銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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29.「双璧」

(不思議な男だ。このようなタイプは見たことがない)

 

 風吹きすさぶ霊峰の花園で、グイシェンは地に突っ伏したヴィクターを見下ろしながら吐息を溶いた。

 

(基礎はいい。呼吸法、歩法、重心移動はまずまず。咄嗟の判断能力に関しては頭一つ抜きんでている。しかし技術面はまるで素人だ。武芸をひとつも修めた形跡がない。だというのに、この武聖にここまで食い下がって見せるとは)

 

 グイシェンは自身の能力に絶対の自信を持っている。

 それは決して傲りではなく、客観的視点からもたらされた的確な自己判断だ。

 

 グイシェン・マルガンは、戦闘面において竜人(ドラゴニュート)に比肩するとされる鬼人(オーガ)の血を引きながら、『白薔薇の聖女』より白魔力を受け継ぐマルガンとの間に生まれたハイブリッドである。

 

 最強の肉体をもって生まれた少女は、しかしその血統に胡坐をかくことなく、天蓋領のもたらす最高の英才教育によって極限まで鍛え上げられた。

 

 鍛錬に膨大な時を純真なまでに費やし、心を鍛え、民草を守護する盾と成るべく励み続けること幾星霜。 

 黒魔力と比べ守りを得意とする白魔力を完璧な形で掌握し、あらゆる衝撃を機械染みた精密さで相殺するという、万物調和の絶対防護を幼少の身で体得。

 さらには鬼人(オーガ)としての血を存分に発揮し、古今東西の武術を一身の内に凝縮した。

 

 齢十三になるころには、もはや並みの武人では手も足も出ない怪物へと変貌を遂げていた。

 

 魔物の大発生をたった一人で鎮圧したのは一度ではない。 

 衝突すれば3000㎢は更地と化すだろう巨大隕石を拳ひとつで割り砕き、被害を最小限に食い止めたという寓話同然の勲もある。

 百数十年ぶりに発生した準魔王級の魔物との戦いでは、左目を犠牲に見事討伐を成し遂げた。

 

 これがグイシェン。三聖が一柱にして『星冠級(アステル)』に座する頂点到達者。

 掲げる勲章に偽りはない。世界の頂きへ君臨するに相応しい絶対的な力と数々の武勲、血の滲むような研鑽の日々がそれを証明している。

 

 そんなグイシェンが、素人の男を一蹴出来なかったという異常さ。

 あまりにも、あまりにも、ヴィクターという人間は異質で満ち溢れていた。

 

(アーヴェントの少女ならば多少は抗ってくるだろうとは思っていた。彼女に才は無いが、不足を補う知識も力も十二分に備わっている。私に傷をつけるとすれば、アーヴェントしか有り得ないだろうと)

 

 あの時、最初にヴィクターを湖へ蹴り飛ばした時、もう戦いの場へ戻ってくることはないと思っていた。

 戦闘不能にするつもりだった。それらしい鍛錬を積んだことも無い男が武聖の前に立つなど身の程知らずの侮りに等しいと、武人としての矜持がそうさせた。

 

 なのにヴィクターは咄嗟にガードを挟んだばかりか、すぐさま戦線へ舞い戻り、グイシェンの防護壁へ揺らぎを与えるほどの一撃を見舞ってみせた。

 

 あれは偶然ではない。

 偶然を許すほど、グイシェン・マルガンは甘くない。

 

(間違いない。この男は戦いの中で急速に成長している。いや、()()()()()()()とでも言うべきか? 鈍っていた勘が段々と取り戻されていくように、負傷と反比例して私の動きに適応しつつあった。終いには我が一撃を避け始めたほどだ)

 

 記憶を失いながらも、魂に根付く戦闘センスで武聖に追走して見せた男。

 ならば記憶を失くす以前は、一体どんな人物だったのか。

 己を構成する何もかもが消滅しても、己の敵全てを撃滅せんとする暴力の才腕が根付くほどの人生とは、一体なんなのだ。

 

(それにあの不可解な敏捷性……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の仕掛けが読めん。諜報員が一蹴されたというのは真実だったようだが……あれは本当に『純黒の王』の権能なのか? それにしてはあまりに……)

 

 ふと。

 頬を撫でる、黒い風。

 

「……ほう」

 

 振り返る。

 紅紫の隻眼が捉えた光景の先に、満身創痍の少女が一人。

 

