32.「前途洋々、大きな一歩」
シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントという少女を形容するならば、それは仁愛と覚悟の女である。
先天の病魔に蝕まれる妹を救うことの出来ない無力感から頼れる姉になることを誓い、ひたすら努力に身を投じた純真の心。
忌々しい炎に家族を奪われながらも、残された幼い肉親を守るための剣にならんと内なる少女を捨てた覚悟。
しかしなお報われず、物言わぬ一族の墓標にアーヴェントの復活を誓った仁愛の血盟。
どれもこれも、根幹にそびえ立っていたのは家族への深い愛情だ。
父が。母が。従者が。妹が。かけがえのない宝物のように大好きだったから、かつてシャーロットは誇りを捻じ曲げてまで、生贄の禁術に手を伸ばそうと道を踏み外しかけた。
そんな少女が、亡くなったと思い込んでいた唯一無二の肉親が帰ってきたらどうなるのか。
答えは至極単純かつ明快にして端的。反動で無敵の姉バカが生まれる。
「はぁぁ~~~~んリリン可愛いよリリンほんっと髪の毛サラサラで特上の絹みたいだしお肌モチモチで真珠かなって感じだしお人形さんも目じゃないくらい綺麗だしミルクみたいに甘い香りするし生まれてきてくれて感謝しかないああ本当私の妹世界一かわいいこれもう星の平和が永遠に約束されたと言っても過言じゃないんじゃな」
「お、おねえちゃん苦しい」
「あっごめんねお姉ちゃん強く抱き締めすぎちゃったね大丈夫? 痛いところあったらすぐに言いなさいよほんと遠慮なんてしなくていいからお姉ちゃんにとってリリンが一番なんだから」
(おにいさん助けて……)
(すまんリリンフィー。俺にはその化け物をどうすることもできない)
リリンフィーが目覚めたその翌日。朝からずっと姉に愛でられ続ける妹の姿があった。
完璧に膝の上に固定されている。それでいて病弱なリリンフィーの負担にならないよう、繊細な緩衝魔法の数々を同時多発的に駆使することで、快適安楽シャーロット椅子と化していた。
長年溜まりに溜まり続け、もう二度と会えないと胸の奥に封じていた姉妹愛が核融合並みのエネルギーで爆発した結果である。
「リリン~リリンリリンリリン~」
(自我を失ってやがる……遅すぎたんだ……)
妹愛で専門ゴーレムと化しているが、一日リリンフィー分を摂取すれば多分恐らくきっと元に戻るだろう。
一方のリリンフィーも、苦笑気味ではあるものの、久方ぶりの姉との再会を喜んでいた。彼女なりに心の底から嬉しいことに変わりはないのだろう。
が、圧が強すぎて飼い主に構い倒されるペットの如く目が死んでいる。
光を失った空色の瞳で忘我を揺蕩う妹の勇姿に、ヴィクターは拳をグッと握って健闘を祈るのみだった。
「みんなー。お茶出来たよー」
「おじゃま。おじゃま」
助け舟を出したのは、ガラガラと銀の台車を押しながら入って来た小さな従者たちだ。
フリル着きの白いエプロンと濃紺のワンピースを組み合わせたような、クラシックとガーリーを融合させたドレス姿である。
頭にはクラゲのようにふっくらとした純白の帽子が。さながらメイドコロポックルと言ったところか。
館で心機一転と働くために、シャーロットの手で新調された衣装である。
「あら、良い匂いねー。スコーンも焼いてくれたの?」
「うん。コック長の自信作」
どうやらさっそく、料理上手な
香り立つ麦の優しいフレグランスと食欲をそそる黄金色の焼け具合に、さすが手先が器用な種族だと舌を巻く。
「ねえねえ王の血。あとで皆と食べていい?」
「もちろん。喧嘩しないよう仲良くね」
「やったー! おやつー!」
「んぅ、今はお仕事! お茶注ぐの!」
「はーい……」
凛としたツリ目の
互いが限りなく同一人物に近くとも、やはり個性はしっかりと存在するようだ。
