銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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4.「血の歴史。真実の記憶」

 遥か遠くの昔話。世界は滅びの最中にあった。

 外なる(そら)より突如として現れた災厄が、平和だった世を不浄と禍で覆い尽くしてしまったのだ。

 

 万物万象を焼き尽くしたのは十の災い。

 沃野を枯らし、豊海を腐らせ、澄み空を瘴気で掻き混ぜしもの。

 厄災の()はマグニディ。

 其は魔たる根源の王の御名。魔王を意味する呪われた言ノ葉。

 

 瞬く間に水は穢れ、草木は果て、死が生を呑み込んだ。

 悲鳴は嵐となり、無念がそこら中に這い蹲って地に消えた。

 青天の霹靂のように訪れた災禍に、人々は立ち向かう術を持たなかった。

 誰かが息を吸うたびに、あまりに多くの命が散っていった。

 

 抗する策は一縷も無く。生き延びる手立てなど芥も無く。

 星を喰らう超常の怪物マグニディに、降伏も和解も、交渉とてまるで意味を成さない。

 

 蹂躙という絶望は留まるところを知らなかった。

 (あまね)く命が失せるまで、悲劇の行軍は歩みを止めないのだと知ってしまった。

 人類はおろか、星に住まう生命そのものが、ただただ震えながら、滅びの時を待つのみであった。

 

 

 滅亡を打ち破ったのは、たった5人の英雄だ。

 

 

 曰く、星に選ばれし救世の剣。

 曰く、人々の願いと祈りの具現。

 曰く、魔に抗わんと命が喚んだ最後の牙。

 

 黒き王。白き聖女。彼の者らが従える三人の豪傑たち。

 彼らは圧倒的な力と叡智を振るい、絶大な魔王を次々と屠っていった。

 

 王の剣は魔を払い、聖女の涙が星を癒した。

 大地を取り返した。海を清めた。空へ再び日輪を灯した。

 暗黒と絶望の被膜は、英雄の手により切り開かれたのだった。

 

 星は湧き上がった。救世主の降臨に。

 命あるものは叫んだ。勇ましき希望の到来に。

 人々は讃えた。純黒の王を。白薔薇の聖女を。

 

 絶滅の未来に濁り澱んだ人々の魂に、再び火が燈った瞬間だった。

 

 猛者は英雄のもとへと集い、彼らは大いなる力の一端を授かった。

 王の権能を継ぎしはアーヴェント。聖女の祝福を賜りしはマルガン。

 

 彼らは砕けた希望を掻き集め、折れた闘志を繋ぎ合わせ、今一度世界を取り戻さんと立ち上がる。

 剣を掲げる。牙を剥く。雄叫びを轟かせ天を衝く。

 世界を食い潰した星の仇に、全てを賭けて立ち向かう。

 

 ──最後にして最大の叛逆が始まった。

 

 人も人外も関係ない。竜や鬼すら共に咆え、未来を掴むべく戦った。

 世界は、滅びを前にひとつとなった。

 

 永い永い戦火は続く。数多の屍が路傍を埋め、悲劇も悪夢も那由他に生まれた。

 けれど着実に、確実に。人々は魔の侵攻を退けていったのだった。

 

 そして決着の時は訪れる。

 星の団結が、暁と勝利をその手に掴み取った瞬間だった。

 

 

 戦争は終わった。

 混沌と死の時代は、先人たちの決死の覚悟で幕を下ろした。

 安息が戻り、亡き人々への弔いを乗り越え、やがて人々は平穏を取り戻した。

 世界は息を吹き返し、文明の営みは元通りに。否、更なる発展を遂げていった。

 

 

 

 救世を成した英雄、王と聖女の役目は終わった。

 

 星の再生は成し遂げられた。

 滅びに抗った命の行く末をその眼で見届け、盤石なる繁栄を築き上げた。

 ならばと、彼らは次なる役目に目を向ける。

 

 即ち、世界を意のままに操る自分自身の排斥。

 果たすべき務めを果たした者の最後の定めは、その身を退くことだった。

 

 王はあらゆる理に縛られず、聖女は万物万象を支配下に置く力があった。

 安寧を得た世にそれは過ぎた力。有り余る力が新しい戦争の火種となるのは自明の理だった。

 

 人は魔に勝利した。ならば人々が争う結末は絶対に避けねばならない。

 人が睨み合う未来のために、先人たちは命を賭して戦ったのではない。 

 だからこそ、新たな戦争を招く前に、彼らは去ることを選んだのだ。

 

