銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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40.「レントロクスの医師」

 ──アーヴェント姉妹がダモレークに到着した頃。

 とある『禁足地』近郊に広がる、あたり一面を瑞々しい草葉や野花に覆われた長閑(のどか)な平原にヴィクターは居た。

 

「バアちゃーん、頼まれた薬草採ってきたぞー!」

「まぁまぁこんなに沢山。ありがとうねえ」

 

 

 平原には家があった。ダモレークと『禁足地』の狭間にぽつんと佇む、アンティークな木造住宅だ。

 ヴィクターは袋いっぱいに詰め込んだ新鮮な薬草を、そこに住まう老婆へと手渡していた。

 つまるところ仕事である。たった今、ギルドで受理した依頼を完遂したところだった。

 

 依頼人の老婆は、なんでも『禁足地』から自力採集した植物のみを使った生薬を販売している鳥人(ガルーダ)の薬屋らしい。

 元々夫婦で切り盛りしていた店だったが、数年前に夫を亡くし、自身も年のせいで足腰や翼が弱って採集が難しくなったためギルドに依頼を出したのだという。それを今回ヴィクターが引き受けたというわけだ。

 

 薬草の自生する『禁足地』は黄昏の森と比べて危険性は低く、ターゲットもそう珍しい種類の薬草ではない。

 ピカピカの『銅冠級(ブロンズ)』であるヴィクターが基礎的な依頼のプロセスを経験するにはうってつけの仕事だった。

 

「おかげで良い薬が作れそう。すぐに達成証明するから、タグを貸してちょうだいな」

 

 ヴィクターは首にぶら下げていた銅色のタグを外し、老婆へと手渡した。これはギルドに会員登録した時に発行されたタグだ。身分証のようなものらしい。

 

 受け取った老婆は真ん中の窪みに指を押し込むと、微弱な魔力を流し込んだ。

 するとタグがほのかな光りを帯び始め、一瞬だけ幾何学的な文様を浮かび上がらせた。

 それはすぐに消失したものの、代わりに青色の丸がひとつ、名前の横にある小さな無色の水晶珠に篆刻された。

 事前説明の記憶を掘り返すに、これが達成証明のようだ。

 

 ギルドは基本、個人や組織を問わず、クライアントの手で保証された達成証明をギルドに提出することで依頼主からの報酬が支払われるようになっている。

 ヴィクターにはよく分からない理屈だが、タグの水晶珠に篆刻されたサインを、あらかじめ控えられた依頼者の魔力紋と照合するのだとか。

 

「本当に助かったよ。もし縁があったらまたお願いねぇ」

「もちろんッスよ。いつでも依頼してください」

 

 兎にも角にも、これで依頼は無事達成された。あとは最寄りのギルドへ寄って報酬を得るだけである。

 

「……」

 

 とは言ったもの、このまま踵を返すにはどうも後ろ髪を引かれるような感覚があった。

 それは家の中を覗いた時だ。店内の端の方にぽつんと置かれた不自然なバケツが、歯に詰まった小骨のように気になって仕方がない。

 

(この店……年季は入ってるけど綺麗な店だ。家具も小物も商品も、キチンと考えてレイアウトされてる。なのにあのバケツだけ見栄えもへったくれもない。まるでそこに置かざるを得なかったみたいな)

 

 この薬屋は老婆にとって、今は亡き夫と共に二人三脚で続けてきた店だ。彼女の人生が詰まった唯一無二の宝物と言っても過言ではない。

 そんなかけがえのない場所だからこそ、自ら材料を調達できなくなっても店を閉めまいと奮闘している。

 彼女は言っていた。ここで働いている時だけは、まるで夫がそばに居るような気がするのだと。

 

(だからずっと綺麗にしてるんだ。亡くなった旦那さんのために、二人の思い出を風化させないように。これだけの品数、揃えるだけでも大変だろうにな)

 

 なのにあのバケツだけが彼女の聖域で浮いている。

 事情あってのことなのは当然だろう。バケツという道具の用途からして、理由は難しく考える必要もない。

 

「お店、雨漏りとかしてるんです?」

「あらやだ、よく見てるねぇ。目立たないようにしてたつもりだったんだけど……実はそうなの。古いから屋根が傷んじゃったみたいで、ほんと困っちゃう」

 

 老婆は頬に手を添えて困ったように溜息を零しながら、「昔はおじいさんが直してくれたんだけど」と独り言ちた。

 

