銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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第三章「善悪のアマルガム」
37.「一縷の陽射し」


 罪とは何か。悪とは何か。

 そんなものが何故、この世に存在するのだろうか。

 男は物心ついた時から、ずっとずっと考え続けてきた。

 

 初めに辿り着いた答えは論理だった。高度な群れ社会を形成する人間という動物が、群れを維持するために産み落とした防衛機構というものだ。

 

 同朋を殺めること、犯すこと、盗むこと、騙すこと。

 それらは全て種の崩壊を招く危険因子に他ならない。

 ゆえに嫌悪という本能をもって排斥し、規律の線から踏み外した者を罰するというホメオスタシスが形成された。

 

 すなわち悪とは種の存続に必要不可欠な抗原であり、それを忌むからこそ秩序が生まれ、人々は統率された健やかな文化の砦に守られながら生きていくことが出来るのである──と。

 

 で、あれば。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、一体何だというのだろうか。

 

 

 悪を憎む心が必然の進化なら。穢れを忌む精神が在るべき人の姿なら。

 殺戮も、姦淫も、強奪も、虚言も、一切に踏みとどまれないこの魂は。

 生まれながらに腐敗しきった、最も罪深き冒涜の権化に違いない。

 

 

 ならば、ああ、ああ、この身に裁きを。浄罪の焔を。

 不朽たる信念の御旗の下、魔を滅せんとする慈悲なき救世の(ともがら)よ。

 あなたがこの汚穢を一刻も早く見つけ出せるように、ありとあらゆる呪いをもって手を汚しましょう。

 

 忌まわしき身。呪われた生命。匂い立つ魂魄の邪悪を清めんとする聖なる鉄槌を、どうか我が身に下したまえ。

 

 

 

 

 まだ日が昇って間もない朝。

 ヴィクターは初めてシャーロットと出会った泉のそばで、滝のような汗を流しながら筋力トレーニングにのめり込んでいた。

 

「きゅうひゃくきゅうじゅーはちっ! きゅうひゃくきゅうじゅう、きゅうっ! せんッ──かいッ! ぶはっ!」

 

 屈強な木を鉄棒代わりに懸垂の要領でぶら下がり、綺麗なL字を作るよう素早く足を90度に上げる。

 一拍置いて負荷をかけたら、足をゆっくりゆっくりと下げていく。

 それを千回繰り返し、力尽きたヴィクターは柔らかな草葉の絨毯に倒れ伏した。

 

「はぁっ、はぁっ、はーっ……ふーっ……」

 

 今にも全身が溶け出しそうな灼熱感。骨肉が鉄になったかのような重苦しい疲労感。

 恐ろしい負荷に肉という肉が悲鳴を上げている。特に上半身は酷い。千切れてどこかに旅立ってしまいそうだ。

 

 スタミナには自信があったものの、流石に限界まで追い込み過ぎたか。このまま泥のように眠ってしまいたくなる。

 それでも呼吸を整えながら気合を入れ、震える腕で上着を脱ぎ捨て、そばの泉に思いっきり飛び込んだ。

 

 どぼんっ。盛大に舞う泉の飛沫。

 巻き込んだ気泡と共に沈みながら、四肢をだらんと脱力させて、浮力に任せるまま浮かび上がる。

 ひやりと冷たい澄んだ水が、熱された鉄のような体を優しく揉み解してくれるよう。

 

「あー……気持ちい……シャロが泳ぎに来る理由も分かるな……」

 

 プカプカと水面に浮かびながら、降り注ぐ日差しの眩しさに瞳を閉じた。

 

 ──瞼の裏に浮かぶのは、かつての戦いの記憶。グイシェン・マルガン。

 

 それは天蓋領が誇る最高戦力、三聖の一角にして『星冠級(アステル)』を冠する頂点到達者。

 辰星火山で死闘を演じ、完膚なきまでの敗北をヴィクターに下賜した女の名である。

 

 降る星を拳で砕き、準魔王級の怪物を討ち取ったという正真正銘の生きる英雄。

 そんな傑物との戦いで痛感したのは、不甲斐なさで満ち満ちるほどの無力感に他ならなかった。

 

(俺は弱い。シャロやグイシェンに比べて、あまりにも弱すぎる)

 

 それは純然たる事実であり、受け止め難くも認めざるを得ない現実だった。

 あの戦いから時が経った今でも、まるで巨山そのものと相見えたかのような、圧倒的実力差の壁を目の当たりにした感覚は忘れていない。

 