 何か様子がおかしい。

 纏う雰囲気が明らかな鋭利を帯びている。ビリビリと心奥を掻き鳴らされるような、アラートにも似た胸騒ぎを覚えるのだ。

 

 直感で理解した。

 アーヴェントと対を成すマルガンだからこそ、彼女に到来した変容を理解出来た。

 

「花開いたな。まだ抗ってみせるか、アーヴェント」

 

 シャーロットは今まで届かずにいた黒魔力の真髄へと手を伸ばした。

 不思議とは思わない。手負いの獣はなんとやら、窮地に陥った人間が土壇場で力に覚めるというのは、別段珍しい話ではないからだ。

 

(フフ。これだから凡才は面白い)

 

 どこか懐かしむようにグイシェンは目を細めながら、シャーロットには分からぬほど微細に微笑む。

 

(才無き者は努力を重ねようとも回り道を余儀なくされる。思い通りに進むことなど決してない。ゆえに大半は諦めと共に脱落していく。だが望まぬ悪路を乗り越え続けた時、人は思いもよらぬ爆発力を開花させることがある。……今、貴殿はそこに到達したのだな)

 

 かつての自分を眺めているようだと、グイシェンは想起した。

 歴代の三聖とは違い、血筋や環境に恵まれながらもまるで才能を持たなかったグイシェンの眼には、シャーロットが鏡のように映り込む。

 

(だからこそ、決して侮れる存在ではない)

 

 ────颶風(ぐふう)

 

 恐るべき速度で、莫大な衝撃波をもって、それは霊峰を搔き乱しながらグイシェンの傍を鎌鼬の如く通過した。

 耳にしたことのない異音が背後から弾け飛ぶ。

 一瞥すれば、側火口の断崖に一条の亀裂。

 火口の端とはいえ、山が縦に斬り裂かれているではないか。

 

(……身を躱したのは何時ぶりか)

 

 グイシェンは少女から放たれた未知の一閃を避けていた。

 

 降りかかる衝撃の全てを相殺し無に帰すという、独自の白魔力障壁をもってあらゆる猛攻を完封し、その絶対的防護を破られようとも超人染みた身体技能によって力を受け流すことで、ノーガードを貫き続けていたグイシェンが。

 初めて、回避という選択を手に取ったのだ。

 

(ざわざわと産毛逆立つこの感覚……貴殿の刃は我が命まで食い込むらしい。フフフ、フフフフ)

 

 エマによって報告されたシャーロットに関するデータの数々。その中には黒魔力の分析結果も詳細に書き記されていた。

 中でもグイシェンが目を惹いたのは、魔剣に関する潜在的特異性だ。

 

 ダランディーバと呼称される、アーヴェント独自の純粋魔力兵装。

 万物干渉の異能を応用した、対象の硬度や概念を問わず自在の切断を可能とする理論上最鋭利の刀剣である。

 

 では根本的な話をしよう。そもそも万物干渉とは何か?

 

 使用者の意のままに対象の性質を歪ませ、物理的、あるいは魔法力学的に本来不可能な挙動を引き起こさせること。

 つまりは、この世の理そのものへの介入である。

 黒魔力とは物質ではなく、物質を存在させている概念や法則へ直接メスを切り込んでいる力なのだ。

 

 だからこそヴィクターの腕は空気を砲弾に変え、次元の裂け目をこじ開けて、脳に食いついたコロポックルの拘束具だけを打ち抜くことを可能としていた。

 

(その性質を転じたものが今の一太刀。斬り伏せた対象の因果律へ干渉し、『斬る』のではなく『斬ったという結果』を刻み付ける因果逆転の刃。それこそが魔剣ダランディーバの正体だ)

 

 即ち、ひとたび触れれば如何なる守りも意味を成さない絶対切断の必殺剣。

 どれほど強固な盾や防御術式を用いようとも、既に斬ったことにされてしまえば紙切れ同然だ。 

 グイシェンを覆う白魔力の防護障壁とて例外ではない。あの斬撃を浴びたが最後、一息に八つ裂かれることだろう。

 

「末恐ろしいものよ。追い込まれてなおこの私に予断を許さぬとは。……しかしその魔剣、いつまで保つ?」

 

 そう。例えシャーロットが火事場の馬鹿力を発動させたとしても、状況そのものに変化はない。  

 いくら強力無比な絶対切断の魔剣を開眼しようとも、シャーロットのコンディションは変わっていない。

 

