銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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47.「罪なるかな」

 思えばヒントなんて、いくらでも転がっていたように思う。

 

 決定的だったのは人を魔物に変える災厄、禍憑きの存在か。

 あれは特定の人間を狙うなどという器用な真似を可能とする代物ではない。

 ひとたび芽吹こうものなら無作為に命を貪りつくし、あっという間に虐殺の坩堝を生み出てしまう禁忌なのだから。

 

 オーウィズは言っていた。

 ブーゴ、ホルブ、そしてライアンの三人に植え付けられていたそれは、特定の言葉に反応し周辺一帯を()()()すべく仕掛けられていたものだったと。

 

 ()()()()()()()()()。ああ、矛盾にもほどがある。

 

 イシェルは虐殺をよしとする人間ではない。彼を蝕んだ憎悪には、悪の予防によって善き人々を守るというたしかな目的があった。

 大勢の市民を死の水底(みなそこ)に沈めかねない魔物の芽なんか、絶対に手を伸ばすはずがない。

 

 手口だってそうだ。イシェルは転血という、殺傷特化に改造した独自の医療魔法を行使して暗殺を行った。

 しかしオーウィズが見せた資料には、イシェルが手を下したらしき体が内側から弾けた死体と、自殺に見せかけられた他殺体──否、()()()()()()()()()()の二種類が存在している。

 

 言うまでもなく後者の遺体は、星の刻印によって精神を蝕まれた犠牲者たちのもの。ところがイシェルには徹頭徹尾、そんな力を発揮する場面など存在しなかった。

 

 ブーゴたち三人に残されていた精神汚染は星の刻印と同様の力だった。

 ならばこの時点で、三人組を襲った()()とイシェルは、切り離されなければならなかったハズなのだ。

 

 

 気付くべきだった。気付かなければならなかった。

 いいや。()()()()()()()()()()()

 

 

 ──殺人鬼(アマルガム)は、二人いる。

 

 

 

「う……」

 

 冷たい。

 湿った匂いがする。まるで冷えた洞窟にでも放り込まれたかのような寝心地だ。

 腕が痛い。変な方向に寝違えているのに似た、強張った筋の違和感がある。

 

「……ンだ、ここ?」

 

 重い瞼をこじ開けて、霞む眼球が精いっぱい捉えた景色は、まるで覚えのない場所だった。

 古い建物の中だ。独房のような部屋に閉じ込められている。

 寂れていて、満足な明かりもないせいで薄暗く埃っぽい。ひんやりじめじめした嫌な不衛生感が充満しており、ほのかに尻が湿っていた。

 

 それ以外に情報は無い。窓がないせいで外の様子もうかがえないし、(キャルゴ)が走る音も、生き物の鳴き声も聞こえない。

 

(地下っぽい雰囲気がする。まるで牢獄だな。ご丁寧に縛られてるし)

 

 腕を上げれば、じゃらっと金属がいなないた。

 両手首を縛る太い鎖だ。乱雑に絡められていて、拘束具というには荒々しく粗雑である。

 しかし、手を抜こうとしても抜ける気配はない。

 壁の亀裂と繋がっている鎖の根元を引っ張ってみるが、どういう理屈なのか、まるで割れ目にひそむヘビを引きずり出すようにズルズル伸びてきてキリがなかった。

 

 仕方なしと、力技に移る。

 

「ふんぬッッ! ぐぎぎぎッ、だぁッ!!」

 

 腕の筋肉を爆ぜさせるように力を注ぎ、鎖を無理やり弾き飛ばした。

 ばらばらと音を立てて転がる金属片の亡骸。それらは不思議なことに、煙のように溶けて消えてしまった。

 魔法の鎖か。拳を握り、開いて、手の調子を確かめながら腕を見る。

 

「……フォトンパスは無事か。蓄魔石(バッテリー)は奪われたみたいだが。ああクソ、魔力が切れそうじゃん。これじゃ通信できねえ」

 

 フォトンパスには防護機能がついている。所有者以外が持ち主の許可なく外そうとすると、内蔵された魔術的反撃が発動するという仕組みだ。

 

 盗まれなかったのはそれのお陰だろう。不幸中の幸いと言えるが、しかし動力源を奪われたのは痛かった。

 魔力の無いヴィクターでは、蓄魔石(バッテリー)がないとエネルギーを充填出来ないからだ。

 

 水色のクリスタルのような質感だったフォトンパスが力なく明滅を繰り返している。今にも動力が切れそうなのか、液晶の端から墨色に染まりつつあった。

 叩き起こすように指を這わす。この時ばかりは魔導駆機(ゴーレム)オンチを呪いながら、どうにかオーウィズへと短いメッセージを飛ばすことに成功した。

 

 これで伝わってくれと願いを込め、力尽きたフォトンパスに手を添える。

 ……記憶が正しければ、まだ残魔力に余裕はあったはずなのだが。はて。

 

(考えたって仕方ないか。ひとまず優先すべきは先生の安否だ。きっと一緒に連れて来られているはず)

 

 善は急げと、この部屋で唯一のドアに手を伸ばす。 

 呻くような錆び音。建付けも少し歪んでいるのか、感触が重い。

 半ばこじ開けるようにドアを開いて、恐る恐る顔を出した。

 

 明かりひとつない細い廊下だ。かなり長く奥まで続いている。

 太陽光の迎え口がひとつもない閉塞感は胸に響くような重苦しさがあった。

 無数に点在するドアはまるで独房のような情景を作り出し、言いようのない不気味さがざりざりと神経にヤスリがけしてくる。

 