今度名前を考えなければと、シャーロットは膝上のリリンフィーを隣の椅子に座らせながら思案する。
「お砂糖とミルクは?」
「私はストレートで」
「わたし、ミルクたっぷりがいい!」
「俺は昨日のやつで」
「かしこまりー。どうぞみなさま」
「お、おにいさん……? 山みたいなお砂糖でカップ埋まってるけど本当にそれで良いの……?」
「紅茶絶命してるでしょそれ」
「バカ言え。これがイイんだこれが」
何の躊躇いもなく糖の山を呷る。飲み物と呼ぶには冒涜的過ぎるカスタマイズだが、本人は満足気だった。
あまりにも教育に悪いので、絶対に真似しないようにとシャーロットは妹に言い聞かせる。
「リリン、スコーン自分で食べられる? まだ腕の力が戻ってないんじゃない?」
「ん……ちょっと辛いかも。リハビリしなきゃだね、あはは」
「もどかしいかもだけど、少なくとも今日までは無理しちゃ駄目よ。本格的に頑張るのは明日から。ほら、フォーク貸して」
妹のスコーンを小さく切り分け、あーんと口に運んであげる。
リリンフィーは少し気恥ずかしそうに受け取って、豊潤に広がる焼き菓子の甘みに思わず笑顔。
少しずつ食べさせてもらいながら頬を綻ばせる姿はまるで雛鳥のような愛らしさだ。シャーロットは喜ぶ妹の笑顔に終始デレデレだった。
(こりゃ将来リリンフィーが結婚相手でも連れてきたらヤベーことになりそうだな)
「今リリンがお嫁に行くって考えたのはアンタかァ……?」
「何で頭ン中読めてんだよ!!」
「当たり前でしょ! 私の可愛いリリンをどこの馬の骨とも知れない野郎にくれてやるだなんて、想像するだけで胸が張り裂けそうになるもの!! せめて私を倒せるくらい気骨の在るヤツじゃないと────私を……倒せそうな……男…………ヴィクター、部屋から出て行きなさい。リリンの半径20km以内に近づくな」
「お前妹のことになると虫みてーに頭弱くなるな!?」
「うるさいうるさいうるさーい!! 誰が何と言おうとこの子は絶対渡さないもん!! お嫁に行かせるだなんて、天地がひっくり返ったって許すもんですか!!」
「おねえちゃん、重い」
「王の血が死んだ!?」
「
妹からの愛が重い発言に心臓をぶち抜かれ、顔面から床にぶっ倒れたシャーロットの背に乗った
「うぅ……リリンから重い女って言われた夢を見た気がする」
「現実だぞ」
「っと、そろそろお買い物に町へ行かなきゃ。えーっとコロポックルたちの服にリリンのための用品にーめもめもー」
「現実を見ろ」
「それじゃパパッと行ってくるわ! すぐ戻るからね!」
旋風のように部屋を飛び出し、新生活に向けての準備をすべく町へ向かったシャーロット。
台風一過に取り残されたヴィクターはリリンフィーと顔を合わせ、苦笑。
慌ただしい雰囲気ではあるものの、かつてどん底に沈んでいたシャーロットに本物の笑顔が戻ってくれたことに、ヴィクターは心から安堵を覚えるのだった。
「あっ、言い忘れてたけど買い物行ってる間に変なことしたらぶった斬るわよ!」
「さっさと行ってこい!!」
◆
千年果花の霊薬により、リリンフィーを侵食していたエマの呪いは完全に消え去った。
しかし長らく強制的に休眠状態にさせられていたリリンフィーの肉体は、持ち前の病弱さと相まって自立歩行が困難なほど筋肉量が低下してしまっていた。
霊薬の効果はあくまで身体的異常を正常に治すだけだ。
例えるなら水路の整備。氾濫した河川を舗装し、あらぬ方向へ溢れ出ていた水の通り道を一本筋に正したようなものである。
流れる水そのものを増やしたわけではない。元々痩せていたリリンフィーが、急に立って歩けるようになるなど不可能なのだ。
こればっかりは時間をかけて体を作り、元の状態へ少しずつ戻していく他に道はない。
