『軛は解かれた。人の子よ、新たなる試練へ備えるがよい』
『運命を伏せるには未だ力が足りぬ。志を一堂にせよ。集いし魂の御旗となれ』
『竜の涙を携え、未踏の山岳を目指せ。そこに次なる鍵は在る』
『眠れる千古不易に黎明を賜す時が来た。茫漠の夢より醒めし宙の大智、汝らの盾と成るであろう』
◆
まだ朝日も顔を出さない未明の帳。
飛び起きるような目覚めの不快感に、ヴィクターはしわしわと顔をしかめながら吐息を散らした。
「久しぶりに見たな、あの夢の化け物……ったく、寝起きが悪いったらありゃしねえ」
最後に見たのは確か、リリンフィーを見つけた日だったかと頭を掻く。
島で生活を始めてからというもの、たびたび夢の中に現れていた異形の存在。
お告げを授ける霊夢のようなソレの正体は依然不明だ。しかし、あの怪物が囚われのリリンフィーを発見する一助になったという無視し難い経緯がある。
どうにもまどろっこしい言い回しのせいで要領を得ないが、今回もきっと何か意味があるのだろう。
ただの夢と片付けるには、あまりに多くのことが起こり過ぎた。
「紙とペンどこにやったかな。忘れねえ内にメモしとかねえと」
ヴィクターは振り回されたカゴの鳥のように揺れる頭を冷水で落ち着かせて、霞みがかった夢の記憶を、化石を扱うように少しずつ掘り起こしては記録した。
「えーっとなんだっけ……未踏の山岳? 今度はそこに行けってか? なんだよ未踏の山岳って。むしろ踏み入ったことのある山のほうが少ねーっての! もっとハッキリ名指しで言いやがれこの野郎!」
タオルで搔き毟るようにガシガシと髪を乾かしながら悪態を吐く。
謎解きは苦手だ。自分自身、頭がそれほど良くないという自覚がある。みょうちきりんな言い回しをされては分かるものも分からない。
走り書きした夢の粗筋を眺めていると、不意に軽快なノックがドアを叩いた。
「入っていいぞー」
「クロウデ。おはよー」
「ふぁ……ほあよーございましゅ……」
「エルルとノノか。どうしたこんな早くに?」
やって来たのは、主に給仕を担当している
先日シャーロットの案で名前を付けることとなり、しっかり者でハキハキとしたツリ目のコロポックルはエルル、垂れ目を眠そうに擦りながら舟をこいでいる巻き毛のコロポックルはノノとなっている。
ついでと言ってはなんだが、
というのも、世間的にアーヴェントという素性を隠して生活している都合上、「王の血」呼びでは町へ一緒に買い物へ行った時などに不都合が生じるからである。
一方、ヴィクターはクロウデ呼びから変えてもらえなかった。というよりキンニクとクロウデの二択で選ぶ余地が無かった。運命を呪った。
立ち話もなんだと部屋の中に招き入れれば、よほど眠かったのか、ノノは真っ先にベッドへよじ登って速攻寝息を立ててしまう。
「こらーっ、ノノ! ここクロウデのお部屋! 起きるの!」
「ふみぅ……すぴぃ……」
「もー!」
「寝かせてやりな。今日は休みなんだろ? まだ日も昇ってないし」
「……クロウデがそう言うなら」
相方に馬乗りになってベシベシ頬を引っ叩いていたエルルが、しかたないと不服そうに手を止めた。
ノノはあれだけビンタを貰ってもまるで起きる気配が無い。幸せそうに頬を緩めて夢の世界に旅立っている。
「お茶いるか?」
「あ、わたし淹れるよ!」
「いいって。座って待ってろ」
「ん。ありがと、クロウデ」
来客をベッドに座らせ、テーブルを寄せながらモーニングティーを淹れていく。
砂糖とミルクを添えて差し出し、自分のカップには山のようにミルクと糖の絨毯爆撃を降り注がせた。
エルルは角砂糖ひとつとミルクを溶かしながら、うわぁとヴィクターのお茶が命を終えていく凄惨な光景に顔を顰める。
「クロウデ。それ絶対体に悪い」
「でも美味いんだ」
「そういうことじゃない……」
「まぁまぁ。で、どうしたんだ?」
「クロウデ。話逸らすのよくない」
「で、どうしたんだ?」
「んぅーっ!」
頑として聞き入れない糖中毒ゴリラにぷんぷん憤慨するもどこ吹く風である。ちいさな両腕を上げて抗議する姿がどうにも微笑ましいせいか。
諦めたエルルはカップに口をつけ、思いのほか紅茶が熱くてアチアチ格闘しながら言葉を紡ぐ。
「あのね。お山がね。クロウデとお嬢さまを呼んでるの」
「お山が呼んでる?」
こくりと頷き、エルルは続ける。