「なんなんだここは。廃墟にしては普通の建物に見えないぞ」

 

 窓が全くないところからして、やはり地下なのかもしれない。そうであればこの湿っぽさも冷ややかさも合点がいく。

 であれば一体、気味の悪い雰囲気が常に肌をぬぐうこの施設は、一体なんのために作られた場所なのか。

 なんとなく。なんとなくだが、人をまともに生かすような、人間の住処としての機能性を感じなかった。

 

「……ん? お、おい、大丈夫か!?」

 

 覗き窓をひとつずつ確認していると、中で力なく横たわっている小さな影が見えた。

 ドアを開ければ、そこには鎖に繋がれた小人(コロポックル)の姿が。

 痩せこけた体。青白い肌。限りなく褪せた水色の髪に、宇宙のように澄んだ銀河模様の瞳。

 

 島にいる金髪紅眼の子たちとは異なる容姿。きっと黄昏の森とは違う、別の『禁足地』出身の小人(コロポックル)だろう。

 

 今にも途絶えてしまいそうな浅い呼吸を繰り返す小人(コロポックル)は、ヴィクターを視認しても何の反応も示さなかった。  

 むしろ目が見えているかどうか怪しい。視線はどこか虚ろで、焦点が定まっていないように思える。

 

「待ってろ、今助けるから」

 

 小さな亜人を繋ぎ止めている鎖を掴む。

 瞬間、バヂッと電気のような衝撃と共に指を弾かれた。

 

「いってえ、魔法かクソッ! だが認識すりゃあ問題ねえ、よっと」

 

 王の腕に宿る万物干渉の力。接触対象の選択を可能とする異能は鎖から魔法のみを引き剥がし、改めて破壊を成功させた。

 

 腕が自由になった小人(コロポックル)は、小さく瞬きを繰り返しながら弱々しくヴィクターを見上げる。 

 ふらっと体が傾いた。とっさに背中へ手を回して支える。

 軽い。軽すぎる。いくら子供のように小さな種族とはいえ、片手ですらまるで重みを感じないことに驚きを隠せなかった。

 

 一体いつからここに閉じ込められていたのか。

 惨たらしいまでの衰弱ぶりに、奥歯が軋む。

 

「今までよく頑張ったな、もう大丈夫だぞ。一緒にここを出よう」

「……ありが、とう」

 

 しかし蚊の鳴くような声を発した直後、小人(コロポックル)の姿が忽然と消えた。

 まばたきのような一瞬の出来事だった。この手で確かに支えていたはずの小さな体が、まるで空気に溶けた煙のようにいなくなったのだ。

 

 部屋中を見渡してもいない。声をかけても反応が無い。

 透明化魔法(ヒアリン・ヴェルム)かと元居た場所に手を伸ばしても、ただ虚空を掠めるだけだ。

 

「幻覚でも見てるのか?」

 

 幻覚。 

 零れた言葉が小さな発想の芽を生やす。

 二人目の殺人鬼……状況からしてあのニセ騎士団は、精神干渉系の刻印使いであるアマルガムで間違いない。

 もしかするとこの非現実的な世界は全て幻で、異能が見せている妄想の中なのではないか?

 

 

 ────ザ──ザザ──

 

 

「……いや、星の刻印ならフォトンパスが弾いてくれる。さっきまでエネルギーが残っていた以上、効果はあったはずだ。つまりこれは現実か」

 

 オーウィズは言っていた。精神干渉は無防備な心でなければ、限りなく効果が薄いのだと。

 賢者の加護(フォトンパス)と警戒心。二つの防壁が健在だった以上、偽物の世界である可能性は低いと考えるのが妥当か。

 となると消えた小人(コロポックル)が気掛かりだが、探そうにも手段がない。仕方なく部屋を後にしたヴィクターは、イシェルの捜索に注力することにした。

 

「先生、どこだーっ! 居たら返事してくれ、先生ーっ!」

 

 名前を廊下の奥まで響かせるように声を張って、ずらりと並ぶ部屋をひとつひとつ覗いていく。

 いない。どこにも。影も形も見当たらない。

 

 あるのはとても理解できない、奇妙で不愉快なナニカばかりだった。

 

 先端に金属のリングが癒合している指のような触手のかたまりが蠢く部屋。

 全身にびっしりと目玉が生えた豚らしき生物が、壁一面に綴られた意味不明な文字をぎょろぎょろと読み続けている部屋。

 異常な肥満で、異様に目が小さい年老いた赤子のような怪物が、「あーっ」と抑揚のない鳴き声をあげている部屋。

 

 口にすることすら憚られるような醜悪が、さながら囚人のように閉じ込められている光景が続いている。

 まるで地獄の見学施設だ。もしかして自分は死んでしまったのかと疑うほどに。

 

「一体なんなんだここは……? あいつらを閉じ込めて何を……?」

 

 込み上がる生理的嫌悪を呑み込みながら、一歩一歩と進んでいく。

 やがて終点に辿り着いた。ついぞイシェルの姿はなく、あるのは酷く異彩を放つ真っ青なドアのみ。

 

 恐る恐る触れ、開き、足を踏み入れる。

 眼前には階段が。深淵のような闇が手招く、下降のみが許された道筋がヴィクターを出迎えた。

 

 

 その時だった。

 階段の下を覗き込んでいたヴィクターの背後から、猛烈な重低音が爆発した。

 

 凄まじい勢いでドアが閉じた轟音だった。反射的にノブを掴んだが、回るどころかビクともしない。

 閉じ込められた──悟った瞬間体当たりしたが、無駄だ。まるで帰路など最初から存在しなかったとでもいうように、完全に退路を塞がれてしまった。

 