というわけで、リリンフィーはリハビリが完了するまでの間、反重力術式によりホバークラフトして移動できる安楽椅子を使って広い館を移動している。
「ふわぁ、お陽さま気持ちいいなぁ」
リリンフィーの要望で館の屋上を訪れた二人は、差し込む柔らかな日差しを浴びながらまったりと時を過ごすことにした。
背に巨大な時計塔が立つ広々としたスペースだ。昔体調が良かった日には、家族がここでパーティを開いてくれたのだという。
思い入れ深い場所だからか、リリンフィーはどこか懐かしむように目を細めながら、んーっとノビをして陽だまりの中に吐息を溶いた。
「良い天気だな。風も無いし過ごしやすい」
「ええ、とっても良い気持ち。前はこうしてお外に出ることも難しかったから、なんだか新鮮……」
「んじゃ、出来なかったぶんまで存分にリラックスしようぜ」
リリンフィーの膝にブランケットをかけ、そばに折り畳み椅子を置いて座る。
「辛くなったら遠慮なく言えよ。千年果花のおかげでコンディションは最高だろうが、油断禁物だからな」
「うん。ありがとう、おにいさん」
見るものをほっこりとさせる野花のような笑顔。
腰ほどまで伸びる白絹の髪。晴天を綴じた空色の瞳。人形のような白磁の肌と細身の体。
おっとりとした性格も相まって姉とは正反対な雰囲気だが、微笑む姿にシャーロットが重なって映るものだから、やはり姉妹なのだなと実感させられる。
「……ん?」
ふと何気なく、そばの時計塔に視線がいった。
正確には塔の壁面だ。古ぼけた赤褐色の壁面に、小さく荒々しい数字で「14999」と彫られている。
刃物の切っ先でガリガリと乱雑に抉られたようなそれは、輪郭が丸みを帯びて小さな亀裂を走らせ、溝を蛍光色の地衣類がうっすらと覆っていた。
どうにも年季の入った風化具合を感じさせる。
数年前そこらに刻まれたものではない。数十年、いや、もっともっと古い時代に、それこそ館が建てられた時から存在しているかのような、言い知れぬナニカを感じる彫刻だった。
(なんだ? あの壁の数字、見覚えがある……気がする。すげー懐かしいような、つい昨日見たばっかりのような……)
「おにいさん、どうかしたの?」
「! いや、あの壁の数字が妙に気になってな」
「壁……ああ、あれ? なんだろうね。わたしが生まれるずっと前からあるみたいだけど」
直感は的中したようで、やはり長い年月を時計塔と共に過ごしてきたものらしい。
そんな代物にヴィクターが既視感を覚えるというのは如何なる因果か。ひょっとして失われた記憶と深く関わりのあるものなのか。
少しばかり頭をこねたが、思い出せそうにないのでスッパリと切り捨てた。
「こうして二人でお話しするのは初めてだね」
言って、リリンフィーは風に攫われた髪を抑えながらヴィクターを見た。
「おねえちゃんから聞いたんだ。わたしたちのこと、あの人から命を賭けて助けてくれたって。あらためて、本当にありがとう」
「フッ、気にすんな。俺は正しいと信じるもののために戦っただけだ。……てのはどう? ヒーローみたいでカッチョいいか?」
「ふふ。うん、とっても格好良いよ」
「お、おォ」
冗談のつもりだったのが無垢に返されてしまったものだから、どうにも気恥ずかしくなって空を仰ぎながら頬を掻いた。
そんなヴィクターを下から覗き込むように、リリンフィーは言う。
「おねえちゃんね、おにいさんのことよく話してくれたんだ。強くて、真っ直ぐで、とても頼りになる人だって。だから安心して頼っていいって」
「アイツそんなこと言ってたのか!? クソ、なんかムズ痒くなっちまうじゃねーかよ……!」
照れ臭さが限界に達したヴィクターは背中を掻きむしり、ハチに刺された猿のように悶え苦しんだ。
リリンフィーは口元に手を当てて淑やかに笑いながら、さらに唇を紡ぐ。
「ねね。おにいさんはおねえちゃんのこと、どう思ってるの?」