「声が聞こえたの。二人を呼べって。お山に来いって。わたしたちみんなに聞こえたの」
──偶然とは思えなかった。
未踏の山岳を目指せ。そう夢の怪物から告げられた日に、エルルの口から飛び出したこの言葉。
もはや関連性は疑いようがない。こうなっては件の山岳とやらを調査し、謎を解明するほかにないだろう。
そして、魔力を精密に感知する特殊な能力を持った
「あっち」
ヴィクターの疑問を掬いとるように、エルルが背後を指し示した。
向かうべき場所は窓を抜けた先。館の背に鬱蒼と茂る、『狩場』と呼ばれる魔獣を狩猟していた森のさらに奥。
常に濃霧で覆われた、神秘的で近寄りがたい島の深奥である。
◆
エルルいわく、山にはヴィクター独りではなくシャーロットと共に行かなくては駄目なのだと言う。
理由は不明だ。
しかしながら間の悪いことに、ここ3日ほどシャーロットに避けられっぱなしでいる状況にある。
話しかければ電気を流されたように飛び跳ねて逃げ出し、捕まえたと思っても頑なに顔を見せない。
声も狂った心電図のようにグラグラで、終いには魔法を使って姿を消してしまう始末。
なぜ避けられているのかとリリンフィーに相談してみたものの、ニコニコ掴みどころのない笑顔と一緒に「今はそっとしておいてあげて」とだけ。
別段、嫌悪から避けられている様子でもなかったので、まぁ女の子は何かと入り用なのだろうと放置していたのだが……こうなった以上、是が非でも探し出さなくてはならなくなった。
(今の時間帯なら、きっと何処かでトレーニングでもしてるはずだ。中庭と砂浜辺り回ってみるか)
かつてのような呪いに等しいアーヴェントの使命感からは解放され、幾分の余裕を取り戻したシャーロットではあるが、そのストイックさはまるで
むしろ三聖グイシェンとの戦いで思うところがあったらしく、ただでさえ過酷な自己鍛錬へ更なるメニューを上乗せしているというから驚きである。
避けられてさえいなければ同伴したかったのに残念だ、とヴィクターは溜息。
「この辺りか」
心当たりのある場所を巡っていくと、砂浜にまだ刻まれて間もない足跡が。
痕跡に続く。途中、浜を抜けて森を目指したらしく、踏みしめられて萎れた草葉の名残があった。
道しるべに従って歩いていく。すると、微かに異音が聴こえてきた。
ダンッ、ダダンッ、ダダダンッ、と猛烈な勢いで物体同士が衝突し合う轟音だ。
規則的に響き渡るそれは歩を進めるごとに音圧を増し、少女の位置を的確に知らせてくれる。
音の波が肌を打つほどの距離ともなれば、開けた窪地の中央に荒縄を巻いた柱を突き立て、一心不乱に打撃を叩き込むシャーロットの姿が見えてきた。
切れる水のように流麗で、荒ぶる鉄槌の如く豪快な業前。
以前目にした型稽古の時よりも遥かに洗練された武の鼓動に、「ほぉ」と感嘆の声が無意識のうちに漏れ出てきた。
「よぉシャロ。仕上がってんな」
「ひょわああああああああああっ!!?」
雷に打たれたかのような驚愕ぶり。シャーロットは釣り上げられた魚の如く飛び跳ねながら後退り、影をも踏ませぬ勢いで支柱の後ろに隠れてしまった。
「なななっ、何で
「用があってな。ここ数日俺のことを避けてたのは知ってるけど、どうしてもシャロに相談しなきゃならねえことが出来ちまったんだよ」
「違っ、別に避けてたわけじゃ……いや避けてたけど! でもそういうのじゃなくて!」
顔色をうかがわせないよう柱の影を利用しながら、シャーロットは弁明とも訴えともつかない言葉をまくし立てる。
一体全体なにをそんなに慌てているのか。ヴィクターは頭を掻きながら、シャーロットがこうなってしまった原因は如何なるものかと記憶の箱を紐解いた。
確か、3日前の昼までは平常運転だったはずだ。
夕方になってから──正確には買い出しから帰って来たぐらいから、明確に様子がおかしくなった。
昼頃と夕頃。その間にここまで狼狽するような出来事が何かあったかと考えて。
ひとつ思い当たる節が見つかり、ヴィクターは「まさか」と仄かに顔を赤くしながら天を仰いだ。
「あー、その。なんだ。もしかしてシャロがそんなになったのって──」
「わ──っ!! うわ──っ!! ストップストップ!! アンタ鋭いからゼッタイ図星突いて来るでしょ今すぐ黙りなさい刹那で黙りなさい!! せっかく落ち着いてきたところだったのに!!」