 グイシェンとの戦いは、もはや戦闘の体を成し得てすらいなかった。

 一方的に嬲られただけだ。手加減の下で成立した遊戯に等しい。

 その気になれば数秒で締めくくられるはずの決着を、グイシェンに課せられていた命令が引き伸ばしていたに過ぎなかった。

 

 あの戦いでグイシェンから受けたのは、蹴り一発に寸勁二発。

 それだけだ。たった三発の──それも手心を加えられた打撃だけで、致命に等しいダメージを負わされてしまった。

 

 そんな化け物が、少なくとも他に二人もいて。

 そう遠くない未来で、戦わなければならないときた。

 

(我ながら泣けてくるな。今のままじゃ手も足も出ねえ。絶望的だ)

 

 勝てる勝てないの話ではない。次元が違う。見上げてなお頂きの片鱗すら見えないほどに、隔絶された格差がそこにあった。

 

 次に出会った時、戦った時、間違いなくヴィクターは死ぬ。 

 きっと抵抗する暇もない。驚くほど呆気なく、まるで気紛れに千切られる哀れな野花のように、いとも容易く命を手折られてしまうだろう。

 

 折角リリンフィーを治すという目的を達成したのに、見据えた敵との戦力差は最悪の一言だ。

 賢者オーウィズというこれ以上にない味方が加わったが、相手は世界そのものに等しい。これで対等だなんて楽観視にもほどがある。

 

 今は一時しのぎの休戦状態に過ぎない。これから訪れるだろう未来は黒一色の暗澹だ。

 希望もなにも無い。どう考えたって詰んでいるのだ。

 いっそ無駄な抵抗など止めたほうが楽ではないかと、ケラケラ笑えてしまうくらいに。

 

 ……なんて、普通は諦めるのが定石なのだろう。

 ましてやあんな戦いを経験したら、自暴自棄になって当然だ。

 

 しかしヴィクターという人間がそれほど利口だったなら、これまで生き残ることは出来なかった。

 

(ブルって縮こまってる場合じゃねえ。天蓋領との戦いは必ずやってくるんだ。もっともっと強くならねえとな)

 

 世界は広く、ヴィクターの上には海千山千の猛者がいる。

 それを嫌になるほど思い知らされた。ならばとことん足掻くだけだ。

 

 この男はそういう人間だった。素直に力の差を絶望視できるほど理知的ではなく、そびえ立つ壁の高さに根を上げるほど諦めも良くはない。狂っているとさえ言える。

 必然、己を鍛えんとするのは自明の理であった。

 

 

「よしっ、休憩終わり。浜辺でも走ってくるか」

「ちょいちょいちょい、待ちなさい。あんまり根詰めるとオーバーワークになって逆効果よ」

  

 泉から上がった所で、聞き慣れた声が耳をそよいだ。

 呆れ顔のシャーロットである。遊泳に来ていたのか、タオルと着替えを片手に立っていた。

 

「マジで? シャロを参考にしてたんだが、ダメだったのか?」

「あれは治癒力の高いアーヴェントだから出来るメニューなの。基人(ヒューム)のあんたが真似したらぶっ壊れるっての。というかあれだけ追い込んでてよく動けるわね」

「おお! ちょっぴりキツいけどな、まだまだ余裕だぜ」

「ほんとゴリラ……。とりあえず疲労対策にこれ飲んでなさい。あと目のやり場に困るから服着て」

「いやんエッチ」

「胸隠すな突き落とすわよバカ」

 

 突き落としてから言わないで欲しい。ヴィクターは切実に訴えたが、水中では文字通り泡沫へと消えるのみである。

 

 陸に上がって着替えると、青い液体の入った小瓶を放られた。咄嗟ながら両手でしっかり受け止めていく。

 いつもシャーロットが使っている水薬(ポーション)だ。黄昏の森でも世話になったこの薬は、治癒力の促進と栄養補給を同時に行える優れモノである。

 

 封を開け、中身を一気に流し込んだ。

 ツンとくる清涼感と独特の薬味が、喉を滑ってすり抜けていく。 

 薬効は直ぐに顔を出し、体の芯からポカポカと温かくなってきた。

 

「相変わらずよく効くな。もう体が軽くなった」

「我が家秘伝の調合薬だもの、当然よ。……で、鍛えてたのはやっぱり辰星火山の件?」

「ああ。グイシェンとの戦いで、自分の非力っぷりを思い知らされたからな」

 

 拳を握り込み、記憶の底へ耽るように視線を落としながらヴィクターは言った。

 ほんの少しだけ瞼を閉じる。そうすると、あの激戦が鮮明に蘇ってくる。

 

「俺が今まで生き残ってこれたのは、ぶっちゃけ悪運が強かっただけだ。このままじゃダメだと思ったんだよ。いつかまた、三聖と戦う日が来るかもしれねーし」

 