 彼女は足腰が悪く、自慢の翼も衰え、既に飛ぶ能力を失っている。魔法は老いた心臓に負担をかけるからあまり使えない。高所で無理な作業をすれば危険を伴うのは自明の理だろう。

 かといって、ここは辺鄙な田舎の奥地。業者を手配するには時間もお金もかかる。だから最低限の応急処置で場を繋ごうとしたのだ。

 

 ヴィクターはもう一度、中を覗き込んで見渡した。

 鳥人(ガルーダ)は俗にいう長命種だ。平均寿命は基人(ヒューム)の倍にも及ぶ。

 そんな彼女が夫と二人三脚で続けてきたという店には、古いなどと短絡的な一言では言い表せない、染み付いた年月の重さが感じられた。

 

 壁や床や天井、商品棚から置物いたるまで、この薬屋を構築する全ては一時代前のものだろう。

 しかし大切に使われてきたがゆえか、材質が老いてなおまるで生きているかのような艶があった。

 

 窓枠の修繕痕。目を凝らさねば分からない程度の小さな床の傷。張り替えられた壁紙の真新しさ。軋む薬棚の戸の音。古屋独特のノスタルジックな香り。

 長年の時を過ごした物には魂が宿るというが、まさにそれだ。今日という日まで薬屋の夫婦と共に歩んできた時間の足跡がそこにあった。

 

 どこか懐かしく、そして似ていると思った。アーヴェントたちが様々な想いと共に過ごしてきたという、島の館の雰囲気と。

 だからだろうか。なんとなく、このまま放っておける気分ではなくなったのは。

 

「そういうことなら任せてください。俺こういうの得意なんスよ」

「え?」

「修理に使えそうな材料とかありますか? 出来れば梯子とかあれば有難いッスね」

「……直してくれるのかい? そんな、悪いよ。気持ちだけで十分さ」

「気にせず気にせず! 俺こういうの好きなんスよ。それになんとなく、このお店のことが気に入っちゃってて。一目惚れって言うんですかね? だから放っておけないっていうか」

 

 老婆は少しだけ考えて、「じゃあお願いしちゃおうかしら。お礼は弾むよ」と小さく笑った。ヴィクターはどんっと得意気に胸を叩いて承諾する。

 一通り道具を拝借したが早いか、店の裏へと回り込んで梯子をかけ、身軽によじ登って作業を始めた。

 

 手先の器用さには自信があった。いまだに痛ましい焼け跡が残る館の修復作業を何度もこなしてきたし、親方の現場で働いた経験もある。

 なにより罠作りが得意だ。小細工を駆使して切り抜けた死線はいくつもあった。

 

 それを思えば雨漏り程度などお茶の子さいさい。あっという間に修繕は進んでいった。

 ババッと仕上げまで突き進んでいて、納得の出来栄えに一段落。

 

「バアちゃーん、終わったッスよー」

 

 梯子を滑るように地面へ降り立ち、手を叩きながら声を飛ばす。

 返事はない。が、代わりに何やら話し声が聞こえた。店の入り口からだ。誰かと玄関先で喋っているらしい。

 

 しかし既に話の幕は下りていたのか、相手らしき青年が爽やかな笑顔と共に一礼して去っていく後ろ姿が見えた。

 老婆は屋根から降りてきたヴィクターに気付き、驚いたように眉を上げる。

 

「あらもう終わったの? 仕事が早いねぇ」

「漏れてる場所が分かりやすかったッスからね。ところで、さっきの人はお知り合いで?」

「ううん。騎士団のお巡りさんよ」

 

 騎士団の? とオウム返し。

 そう言えば確かに、パリッとした濃紺の制服に身を包んでいたような気がする。

 

 騎士団は天蓋領を──ひいては三聖を頂点に据える治安維持組織の通称だ。

 人々の安寧を守ることを柱とする秩序の代行者であり、魔を払う盾であり、悪を裁く剣でもある。

 

 とは大袈裟にいうものの、上層部から末端までその存在はピンキリだ。

 天蓋領の手先ということで一瞬警戒してしまったが、なんてことはない。恐らく辺境に住む老婆の安全確認を兼ねた見回りのようなものだったのだろう。

 

「ほら、最近何かと物騒でしょう? わざわざこんな所までパトロールに来てくれたみたいなの。本当ありがたいわねえ」

「あー、殺人鬼がどうのって話ッスかね」

「そうそう。早く捕まって欲しいもんだわ」

 

 老婆は「ああ恐ろしい恐ろしい」と身を震わせながら、怖気を振り落とすように腕をさすった。

 