「わ、悪ぃ」
今にも噛みつかんばかりに荒ぶっている。離れていてもフーッ、フーッと荒い息遣いが聞こえてくるほどだ。決して鍛錬の疲労で酸欠になっているからではない。
一言でも喋れば爆発しそうな気配だったので、大人しく唇を噤んで待機に徹した。
「アンタはもう、本当にもう! この私が何でこんなことで心乱されなきゃいけないのよっ……! もう! もう!」
シャーロットにはその気持ちの正体が分からない。何故こんなに焦るのかも、熱くなるのかも、心臓が掻き鳴らされるのかも分かっていない。
ソレの概念は知っている。名前も知っている。けれど、自分がソレなのだと当てはめられないのだ。
そんなものとは無縁の人生を送り続けてきたがゆえに、萌芽した感情の色を見定められずにいた。
だから混乱する。知らないがゆえに乱される。
今のシャーロットは、たかが好意をぶつけられただけで何日も取り乱す自分の変化に戸惑っている状態だった。
その昂りをぶつけて発散するように、鍛錬に一層力が入っていたとも言える。
「落ち着け……落ち着きなさい……私はシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントでしょ……こんな程度で狼狽するわけがない……昔の私なら平気だったはず。そう、平気。私は平気。無我の境地。心はいつだって水平線……」
ぶつぶつと自己暗示に等しい言い聞かせを繰り返し、肺の中の空気を丸ごと絞り出すような長い溜息を落とした。
強く頬を叩いて、「よし!」と気持ちを切り替える。こうして最初からメンタルリセットしておけば良かったとでも言うような、清々しい表情になっていた。
「ごめん、取り乱したわ。もう大丈夫」
「おお。ンで用件なんだが」
「っ」
許可を得たので近づこうとしたら、何故か同じ歩幅だけ後退られた。
二人一緒に首をかしげる。
大丈夫じゃなかったのか。怪訝な眼差しを向ければ、ニコニコと貼りついたような笑顔。
「どうぞ。続けて?」
一歩進む。
二歩下がられる。
「なんで離れる」
「いいじゃない別に。細かいことは気にしないの」
「絶妙に話しにくいだろこの距離」
「私はかまわないわ。耳を澄ませばほら大丈夫。で、話ってなに?」
「…………汗気にしてんのか? 湯気立ってるしな」
「ッッッばか!! もうアンタ本ッッ当ばか!! ちょっとは鈍くなりなさいよこのあほんだらけ!! というか気付いても言うな!! ばか!! ば──か!!」
「いやお前、この前まで全然気にしてなかったじゃねえか!」
「うるさいうるさーい!! 昔と今は違うの!! デリカシー学んで来なさいよこの猿! スケベ!! 変態!!」
「ぶっちーん、言わせておけば馬鹿だのアホだの猿だのスケベだの変態だの! いくら海より広い心の持ち主たる俺の堪忍袋も大爆発ってもんだぜ! よろしい、ならば俺にも考えがあるッ!!」
「ぎゃああああああああああ来るな来るな走ってくるな近づくなバカぁ────ーっっ!!」
「ファハハハハ!! ショック療法だボケエッ!! ウジウジしてねえでさっさと慣れろオラァ──ッ!!」
森を全身全霊で走り回り、互いにヘロヘロになって草むらに倒れ伏す頃には、どんな顔して会えば良いのか分からない……なんて小さなわだかまりは、風に吹かれたように消えていて。
些細な切っ掛けで見失いそうになっていたヴィクターとの関係を、少女は思い出すことが出来たのだった。
そうだ。今はこのままでいい。
友人で、理解者で、奇妙な相棒で。たまに馬鹿をやって笑いあう。そんな関係で良い。
今はまだ、その時ではないのだから。
◆
言うまでもなく、全力疾走でスタミナが底を尽きた後に未知の山を登るなど無謀である。
そもそも準備すらまるで整っていないわけで。フィールドワークは入念な地固めこそが安心安全への第一歩であるのだから、その工程を決して怠るわけにはいかない
なので、お留守番の
「覚えてる? 『海の呼び声』でした約束」
「ああ。まさかこんな形で果たすことになるとはなぁ」
町へ遊びに出かけた日のことを思い出す。
船そのものが食事処へと改装された海鮮レストランで、海の幸に舌鼓を打ちながら語らった一節だ。
この地に住まう歴代のアーヴェントたちが立ち入ることを禁じていた島の奥地。そこには一体何が眠っているのかという、ささやかな好奇心である。