「……降りろってか」

 

 しぶしぶ階段を進んでいく。

 永遠に続くかと錯覚するほどの暗闇だ。足を踏み外せば無間の底へ落ちてしまいそうな怖気があった。

 しかし不思議なことに、足元のまわりだけは光源に包まれている。お陰で慎重に下れば安全だ。

 問題なのは、一向に終点がみえないことか。

 

 ──刹那。足場の感覚が雲を踏んだように消滅した。

 

「ッ!? うぉおおおおおおおおおおおっ!?」

 

 落ちる。落ちる。

 大口を開けた暗闇を真っ逆さまに落ちていく。

 上下すら曖昧になる亜空の中で、ヴィクターは指に意識を集中させた。

 ()()()()()。万物干渉の力で闇に指を引っ掛け、どうにか減速することに成功した。

 

「ッぶねえ! なんだってんだよ!」

 

 背を冷やすじっとりを嫌になるほど感じながら、宙ぶらりんのまま下を見る。

 ほんの数センチ先に真っ白な地面があった。

 ポカンとしたまま手を放す。すり抜けることなく着地した。

 かと思えば、足が触れた場所から水面を走る波紋のように、暗黒が反転し純白の平原が現れたではないか。

 

 変化は留まるところを知らなかった。

 真っ新な空間が色づき、質感を帯び、マーブルと酷似した床模様に変わっていく。

 果てには石柱が竹の如く生え伸びてくると、古びた石造りの内装に姿を変身を遂げたのである。

 

「何が──、ッ!?」

 

 状況を掴めず静観に徹していると、不意に赤い影が降ってきた。 

 

 バチバチと脂が弾ける異音。突如として鼻を突く異臭。

 炎だ。炎の塊だ。じりじりとヴィクターをあぶる炎熱に呑まれた、人間大の物体だ。

 違う。物体ではない。橙に揺らめく悪魔の舌のような焔になぶられているのは、正真正銘人間の男だった。

 

 床に倒れ伏した姿勢から、緩慢な動きで起き上がる炎の男。

 咄嗟に身構える。だがソレの顔を見た瞬間。ヴィクターの全細胞が動きを止めた。

 だってこいつは、この男は、

 

「カースカン!? 何でお前がッ!?」

 

 忘れるはずもない。忘れられるわけがない。

 黄昏の森で相見えた狂気の芸術家。美学のために無辜の命を弄び、森の炎によって最期を迎えたはずの男が、再び目の前に現れたのだ。

 

 反射的に拳を引く。いつでも叩き込めるよう、全神経を右腕に集中させる。

 燃える男は溶け落ちた瞼の間からヴィクターを見ていた。

 いいや。笑っていた。まるで旧い友と再会したかのような朗らかさで、地獄の炎熱に肢体を弄ばれながら笑っているのだ。

 

 カースカンは何もしなかった。ただじぃっと、ヴィクターに微笑みを手向けるだけだ。

 やがて火の勢いが止まる。炭の塊と化した男は、自重に耐え切れずそのまま床に崩れ落ちた。

 砕ける音。散らばる煤。

 足元に転がってきた頭の欠片を、おっかなびっくり拾い上げる。

 

「……感触がある。幻じゃない?」

 

 頭部の欠片が雪のように解け始めた。

 小さな風に攫われる。焼き潰された成れの果てが散り散りになってゆくのを見届けながら、ヴィクターはこの異常な空間が何らかの能力によって作られたものではないかと、

 

 

 ──ザ──ザザ────―ザ──

 

 

「いや、ありえねえ。幾らなんでもこんな大掛かりな幻覚なんて作れるわけがない。感触も本物だし、博士だって精神干渉の条件は────待て。違うだろ。どう考えたってこいつは変だ。現実のはずがねえいや、そうだからそうなんだ何も違わねえ、違う、いや、違う、違う違う違う!!」

 

 おかしい。

 頭の中で何かがズレている。それも決定的に。

 

 歯車の間にワラが噛んだような違和感がずっとずっと拭えない。

 なのにそれが正しいと思えてくる。考える必要などないんだと誰かが諭している気さえするほどに。

 頭がおかしくなりそうだった。異常なのに異常だと思えない。無理やり首の方向を固定されているような違和感は、肥大と縮小を繰り返してヴィクターの脳漿を掻き混ぜた。

 

 間違いない。これは、刻印の力にやられている。

 一体いつ仕込まれたのか。先生をニセ騎士団から助けようとした瞬間か。

 思い返せばオーウィズのメッセージには記憶に無い自分の行動が記されていた。もしかすると、想像よりずっと前から()の支配下にあったのだろうか。

 

 

 どうでもいい。

 理解したなら、やるべきことは変わらない。 

 

「ふんッ!!」

 

 凄まじいインパクトが頭蓋を揺らした。

 根源は己の拳。全力全霊で振り抜かれた純黒の鉄拳がこめかみを撃ち抜いた反動だった。

 

 重々しく響く激痛。崩れた平衡感。反して気分は抜群に良かった。

 脳ミソの表面にこびりついていたカビのような不快感が消え失せて、一気に世界が晴れたような気がするほどだ。

 

「がぁー()ってえ! 超イテえ!! けど()()()()()()! ったく、人様の頭を玩具みたいにいじくりやがってよォーッ!」

 

 万物干渉が頭から引き剥がしたのは、形容しがたいモヤのようなナニカだった。

 それはヴィクターの思考を歪めていた犯人に他ならず、既にアマルガムの支配下にあったという動かぬ証拠である。

 

