初めて手にかけたのは乳母だった。
細かい年なんて覚えちゃいない。けれど、うんと小さかった時なのは確かである。
自分に宿る特別な能力。
親は大きな商家だった。その地域の物流に多大な影響を与える力があって、もちろん富もあって、欲しいものは何だって買ってもらえた。
かと言って、よく金持ちは高慢ちきで鼻に突くと言うけれど、両親は決してそんな不出来な人間じゃなかった。
病に苦しむ人。魔物に人生を壊された人。災害に故郷を追われた人──そんな人々に両親が手を差し伸べることを惜しんだ時は一度もなかった。
莫大な資産も、保有する商会も、力を持つ者の責務と謳って、世のため人のためと使い続けていた。
当然のように、両親に向けられる心たちは全幅の信頼一極だった。
慕われ、敬われ、感謝される。それらを受け取るに相応しい二人だったし、誰しもが認め焦がれる輝きを持った父と母だった。
心を読める自分がなんて美しく真っ白な人間なんだろうと、太鼓判を押したんだから間違いない。
ある日、母から教典を貰った。白薔薇の聖女について纏められた聖書だった。
かつて世界を救った大英雄。彼女の精神を文字に変えて綴じた本に、少年はぞっこんになった。
擦り切れるくらい読み続けたし、毎日欠かさず平和への想いを祈り紡いだ。まさかここまで熱中すると思わなかったのか、少し両親が困り顔だったのは印象深い。
彼らが教典を渡したのも、善良な人間に育ってほしいという親心からだ。
優しくあれ。憎むことなかれ。幸いであれ。
救われぬ者を救いなさい。人と星を愛しなさい。愛する者の涙を拭いなさい。
悪しき道は必ず挫ける。ゆえに正しく在ることに務めなさい。
さすれば巡る善因が、あなたを幸福へと導くから。
この精神が両親を象ったのはすぐにわかった。
少年にもそうなってほしいのだと、彼らの想いを直接的に理解していた。
だからこそ、少年には皆目理解できないことがあった。
ある日、兄弟が死んだ。
まだ生まれたばかりの弟で、病弱だったがゆえの、どうしようもない不幸だった。
両親は泣いた。従者たちも泣いた。それはもう川でも作るのかと言わんばかりに涙した。
対して、少年の心は凪いでいた。むしろ面白いとさえ思っていた。
心の読める少年には不可解だった。どうして自分はこの人たちと違う心の形をしているのだろう? なぜ弟の不幸に悲しむことが出来ないのだろう?
違和感は次第に増し、それはやがて好奇心へと姿を変えた。
だから乳母を殺した。不慮の事故に見せかけて。
誰も幼い自分がやったとは思わなかった。
むしろ生まれた時から付き添ってくれた第二の母を亡くした不幸を、両親は抱き締めながら慰めてくれたほどだった。
違和感は、確信に変わった。
自分は何も感じない。人の不幸を悲しめない。躊躇なく人生を奪うことが出来る。
聖女の教典と真っ向から反する、最悪の人間性が宿っている。
嗚呼、しかも。
なんだそれは。教えと違うじゃないか。
悪はいずれ朽ちる定めにあるのだと、そう書いてあったじゃないか。
言っていたはずだ。正しい精神の在り方を説くこの本があったから、清廉恪勤な人間になれたのだと。両親は言っていたはずだ。
ああそうだ。教典は正しい。
人は正しく在れる。聖女が守った世界は今も美しく続いている。
だって先人が命を賭して守った善き人々の魂が、こんなにもこの世を輝かせているのだから。
両親や、従者や、友達がその証明だ。
こんな間違いは、ただの一過性に過ぎないはずだ。
父を殺した。
母を殺した。
飼っていた犬も。その子供も。仲良くしてくれた近所の女の子も。
なのに誰も、
◆
「ヴィクター。英雄に必要な資質とはなんだと思う?」
清々しさすら覚えるほどの爽やかな声。