いつか探検してみようとは言ったものの、千年果花を探す旅やら何やらでお流れになっていた約束が、夢のお告げや
「探検もそうだけど、危険だったら引き返すってことも忘れないでよ? 何が居るのか分かったもんじゃないんだから」
元々島の奥への立ち入りが禁じられていた理由は、狂暴な魔獣が出ると代々伝えられてきたからである。
魔獣は言うなれば魔法を扱える野生動物だ。応じて知能も高く、生命力や身体能力も通常のソレとは一線を画す。
ウサギやネズミのような小動物ならばいざ知らず、クマやトラから派生した大型の魔獣ともなれば恐るべき脅威となる存在だ。
最も有名なのは、『
厚くゴワゴワとした強靭な毛皮は匠の武器すら通さぬどころか刃を
おまけに一帯を火の海に落とすほどの火炎魔法まで行使してくる始末だ。幾つもの小さな村が滅ぼされたという昔話も数知れない、特級の危険生物である。
今から足を踏み入れようとしているのは、そんな生き物が棲まうと伝えられてきた領域なのだ。
黄昏の森のような『禁足地』と同等の緊張感を抱くのは、当然の心構えというものだった。
「分かってるさ。島の謎も気になるが、折角リリンフィーを治したってのにこんなところで怪我しちまったら元も子もないからな」
「そうそう。一番大事なのは無事で帰ること。みんなを心配させるわけにいかないんだから」
帰りを待つリリンフィーや
気持ちを十分に張り詰めつつ、二人は霧の深い森の中へと足を踏み入れた。
「しかし厄介な霧だ。何も見えねえ。足元に注意する程度で精いっぱいだ。魔法で霧を晴らしたりって出来ないか?」
「もちろん対策してきたわよ。じゃじゃーん、こちら秘密道具の登場です」
得意げにシャーロットが取り出したのは古めかしいランタンだった。
透明な囲いに保護された芯にあたる台座には、オパールのような虹色の光沢を帯びた、手のひらサイズの水晶らしき物体がはめ込まれている。
「なんだそれ? 普通のランタンにしか見えないぞ」
「ところがどっこい、これはアーヴェントに伝わる宝具のひとつでね。周りを照らすんじゃなくて、
「ほー。よく分かんねえけど、あの時間を止める懐中時計みたいな秘宝シリーズか」
「そうそう。これを使えば暗闇だろうが濃霧だろうが砂嵐だろうが、晴れの昼空みたいにクリアになるのよ。隠匿の魔法だって看破できる優れモノなんだから。すこぶる燃費悪いのが欠点だけど」
それを解決してくれたのがこれ、と中心の結晶を指さした。
素人目に見てもただならぬオーラを放つクリスタルの正体は、辰星火山のドラゴンから授けられたという涙石だ。
竜種という、生態系の頂点に君臨する王者の持つ超高濃度の魔力が一点に凝縮、結晶化したそれは、例えるなら燃え尽きることのない燃料のようなもの。
効果と引き換えに莫大な魔力を消費する道具にはうってつけのアタッチメントだ。おかげで長旅であっても、ガス欠の心配なく使うことが出来る。
さっそくダイヤルを回すと、ジジジッと磁励音のような起動の知らせと共にランタンが輝き、一帯を覆い尽くしていた霧の帳が押し退けられるように排除された。
おおよその効果範囲は半径15mほどだろうか。森の中を歩くには十分事足りるパワーである。
「うおー、すげえすげえ! これなら安心安全に突き進めるな! やっぱ魔法ってヤツは便利なもんだぜ」
「あのドラゴンに感謝しなくっちゃね。ほんと燃費悪いのよコレ。魔力量に自信のある私でも、自前で発動させたら10分も保たないもの」
使用者に対する視認阻害を物理的にも概念的にも排除するというランタンの力は、対象効果の広さもあって相当なエネルギーを費やすのだろう。
それでいて燃料を消費し続けるともなれば尚のことだ。逆を言えば、そんなランタンに
「藪漕ぎは任せたわね」
「よしきた」
だんだん下草や低木が多くなってきたので、ヴィクターは鉈を使って先陣を切るように藪を突き進んでいく。
歩く。歩く。落ち葉を踏み、ガレ場を乗り越え、途中で見つけた小川を遡上しながら、道なき道を行進していく。
どれほど登山を続けただろうか。正確な時間は分からないが、スタミナに自信のある二人の足がパンパンに張って悲鳴を上げる程度には山登りに勤しんだはずだ。
勾配がだんだん急になってきているところから、いつも館から眺めている山の中腹には辿り着いたらしい。