 しかし民草の希望が忽然と姿を消せば、無用な混乱を産んでしまうのはあまりに明白。

 そこで、彼らに代わる新たな象徴を選出することとなった。

 

 二大王族たるアーヴェントとマルガンに認められるほどの、強靭で高潔な、心技体を併せ持つその時代の英雄──民を守護する勇気ある者を。

 

 始まりの名はアレン。勇者(アーサー)の称号を与えられた最初の男。

 善道を往き、悪を挫き、弱きを救う。まさしく英雄に相応しい男だった。

 

 彼には王と聖女、それぞれの祝福が与えられた。

 アレン=アーサーは民を守る剣であると共に、アーヴェントとマルガンの片側が増長し、均衡が崩れぬよう抑止する盾としての役目を担った。 

 

 

 そうして王と聖女は永い永い眠りに就き、美しき康寧の世は続いていった。

 アーヴェントの裏切りという、たったひとつの血だまりを除いて。

 

 

 

 

 

 

 

「……ん? おいちょっと待て、アーヴェントが裏切りってどういうことだ?」

()()()()()()()()()()()。けど真実は違う」

 

 館の北の時計台。そこには地下深くへ続く、薄暗い螺旋階段が隠されていた。

 地の底まで続くのかと錯覚させられるほど、果てしない道筋だ。

 ヴィクターは普段の簡素な衣服ではない、華々しくも淑々とした、ドレスと喪服を合わせたような礼装を纏うシャーロットと共に、延々とその地を下っていた。

 

 石壁から染み出す地下水でしめった少し急な勾配の階段は、一度転落すれば最下層まで転がり落ちてしまいそうな恐怖がある。

 おまけに互いが持つ薄紅色の炎が宿った松明だけが光源で、暗闇に目が慣れるまでは階段を降りることさえ一苦労だった。

 

 カツ、コツ、カツ、コツ──靴音をBGMに、ヴィクターは少女の口から語り紡がれる歴史へ耳を傾けていく。

 

「アーヴェントは戦闘に特化した集団だった。その力はマルガンをも大きく上回る、世界最強の騎士団でもあった。……戦争から時が経って、魔王マグニディに怯える必要もなくなった世の中には──特にマルガンにとっては、アーヴェントは目の上のタンコブになってしまったのよ」

「……裏切りは捏造されたもんだってのか?」

「少なくとも、私たちにはそう伝えられてる。ご先祖様はマルガンと、彼らに与するアレン=アーサーに人類の敵として罪を被せられ、もろとも討ち滅ぼされたんだって。これがその証のひとつよ」

 

 少女の指がおもむろに虚空を撫でると、シャーロットの松明が揺れ動いた。

 松明は煮えたぎる湯水のような呻き声をあげ、まるで子を産み落とすようにポンッと火の玉を放り出す。

 放り出された鬼火はゆらゆらと浮遊しながら壁に近づくと、どういうわけかそのまま吸い込まれてしまった。

 

 暗澹のみが支配していた空間に眩い変化が巻き起こった。

 壁の目を細かな光が走り抜けた。光の線がひとつひとつ繋ぎ合わさり、ボウッと輪郭を象り始める。

 抽象的だった軌跡はやがて形という命を宿し、壁面に『絵』として刻み込まれていった。

 

 それは何らかの変遷を表す壁画だった。

 

 剣や弓を携えた人々が争いあう絵。逃げ惑う人々の絵。武器を掲げる、外套を纏った男の絵。

 勇ましく戦う白い集団はきっとマルガンだ。弓に撃たれ、剣に斬り伏せられながらも逃げゆく黒染めの人々はアーヴェントか。

 

(てことは……最前線に立つ外套の男がアレン=アーサー)

 

 絵画は螺旋階段を下るごとに続いていた。

 命からがら逃げのびたアーヴェントの残党が海を渡る様子。手には書を持ち、空から王冠を被った真っ黒な大男が話しかけている。

 察するに、『純黒の王』が残した言葉か何かを辿って、安息の地を目指しているところだろう。

 

「辛うじて生き延びたご先祖様は()()()に流れつき、隠れ潜んで過ごすようになった。王の力で守られた秘密の島でね。お陰でマルガンに見つかることも無く、千年ものながーい時を隠れ忍びながら、慎ましく暮らし続けてこれたってわけ」

 

 ──そこまで耳にして、ふとした疑問が浮かび上がる。

 改めて、と言ったほうが正しいかもしれないが。

 

(アーヴェントの秘密の島……誰にも知られない絶海の孤島……だったら俺はどうやってそんなとこに現れた? 何故記憶が無い? もし何かの理由でポータルを使って来たのだとしても、彼女たちが気付かないはずがない。それに罪人として隠遁してきた一族の末裔なのに、赤の他人の俺へ易々とアーヴェントだって明かしたのは何故だ?)