 床でうぞうぞと蠢く意思をもった黒いモヤを踏み潰し、ようやくクリアになった頭を撫でる。

 

「星の刻印だな。危うく気が狂うかと思ったぜ。……景色に変化が無いのは妙だが。あー、あー、空は青い、水は冷たい、岩は硬い」

 

 念のためオーウィズに教わった精神干渉の見極め方とやらを試してみる。

 空は青い。水は冷たい。岩は硬い──あたりまえを口にして、違和感を覚えなければ思考誘導の心配はないという応急処置だ。

 もっとも、気休め程度のものらしいが。

 

 しかし実際に頭を蝕まれた鮮烈な経験から、刻印の呪縛は解かれたと確信した。思考の濁りぐあいに天と地ほどの差があったからだ。

 

「間違いねえ、この景色自体は本物だ。あの野郎俺たちをどこに連れ去って……。ん? あッ!? 先生!」

 

 石柱が立ち並ぶ薄暗い広間。その奥の柱の影にピントが定まる。

 半身が隠れて見えないが、見知った白衣の背中をみつけのだ。

 

 だが、しかし。

 ヴィクターの知るイシェル・マッコールは、柱から見えた()()()()だった。

 

「先、生?」

 

 棒切れのように立ち尽くす彼の左半身は無数の刃に覆われていた。

 刺さっているのではない。生えている。

 金属質なのにクリスタルにも似た透明感をもつ細長い刃物が、イシェルの半身にフジツボの如くびっしりと生え揃っていたのである。

 

「なんだよこれ、どうなってッ……!?」

 

 刃に触れる。イワシの鱗のように簡単に剥がれ落ちた。

 

 ずるり、と怖気を呼ぶ水音。

 

 刃の持ち手に粘質で暗い赤がべっとりとこびり着いている。うっすら脈打つ生臭い塊は肉片か。

 刃の剥がれた場所から黄色い膿のような液体が流れ出した。

 どころか、イシェルの肌を喰い破って新たな刃が飛び出してくるではないか。

 

「おいしっかりしろ先生! 何があったんだ!? どうしてこんなことに!? 先生!」

「──、────れ」

「え?」

「許してくれ。すまなかった。許してくれ。すまない。すまなかった。許してくれ」

 

 

 悪夢になぶられ絞り出される譫言(うわごと)のような言の葉たち。 

 まるで罪に溺れ苛む咎人のようなその面持ち。だがしかし、彼が懺悔を供える先には何もない。石柱ばかりの屋敷模様が広がっているだけだ。

 焦点のあっていない瞳で虚を視る彼の世界に、何が映っているというのか。

 

 

 

 

 

「いやはや全く素晴らしい。かつて命を奪いあった怨敵の復活を前に、混乱どころか分析を繰り広げるとは。流石は僕の見込んだ男、解釈一致にもほどがある!」

 

 

 

 ぱち。ぱち。ぱち。

 乾いた手拍子が、石柱を縫って木霊した。

 

 

「ヴィクター、ヴィクター、ヴィクター……。嗚呼、美しい人よ。僕という災禍をはらう焔の君よ。この日をずっと待ち望んでいた」

 

 石柱が石を持ったように動き出す。

 不揃いに乱立していた柱が規則ただしい整列を覚え、一本の道筋をヴィクターの前に切り開いた。 

 くるくると赤い絨毯が足元まで転がってくる。薄黒いコケとヒビに装飾されていた寂しい石柱は、磨かれた大理石特有の輝く白を帯びはじめ、さながら帰国の英雄を迎え入れる宮殿のような、豪奢な内装へと様変わりしていった。

 

「ようこそ、罪なる我が城へ。麗しの救世主様」

 

 呆気にとられるヴィクターを前に、悠々と姿を現したのは一人の男だ。

 

 不気味なほど耽美な顔立ち。黄金色に煌めく髪。透き通る乳白の肌。 

 片側だけ異様に伸びた前髪は左目を隠しているが、露わの右目は金糸のまつ毛に華を生けられ、空の蒼が形になったような大きな瞳だった。

 細身の体を紺色の礼装(スーツ)で着飾って、胸元に輝くのは白薔薇の聖女を刻んだ銀のバッヂだ。

 てっぺんが平らで前に張り出している特徴的な帽子をかぶり、恍惚に濡れた笑みを貼り付けるこの男は、紛れようもなく。

 

「お前、さっきの騎士団野郎!」

「そう、僕がアマルガムだ」

 

 日常の影に潜みながらいくつもの命を奪い、町の平穏を乱した殺人鬼。

 ブーゴたち三人に禍憑きを植え、頭を弄った刻印の持ち主。その張本人が彼なのか。

 

「嗚呼ヴィクター、ずっとずっと会いたかったよ! この瞬間を幾度夢見たか分かるかい?」

 

 男はまるで憧れの芸者と視線を交えた信者のように、うっすらと頬を染めながら恍惚を声に変えて絞り出した。

 

「焦らされ、焦らされ、悶えるしかなかった今までの日々が、どれほど苦役と甘美に満ちた素敵な時間だったか。嗚呼、愛しの君! この昂ぶりが分かるかい!?」

「うげえっ……なんなんだお前、気持ちワリィ奴だな。俺にソッチの気はねえぞ!」

「フハッ、突き刺さるような蔑みの眼……! 光栄、いや、恍惚か?! 嗚呼、かくも人の言葉は脆いものだ。この気持ちに正しい輪郭を与えることすら叶わないのだから」

 