 誰がどう見ても、少女は既に立っているのもやっとの状態だ。 

 剣を振るうだけで激痛に竦み、気を緩めれば意識の弦がぷっつりと切れかねない瀬戸際で揺らいでいる。

 魔力もほとんど残っていないだろう。事実、先に放たれた斬撃の威力そのものは、非常にか弱いものだった。

 

「三振り……いや、二振りだ。二振りで貴殿の魔剣は朽ち果てる」

「十分。絶対届かせてみせる」

「ああ、嗚呼、いいぞ。その意気だ。足掻くがいい。猛るがいい。可能性を掴むがいい。さもなくば、永劫の訣別となるのみぞ」

 

 構える。

 腰を落とし、重心を巨木と据える。

 左腕を前へ。右腕を引き絞って。

 いざ、尋常に。

 

「勝負だ、宿敵(アーヴェント)!」

「はあああああああッッ!!」

 

 一振り。絶空に落命の権化が成った。

 大気を、三次元空間そのものを、諸共引き裂きながら駆け抜けるは流星の如き死の斬撃。

 

 音速の二倍で放たれた純黒の一刀へ、グイシェンはあろうことか真正面から踏み込んだ。

 転瞬、霞の如く女が消える。

 信じられない現象が巻き起こった。ひとたび掠めれば森羅万象を等しく分断つ絶対切断の魔剣が、あたかもグイシェンの体をすり抜けたかのように遥か彼方へ飛び去ったのだ。

 

 最小限の動作で斬撃を躱した。ただそれだけのことだった。

 それだけの小技が、達人の業前としてあまりに洗練され過ぎているがゆえに、まるで斬撃が透過したかのような錯覚を引き起こしていた。

 

(悲しいなアーヴェント。その魔剣はまさしく最強の名を欲しいままにする絶対的な力だが、無敵ではないのだ)

 

 踏み込む。

 少女の懐へ潜り込むように、電光石火の如く距離を殺す。

 

(意のままに操れる魔弾とは違う。それは直線状にしか放つことは出来ん。如何に稲妻染みた一閃だろうが、軌道が読めさえすれば見切るのは容易い)

 

 拳を固める。

 シャーロットの鳩尾へ吸い寄せるように、ワンインチの必殺を狙い定める。

 

(さぁどうする。どう打って出る。振るうならば今しかないぞ)

 

 少女の出方を伺うため、あえて挟み込んだ余白の隙。

 シャーロットは肉薄したグイシェンから距離を取りながら、魔剣を握る両手へ力を込めた。

 

(下段からの斬り払い。左腕狙いか)

 

 太刀筋に合わせて半身を引かせ、シャーロットが空振ったと同時に踏み込み寸勁を叩き込む。

 それがグイシェンの描いた幕引きの図で、避けようの無い決着だった。

 どう転ぼうとも、そうなるはずだったのだ。

 

「ッ」

 

 ぞわり──グイシェンの第六感が雷管を殴り飛ばされたように炸裂した。

 完全に反射行動だった。駆けずり回る本能の警告を疑わず、咄嗟に身を大きく反らした回避をとれば、右半身があった空間を食むように避けたはずの斬撃が舞い戻って来たのである。

 

 馬鹿な、とグイシェンの額を珠の汗が滑走して。 

 視野角の限界まで捻じ曲がった隻眼が、直線運動しか出来ないはずの斬撃がブーメランのように帰還した不可解の正体を捉えた。

 

 遥か背後の遠方にて、浮かび漂う魔力障壁。

 ほんの微々たる黒魔力を凝集し象った純黒の平板が、まるで光を反射する鏡のように斬撃を弾き返したのだ。

 

(同一の魔力で反射を……!? 有り得ん、そんな余剰魔力はどこにも──まさか、魔弾の欠片か!? 散った魔弾の断片を搔き集めて指向性を持たせ、私の索敵圏外で極小の反射板を作成していた!?)