 

 シャーロットの言葉が正しければ、アーヴェントは語り継がれてはならない負の歴史の生き証人である。

 例え千年以上の時が経とうとも、その存在が快く思われているとは考え難い。

 

 仮に島の外がマルガン主軸の歴史を歩んでいたとするなら、その栄光を根底からひっくり返しかねない邪魔者だからだ。

 事実、逆転の要に成り得る純黒の王が、この下に眠っているという。

 

 だからこそおかしい。ヴィクターは身分の証明も出来ない赤の他人で、どうやって島に入り込んだかもわからない怪しさ満点の男だ。

 そんな男に疑いもせずアーヴェントだと公言するのは、長年続いてきた隠遁そのものを崩壊させる愚行に他ならない。

 それはシャーロットも承知のはず。なのに彼女は堂々と明かしてみせた。

 

 矛盾。

 アーヴェントの誇りや歴史に強く拘るシャーロットだからこそ、その違和感は非常に色濃く映えて見える。

 彼女がそこまで拘りを持っていなければ、『そんなの流石に時効だから』と切って捨てられるものなのだが。

 

「着いたわ。ここが霊廟よ」

 

 ハッとしたように面を上げる。

 階段を降りきった先には、重々しく巨大な石の扉が待ちかまえていた。

 

 千年の時をこの地下で過ごしてきたのだと、雄弁に語る風貌だった。

 寂れ、苔むし、しかし神々しさを損なわない。もはや古代遺跡の入り口と謳われようとも、何ら遜色のない大扉。

 

 眺めているだけで背筋がヒヤリとする、得体の知れない空気があった。

 幽玄でありながら不気味で、扉というよりは巨大な棺か、あの世への入り口にさえ思える禁足地らしき感覚。

 

(すげぇな……なんというか、神聖な雰囲気ってこういうモンを言うのか。一斉に鳥肌が立ってやがる。ビリビリした緊張感が背骨の中を抜けていくみたいで気味が悪い。なのに不思議と恐怖はねぇ)

 

 呆けるように眺めていると、シャーロットが無言のまま扉へ触れた。

 指先が接した瞬間、青い光の葉脈が扉全体を走り抜けて。

 ゴゴンッ! と大仰な作動音が鳴り響き、扉がゆっくりと開かれていった。

 

「ここが王の間。そしてあそこに御座すのが──────」

 

 そこから先は不要だった。

 

 シャーロットがスカートの端を摘まみ、礼の仕草を示した瞬間。

 ヴィクターは部屋の最奥に座する物体に、両の瞳を──いいや。肉体の支配権を奪い取られてしまったのだ。

 

 古錆びた王座へ腰かけている()()があった。

 どこから降り注いでいるのかも分からない謎の光に照らされた、圧倒的な存在感を纏う()()だ。

 

 けれどそれは、はたして人間の亡骸と呼べるのか?

 

 人の形はしている。

 体格から言えば男性だ。

 かなり大きい。きっと二メートル以上のガッチリとした大男だったのだろう。

 

 だがしかし、それはヒトガタの闇だった。

 一片の光も反射しない、途方もない闇の塊が、辛うじて人の形を留めた異形だった。

 

「ぁ」

 

 玉座に座っているのは分かる。深い眠りに落ちているかのように、鎌首をもたげているのもわかる。

 そしてそれが()()だということも、不自然なほどハッキリとヴィクターの脳が認めていた。

 

 なのに知覚出来ない。そこにあるのは存在だけだ。白骨でも腐肉でもミイラでも無い。ただ空間を占拠する純黒のヒトガタだ。

 余すところなく闇に塗り潰され、目鼻立ちといった凹凸すら伺えない漆黒の躰。

 異様にして異形。この世のモノとは思えぬ常軌を逸した存在。

 

 それは堂々たる沈黙の底で玉座に君し、まるでヴィクターたちを待ちわびていたかのように出迎えたのである。

 