 体をエビのように反り返らせ、唾を吐き散らしながら身を震わせ悦に悶える奇行人間。

 冷酷な殺人鬼という風評に対しあまりに滑稽で、しかしどこか、人として決定的なナニカが欠けているような言動は、名伏しがたい生理的嫌悪をヴィクターのみぞおちに縫いつけた。

 

「けっ、まるで見知った仲のように吹いてるがよォーッ、あいにく殺人鬼のファン囲った覚えはないんだわ! 詩文(ポエム)吐きてえなら小鳥でも食ってろスカタン!」

「いいや知っているさ。僕はずっと見ていたよ。黄昏の森で君を見つけた日からずっと、ずーっとね」

 

 黄昏の森。

 恍惚に表情を歪ませる男の口から洩れた言葉が、小さな疑惑の苗を植えた。

 

「知ってるだろ? カースカンって芸術家。さっき君の前で燃えカスになったおじさんさ」

「……!」

「彼に与えた監視ゴーレムで君の存在を知ったんだ。けっこう良いビズネス相手でさ、()()()()()をよく見つけてくれた太客だったんだ。その一人が君だった」

「そうかお前、カースカンの同業か。──じゃあ手加減する必要はねぇよなァーッ!!」

 

 刹那、肉薄。

 一呼吸のうちに距離を殺す。

 

 ヴィクターは鉄拳に纏う一切の加減を捨て、見下ろすアマルガムの顎を殴り抜けるようにありったけの力で振り抜いた。

 凄まじい破壊がアマルガムを襲った。下顎どころか首から上ごと吹き飛ばさんばかりの恐るべきインパクトが顎骨を粉砕し、およそ人体から発生するものではない、筆舌に尽くしがたい轟音が炸裂する。

 

「てめえが刻印の使い手なら、とりあえずブッ飛ばせばよォーッ!! 先生は元に戻るんじゃねーか!?」

 

 猛烈な一閃をまともに受け止めたアマルガムは、まるで乱雑に蹴り飛ばされたボールのように石柱へと激突した。

 大きな亀裂がアートのごとく石柱を這った。

 散乱する潰れたトマトのような血潮。慌てた硝煙が空気を白く濁し、それを裂くようにアマルガムは倒れ伏して動かなくなる。

 

 はずだった。

 

「ああ、素晴らしく速い判断の舵切り……! 解釈通りだ……!!」

「ッ!?」

 

 ──倒れ伏したアマルガムが、まるでバネ細工のようにグバンッと起き上がったのだ。

 それだけではない。破壊された顔面がみるみる再生していくではないか。

 

「慢心に満ちた敵への先手必勝! だがそれは決して猪突猛進じゃあない! ()使()()の本領を潰しつつ力量を分析するには、初見殺しの君の敏捷性(スピード)を活かすことが最適解だからね! それを実行に移せる豪胆さ、実に解釈一致ィィ──!」

 

 時間が巻き戻るような怪現象は、アマルガムを掠り傷一つない真っ新な体に再生させたのだ。

 

(ッンだこいつ!? 拳は間違いなくぶっ刺さった! 手ごたえは百パーセントあったんだ! なのにこいつ、まるで水をかけられたスライムみてーに効いちゃいねえッ!? 精神干渉系の刻印なら、魔法も使わずに自己再生なんて不可能なはずだろ!?)

「──と君は考えてるね!? ああ嬉しいよ、僕で頭を満たしてくれることが! もっとだ、もっと知恵を絞って、脳ミソをこねて! 僕という罪を滅ぼす(かい)を見つけてくよなァーッ!!」

 

 

 気持ちが悪い。

 なんともシンプルな理由で、ヴィクターは表情筋を捻じ曲げた。

 生理的嫌悪とはこういう感情なのか。まるでゴミ溜めの中に人間の形をしたウジ虫を見つけたような、おぞましさで肌が粟立つ未知の大剣がヴィクターを襲った。

 

 今まで許せない悪逆非道に烈火の怒りを抱いたことはあったが、ここまで明確に拒絶したくなる人間は初めてだった。

 いいや。そもそも彼を人間と呼んでいいのだろうか。 

 

 あの男が殺人鬼(アマルガム)の正体ならば、数多の命を悪戯にうばってきた唾棄すべき悪党なのは間違いない。

 けれど、同じ分類であるはずのエマやカースカンとは、何かが決定的に食い違っているような違和感があるのだ。

 

「……てめえ、一体何が目的だ?」

 

 だから問う。

 指を突き付け、屈することを知らぬ心で。

 相対するだけでざわざわと胸騒ぐこの異常な男を見極めんと、本質に釣り針を垂らしていく。

 

「手の込んだ殺人を繰り返して、禍憑きをバラまいて、先生をこんな姿に変えて。そのうえ、きゅーせーしゅ? 罪を滅ぼせ? 全ッッ然ワケわかンねえよ! 何の狙いがあってこんなことしやがる!?」

「嗚呼ヴィクター。この世で最もおぞましい悪はなんだと思う?」

 

 思考の歯車が止まった。

 跳ね返ってきた返事が、アマルガムの不可解さをさらに加速させるようなものだったから。

 

「僕はね、悪を悪と思わない無自覚ゆえの加虐にこそあると思うんだ。殺戮、姦淫、強奪、虚言……あらゆる暴力を膿と理解しない人間性の欠落。それこそが、この世の最たる悪の素顔なのさ」