「グイシェン、あなたは強い。今の私たちじゃ到底足元にも及ばない。でも、あなただって完全無欠なわけじゃない!!」

 

 豪傑と破顔する少女に、頂点到達者はひとつの確信を得る。

 反射板に気付かなかったのは偶然ではない。初めて会合したあの時、岩陰に潜んでいたシャーロットたちを見抜けなかった、グイシェンの索敵能力の限界距離を演算した上での作戦なのだ。

 最後の最後で、シャーロットは遥か格上の三聖を出し抜いた。

 

「視野が狭いのはお互いさまってね!!」

「────見事!」

 

 刹那。薙ぎ払われた純黒の光芒は、武聖の左腕を天高く斬り飛ばした。

 

 

 

 鮮血が舞い踊る。

 勢いよく噴き出す鉄砲水のように、肩口から両断された左腕が夥しい血潮を吐き出した。

 

「……フフフ。血の一滴どころか腕を持っていかれるとは。侮っていたと言わざるを得んな」

 

 傷口に力がこもる。

 ぎゅうううっと腕の筋肉が収縮し、血雨の嗚咽がぴたりと止んだ。

 恐るべき速さで傷の断面が塞がっていく。

 

 癒しの力も孕む白魔力の影響か、はたまた鬼人(オーガ)の血によるものなのか。

 左腕の切断という重傷ですら、まるで意に介していないかのようだった。

 

「貴殿の勝ちだ。約束通り命は取らん。今日のところは退散させてもらうとしよう」

「っ……」

「そう睨むでない。嘘は吐かんさ。油断した隙に心臓を奪おうなどという下卑た真似はせん」

 

 シャーロットは肩で息を繰り返しながら、既にグイシェンから敵意が消えていることを悟って臨戦態勢を紐解いた。

 緊張の糸がぷつりと切れる。膝から崩れ落ちそうになって、慌ててその場に座り込んだ。

 

「この私に土を着けた褒美だ。受け取るがいい」

 

 放り投げられた小さな物体を、シャーロットは両手で受け止める。

 手のひらサイズの小瓶が三本。どれもキラキラと煌めく黄金色の粘質な液体が収められていた。

 

「世界樹の花蜜だ。それを探し求めて来たのだろう?」

「……! これが……千年果花の霊薬……!」

「大事に使え。名の示す通り、千年に一度しか手に入らぬ貴重品よ」

 

 ──魔力とは、主に生物の心臓が生み出す生命エネルギーの総称である。

 そしてこの星には、死した魂が還りゆくことから冥脈と呼ばれる、地下を張りめぐる巨大な魔力経路が存在している。

 

 火口といういわば冥脈の出口に根付いた世界樹が、千年もの時をかけて少しずつ吸い集めた超高濃度の魔力凝集物。

 それが千年果花の霊薬と呼ばれる、さながら命のスープの正体だ。

 

 一口飲めば立ちどころに傷を癒し、あらゆる病を駆逐して、老いた肉体を若返らせるという万病の薬。

 それが今、やっとの思いで手に入った。

 

 これがあればリリンフィーを蝕む不治の病を治すことが出来る。

 シャーロットは小さな希望を、震える手で握り締めながら瞳を閉じた。

 

「まずはこの男に飲ませてやれ。己の異能に身を食い破られている」

 

 ハッとするように顔を上げれば、グイシェンが気を失ったヴィクターを運んできて、シャーロットの傍に静かに横たわらせた。

 

 虫の息だ。どこもかしこも血まみれで、打撲、裂傷、擦過傷と見渡す限りキリがない。

 まるで内側から破裂したかのようにいたる箇所の皮膚が裂けている。筋肉組織どころか一部の骨までもが外気に晒されているような、生々しい薄紅色の傷痕が幾つも咲いていた。

 脈は弱く、手首をとっても辛うじて拾える程度。今すぐにでも息絶えたっておかしくないほどの惨状だ。

 

 どれだけボロボロにされてもケロリとしていたタフネスの化身が、瞬きをすれば消えてしまいそうなほど衰弱している有様は、事の重大さを如実に物語っている。

 

「起きてヴィック。ほら、飲んで」

 

 呼びかけても、揺すっても、軽く頬を叩いても反応が無い。

 仕方なく上体をかかえ、口元に小瓶をあてがう。

 だが花蜜はヴィクターの喉奥へ届くことなく、唇を伝って糸を引きながら零れてしまう。

 

(ダメだ、蜜の粘性が高すぎて上手く飲ませられない。無理やり入れてもこの粘っこさじゃ、喉に張りついて窒息させてしまうかもしれない。……やむをえないわね)

 

 決断は早く、迷いも無かった。

 シャーロットは花蜜をひとくち含むと、ヴィクターの口に直接流し込んだ。

 