「息を吸って」

「────」

「落ち着いて、ゆっくりと」

 

 言われて、ヴィクターは呼吸が止まっていることに気づく。

 カラカラに乾いて喉の奥に貼り付いた舌の感触。

 背骨を氷柱に差し替えられたのではないかと錯覚するほどの尋常ではない震え。ガチガチと泣き止まない歯の叫び。

 

 魂が悲鳴を上げている。見ているだけで頭がおかしくなりそうだった。

 これ以上直視してはならないと、本能が激しく警鐘を打ち鳴らしている。

 さっさと踵を返して逃げろと、60兆の細胞から訴えが聞こえてくるのだ。

 

(なんだ、この感覚。いや、俺はこの感覚を知っている。これは、あの夢で見た怪物の──)

 

 紛うことなき野生の直感。原初の恐怖がそこにあった。

 ヴィクターに絶対的な天敵というものが存在するなら、間違いなくこの()()がそれだ。

 蛇に睨まれた蛙などと言う次元ではない。国を呑み込むほどの大蛇を前にした稚児のような、スケールが違い過ぎるために漠然と細胞を震撼させることしかできない絶望なのだ。

 

「大丈夫。何も起きないわ」

 

 染み入る声に、どこか暖みすら感じられて。

 強張っていた筋肉が緩んだせいか、少年は尻から崩れ落ちてしまった。

 

 かなりの衝撃が臀部を貫く。

 しかし痛みは欠片も無かった。そんな痛み(もの)を感じている余裕などないと、脳が処理を拒絶したかのように。

 

「あれは……いや、あの方が王様で間違いないんだよな?」

「そうね。と言っても亡骸と言うより魂を切り離された肉体だから、抜け殻と呼ぶ方が正しいかもしれないけど」

「ぬけがら?」

「伝承によれば、王と聖女に祝福されたアレン=アーサーでも、王を完全に殺すことは出来なかったの。アレンは最後の手段に、王の精神を切り離して異次元の彼方へ拘束した。魂が戻れぬよう肉体に封印まで施して。だから正確に言うと、今も体は生きているわ」

 

 言われて、よく見ると純黒の遺体がほのかに鳴動しているのが分かった。

 心臓のリズムと同じだ。ドクン、ドクンと、注意しなければ分からないほど細やかな波濤が、遺体を中心に堂を駆け巡っている。

 

「ぶっ飛んだ話だな……。じゃあもし体に魂が戻ったら、王様は復活できるかもしれないってことか?」

「ええ。陛下の復活はアーヴェントの悲願なの。王さえ蘇ればアーヴェントは再建できる。島の中で隠れ潜む必要もない。だから陛下の魂が戻れるよう、アーヴェントは代々肉体に施された何百もの封印を解き続けてきたわ。努力の甲斐あって、今じゃ封印もほとんど残ってない。けど復活は叶わなかった」

 

 一拍。きゅっと唇を結ぶ。

 解いて、少女は続ける。

 

「あまりにも時間が経ち過ぎて、魂が戻れる器じゃなくなってしまったのよ。経年劣化ってやつかな。仮に陛下を蘇らせるとしたら、別の器を用意しなくちゃいけなくなった」

「つまり、依代みたいなもんか?」

「そんなところ。もっとも適合条件が厳しすぎて、歴代一族の誰も依代になれなかったんだけれど。……長話しちゃったわね。さ、お掃除に行きましょ」

 

 シャーロットに手を引かれて立ち上がり、霊廟を進む。

 純黒の王に近づいていく。一歩進むたびに圧が増す。 

 いや、これは圧が増すというより。

 

(…………視線?) 

 

 ()()()()()()()()ような感覚が、だんだん色濃くなっていくような。

 

「じゃあね、まず玉座の手摺部分からそっと濡らした布で」

 

 ──言われるがまま、ヴィクターが手摺へ手を伸ばした瞬間だった。

 何の前触れも無かった。焼けた鉄でも押し付けられたような灼熱感が、ヴィクターの右手に襲い掛かったのは。

 

「つッッ!?」

「なに? どうしたの?」

 

 思わず手が跳ね、熱を払うように振り回す。

 何か熱源にでも当たったか。いいや、周辺にらしきものは見当たらない。

 まさか毒虫にでも刺されたのかと、手の甲へ視線を落とす。

 

「いや……なんか急に痛みが走って」

「──!? ちょっとその手見せて!」

 