「信念だよ。どんな困難があろうと正しい道を照らし続ける強靭な意志、信念こそが英雄の証だ。……だが、古来より信念の証明には試練が付きまとう」
まるで友人との一時を楽しむような軽やかな音色で、おぞましき邪悪は独り言ちる。
「僕が試練だ。君は乗り越えなくてはならない。裁きを下すに相応しい英雄であると証明しなくてはならない。さぁ見せてくれ、我が愛しき浄罪の焔よ! 悪逆無道に勇ましき鉄槌を下したまえ!」
「やかましい。寝言は夢の中で好きなだけほざきな。覚めねえ夢の中でよォーッ!」
──アマルガムの能力には謎がある。
心を操る『心淵の刻印』。それは他者の精神状態のみならず、記憶の改竄、認識阻害、果てには洗脳に至るまで、あらゆる心理操作を可能とする能力──らしい。
らしいと言うのは、あくまでオーウィズの推測の範疇でしかなく。
それだけでは説明のつかない現象が、今まさにヴィクターの眼前で巻き起こっているからだ。
「『
アマルガムの金糸のような前髪に隠された左目が輝き、どくんと幽かに鳴動した。
緑に波打つその光はさながら呼び水のように、周囲一帯へ信じ難い変化を到来させる。
床が。石柱が。天井が。真っ白な
やがて現れたそれは、さながら石で出来た大ミミズか。
頭部がドリル状にねじくれ、ごりごりと骨を削るような異音を立てながら僅かに回転し続けている。
体表は荒々しく、鮫肌をより凶悪にしたような質感だ。おまけにガラス質の棘らしきものが首をエリマキ状に覆って
一度喰らいついた獲物は確実に肉塊にせんとする、主の邪悪さを受け継いだ人造生命。
獰猛な石ミミズの群れはアマルガムの足元を起点にうぞうぞと蠢き、鎌首をもたげて無色透明の殺気を垂れ流していた。
(こいつの刻印、心を操る能力じゃないのか……? 星の刻印は一人ひとつのはず。じゃあなんで物質操作みたいな真似が出来る!? しかもあの再生能力、なにもかも説明がつかねえ!)
「考えてる暇があるのかいヴィクター! 心無きこの子たちが今、君の足を食い千切ろうと動き回っているというのに!」
弾かれたように下を見た。
いつの間に潜り込んだか──否、いつ足元で命を芽吹かせたのか。
とぐろを巻いた石ミミズが、まるで己そのものをバネとするように、体を縮こまらせ発射態勢に入っているではないか。
「しゃらくせェッッ!!」
間髪入れず拳を撃った。射出された石ミミズをそのまま殴り落とし、轟音と共に木っ端微塵に打ち砕いた。
だがしかし、一体だけでは終わらない。
無数。まさしく雨に誘われ地上に這い出てきた群れのように。
何十はくだらない無機物の殺意が、躰をうねらせてヴィクターを喰い破らんと這い出てくる。
「だらッしゃああああ────ッッ!!」
拳を打つ。獣を
掴んで握り潰し、砕いた石礫を散弾の如く叩きつける。
時に
しかも、ひび割れすら植え付けずに。
(厄介だな、この城中が奴らの巣に変えられてる! 上からも下からも馬鹿みたいな速さですっ飛んでくるのに、あんな奴が一匹でも体に潜り込んだらッ!)
緊張が全神経に火を放ち、集中力の火力を限界まで引き上げた。
呼吸を整え、まぶたを開き固定する。
腹の下に力を籠めて、雨霰も同然と襲い掛かる石ミミズを正確無比に捌き続けていく。
(だが真の脅威はミミズじゃねえ! いつでも俺の背中をぶっ刺せるアマルガム本体だ! 奴に隙を晒すわけにはいかねえ! かといって攻め手を失えばジリ貧になる! 能力の底が見えない以上ヘタな攻撃は避けたかったが……殺される前にぶっ飛ばす!!)
大きく息を吸って腹を括る。
拳を振り上げ、床めがけて一直線に振り下ろした。
着弾。しかし破壊が起こらない。
轟音も弾けず、亀裂も生じず、石床を殴ったにしては似つかわしくない、ぐぷぷっと軟質な水音だけが腕を伝う。
それでいい。
王の腕が柔らかな泥へ突っ込んだように呑み込まれた、この状態が良い!