「はーっ。流石にちょっと疲れてきたわね」
「エルルは行けば分かるって言ってたから、辿り着いたら何か目印が見えてくると思うんだがな……ちょいと休憩するか」
適当な岩場に腰を下ろし、一息。
ポーチから飲み水とパンを取り出して、森を眺めながら軽食を摂る。
「静かだな。生き物の気配はあるが、どこかシーンとしてる」
「空気も美味しいし、涼しくていいところね。霧と虫さえ無かったらだけど……。あむ、あむ。んーっ! やっぱ外で食べるご飯は格別だわ」
「マジで同感だ。普段の倍ぐらい美味く感じるよなぁ。疲れた体にもグッと沁みるってもんだぜ」
「おひとつ頂いてモ?」
「おいおい、自分の分もちゃんと作ってもらってるだろ? どんだけ食いしん坊だ────」
いや、ちょっと待て。何かがおかしい。
シャーロットは現在進行形で、自分のパンを頬張っている真っ最中だ。
そもそも声が女のソレではない。鼓膜へ這い寄ってくるような、ねっとりとした甘さを孕む色っぽい男の声で。
「ッ!?」
脊髄に火を着けられたかと錯覚するほど、二人は一瞬にして臨戦態勢に突入した。
飛び跳ねるように距離を取る。ヴィクターは拳を、シャーロットは魔剣を反射的に構え、何の前触れもなく現れた
(なんだこいつ、いつの間に現れやがった!? 気配なんざ一片たりとも感じなかったぞ!?)
線の細い、浮世離れした美形の男だった。
背丈はヴィクターと同じか、やや高い程度。しかしパリッとした細身なシルエットのせいか、筋肉質なヴィクターと比べると小さく見える。
限りなく透明に近い薄紫色の地毛と黒いメッシュが混じった髪をオールバックでまとめており、触角のように束ねられた一房の前髪を遊ばせていた。
陶器かと錯覚するほど滑らかで白い肌はどこか人工的な生気の無さを帯び、裂けた口のように厚く塗りたくられた真っ赤な口紅や、色濃く縁どるアイシャドウはまるで道化のよう。
それでいて黄金比の如く整ったパーツが掴みどころのない笑顔を形作れば、一層超然的な印象を与えてくるというものだ。
特に異彩を放つのは眼だった。白目が黒く、虹彩は黄金に輝き、瞳孔が蛇の如く縦に裂けている。
先の尖がった耳と言い、まず
「エルフ……? いや、エルフはあんな目や髪色をしてないはず……そもそも何故この島にアーヴェント以外の人間が……?」
服装も奇抜極まりない。上から下まで静脈血で染色したかのような赤黒いタキシードと真っ黒なシャツ、金色のネクタイと嫌でも目を惹く姿なのだ。
山林を出歩く装いとは口が裂けても言い難い。例え街中で見かけたとしても、思わず二度見するような出で立ちと言えるだろう。
男の妖艶な眉目秀麗さと相まって、ひときわ強烈な存在感を放っていた。
「人間の食い物はいつ見ても美味そうでス。固形物なんて随分久しぶりですねェ! 今日からダイエット解禁ってことでよいでしょうカ! まぁワタクシ太らないんですけド! ホホホホ」
人を食ったような笑顔を貼り付けて男は動く。
地面に落ちて型崩れしてしまったサンドイッチを拾い上げ、鮫のようなギザ歯が鍵盤の如く並んだ口を大きく開けると、付着した泥土や落ち葉などまるで意に介さず平らげてしまった。
異様すぎる行動と現状に、ヴィクターもシャーロットも絶句して硬直せざるを得ない。
「うん、うん、うーン! 卵の濃厚な風味と滑らかな舌触り、フワフワのパン生地、隠し味に腐葉土臭とジャリジャリした土とくっせえ虫……肉の躰ってのは本当に素晴らしいでース! 味覚ひとつでさえ新鮮な体験をさせてくれまス! でも嘔吐中枢が爆アラート鳴らしてるのは何故でしょうカ?」
「何者だお前。なんでこんなところにいる?」
「ホホホホ、そう警戒なさらズ! ワタクシ敵ではございませン! 名前は……あー、イレヴン! イレヴンでどうゾ! 以後お見知りおきヲ!」
胸に手を当て、一礼するイレヴンと名乗る男。
殺気や敵意の類は感じられない。しかしあまりに奇々怪々な雰囲気と言動が、二人の臨戦態勢を解かせまいと働きかけていた。
「おやおやおやおや、信用できないって顔ですネ? でもでも、本当に敵じゃないんですっテ。実はワタクシ、貴方がたをお待ちしてたのですヨ!」
「……!」
「というわけでワタクシ帰りまス。着いて来るなら勝手にどうゾ。目指してるモノはきっとソコにあると思いますのデ! それを探しに来たんでしょウ?