 以前、親方夫婦から聞かされた話を思い出す。

 なんでもダモレークを含む近郊の町々を恐怖に陥れているという、連続怪死事件の噂だ。

 

 当時はたった数日で数件という異常極まる頻度で変死体が発見され、強力な魔物や人食いと化した魔獣の出現を疑われた。

 しかし調査にあたった騎士団の見解によると、驚くべきことにどうも人間の仕業らしい。

 それが殺人鬼の存在を匂わせる所以となっており、日常にまぎれ潜む悪意の発覚に、人々の恐怖は膨れ上がってしまっているという。

 

(噂を耳にしたのって、確か一月近く前だったよな? マジかよ、まだ解決してなかったのか)

 

 老婆いわく、未だ犯人の足取りも掴めてすらいないらしい。

 件の殺人鬼とやらが相当な手練れなのか、それとも騎士団の捜査能力が思ったよりも低いのか。

 どちらにせよ、ヴィクターとしては一日も早く町の平穏が戻ることを祈るばかりである。

 

 

 

「へっへっへ、初依頼コンプリートだぜー。この調子この調子」

 

 ダモレークに戻ったヴィクターは達成手続きをギルドで完了させ、無事報酬金を受け取っていた。

 銅冠級(ブロンズ)の依頼であったため額は少ないが、初めて手に入れたギャラである。硬貨の詰まった小袋を揺らせば、ジャラジャラという音と共に何となく感慨深さが湧いてくるものだ。

 

 ギルドを出る途中で偶然出会ったザルバにそのことを報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。

 相変わらずの悪人面で口は悪かったが、やはり根っこの人の好さは隠せないようである。この前も黄昏の森から帰って来た時は随分気にかけてくれたものだ。

 良い先輩を持ったな、と今度一緒にオオイワトカゲの狩猟依頼に行く約束を交わしてザルバとは別れた。

 

「折角の初報酬だ、何かみんなに買って帰るか。そういやコック長(モニル)が調味料用の小棚欲しがってたっけなぁ。畑担当(コロロ)も鎌用の砥石がいるって……そういうのどこに売ってんだ? うーん、雑貨屋でも寄ってみるか」

 

 確か近所に大きめの店があったはずだと見回していると、遠目の住宅街の中に異彩を放つものが目に入った。

 

 なんとなく近寄ってみる。掲示板だった。町内のイベントやゴミ出し日程など、生活に紐づく情報の数々が掲載されている。

 しかしヴィクターの目が吸い寄せられたのは、隣の物々しい雰囲気を漂わせる一枚の張り紙だった。

 怪しい人物にご用心──鎧で武装したしかめっ面の騎士団と悪だくみをする悪人のイラストが描かれたそれは、例の怪死事件についての概要や、身の安全を守るよう促す文言が載せられている。

 

(殺人鬼……か)

 

 掲示板をぼうっと眺めながら、不安そうに吐息を零していた薬屋の老婆を思い出した。

 

 変死事件の騒動はピークと比べてめっきり減ったようだが、未解決の事件であることに変わりはない。

 恐ろしいはずだ。自分の住む町のどこかに、もしかしたらすぐ傍にでも、大勢を手にかけた殺人鬼の悪意が潜んでいるかもしれないのだから。その不安たるや想像を絶するものだろう。

 

 事件現場はダモレークではないらしいが、いずれもほど近い集落や小さな町の片隅で起こっている。決して他人事でいられる状況ではない。

 

「懸賞金までかけられてンのか。騎士団も本気だな」

 

 注意喚起の張り紙のすぐ傍に、黒塗りされた人間の絵と金額が明示された手配書まで張られていた。

 いわゆる賞金首だ。稀にこうした騎士団も手に余る悪質事件が起こった場合、ギルドメンバーに犯罪者の捕縛を許可する制度があるらしい。

 見事貢献した場合には、多額の報酬金とランクアップへの強い推薦が与えられるのだとか。

 

「……」

 

 現状ヴィクターたちの大まかな目標は、ギルドで階級を上げることである。

 ランクが上がれば受理できる依頼の幅も広がり、必然収入も増えていく。さらに『禁足地』の探索許可も多く解放され、冠接ぎの器へと繋がる手掛かりを得ることが出来る。

 

 シャーロットはあまり冠接ぎの器に積極的ではない様子だが、それでもランクは上げておくことに越したことはない。

 これらの事情を踏まえれば、賞金首の確保はハイリスクだがリターンも大きい選択肢のひとつと言えよう。

 