「あん? どうって」
「好きなの?」
「ぶふっ」
想定の遥か斜め上より飛来した爆弾に、思わず咳がノドを突き破って家出した。
ゲホゲホ噎せ返る。ドンドン胸を叩いて肺をなだめながら、ニコニコ喜色満面なリリンフィーと今一度目を合わせて。
「すまん、なんだって? 今シャロのこと好きかって聞いたか?」
「そうだよ。おねえちゃんのこと、どう思ってるのかなーって。もちろんお友達としても、女の子としても。ねぇねぇどうなの?」
「……ンなの、好きに決まってるさ」
予想外なほどあっさり投げ返されたその言葉に、リリンフィーは両手で頬を抑えながら「わっ」と驚いたような声を上げた。
「す、すごくキッパリ言うんだね……? おねえちゃんテコでも無難なことしか言わなかったのに……!」
「そりゃなあ。まず優しいだろ、家族想いだろ、努力家だろ? んでもって強くて、しっかり芯が通ってる。美味い飯や可愛いもんを前にしたら目を輝かせるギャップも可愛い。あとシンプルに超がつくほど美人。そんな子に命を助けられて惚れない男なんざこの世にゃいねーよ」
指をひとつづつ折り曲げながら、ヴィクターはつらつらと心中を並べ立てていく。
リリンフィーにとっては、ちょっとした好奇心のつもりだった。
目が覚めたら姉が年の近い男の人を連れていて、しかも憎からず思っている様子だったものだから、じゃあヴィクターの方はどうなのかとぶつけた疑問だった。
それがまさかここまでストレートに返球されるとは思ってもみなくて、爆弾を投げつけた張本人ではあるが、リリンフィーは何かの閾値を超えたのか「きゃあ~っ!」と口を手で隠しながら黄色い悲鳴を響かせた。
「だ、大好きじゃん! おねえちゃんのこと大好きじゃん!」
「おお。改めて考えてみりゃ俺、シャロのことめっちゃ好きかもしれねえ」
「きゃーっ! きゃーっ!」
くねくねと悶える。まだ弱っているはずの体に新しい燃料が追加されたかのように機敏な動きだった。
「そんなデケえ声出してるとノド枯れちまうぞ」
「むっ、むしろなんでそんな冷静なのおにいさん!? こういうのって普通、湧き上がるドキドキに身悶えたりするものなんじゃ……!?」
「うーん……上手く言えねえんだけどなんつーか……馴れてるっていうのか? ずっと昔から焦がれてたような気がするんだよな、アイツのこと」
シャーロットは贔屓目を抜いても、世間一般的に美少女として認識されるほど整った美貌の持ち主だ。
涼しく薙ぐような切れ長の眼。長い睫毛。すらりと伸びた鼻筋に、薄桃色の唇。夜風のような艶を孕む深海色のボブカット。練り上げられた黄金比率のプロポーション。
すれ違えば誰もが振り返るほどの麗らかな少女と、ひとつ屋根の下で暮らして何も意識せずにいられる男など存在しない。
にも関わらず、ヴィクターは非常に順応が早かった。
命の恩人に邪な感情を向けるべきではないという自律心もあったが、それ以上に、胸の中でパズルの欠片がピッタリと嵌るような安心感があったからだ。
まるで何年も共に過ごしてきたパートナーに向けるようなソレのおかげか、好意を問われたところで別段、取り乱すほどの動揺も生まれなかったのである。
「じゃあじゃあ、その、おねえちゃんに気持ちを伝えたりとかって……?」
「しない」
「えっ、どうして?」
「シャロの足を引っ張っちまうからな」
言葉の意味を上手く噛み砕けなかったのか、小首をかしげるリリンフィー。
ヴィクターはくすぐったそうに笑いながら、落ち着いた声色で淡々と言った。
「アイツはたくさん挫けてきた。色んなものを失って、泣いて、それでも諦めなくて。頑張って、頑張って、ようやくやり直せるところまで這い戻ってこれたんだ。けど、まだまだやらなきゃいけねーコトは山のように残ってる」
「……」