 グイシェンだけじゃない。エマの時も、カースカンの時も、運が味方したからこそ掴み取れた勝利だった。

 

 もし『純黒の王』の贄に選ばれていなければ、エマに心臓を刺された時点で死んでいた。

 カースカンがヴィクターではなくシャーロットを狙っていたら、成す術もなく黄昏の森の蒸気に殺されていた。

 

 完全な実力だけで勝てた戦いは一度も無い。命のやり取りにおいて、これは事実上の敗北に等しい。

 確かに運とは重要なファクターだ。しかし信用に値することはない。

 それを履き違えたが最後、傲慢の代償は死という形になって、今度こそヴィクターに降りかかるだろう。

 

「俺は強くならなくちゃいけねえ。今はまだ無理だが、いつかこの腕に頼らなくても良くなるくらい、もっともっと強く」

 

 ならばこそ、最善を尽くすことに躊躇は無い。

 強くなるための努力。それこそが、ヴィクターに課せられた責務と言えた。

 

「なにより、今の俺じゃシャロの足手まといになっちまう。ンなの御免だ。俺はお前の隣に立っていたいんだよ」

「……ふーん。殊勝な心掛けじゃない」

 

 胸の下で組んでいた腕をほどき、くるくる髪を弄りながらシャーロットは言った。

 

「なら明日から私のトレーニングに付き合いなさい。ちょうど練習相手が欲しかったのよね」

「お! 良いぜ、願ったり叶ったりだ。……って、練習相手?」

「ええ。……あの旅で私も思い知らされたのよ、一人の鍛錬じゃ限界があるんだってことを。特に実戦に関しちゃ、あんたの方が一枚上手だと思ってる」

 

 今までシャーロットは、一族の現代当主として相応しくあれるよう己を鍛え続けてきた。

 しかしそれは、あくまで理想の自分を体現するための必要努力に過ぎなかった。

 

 ギルドの依頼をこなすため、対魔物・魔獣戦を想定して一通りの戦闘訓練は積んでいる。

 けれど断固として、人を斬るために技を練り上げたことなど一度も無い。

 

 グイシェンは言った。他者へ刃を振るう戸惑いが、魔剣の太刀筋を鈍らせていたと。

 当前だ。シャーロットは人を躊躇なく切り伏せられるほど逸脱した精神を持ち合わせてはいない。

 それこそ、数ヶ月前までは誰かと血で血を洗うことになるだなんて考えもしなかった。

 

 魔剣を体得したのだって、アーヴェントが先祖代々受け継いできた立派な伝統だったからだ。

 シャーロットにとってダランディーバとは、両親の教え通り大切な人を守るための剣である。

 それは今でも変わらない。命を奪うための武器ではない。

 

 けれど、だからこそ。

 大切なものを守るためには、更なる力を身につけなくてはならないのだと、人一倍に痛感していた。

 

「島も家族も、天蓋領なんかに好き勝手させたくない。当然この心臓をくれてやるつもりもない。力を着けたいのは私も同じよ」

 

 そのために必要なものは何か? 即ち、実戦の経験である。

 戦いの空気に慣れること。それが彼女の課題であり、克服すべき弱点であった。

 

「だからヴィック、私と戦いなさい。強くなるのよ。一緒にね」

「……望むところだ。けど手加減しねえぞ? 痛い目にあってグズり出すとか勘弁だからな」

「ハッ、誰に向かって言ってんのよ。アンタこそ泣きべそかいたって知らないんだから」

 

 

 

 ────そんな会話があったのは、実に一月前にもなる。

 

 

 

 リリンフィーの呪いを解き、コロポックルや賢者たちを迎え入れ、新たな生活へと踏み出した二人は。

 あれから毎日のように、拳と刃を交えることとなった。

 

「だァらッッしゃあああ────ッッ!!」

 

 咆哮激震。黒腕に螺旋回転する空気の層を纏わりつかせ、ヴィクターは己が腕を地面へ鉄槌の如く叩きつけた。

 刹那、ヴィクターの前方へ放射状の亀裂が走り抜けたかと思えば、恐るべき衝撃と共に地が内側から爆発した。

 

 新たに生み出した龍颯爆裂拳の進化系。空気を掴み、腕に纏わせたまま地面に打ち込み破裂させる小規模のショックウェーブである。

 

 大地を殴り砕かんばかりの凄絶なインパクトは、重々しい破壊音と共に極小の津波となってシャーロットへ襲い掛かった。

 

「へぇ、『礫の雨(ラピス・プルヴィアム)』の真似? やるじゃない!」

 