「おォおおおおおおおッッ!!」
喉の血管が爆ぜかねんばかりの渾身を籠め、男は咆えた。
突き刺した腕をまるでシャベルとするように、ヴィクターは全力で石床をえぐり飛ばした。
「ッ!? なんだ、床を溶かしたのか? それを撒き散らして……────ッ!?」
信じ難いことが巻き起こっていた。
ヴィクターの触れた石床がどろどろに液状化して、振り抜かれた勢いを殺さぬままアマルガム目掛けて解き放たれたのだ。さながら掬った泥をかけるように。
しかも。
「
驚愕に瞼を剥き、アマルガムは絶叫した。
きらきらと踊る水飛沫のような白い石液の一粒一粒が、細く鋭い獰猛な凶器へと硬化し迫り来る光景など、理解が及ぶわけがない。
「龍颯爆裂拳は俺の意思に応じて殴った空気を魔弾みてーに変えている。だが、効果の射程距離っつーのかな。俺から離れ過ぎるとただの空気に戻るんだ。だったらよォーッ! 殴って空気を固めたように、床を柔らかくしてぶち撒きゃあ、避けようがねえ
「なんだそれ、無茶苦茶な──がッ!? あぼッ!?」
虚を突かれ、成す術もなく礫の散弾はアマルガムの肢体を穿ち抜いた。
右目。左頬。右腕。胸。右脇腹──赤黒い肉片が削ぎ落とされ、血潮が一帯をおぞましく彩る。
アマルガムの体が弓なりにしなった。
後頭部が床に接しそうなほど反り返って、しかし今にも崩れ落ちそうな段階でぴたりと止まる。
「ぐぁが、か、あは、良い! 実に! 良い!! こうでなくっちゃ面白くない! 機転の早さは英雄に必要な資質のひとつだ!」
体がバネのように跳ね返った。
傷が巻き戻る。穿たれた穴は塞がり、零れた臓腑は舞い戻り、血液が故郷の川を遡上する鮭のように帰っていく。
魔法の痕跡すら見せない再生能力。心を操る星の刻印だけでは説明のつかない未知の力。
しかしそれも最早どうでも良かった。
ああそうだ。どんな絡繰りで再生しようが関係ない。
この世で不死者はオーウィズだけだ。アマルガムの再生には必ず限界があるはずなのだ。
再生を上回る攻撃を叩き込めば、なんら問題はない。
そして。石床の矢雨をまともに喰らったアマルガムは。
どうしようもなく完璧に、ヴィクターへ隙を晒している────!
「だァららららァァァァ──────―ッッ!!」
突き刺さった。拳が。空気を裂かんばかりの恐るべき豪速を伴った鉄拳が。
アマルガムの右頬を思いきり捉え、メギメリッと頬骨の断末魔を炸裂させた。
終わらない。ただの一撃で終わるわけがない。
瞬間、両腕が破壊と化した。
人間の動体視力では捉えられぬほどの凄まじい
狂瀾怒濤が炸裂した。およそ人体から発せられるものではない凄絶な衝撃波が殺人鬼を蹂躙し、血のスコールを爆発させて白亜の
大きく右腕を振りかぶり、全霊を込めたフィニッシュブロー。
それは正確無比に、アマルガムの心臓部へと打ち込まれた。
はずだった。
「良い、良いよ、ヴィクター! その容赦のなさ、実に解釈一致だ……!」
──拳を止めた眩い光。
稲妻のような輝きを纏う、アマルガムの腕を柄とするように生え伸びたソレは。光の刃は。
どこか強烈に、記憶を抉られんばかりの既視感をヴィクターの脳裏から釣り上げた。
(これはッ、先生の『
「『
鈍く輝く、金髪の中の緑眼。
弾かれる拳。舞い散る黄金の火花。
徹底的に叩きのめしたはずなのに、みるみる復元していくアマルガムの体。
ここまでやってまだ再生するのか──驚愕に開かれた目が干上がるようだが、ならば何度でもやってやると杭の如く足を踏みしめる。
体重を存分に乗せ、肉弾という凶器と化した左拳を振り抜いた。
金属同士が衝突したような高周波。
アマルガムの光の剣が拳を弾き返した、反撃を轟かせる凱歌だった。
「なッ──!?」