「っ!」
「ホホホホ、またすぐ会いましょウ! シーユー!」
イレヴンは白い手袋に覆われた手を振りながら踵を返し、陽気な笑い声と共にさっさと森の奥へ行ってしまった。
残された二人は一度緊張の糸を緩め、どうするかと思案を広げる。
「何だアイツは? 俺たちのことを知ってたぞ」
「わからない。けど、少なくとも天蓋領の仲間じゃないと思う。この島にはアーヴェントの許可なしに入って来ることは絶対に出来ないし、入られてたらポータル越しに感知できる。エマの時に駆けつけなかったのも辻褄が合わない。それに、やろうと思えばさっきのタイミングで私たちを殺せたはずよ」
「てことは、昔から島に居た人間か……? 確かにここは自分の領土だと言わんばかりの口ぶりだったが」
「……ご先祖様が代々島の奥に近寄らないようにしていた理由がコレなのかも。いわゆる不可侵条約みたいな」
なんにせよ、謎の正体を確かめるには己の眼で見なくては始まらない。
怪しさ全開で素直についていくのはあまりに憚られるが、覚悟を決めて追跡を開始する。
しかし、急ぎ足で辿り着いたその先に待っていたのは、悠然と君臨する切り立った断崖絶壁だった。
「行き止まりだな。イレヴンはどこに行った?」
「待って。この崖、何か怪しい」
自然の造形とは思えぬほど垂直に切って落とされた壁面に近づき、ランタンの輝きを当てる。
すると瞬く間に変化が起きた。かざしたランタンを起点に光の軌跡が崖を這い、さながら壁画の如く巨大な幾何学模様が露わになったのである。
ヴィクターは見上げるように後退りながら、その全体像を視界に収めた。
丸い頭と大きな目を持つ鳥のような絵──きっとフクロウだろう。大きなフクロウが、いくつか楕円形の実が着いた枝葉と共に描かれている。
何を示しているのかさっぱり分からないが、どことなく既視感を覚えるシンボルだった。
どこかで。そう、どこかで目にした覚えがある。
一度や二度ではなく、幾度かチラリと見かけていたかのような。
「フクロウとオリーブ……この紋章は……!!」
なんだこりゃ、とヴィクターが首をかしげる一方で、シャーロットは唇を震わせながら、心臓を揺さぶられるような驚愕に大きく目を見開いていた。
「これは賢者オーウィズの紋章よ! かつて陛下と共に
言われて、ハッとするように思い出す。
シャーロットと決闘する前のことだ。魔法について学ぶために書物を漁った時、数々の本で目にした紋章と記憶が合致した。
いわく、魔法体系学の祖にして現代魔術の基礎を作り上げた始まりの賢者。
三聖の元となった、『純黒の王』と『白薔薇の聖女』に付き従う三人の英雄の一人であり、幼い子供であっても魔法関連の教科書で必ず目にするほどの偉人である。
そんな大物のシンボルマークが、何故この島の山に大々的に刻まれているのか。
答えはきっと、鈍く木霊する地鳴りのような音と共に崖の一角へ現れた、怪しげな入り口の先にあるのだろう。
互いに目を合わせる。
ごくりと唾を呑み込むと、誘われるように足を踏み入れていった。