支配しているなどという、唐突に飛び出てきた巨大過ぎるスケールに、ヴィクターの思考が一瞬硬直した。
機構を知らないヴィクターのために、シャーロットはぽつぽつと概要を述べていく。
遥か昔。世界はかつて、数多に存在する種族ごとの独立国によって形成されていた。
大国。小国。民族。宗教。様々な要因が複雑に絡み合いながら辛うじて共存する世界。
多少の諍いはあれど、それなりに平和な世の中だったという。
それが混沌に突き落とされ、根底から破壊された切っ掛けが、十の
突如現れた強大な魔王に成す術もなく蹂躙され、世界は一度崩壊の危機を迎えたのだ。
もはや国同士、民族同士、宗教観の小競り合いなどで争っている場合では無かった。
力を合わせねば滅亡を迎えてしまう。危機に直面した人々は、『純黒の王』と『白薔薇の聖女』を筆頭に団結し、魔王を退けるべく命を賭して戦った。
皮肉なことだが、その果てにバラバラだった世界はひとつとなった。
ここまでは、ヴィクターもかつて耳にした歴史の一端だ。
「それからしばらくは陛下と聖女による統治が続いてた。けど、アーヴェントの崩壊から治世の権利は完全に聖女とマルガンが握ることになったの。そうして生まれたのが天蓋領よ」
上空を指さすシャーロット。
その名の通り、天蓋領は遥か彼方の天空から千年以上も世界を見守っている侵入不可の聖域だ。
政治。経済。インフラ。民族間の干渉。──世界情勢の全てがそこで統制され、今の平和が築かれている。
「聞いてる限りじゃ、そんなにあくどい組織ではなさそうだけどな」
「ええ。アーヴェントとしては悔しいけど、彼らの支配は完璧に近い。貧困も差別も争いも物凄く減ったもの」
「町じゃ色んな種族の人達が平和に暮らしてるもんな。だがそんなお偉いさんの紋章が何でこんなところに?」
「……これは対魔物侵蝕性爆弾。魔物に張り付ければ、そのまま浸透して核に直接付くって仕組みの最新兵器なの。親機と子機にわかれてて、親機を使えば任意のタイミングで核を破壊できる。これは子機。戦った魔物の核に埋め込まれてたわ」
つまり? と、ヴィクターが相槌を打って。
シャーロットは目を伏せながら言った。
「使い回しも出来る画期的な道具だけど、製造に必要なミスリルはとても貴重な金属で、大量生産出来ないのが欠点なの。だから天蓋領のみが管理することになってる。言いかえれば、メダリオンの存在はカースカンの──いえ、エマの背後につく黒幕の正体が、天蓋領だって証拠になるのよ」
混迷に汗が吹き出した。
だって。シャーロットの話が本当なら、事は想像以上に大きな話になってくる。
世界そのものが彼女の心臓を狙っているなどという、あまりにもバカげた与太話に。
「おいちょっと待て! つーことは、あのエマの話は……!?」
背後に天蓋領が関わっているという真実は、シャーロットの心臓が世界救済に必要だと言うエマの妄言に、信憑性を否が応にも与えてしまって。
二人は互いに、無音へ身を潜らせずにはいられなかった。
「……」
「……」
「……あー。ま、あれだ。エマの言ってたことが本当だとしても、だからって別にシャロが気にする義理はねえよな」
沈鬱と気を落とすシャーロットの背を、喝を入れるようにヴィクターは叩く。
天蓋領は千年もの長きにわたり、世の平穏のため尽力し続けてきた組織だ。
そんな大それた集団が心臓を欲している。少女の肩に重圧がのしかかるのも当然だろう。
命を狙われているというプレッシャーに限った話ではない。
世界救済に必要な心臓が手に入らなかったがために、取り返しのつかない事態に陥ってしまえば、彼女はきっと自分に責任があると気負ってしまう。