 対する少女は勢いよく足踏みし、土魔法の岩盾を前方へ出現させて衝撃波を受け止める。

 即座に跳躍。空を独楽のように旋転しながら右掌に黒魔力を球体状へと収束し、回転と圧縮を反復させた。

 

 球体から魔力弾の流星群が解き放たれる。

 それは意志を持つかのようにヴィクターを狙い定め、恐るべき追尾性能を持って喰らいついた。

 

 刹那、爆音と共に地が爆ぜた。舞い上がる砂煙に溶け込むようにヴィクターの姿が消えたかと思えば、まるで瞬間移動の如く前方数メートルの距離を圧殺しているではないか。

 元居た場所には大きくめり込んだ確かな足跡。それは黒腕の力をほんの一瞬だけ解放し、恐るべき膂力をもって魔力弾を躱したことを物語る語り部であった。

 

 再びヴィクターが強く踏み込んだ。落下してくるシャーロットへ合わせるように、全身全霊のアッパーカットが叩き込まれる。

 それを黒魔力の盾が迎え撃てば、たちまち金属同士が激突したかのようなけたたましい轟音が耳を劈いた。

 シャーロットは間髪入れず、二の矢の魔剣(ダランディーバ)を薙ぎ払う。

 

「ッッ!!」

 

 首を逸らし、男は全力で一刀を回避した。

 掠った毛先がハラリと舞い散る。ヴィクターは背後へ跳ねるようにステップを繰り返し、一時戦線を離脱していく。

 

 ──否。フェイントだ。

 

 撤退と見せかけ、黒腕の力を用いた加速。瞬く間に肉薄する。

 シャーロットに着地の余暇を与えず、一気呵成に畳み掛けんと咆え上がる。

 

「おおォォああああッッ!!」

 

 爆ぜる豪速のハンマーパンチ。しかしこめかみを撃ち抜かんと(くう)を裂いたそれは、紙一重の差で躱されてしまう。

 

 終わらない。一撃だけで終わりはしない。

 拳を振り抜いた勢いを遠心力として再循環、軸足を流転させ、刀の如き回し蹴りを叩き込んだ。

 

「ぐッ!!」

 

 硝子が砕けたような高周波。剛脚が今度こそ完全にシャーロットを捉えた音だった。

 少女の頭を守る決闘用のバリアに蜘蛛の巣状のヒビが駆け巡る。

 バリアは蹴りのインパクトを相殺しながら受けるべき痛みを換算し、刺すような激痛という代償を装着者(シャーロット)から容赦なく取り立てた。

 

 大きく体勢を崩す少女。薄紫に明滅する頭部のバリア。

 逃さない。掴み取った勝機を力強く手繰り寄せるように、ヴィクターは更に深く踏み込んだ。

 

「ここだァッ!!」

 

 全体重を乗せた渾身の正拳突き。

 鳩尾を抉り抜くように放たれた拳の砲弾は、一直線にシャーロットの中心へと吸い込まれて。

 

「!?」

 

 転瞬。ヴィクターは鼻っ柱で火花が弾けたかと錯覚した。

 遅れてやってくる重い痛み。顔の奥まで鉛の塊を突っ込まれたに等しい鈍重な苦痛が、霧のように視界を白くかき混ぜた。

 

 気付いた時には、ヴィクターは地面を寝転がっていた。

 自己主張の激しい疼痛が、グズグズと背中全体を嬲っている。

 息が苦しい。呼吸器全体が悲鳴を上げている。肺の空気を丸ごと絞り出されたみたいに、口がパクパクと酸素を求めた。

 

 悟る。

 完璧に決まったはずの正拳をいなされたばかりか、一本背負いの如く投げ飛ばされたのだと。

 

 敗北を証明するように、顔のすぐ隣にダランディーバが突き刺さっていた。

 

「だぁーっ、ちくしょー負けた! 絶対勝ったと思ったんだがなぁーっ!」

「ぜぇ……ふぅっ……フフン、これで私の二十一勝ね!」

 

 熱い息を切らし、流れ落ちる汗を拭いながらも、シャーロットは胸を張って勝者の笑みを湛える。

 応じてバリアが解除され、残滓の魔力が風に吹かれた砂のように消えていった。

 

「この私に勝とうなんざ百万年早いってことよ。次はせいぜい頑張りなさい」

「おいおい、俺の二勝無かったことされちゃ困るぜ! それに最近結構イイ線いってるだろ!」

「えー? マグレでバリア割れただけの勘違いじゃなーい? まぁなんにせよ、私の勝ち越しには変わりないし? 張り合いたいなら文句なしの完勝ぐらいして貰わなきゃね!」

「クソ……いつかぜってーブチのめす……!」

「アーハッハ! 負け犬の遠吠えが心地良いわ!」

 