「……さっきから本当に何言ってんだお前? イカレてんのか。意味不明にもほどがあるぞ」

()()()()()()。僕は裁かれなければならない存在だ。星が堕としたもうた、先天の災禍そのものなんだよ。こんな風に」

 

 アマルガムの隠された左目が、髪の下で怪しく輝く。

 途端、彼の足元が命を吹き込まれたみたいに蠢きだした。

 

 ぐねぐねと蠕動する床はまるで苦しむ腸のよう。

 一際強く波打つと、べしゃりという生々しい水音を響かせて、地下からナニカを吐きだした。

 

 腐臭。

 赤黒く濡れたズタ袋だった。膨らんでいるから中身があることがわかる。

 滲み出す腐った肉汁のような液体は目を刺すほどの激臭で、思わず顔をしかめて鼻を覆う。

 

 しかし次の瞬間、匂いなど感じる暇もない驚愕の槍がヴィクターを一直線に貫いた。

 

 両目が大きく開かれて、物体の解像度を引き上げた先。

 袋の表面。濡れて、汚れて、綿のような質感を失って張り付いている無数の付着物は。

 ()()のようなそれは、どこかで、たしかに、見覚えのあるものだったから。

 

「なんだかわかるかい? それ」

 

 頭の中で点と点が繋がっていく音がする。

 それはいつかの記憶の形に変わる。嫌になるほど鮮明に、()()()()()()()()()()()()()()()の光景が浮かんでくる。

 この時ばかりは絶対に思い出したくなかったと、唇から鉄の味がした。

 

 

 ──老婆の店まで巡回に来ていた一人の騎士団。

 ──爽やかな笑顔が眩しかった青年は、どんな顔だった?

 

 

「薬屋さんだよ。ガルーダのおばあさん。ほら、君が薬草を届けた」

 

 ぐちゃ。 

 

 磨かれたブーツが腐った肉をかかとで踏みしめる、生理的嫌悪を掻きだす水音。

 脳の奥が、火を放たれたみたいに熱くなった。

 

「なん、で」

「君に分かってもらうためだよ。僕がどういう存在なのか」

 

 ──ぐちゃっ。

 

「愛する夫に先立たれたおばあさん。伴侶の生きた証を健気にも残そうと頑張っていたおばあさん。君のはじめての依頼主だったおばあさん」

 

 ──ぐちゃり。

 

「笑顔が優しい素敵な女性だったよね。なんというか、年の功? 包容力のある暖かさをもった人だったなぁ。あんな風に年を取りたいなって思えるようなさ」

「やめろ……!!」

「生まれつきの癖みたいなものなんだ。例えるなら、子供がバッタの足をちぎって遊ぶのに近い。別に好きとかじゃなくて、ついやっちゃうだけ。鳥の干し肉の残りカスみたいな人生ひとつ奪ったところで、僕にはその程度でしかないんだ」

「やめろっつってんだろうがァ────ッッ!! その足をどけろてめえェ────ッッ!!」

 

 足を杭撃ち、全力で腕を引き絞る。

 纏う空気を砲弾に変えて、凌辱を肴に悦へ浸る怪人をボロ切れのように吹っ飛ばした。

 猛風の砲撃が石柱ごとアマルガムを叩き潰す。がらがらと盛大に崩れる瓦礫に追い打ちを受けたアマルガムは、赤い水たまりを鉄臭さと共に吹き散らした。

 

「バアちゃん、バアちゃん! ……クソッ!!」

 

 ズタ袋に駆け寄って、腐臭の塊を抱き上げた。

 凍ってるように冷たい。持ち上げた場所が粘々と糸を引いている。

 

(これがっ……これがほんの数日前まで生きてた人間の姿なのか……!? ぐずぐずに溶けて、袋の中で皮膚がズレて、ッ、バラバラになった羽の感触が……!)

「最悪だろう。でも僕はなにも感じない。欠けてるんだ。生まれた時から無いんだよ。()()()()()()()()()()

 

 瓦礫の中から這い出る声。

 噴き出した血液も、削げた肉片も、砕け折れた骨も、巻き戻っていく怪物の姿。

 

「僕という汚穢(おわい)を浄滅する裁きが欲しい。いかに影を落とそうとも、最後に悪魔は滅びるんだという証明が欲しい。人の世が健全で正しいなら、僕は存在を許されないはずなんだ」

 

 何事もなかったかのように元に戻る。

 髪の毛。顔。四肢。五本の指。肌を隠す衣服さえも。

 憂うように微笑んだアマルガムは、無造作に頭を搔き毟った。

 

 無理やりこそぎ落とされた皮膚が爪に詰まって赤黒く染める。染み出す赤が幾重も伝って血化粧のように頬を染める。

 再び戻る。まるでこの世界が、アマルガムが傷つくことを許さないかのように。

 

「僕は悪事を働いたと思ったことはない。だって僕は何十人も殺してるけど、いまだ捕まってすらないだろ? 人々は悪いことをすれば必ず裁きが下ると口にする。因果は巡ってくるのだと。じゃあ僕はなんなんだ? 良心の呵責もなければ制裁を受けることもない。筋が通っていないじゃあないか」

 

 悪寒。

 ごくごく平凡そうな好青年のものとは思えない、悍ましい異質な気配がじっとりと心臓を舐めてきた。

 それは魔物に近しい、決して相容れることのない邪悪の臭気そのものだ。

 

「僕は悪だ。なぜなら人間社会という群れを壊しかねない危険分子だからだ。僕は人間だ。なぜなら二足歩行で言葉を扱う人類だからだ。だったら裁かれるべきだろう。それが道理ってやつだろう。この心臓に杭を打たれて然るべきだろう。──なのにッ!!」