「ゾッとしたみたいだな。不思議だろ? 僕の身体能力は君より劣っていたはずなのに、どうして返すことが出来たのか」
本能が叫ぶ。危機の到来を。
腕をクロスさせ急所を庇った刹那、四つの光がヴィクターの四肢を撫でるように切り裂いた。
「がッッあッ!?」
がくんと膝から力が抜ける。
その隙を食むようにアマルガムの凶刃が襲いかかった。
間一髪。飛来する刃の側面に裏拳を打つように払い、即座にアマルガムの体勢を崩さんと足を蹴り飛ばす。
だが寸前、アマルガムは地を跳ねて躱し、そのままヴィクターの頭を串刺しせんと一気に刃を振り下ろした。
「うぉおおおッ!?」
寸前で剣を白刃取る。
包帯がじりじりと燃える焦げ臭さが鼻を突き、刃の先端が鼻の頭をぷつりと刺した。
(こいつッ……巧くなってやがる! さっきまで素人同然だった体捌きが! まるで武人の魂でも乗り移ったみてーに卓越して────いやまさか、まさかこいつッ、
「へぇ。もう理解したのか、その表情。フフフフ、鋭いなぁ! 良いぞ、流石は僕の見込んだ男!」
「ぐ、うぅ、おおおッ……!!」
「僕の刻印は心を操る。けどそれだけじゃあないんだぜ? お察しの通り、僕は
これはどこぞの剣豪の力だよと、舌なめずりしながらアマルガムは力を込めた。
全体重を乗せて脳髄を貫かんと押し込まれる光の刃を瀬戸際で食い止める。
だがしかし四肢を裂かれたせいか、それとも体勢のせいか、思うように力が入らない。
少しずつ刃が迫ってくる。
鼻の頭を焼き切る剣先が、その侵入を強めてくる。
けれどヴィクターに、焦燥の発汗は皆無だった。
「ハッ。人の心に付け込むのは得意みたいだが、喧嘩のカンって奴は落第も良いとこだな!」
徐々に、徐々に。
食い込んでいた刃を、押し戻しつつあったからだ。
「っ!? その傷で、抗うかッ──」
傷が裂ける。赤が吹き出す。
構わない。ありったけ肉の鎧を膨張させ、光の剣を押し返す。
そうして余白が生まれれば、更に力を籠められる。
「てめえがどんな達人を
完全に形勢は逆転した。
光の剣を叩き折った。支点を失って崩れたアマルガムの首へ、迎え撃つように肘打ちを突き刺した。
肉を叩くものではない異音が咲き、男は後ろに大きく仰け反るように跳ね飛ばされる。
ぐるん──アマルガムの眼がヴィクターを見下ろし、砂煙を上げながら倒れることなく踏ん張り留まった。
首の負傷などまるで意に介していない。
折られた光剣を即座に再生。剣豪の如く瞬時に距離を殺し、冰のように静謐で、いっそ美しさすら覚えるほどの流麗な斬撃の嵐を見舞ってくる。
それら全てを、包帯の拳が迎え撃った。
「ぶちッ! かますッッ!!」
「やってみせろ、ヴィクター!!」
戟が飛び交う。
火花を散らし、
衝撃は波となって一帯に噛みつき、石柱へ、壁へ、床へ、天井へ無数の破壊を刻んでいく。
「嗚呼、素晴らしきかな救世主! その負傷でなんたる気迫! なんという憤怒! 鈍ることを知らぬ拳の冴えよ! 君はいつも最高を超えてくれるな、僕のヴィクタァァッ!!」
「喋り過ぎだ。クソ野郎」
均衡を崩したのはヴィクターだった。
斬撃四閃。一呼吸の内に放たれた恐るべき殺人妙技を、ヴィクターは何もない空間を殴りつけて弾き飛ばしたのだ。
空気だ。空気の障壁だ。龍颯爆裂拳のように殴った空気を硬質化させ、不可視の盾を生み出していた。
ならば。
剣を
「隙だらけと思っただろう?」
殺人鬼の顔貌は、全てが想定の内であると表情筋で物語るように。喜色満面を貼り付けていた。
余裕の源泉は、ヴィクターの背を狙い定める石ミミズの集団だ。
「認めるよ、君相手に真っ向勝負は分が悪い。だが『
獰猛が獰猛が唸り、悪魔が牙を剥く。
無数の石ミミズが飛びかかった。ヴィクターの背を、蜂の巣よりおぞましい肉塊へと加工するために。