(だがそれより、町の安全を守ることに繋がるって方が重要だ。血生臭い雰囲気なんてダモレークにゃ似合わねえ)

 

 ヴィクターはダモレークが好きだ。記憶の無い自分にとって、泉で目を覚ましてから楽しかった思い出がこの町に詰まっている。 

 シャーロットの凍った心を解きほぐせたのはこの町のお陰だ。ダモラスやビビアン、親方夫婦にザルバたちと出会えたのもこの町だ。

 お洒落な食べ物も、面白い場所も、初めて知ったのはダモレークだ。

 

 そんな町の平和がイカれた悪人の手で乱されている。黙っていられるはずがない。

 例え現実的ではないとしても、ヴィクターとはそういう人間だった。

 

(そうと決まりゃあ、絶対にとっ捕まえてやるぜ殺人鬼! まずは事件の情報を集めなくちゃな────ん?)

 

 ふと。聞き覚えのある声が吹き抜けるように耳を掠めていった。

 方角へ顔を向ければ、これまた見覚えのある老人の後ろ姿が。ダモラスである。誰かと会話している様子だったが、話し相手はヴィクターの知らない男だった。

 

 声をかけようと思ったものの、取り込み中なら邪魔したら悪いかと思い直し、日を改めようと踵を返す。

 しかし去ろうとしたヴィクターの首根っこを「おーい、お前さん」と呼ぶ声が引き留めた。

 

「久しぶりだね。元気にしてたかい?」

「お久しぶりでッす! もちろんバリバリ元気ッスよー! 爺さんも心臓の調子は? あれから悪くなったりしてませんか?」

「ああ、問題ないさ。最近とても具合が良いんだ。彼のお陰でね」

 

 言いながらダモラスが指差したのは、先ほどまで話をしていた壮年の男性だ。

 

 全体的に色素が薄い。尖った耳に彫りの深い顔、日焼けを知らないような白い肌に、陶器と似た滑らかな艶を持った頭髪の持ち主だった。特徴からして種族は森人(エルフ)だろうか。

 年齢は基人(ヒューム)で言うところの40代後半ほどで、落ち着いた大人の貫禄が微笑みの皺へと滲んでいる。

 優し気な垂れ目でゆったりとした雰囲気の持ち主だが、ピンと伸びた背筋にオールバックで整えられた金髪や、染みひとつ無い白衣を纏う姿からパリッとした伊達者な印象を受けた。

 

「イシェル・マッコールと言います。ダモラスさんの担当医をしている者です。はじめまして」

 

 男は右手を差し出しながら、にこやかな挨拶をヴィクターに手向けた。

 快くそれを受け取りながら、ヴィクターも自己紹介と共に握手を交わす。

 

「担当医! すげー、お医者さんの先生なんスね!」

「ははは、先生なんて大したものじゃないよ。しがない医師の端くれさ」

「謙遜することはないよマッコール。彼は腕の立つ医者でね、普段は中央街(レントロクス)の大きな病院で働いてるんだ。ありがたいことにダモレークまで訪問診療してくれて、いつも世話になってるんだよ」

 

 中央街レントロクス。ここダモレークを含むアルボルッド地方の中枢を担う都である。

 通称『街』と呼ばれ、盛んな商工業と発達した文化が集約された大都会だ。ペガサス便で数時間ほどの距離ではあるが、その盛況ぶりはダモレークの比ではない。

 

 昔シャーロットが家を失った時に出稼ぎしていた場所というのもあって話には聞いていたが、なるほど確かに洒落た土地なのだろうと、イシェルを見たヴィクターは肌で感じた。

 なんというか、雰囲気が違うのである。オーラとでも言うべきか。

 繊維からして上質な衣服に、ピカピカに磨かれた鏡面のような靴、気品ただよう香水のかおりと、身に纏う全てから都会独特の磨かれた空気感があった。

 

「君のことはダモラスさんから伺ってるよ。彼の命を救ってくれたそうだね?」

「あはは、大袈裟ですよ。当り前のことをしただけッス」

「だが実際に行動できる人はとても少ない。胸を張って誇るべきだよ。一人の医者として、お礼を言わせて欲しかったくらいなんだ」

「な、なんか手放しに褒められると照れ臭いッスね」

「それだけ尊ぶべき、勇気ある行いだったってことさ。命を救うというのは想像以上に難しいんだ。私はそれをよく知っている」

 

 柔かく微笑むイシェルの目にお世辞の色は無い。紛うことのない本心から出た言葉なのだろう。

 医者という生き物は死の隣人である。心臓を患うダモラスの担当医ということは、イシェルは特に生死と縁深い循環器の専門か。

 