 唾液で粘性を薄め、喉に詰めないよう少しずつ、少しずつ、口移しで与えていく。

 奥へ押し込むように流してやれば、狙い通り嚥下反射で咽頭が鳴って、花蜜の摂取が無事に済んだ合図が告げられた。

 コツを掴んでしまえば簡単だ。シャーロットは手際よく、小瓶ひとつが空になるまで蜜を飲ませることに成功した。

 

「ほーうほう、躊躇せんか。よほど信を置いていると見える」

「うっさいやかましい黙りなさい。迷ってる間に手遅れになったら悔やんでも悔やみきれないでしょ。この程度の恥、呑み込んでやるわよ」

 

 口元を拭いながら茶化すなとグイシェンを睨む。

 医療行為と割り切ったからこその行動だ。意識すると頭が茹って倒れそうになる。

 

 聞きしに勝る千年果花の効果はすぐに現れた。

 最初に感じたのは仄かな温かさ。辛い食べ物を口にした時のように体の芯から熱を感じて、全身を刺すように蝕んでいた痛みがすうっと溶けるように消えていった。 

 足が軽い。重石のようだった骨肉が羽のようで、数えるのも億劫な生傷たちが綺麗さっぱり消失している。

 

 ほんの少し飲んだだけでこれだ。ほぼ一瓶分摂取したヴィクターは、まるで戦闘など最初から無かったかのように治癒が進んでいた。

 呼吸は規則的で深くなり、血の気の失せていた皮膚が健康的な肌色を取り戻して、風前の灯火が勢いを吹き返したのだと知らせてくれた。

 

「これが千年果花の霊薬……すごい……!」

「死期は脱したようだな。一晩も眠れば完全に回復するだろう」

 

 グイシェンはおもむろに日没を迎えた空を見上げ、すぅっ、と大きく息を吸い込むと、

 

「友よ、住処を荒らしてすまなかった。せめてもの手土産だ、くれてやる」

 

 威風と澄み渡る声を天高く響かせながら、斬り落とされた左腕を上空へ放り投げた。 

 宙を踊る腕は一陣の風に攫われる。

 生きた星空のような煌然の黒竜が、グイシェンの腕を呑み込んだのだ。

 

「存外に楽しめたぞ、末裔の娘よ。久しく血沸く感覚を味わえた。願わくば、さらに力を蓄えた貴殿と相見える日を楽しみにしている」

「二度とごめんよ……ただのお茶だったら歓迎するわ」

「フフフフ、それはそれで楽しみだな。しかしアーヴェントよ、私が言うのもなんだが、千年前に袂を分かった我ら先祖の因縁に思うところは無いのか?」

「……ぶっちゃけマルガンは気に食わないわ。でもあなたはあなた。主義信条は相容れないけど、個人としては仲良くなれそうな気がするのよね」

 

 完全な善人とは言い難いが、グイシェンは決して外道に堕ちた悪党ではない。

 彼女には彼女なりの信念と覚悟が備わっている。三聖という世界を救うことを義務付けられた立場にあるために、一存だけで動くことの許されない不自由さが、時折その善性を歪めてしまうに過ぎない。

 

 シャーロットには、マルガンが与する天蓋領に家族を奪われた忘れられない過去がある。幾度となく酷い目にも合わされた。

 今だってそうだ。天蓋領の勝手な都合で裁定などというわけのわからない死闘をさせられ、これまでにないほどの命の危機に直面した。

 

 もしこの戦いにグイシェンの我欲が混ざっていたなら、シャーロットは嫌悪を抱いていたかもしれない。

 けれど、どちらかと言えば彼女は戦いに消極的だった。和解の交渉を挟み、威圧してまで戦う選択を捨てさせようとしたのは、裁定の決闘そのものが本意ではなかったからだ。

 

(あのお方とやらの意図を測りかねてるってグイシェンは言ってた。上からの圧力で従わざるを得なかったってところなんでしょうね)

 

 なればこそ、個人として憎悪を向けるべき相手では無いのだ。

 敵対こそすれ、シャーロットはそこまで感情に支配される女ではない。

 

「…………ああ、私も似たような気持ちだよ」

 

 薄く、薄く、霞のようにグイシェンは微笑んだ。

 二大王族のしがらみとは無関係に、シャーロットという少女のことが心の底から気に入ったと、嬉しそうに見せた笑みだった。

 

「ではな。また会おう、シャーロット」

 

 言葉を皮切りに、グイシェンは淡い光に包み込まれて姿を消した。

 