 高らかに、快活に、揚々と笑うシャーロット。

 ヴィクターは悔しさを滲ませながら、くっそー! と大の字になって寝転がった。

 

 しかしながら、収穫物は決して敗北感だけではない。

 ほんの少し、ひとつまみ程度ではあるが、確かに強くなっているという実感があった。

 この純黒の拳がシャーロットを捕えようとした刹那、彼女が流した冷や汗をヴィクターは見逃していない。

  

 間違いなく焦りを植えたのだ。かつての決闘のような何重にも仕込んだ搦め手ではなく、正攻法で勝利に迫った。

 特殊な腕を持つとはいえ魔法もロクに使えない男が、数多の力を自在に操る少女へと窮迫したのだ。

 それは例えるなら、完全武装した兵士を膂力だけで追い詰めたようなもの。これだけでも大金星である。

 

 が、それはそれとして負けは負け。プライドが無ければ全力で駄々をこねたくらいには悔しいので、いつか絶対にパーフェクトな勝利を下してやるとリベンジを誓うのだった。

 

 

 そんな時、ホヨヨヨンっと静かに水を波打たせるような異音が、二人の耳へと入って来た。

 他に類を見ない独特の音色は、反重力魔法の発動に伴う無二のもので。

 音源へと目を遣ればやはりと言うべきか、森の中を空飛ぶ安楽椅子に腰かけてふよふよ漂う、白髪の少女の姿があった。

 

「あ、見つけたっ。おねえちゃーん! おにいさーん!」

「リリン?」

 

 二人を視認したリリンフィーが、朝花の笑顔を咲かせながら元気よく手を振ってやってくる。

 シャーロットはそんな愛妹を、少しばかり驚いた様子で出迎えた。

 

 というのも、日が出て間もないこの時間帯のリリンフィーは、いつもならベッドの中でぐっすり眠っている頃合いなのだ。

 彼女は朝にめっぽう弱い。こんな時間に目覚めたとしても、ぽやぽや微睡んですぐに寝息を立ててしまう。

 早起きの姉に着いていきたいと意気込みながらチャレンジしては睡魔に負け、あっという間に毛布芋虫になってしまうその愛らしさに毎朝骨抜きされているのだから間違いない。

 

「どうしたの? まだ寝てる時間じゃない。怖い夢でも見ちゃった?」

「んーん。今日は自分で起きられたんだよ。えへへ、凄いでしょ」

「うっわウチの妹天才だわ、間違いなく未来の大魔法使いね。ヴィックもそう思うでしょ?」

「姉が天才的にアホだってことしか分かんねぇ……」

 

 しかしどうやら、ただ偶然寝覚めが良かったというわけではないらしい。

 なんでも小さな地震らしき揺れを感じた途端、自分でも不思議に思うくらいぱっちり目が冴えてしまったのだとか。

 

「それに変な声も聞こえたの。人が叫んでるみたいな? 気になって様子を見に行ったんだけど、そしたら賢者様が書斎で紙を巻き上げながら大笑いしてて」

「朝っぱらから何やってんだよ博士」

 

 リリンフィーが大袈裟に両手を広げ、目をカッと見開きながら『やったー、やったぞー! 遂に導出完了だ! 流石ボクってば天才だね! いやぁ七徹した甲斐があったというものだよ、不死身万歳ハーッハッハ!』と迫真の物真似を繰り広げた。

 

 ここ数日、オーウィズが書斎に籠りっぱなしだったことは確かだ。

 缶詰めになる前、ナニナニ理論のウンタラカンタラがーなどと説明していた気はするが、ヴィクターの脳ミソは早々にシャットダウンしたためまるで理解出来なかった。

 

 一体なにが彼女をハイにさせたのかは知らないが、恐らく引きこもっていた理由が解決したからなのだろう。

 疲労困憊と青ざめる肌に血走った眼で、限界まで絞り出されたアドレナリンが誘うままに高笑いを爆発させるオーウィズの姿は、ありありと目に浮かぶようだった。

 

「とても喜ばれてるご様子だったから、何があったのかお訊ねしてみたの」 

 

 そしたらね、と興奮気味な一拍が置かれて。

 

「見つかったんだって! おにいさんを生贄にしなくても陛下を──『純黒の王』様を蘇らせる方法が!」

 

 予想の埒外からぶん殴ってきた言葉の衝撃に、ヴィクターとシャーロットは同時にシャットダウンした。

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