 すると突然、シャーロットが血相を変えてヴィクターの右手を掴みとった。

 穏やかな表情から一変、酷く切迫した形相のシャーロットに、何事かとヴィクターは目をパチクリさせる。

 彼の右手の甲には、黒い剣のような痣が浮き上がっていた。

 

「なんだこりゃ。打ち身か? ぶつけた覚えなんて無いんだが……まぁ大丈夫だ。痛みも無いし、軽い打撲だと思うからそんな心配しなくても」

「────フ」

 

 少女がそっと零したソレは、間違いなく笑みだった。

 けれど、本来の喜びとは違う異色の笑みで。

 

「フ、フフ。そっか。これが……これが言い伝えの……」

 

 ひとつまみの歓喜と、渦を巻く困惑。

 苦悩のような苦みが入り混じった、濁りのある吐息。

 複雑な、捉えどころのない微笑みだった。

 

「ああやっぱり……あなたは在るべくしてこの島に現れたんだ! 全ては運命だった……! そうじゃなきゃこんな、こんな事はありえないもの!!」

「な、なんだ、どうした急に笑い出して。冗談にしては気味悪いぞ」

()()()()()()()()()()()!! ああでもまさか、よりによってアーヴェントでもないあなただなんて……!」

「おいシャーロット、さっきからいったい何のことを言ってんだ? 分かるように説明してくれ」

「これはね、証なの。純黒の王に認められた証。()()()()()()()()()()

「………………は?」

 

 突飛すぎて。唐突過ぎて。

 シャーロットの言葉の意味が、まったくもって理解出来なかった。

 吐き出された言の葉を食み、砕き、嚥下するまでに、数秒もの時を要したほどに。

 

 間違いなく彼女はこう言った。王の依代に選ばれたと。

 他の誰でもない、ヴィクターという仮の名だけしか存在しない少年が。

 

「ごめんなさい、ヴィクター。本当に本当にごめんなさい」

 

 心の底から絞り出すように、少女は言った。

 

 今にも泣き出しそうな哀しみと、訪れる歓喜の潮騒をぐちゃぐちゃに混ぜた微笑みを浮かべながら。

 古傷だらけの、少女らしい柔らかさとは無縁なその手で、ヴィクターの右手を強く強く握り締めて。

 

「ああ、お父様! お母様! 我が妹リリン、エマ! そして誉れ高き純黒の王よ! 私はついに、アーヴェントの未来を手に入れました……!」

 

 少年には震える少女の言葉が、一ミリたりとも理解できなかった。

 否。理解したくなかった。頭が理解を拒んでいた。

 

 全身の筋肉がこれ以上なく強張っていくのを実感する。

 嫌な汗で湿りゆく背中の感触がじっとりと肌を(ねぶ)りまわす。

 警鐘のように鳴り響く心臓は、内から胸を食い破って飛び出そうだ。

 

 干上がる喉。反して流れゆく氷の汗。

 その全ての感覚が、ひとつひとつ鮮明に脳髄を貫いて。

 

「おい……なんだよそれ……どういうことだよ、おい!?」

「ごめんなさい。あなたにはどれだけ謝っても許されないことなのは分かってる。でも、()()()()()()()()()()()()。こんなチャンスを手放すだなんて出来っこない」

「ちょっと待てシャーロット! どういう事か説明しろ!! 一体全体なんなんだ!?」

 

 いいや、言われなくても既に分かってる。分からないフリをして誤魔化そうとしているだけだ。

 残酷なまでに、ヴィクターは状況を理解しているのだ。理解出来ないはずが無かったのだ。

 だからこそ、言わないでくれと懇願するように、顔をくしゃっと歪ませる。

 

 対する少女は、彼岸の華のような微笑みを浮かべていた。

 口角は喜びではなく、憂いに満ちて持ち上がる。

 まるで「私を存分に恨め」とでも、ヴィクターに諭すかのようだった。

 

「ええ、ええ。酷を承知で宣言しましょう。あなたの命を奪う者として、その責務から逃げたりはしない」

 

 そして少女は静かに告げる。

 古傷だらけの無骨で小さな手を、まるで魂魄を迎える天使のように差し出しながら。

 

「あなた、我が一族の贄となりなさい」

「……………はぁッ!?」

 

 

 

 それは運命の始まり。

 永い永い時を越えた、贄の物語の幕開けである。 

 

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