故に迷いが生じている。自分は本当に、こうして生きていていいのだろうかと。
シャーロットとはそういう少女なのだ。
意地っ張りで、負けず嫌いで、けれどどうしようもなく優しくて、自分の身より誰とも知らない他人を優先してしまう人間なのだ。
だからヴィクターは、仁愛がために心を痛める少女へ言う。
そんなものはクソ食らえに過ぎないのだと。
「落ち込むなよ。世界だのなんだの、ンな馬鹿デカいもん背負ってるなんて自惚れちゃ駄目だぜ。お前はシャーロットで、リリンフィーのお姉ちゃん。それで十分だろ」
ハッとするように目を開いて、シャーロットは頷きながら、ぎゅっと胸に手を当てた。
昔とは違う。シャーロットはあの夜に、不相応な強さという
もう不必要に自分を責めるのはやめた。背負えないものまで背負い込んで、大事なものを見落としてしまうことが、一番愚かなことだと気付かされたから。
ヴィクターは大きく伸びをして、白い吐息を零しながら言った。
「それに理由が何であれ、奴らのやり方は心底気に食わねえ。大義のためなら弱者を踏み躙ってもいいって考える連中が掲げる世界救済なんざ、ロクでもねえのに決まってる。無視だ無視。ムシムーシ」
「……ふ。ありがと、元気出た」
「そりゃなにより」
にっと歯を見せて笑うシャーロットに、その意気だとヴィクターは二度肩を叩く。
「んじゃ、とっとと済ませて家に帰ろうぜ」
◆
拭い去れない疑問がひとつだけ、頑固な油汚れのようにこびりついて離れなかった。
メダリオンの持ち主についてである。
ミスリル製対魔物用侵蝕性爆弾。
異邦の化生に対して比類なき効力を発揮する兵器であるが、しかし貴重な原材料と複雑な製造法という二つの難点により大量生産を可能とせず、その全てが天蓋領によって管理されている。
一般に出回ることはまず皆無で、魔物が大発生した特例事項を除き、基本的に使用は限定されるほどの代物だ。
率直に考えてみよう。
そんな大それた貴重品を、雇われの暗殺者でしかないカースカンが所持していたと考えられるだろうか?
魔物を逃がさないために、星の刻印のリソースを大幅に割いていたあの男が?
違う。万に一つも有り得ない。カースカンが所持者である道理は欠片もない。
ならば、あのメダリオンの持ち主は誰だった?
──答えは、山の頂で相見えることとなる。
「待ちわびたぞ。純黒の末裔と無銘の贄よ」
辰星火山の火口部。休火山へと沈静化して久しい霊峰の大口に聳え立つ、天を衝くほど巨大な世界樹。
その根元に、一人の女と傍らに座す竜の姿があった。
女は凛とした風雅を纏う麗人だった。
腰丈まで伸びた白糸の滝のような銀の髪。すっと高く流れる鼻筋。幽かな影を落とすほど長い睫毛。
紅紫に透く恒星の
白亜と金刺繍のマントを靡かせ、数多の勲章らしき装飾を飾り付けた濃緑色の礼装に身を包むその姿には、まるで歴戦を駆け抜けた将軍のような威厳があった。
「カプディタスの討伐、ならびに原住民の救出、誠に大義であった。不届き者が持ち込んだ魔の存在は不測の事態であったが、貴殿らの尽力によりあれだけの被害で済んだと言えよう。天蓋領に代わり礼を言う」
背の高い、女性らしい柔らかな曲線を描きながらも、地に根付く巨木のように威風堂々とした貫禄を持つ女は、山頂へ辿り着いた二人に向けて白桃色の唇を淡々と紡いでいく。
「紹介が遅れたな。我が名はグイシェン。天蓋領第二騎士団団長にして三聖が一柱、武聖グイシェン・マルガンである」
三聖。
それは天蓋領が無双を誇る、世界最高戦力を冠する者の称号である。