 

 突然、決壊したダムのように滂沱の涙を流し、心の底から悔しそうに歪めた顔をアマルガムは覆った。 

 赤子のように嗚咽を響かせ、憂き世を嘆く神の代弁者とでもいうかのように、天を仰いで絶叫をほとばしらせたのだ。

 

「誰も僕を裁けない! 誰も僕の正体を掴めない! 誰も僕の悪逆を止められない! こんなことがあっていいのか!? かつて命を世界にくべてまで平和を掴み取った救世主、白薔薇の聖女が残した世界に! こんな汚点が存在してもいいのか!? 不甲斐ないだろうそんなンじゃァあああさァああ────ッッ!!」

 

 身にまとう騎士団衣装から胸元のバッヂを引き千切り、アマルガムは刻まれた聖女のシンボルを高らかに掲げた。

 濁りを知らない澄んだ瞳は、吐き下す言の葉に一切の疑念を映さない。

 

「ああ聖女よ! 貴女の教えは僕の人生と共に在った! 心を知らない僕が人を知れる唯一の拠り所だった! けれど貴女の御心を解すれば解するほど、僕がいかに罪深い存在か分かってくる! なのに誰もッ! 僕を止められないッ!! 存在すら許されない魔物に等しい悪疫なのに!!」

 

 狂う。喚く。嘆く。叫ぶ。

 ただひたすらに、ヴィクターには欠片も理解できない濁音の羅列を吐き続けていく。

 

「だから大罪を裁くに相応しい()()()に見つけてもらえるように動いたんだ。僕が罪を犯せば犯すほど、正義は()を探しやすくなるだろう? まるで暗い海を照らす灯台のように!」

「……ちょっと待てよ、まさかお前ッ、()()()()()()()()()()()()だとかいう目的のためだけに彼女を殺して、禍憑きをばらまいて! 先生をあんな姿にしやがったってのか!?」

「そのとぉーりィ! 陰の濃さは光の強さと比例する! 悪が増長すればより輝きを放つ正義が! いつの日か必ず僕を見つけて裁いてくれる! この魂が救われるんだッ!」

 

 破綻している。

 大義の名の下に虐殺を起こしたエマも、美学のために命をもてあそんだカースカンさえも霞むような、常軌を逸した狂気がそこにあった。

 

 言葉で(かたど)るならそれは、ある種の破滅願望者か。

 教義に背き聖女を穢す吐く己を許せず、正しく裁かれねば極楽には行けぬとでもいうような、捻じ曲がった信仰心が狂気の源なのだろう。

 

 けれどそれは。

 はたして狂信などという、一言で片づけてよいものなのか。

 

 

 一抹の違和感が拭えないのだ。ヴィクターにはどうしても、アマルガムが聖女へ敬意や崇拝を抱いているようには思えなかった。

 

 一見すると聖女の直系(マルガン)を筆頭とする騎士団に化けた彼は、聖女信仰の深層心理が表出しているようにも受け取れる。

 だがそれだけだ。それだけに過ぎないのだ。

 

 口にするのは善と悪の二極論。己が認める清く正しい人間に裁かれたいという一点しか行動原理の柱がない。

 教義に自己を依存し、異端をことごとく誅伐する信徒のような、歪んだ正義を振りかざす敬虔の暴走とはナニカが違う。

 

 ──この男は、聖女を信仰していない。

 

(アマルガムが信じているのは()()()()()()! 大昔に数多の種族と聖女が団結して魔王に立ち向かった人の善性! こいつはそれを信仰している! 正気か!? こんなイカレ野郎がッ、性善説の信奉者だってのかよ!?)

 

 かつての魔王大戦はバラバラだった種族を結託させ、今の多様社会を生み出す礎になったという。

 純黒の王、白薔薇の聖女。二人の元に集ったのは、魔を砕き平和を取り戻さんと命を賭けた人々の黄金の魂だった。

 

 アマルガムの望みはそこにある。

 己という極悪が、先人から受け継がれた気高さに滅せられる審判の日。彼は終末の時を祈りの中で待つ信徒のように、その日が来るのを待ち続けている。

 

 けれどアマルガムは、審判の日を速めるべく数多の悪事を重ねることを選択した。

 身勝手に、常軌を逸した自己中心性で。自らの罪を悔い改めることも、正しい道を歩もうという努力すら放棄して。呆れ返るほどの他力本願で。

 

 人はそれを、最悪と呼ぶ他にあるのか。

 

「だけどさ、哀しいことに人々は昔の正義を忘れてしまった。弱くなり過ぎたんだよ。ちょっと心を追い詰めただけで小動物みたいに泣き喚きながら死ぬか、簡単に悪の道に走ってしまう。そこの醜い医者はまさにソレだった」

 

 

 蔑むような眼差しで少年の背後を刺すアマルガムが、重い吐息と共に捨てた言葉が。

 時の流れを凍らせて、ヴィクターの全てを縛りつけた。

 

 

「彼、えーと、名前なんだったけ。とにかく、すばらしい素質を持ってたから期待してたんだよ。誰かのために身を捧げられる気高さも、幸せを願い愛せる心も、腐り果てた惰弱どもが蔓延るこの世の中じゃ一級品だった。際立って輝いて見えたんだけど」

 

 瞳が開く。

 伝う汗が零度を帯びる。

 アマルガムの舌が鼓膜を裂くような旋律を奏でるたび、頭蓋に雪解けを注がれるような冷ややかさに襲われる。

 

 だって。

 なぜこの男がイシェルを知っているんだ?