「コロポックルたちへの仕事や私生活の引継ぎもまだ不十分。館の修繕も取りかからなくちゃいけないし、何よりリリンフィー、お前と新しい生活を歩んでいくための準備が必要だ。シャロは大好きな妹を取り戻したい一心で、ボロボロになってまであの三聖に喰らいついたんだからな」
シャーロットは今、失ったぶんの人生を取り戻すためのスタートラインにようやく立てた時分にある。
苦しんで、苦しんで、やっとの思いで掴み取った幸せへの再出発。
そんな彼女に今いちばん必要なのは、様々な物事を整理するための時間と、たっぷりの休息に他ならない。
「だってのに、俺の都合で一方的に気持ちを押し付けて場を引っ掻き回すなんざ、ただのエゴでしかねえってことさ。後先考えねえ独り善がりだな。シャロは優しいから真剣に受け止めてくれるかもしれねえが、だからこそ不要な鎖でアイツを束縛しちまうことになる。今だけは駄目だ。シャロを一番に想うなら、絶対にやっちゃいけねえことなんだ」
「……おにいさん、本当におねえちゃんのことを考えてくれてるんだね」
リリンフィーは心から嬉しそうに微笑んで、ヴィクターと向き合いながらペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい。おにいさんは真剣に想ってくれてたのに、無遠慮にズケズケと踏み込んじゃった」
「気にすんな。考えなしに聞いてきたわけじゃねーのは分かってるからよ」
「あはは……敵わないなぁ」
ヴィクターはかつて、エマに囚われていたリリンフィーから助けを求められたことがある。
自分自身を──ではない。洗脳され、悪逆非道に誑かされている姉を救って欲しいのだと、変異の激痛やエマの恐怖に襲われながらも、自らを捨ててまでシャーロットを優先することを選んだのだ。
彼女もまた高潔なアーヴェントの血に連なる、愛情深い少女だという無二の証明だった。
だからこそのカマ掛けだったのだろう。多少強引ながら、ヴィクターという未知の人物像をはかるため、心情を聞き出そうとしていたのだ。
それもまた、姉を思うがゆえに。
「……怖かったの。知らない人がおねえちゃんと仲良くしてて。もしかしてまた騙されてるんじゃないかって。私もあの人のこと……本当のおねえちゃんだって思い込んでたから」
「あんなことがあったんだからな、そりゃ当然の反応だ。なーんにも気負わなくていいさ。むしろ敵意剥き出しでもおかしくないところを、そうやって俺を理解しようとしてくれたってだけで嬉しいよ」
「……ありがとう。えへへ、やっぱりおにいさん優しい人だ」
ほんのり頬を桃に染めて、照れたようにリリンフィーは笑った。
ちょうどその時だ。屋上のドアが勢いよく開いたかと思えば、買い物から帰ってきたシャーロットが怒涛と登場したのである。
「リリーン! たっだいまー!」
「お帰りおねえちゃん。ずいぶん早かったね」
「そりゃもう! 一秒でも早く帰りたくって音速で済ませてきたから! あっ、ヴィック、畑でコロロちゃんが呼んでたわよ。手伝って欲しいことがあるって」
「ん? コロロちゃんってコロポックルのことか?」
「そそ。全員コロポックルって呼ぶのは紛らわしいじゃない? だから皆に名前着けて回ったの。畑担当の子はコロロちゃん。あとで名簿作って渡すから確認してね」
「了解。んじゃ、行ってくるぜ」
バトンタッチする形で、ヴィクターは屋上を後にしていく。
シャーロットはヴィクターが座っていた椅子にツカツカやってきて腰を下ろすと、背もたれに思い切り体重を傾けた。
途端、糸が切れた人形のようにカクンと俯いてしまう。
「? どうしたのおねえちゃん」
「……」
「おねえちゃん? おーい」
「…………」
声をかけても反応が無い。指先一つ微動だにしない。
というか、もはや呼吸すらしていないのではないか?