 ならば当然、彼の医者人生の中で救えなかった命があったはずだ。

 現代の医学薬学、魔法水準、患者の容態、何より己の実力不足で、取りこぼしてしまった命の存在。

 その重みを知っているからこそ、見ず知らずの若造であろうと、曇りひとつない尊敬を手向けられるのだろう。

 

 真摯な人だと思った。誰かの命を心から大切に思える、根っからの医者魂を持った人間なのだろうと。

 出会ってほんの数分足らずでも十分なほどに、イシェルという人間が身に纏う白衣に恥じない男だと理解できた。

 

「っと、すまない。初対面なのにいきなり重い話をしてしまったね。職業柄かな、君のような子に会えるとつい嬉しくなってしまうんだ。まったく気持ち悪いおじさんだよ、ハッハッハ」

「ンなこと言わないでください。命に対して凄く真剣で、とても良いお医者さんなんだって思いましたもん。俺、先生みたいに自分の中に芯がある人、めっちゃ尊敬します。カッコイイです」

「カッカッカ。どうだいマッコール、良い男だろうコイツは。まだまだ若いモンも捨てたもんじゃないよなぁ」

「なるほど確かに、噂に違わぬ好青年だ。明日からも仕事を頑張れそうだよ」

 

 言いながら、イシェルが腕時計にちらりと目を遣った。どうやら帰りのペガサス便が近いらしい。

 レントロクスまでは時間がかかる。到着する頃には恐らく夕方へ差しかかっているはずだ。この便を逃すと少々痛手になってしまう。

 

「では私はこれで。ダモラスさん、この調子で薬を忘れずに。しっかり飲んでくださいね」

「相分かった。またよろしく頼むよ」

「ええ、お大事に。それじゃあねヴィクター君、今日は会えてよかったよ」

 

 会釈しながら帽子を被り、イシェルはひらひらと手を振りながら駅の方へと去っていった。

 残された二人は、折角だから昼食でもどうかという話に変わる。ダモラス曰く、近場に美味いパスタ料理の店があるのだとか。

 

 早速向かおうと足を動かす。しかしヴィクターの爪先は、再びイシェルが去った方角へと急旋回した。 

 踵を返す直前、視界の端が捉えたのだ。遠くのイシェルの様子が何やら怪しい雲行きになっていることに。

 

「ん? なんだいお前さん、どうかしたのか?」

「いえ、先生の様子が気になって。どうもおかしいんです」

「なんだって?」

「転んでる……? いや、あれは転んでるってより……」

 

 双眸のピントを合わせると、彼は白衣を土埃で汚していた。

 躓いて転倒した具合ではない。まるで誰かに突き飛ばされたような体勢で崩れ落ちている。イシェルの周囲にはどよどよと騒がしい人だかりが出来ていて、ただ事ではない雰囲気を一層強調していた。

 

 居ても立っても居られなくなったヴィクターは、ダモラスへ詫びを告げながらイシェルの元へ一直線にすっ飛んでいった。

 

「先生ッ、大丈夫か!?」

「いたた……あ、ああヴィクター君か。情けないところを見られちゃったな、ハハハ」

 

 小さな人混みに割って入り、苦笑いするイシェルに手を貸してゆっくり体を起こす。

 笑って誤魔化してはいたが、右手を派手に擦りむいていた。出血は浅いものの、痛々しい生傷に野次馬から小さな悲鳴が上がる。

 足首も痛めているのか、壁に寄りかからないと満足に立てない様子だった。相当派手に転倒したらしい。

 

「ひでえなこりゃ。一体この一瞬で何があったんスか?」

「わからない。突然誰かに突き飛ばされたんだ。しかも、ああ最悪だ、カバンを奪われてしまった」 

 

 言われて、イシェルが持っていた革のアタッシュケースが何処にも見当たらないことに気付く。

 引ったくりか──野次馬やイシェルの視線から鞄を盗んだ犯人が去っていったらしい方角の見当をつけながら、ヴィクターは眉間に皺を刻んだ。

 

「参ったな。あのカバンには大事な仕事道具が……」

「盗人が逃げたのはあっちですか?」

「え? あ、ああ、確かそのはずだ。あの路地に向かって逃げたんだ」

「任せてください。絶対取り返してきます」

 

 イシェルの返事は待たなかった。 

 心配そうに見ていた周囲の人々に介抱を任せ、ヴィクターは足に力を込めると、疾風の如く引ったくり犯の追跡を開始した。

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