 どうして、()()()()()()()()()イシェルを語れるのだ?

 

「結果はこの有様だ。たかが肉親を奪った程度で悪に堕ちた。もっと高潔だと思っていたのに、期待外れもいいところだったな」

 

 絶対に認めたくなかった想像が、刃物になって脳裏を抉った。

 

「な、にをッ、何を言ってるんだお前……!? 先生の家族を、奪った? 今そう言いやがったのか、お前は!?」

「そうだよ。僕がやった。彼の家に通り魔を放ったのは僕だ」

 

 あっけらかんと言い放たれた肯定が、答えを結ぶ線になって無邪気に繋がる。

 

 ──イシェルが道を踏み外した発端は、正気を失った異常者に家族を奪われた事件だった。

 ──殺人鬼(アマルガム)の能力は精神に干渉する力だと推測されていた。 

 

 ああ、どう考えても、どんなに認め難くとも。

 この二つが導き出す答えなんて、ひとつしかありはしないじゃないか。

 

「正義を善たらしめるものはなにか? それは折れることを知らない信念だと僕は思う。何者の言葉にも染まらず、どんな逆境にも負けない、正しいと信じる道を拓ける覚悟だと。だから正義をふるいにかけた。不幸や災難を乗り越えさせて、救世主に足りえるかどうかテストしたのさ」

「てッッ……めえッッ……!!」

「君をのぞけば最高の逸材だったのになぁ。散々だったよ。家族を救うことさえ出来なかったし、近隣住民もひとり巻き込んで死なせた。挙句、心の傷をいやすために僕と同類になるなんて……本当に最近の人間は腐ってる。聖女が救った美しい世界の子孫だなんて思いたくもない」

 

 

 ぶち、と。

 決定的なナニカが、千切れるような音がした。

 

 

「……答えろ、アマルガム」

「なんだい? ヴィクター」

「先生は誰もが認める医者の鑑だった。命を尊んで、誰かの幸せを喜べるような人だったんだ。……今にして思えば、そんな人間が復讐のためとはいえ簡単に人殺しを決意するとは思えない。人生の重みを知るあの人ならなおさらだ」

「!」

「答えろよ。()()()()()()()()()()()()

「にひ。正解」

 

 本当に本当に、心の底から嬉しそうな笑顔。

 

「もう気付いてるみたいだけど、僕の能力──『心淵(しんえん)の刻印』は他者の精神を操作できる。トラウマを掘り返すなんて朝飯前だし、ほんの少し心の方向を変えさせたり、記憶だって弄れるんだぜ。凄いだろう」

「……」

「彼には囁いただけさ。悪魔の誘惑を跳ね返せるかどうか知りたかった。人は追い詰められた時に本性を見せるものだからね。彼が正義の器か、はたまた見掛け倒しの偽善者なのか、ちょちょいっと確かめた。結局、救世主なんてほど遠い腐った悪の一味だったわけだ」

「もういい。黙れよお前」

 

 血が燃えるように熱い。 

 ぎちぎちと音を立てる拳が今にも破裂してしまいそうだ。

 

「人でなしのクズが、一丁前に人を語ってんじゃねえぞ」

 

 噛み締めた奥歯が悲鳴を上げる。

 体中の血管が破れたような錯覚が心臓を唸らせた。

 瞬きを忘れた瞳に朱が()ちて、刻まれる眉間のしわは山脈のようで、吐き出す息は熱を孕んで。

 

「なにが追い詰められた時に見せるのが人の本性だ……! なにが偽善者だ! 追い詰められた人間が見せるのは、弱った心の姿だろうがッ!! 正義だ悪だの救世主だの、オママゴトで他人の人生食い潰すしか出来ないクソッタレがお高くとまってんじゃあねえぞコラァッ!!」

 

  

 アマルガムの罪はイシェルに限った話ではない。

 浮かぶ水泡のようにオーウィズの話を思い出す。ブーゴたち三人に仕込まれていた禍憑きは、黄昏の森にカースカンが持ち込んだものと何か因果関係があるという仮説を。

 

 この男は自ら口にしていたではないか。カースカンは良き商売相手だったのだと。

 

 ならばカースカンに魔物の芽を流し、大勢の小人(コロポックル)の命をもてあそび、島の子たちの故郷を奪った原因も。

 

 三人を下水の底に追いやって頭をいじり、魔物を植え付けて、痩せ細るほどの飢えと孤独の苦しみを味わわせ、挙句の果てに()()として利用し続けたのも。

 

 人の心を追い詰めて、何の罪もない大勢の人生を奪ったのも。

 

 全ては──────

 

(こんなイカれた野郎の、遊び同然の狂気のせいで……!!)

 

 もはや理解の余地はない。この男は、人を人たらしめる精神の輪郭がまるで別の形で出来ている。

 人種だとか思想が違うだとかそういったレベルの話ではない。異常なんて言葉すら生温い人間の突然変異だ。

 エマやカースカンに感じたモノとは違う、いっそ純粋さすら覚えるほどの下劣の極みは、まるで本能でしか生きる術を知らない昆虫のような無機質さに匹敵する。 

 

 こんな男を、断じて認めるわけにはいかない。

 

「てめえはッ! てめえだけは許さねえ! 例え聖女が許そうとも黙っちゃあいねえ!」

 

 怒髪は既に天を衝いた。

 眼前の悪魔を。数多の人生を奪った元凶を。ここで断つという決意と共に。

 

 

「──てめえは、俺がぶッ裁く!!」

「──解釈一致(すばらしい)!」

 

 

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