まるで琥珀の中に閉じ込められてしまったかのようなシャーロットを不思議に思い、リリンフィーは伏せられた表情をそっと下から覗き込む。
耳まで熟れたトマトが褪せるくらい真っ赤っかな、瞳を困惑と含羞に潤ませている姉の顔がそこにあった。
「ははーん、なるほどなるほど。さっきの全部聞いちゃったんだ?」
「っ!? い、いや……これはそのっ! は、走ったから暑くなっただけっていうか……!!」
「んふふー。本当はコロロちゃんのことも、恥ずかしくておにいさんを追い払うための嘘だったんでしょ? わざわざ畑におにいさんだけ呼ぶ理由がないもんね」
「ひぅ、っ、ぅ」
まだ赤くなるのかというくらい朱に染まるシャーロット。
きゅっと唇を結び、いつもの気丈な振る舞いがウソのように萎れている。
離れていても心臓の音が聴こえてきそうな狼狽ぶりに、リリンフィーはニヤニヤと意地悪な笑顔を浮かべた。
「ふふ。おねえちゃん可愛い」
「っ~~~~! み、見ないでよぉっ……! もうやだ、恥ずかしい……!」
──シャーロットは年頃の少女ではあるが、色恋はおろか家族以外から好意を向けられるような状況とは無縁な生活を送って来た人間だ。
常に愛情を注ぎ、世話に回る側の立場だった。言うなれば根っからの姉気質だ。
おまけに波乱万丈な人生もあって、一時は人間不信に陥り、第三者からの親愛という存在そのものがまるで受け付けられなくなったほどである。
つまるところ一切の免疫が無い。手向けられたソレを受け止める土台が備わっていない。
だというのにあんな、混じりっ気もないストレートな好意を、間接的とは言え真正面からぶつけられて。
しかもそれが、どん底に沈んでいた自分を力強く引っ張り上げて、前を向かせてくれた男の言葉ともなれば。
「ぅ……ぁああああ~~!! うがぁあああ~~~~っ!!」
キャパシティを超え、オーバーヒートを起こしてしまうのは自明の理であった。
(……決めた。二人のこと、精いっぱい応援しよう。おねえちゃんはわたしのためにいっぱい頑張ってくれたんだもん。もう自分の幸せを考えても良いんだよって、今度は私がサポートする番だ)
生まれてからずっと、病弱という先天の呪いに蝕まれ、姉に世話をかけてばかりだった。
恩を返したくても返せない自分の体が恨めしかった。何も出来ないくせに何が『純血』だと涙を流す夜もあった。
今は違う。両手で抱えきれないくらい貰ったいっぱいの恩を、ようやく返せるチャンスがやってきたのだ。
身悶える姉の姿を微笑ましそうに眺めながら、胸にひっそりと決意を燈す。
誰よりも大好きな姉に幸せになってもらうため、出来る限りの手助けをするんだと。
「ね、ねぇ、どうしようリリン!? 私っ、ヴィックにどんな顔して会ったらいいのかなぁ!?」
(……それはそれとして、わたしも楽しませてもらおうかなっ。こんなに面白いおねえちゃん、見逃すわけにいかないもん)
リリンフィー・ウェンハイダル・アーヴェント。
純真無垢で淑やかな幼き令嬢だが、意外と鋭くて計算高い、ちょっぴり腹黒な少女である。