 風に吹かれ、夜が目覚める。

 気付けば空はすっかり暗幕に包まれていた。山頂から見上げる星空は眩しいくらいの満開で、黄金に輝く月明かりが絢爛に花園をライトアップしている。

 

「ヴィック、起きられる? 全部終わったわ、家に帰るわよ」

「ぅぐ……」

「辛そうね。少し休んでからにしましょうか」

 

 意識は戻らない。だが千年果花の力で傷は治っている。目覚めるのも時間の問題だろう。

 それまでの間、ヴィクターを寝かせて待つことにした。

 

「んしょ。体が大きいとサイズが少なくて大変ね」

 

 山頂はただでさえ冷える。夜になれば尚更だ。

 低体温症にならないようポーチから取り出した毛布をそっと被せつつ、ヴィクターの頭を膝に置いた。

 

 その時だった。

 花弁を大きく舞い上がらせるほどの突風が、火口の湖に波を生んだかと思えば。

 世界樹に住まう黒竜が、翼をはためかせながら二人の前に降り立ったのである。

 

「っ」

 

 グイシェンによって御されていたこの竜は、戦いの時も横槍を入れることなく世界樹の樹上で様子を見守っていた。

 今、この頂点捕食者の手綱を握る存在はいない。

 

 まさかここに来て竜と戦うのか──胸を騒めかせた杞憂はすぐに失せた。

 

 竜は何もしなかった。

 生きた夜空のように美しく巨大な竜は住処を荒らされた怒りや敵意のようなものは微塵も感じさせず、ただただじぃっと、満月の瞳でシャーロットを見つめていた。

 

「……ど、どうしたの?」

 

 縦に割れた瞳孔に目を合わせると、不意にノイズが脳裏を駆けた。

 思念とでも言うべきか。目の前で鎮座する竜の感情が、手紙になって届けられたかのように頭の中へと響いてきたのだ。

 

 ──永い、永い、ただ生きているだけの退屈な日々。

 ──干乾びるようだった永劫に余興という潤いを与えてくれたこと、我が縄張りから不浄の者を退けてくれたことを感謝する。

 ──これはその礼だ。懸命なる小さきもの、末裔の子よ。どうか受け取っておくれ。

 

 人の言葉に直すならば、竜はそう言っていたことだろう。

 黒竜はそっと鎌首をもたげ、シャーロットに顔を近づけると、一粒の涙を地に落とした。

 不思議な現象が起こった。外気に触れた涙は雫状の結晶と化し、オパールのような虹色の輝きを孕むクリスタルに姿を変えたのである。

 

「……くれるの?」

 

 そっと拾い上げれば、鉱物質な見た目とは裏腹に仄かな温かさが手を伝った。

 まるで水晶で出来た心臓だ。とくんとくんと凝縮された生命エネルギーを波打たせる竜の涙は、それそのものが生きているのかと錯覚させられるほどの魔力塊だった。

 

 大事に抱え、竜に向けて笑みを返す。

 

「こちらこそ、花蜜を許してくれてありがとう。お陰で妹の命が助かるわ。そのうえ竜の涙石まで……本当に良いの? お家を荒らしちゃったのに」

「■■■■」

「……ん、わかった。有難く頂いていくわね」

 

 竜は満足気に喉を鳴らし、空を覆うほど大きな翼を広げると、世界樹に向かって飛び去っていった。

 意外とフレンドリーな子なのね、とシャーロットは生まれて初めて竜と言葉を交わした感動を胸に仕舞い込みながら、呻き声を上げてのっそりと起き上がったヴィクターを見た。

 

「うぅ……んむ……む……はっ!? グ、グイシェンは!? どうなった!?」

「落ち着いて。もう全部片付いたわ」

「片付いたって……おいおいまさか、ここは天国じゃあるまいな!?」

「違うわバカ。勝ったのよ。ふふ、一泡吹かせてやったわ」

「勝った……? アレに勝ったのか!? ははっ、やっぱシャロはすげーな! 俺ァ手も足も出なくて……!」

「何言ってんの、これは二人の勝利でしょ。ほら、ハイタッチ!」

 

 差し出された手にまばたきをして、破顔。ヴィクターは景気よく手を叩いた。

 乾いた凱歌が木霊する。二人は長い旅の決着を、ようやく噛み締めながら笑いあった。

 

「さ、千年果花の霊薬も手に入れたことだし、コロポックルたちを迎えに行きましょ」

「ああ。家に帰ろう。妹ちゃんが待ってる」

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