「忘れてるのはお前の方だ。この腕は俺の意思で、この世の在り方を捻じ曲げるんだぜ」
石ミミズが刺さる。
ドリルを喰い込ませ、肉を食い千切るワニのように回転する。
にもかかわらず、どういうわけか血の一滴すら絞り出せない。
どころか、むしろ石ミミズの頭が潰れていく。まるで壁に押し付けたグミのように。
「もうひとつ言ったぞ。射程距離! さっき床を抉り飛ばした時、与えといたんだ。足元がスライムみてーな弾力を持つようにッ!」
「なッ──!?」
「石ミミズの材質はこの城だ! 柔らかい床からは柔らかいミミズしか生まれねえ! だったら次は天井か? 石柱からか? やってみろよアマルガム、俺の拳がてめえの顔面を叩っ壊す前によォ──ッ!!」
「──『
「だァァらァあああああああ──────―ッッッッ!!!!!」
右拳が顔面を砕いた。
左拳が鳩尾に突き刺さった。
赤混じりの唾が飛ぶ。
蛙が潰れたような濁音が吐き下される。
体がくの字に折れ曲がって、かちあげるような右のアッパーカットがアマルガムを宙に吹っ飛ばした。
止まらない。顔面を鷲掴む。流れるように床へ叩きつける。
猛烈な轟音。床に亀裂を放射状に走らせながらゴム鞠の如く跳ね返ったアマルガムに、必殺を込めた拳の砲弾を撃ち放った。
命中。石柱に激突。
柱の慟哭と共に崩れ落ち、硝煙に呑まれながら地に伏せた。
──再生。
ぐじゅぐじゅと破裂した筋線維が元の形に戻る。折れ曲がった骨が正しく組み直されていく。
花咲いたように散った周囲の赤も、全てアマルガムの元へ帰っていく。
「……よーやく分かってきたぜ。お前の力の秘密ってやつが」
構えは解かない。
もはやこの程度で、アマルガムを倒したとは思っていない。
「心を支配する能力……なるほどこいつは厄介だ。人の頭弄るだとか、ンな小細工は力の切れっぱしに過ぎねえ。先生の『
さらなる怒りが込み上がる。
地の底より来たるマグマのように、喉から今にも飛び出さんばかりに。
「磨き上げた頭脳も、大切な思い出も、積み上げてきた努力さえお前は奪い取る! そうして出来上がったのがこの城だ。ここはいわばてめえの精神世界ッ! 今まで喰ってきた人間の心が城を作るエネルギーになってるんだろう! だからテメエはこの城を意のままに操れる! 不死身でいることが出来る!」
まだ謎はある。
精神世界がゆえに不死身ならば、同環境にいるヴィクターが負傷したままなのが説明できない。
もっと不可解なのはその力の恐るべき出力だ。
星の刻印は長所と短所表裏一体。いくら非常に強力でも、何らかの制約があるのが摂理である。
絵に対象を閉じ込めるカースカンの力は、封じ込める範囲と反比例して干渉力が弱まった。
人体を意のままに改造するエマは、触れなければ能力を発動できなかった。
だがこれだけの力を自在に操れるアマルガムには、恐らく能力の干渉に制限が無い。
ほんの少しアマルガムと出会っただけで、ヴィクターは記憶操作と認識阻害を打ち込まれた。挙句、こうして奴の精神世界に引きずり込まれてしまっている。
仮説にすぎないが、あの左目と
そうでなければ、エマの魔法を破ったように認識阻害を看破できるヴィクターの性質と矛盾が生まれる。いつの間にか城にいた理由が説明できない。
それに刻印の力と『
(いくらこの城が
「くぁ、か、はは。まったく、僕相手じゃ試練にもならないな。素晴らしいよ」
アマルガムが立ち上がる。
既に傷は治り、ボロボロだった衣服さえ綻びひとつ存在していない。
ゆらり。幽鬼の如く揺らめいて。
「試練とは……心の強さを試す行為だ。英雄は不屈でなくてはならない。弱い心は判断を鈍らせ、取り返しのつかない失敗を生む」
アマルガムの瞳が光を放ち、ヴィクターは到来する攻撃に備え構えを固める。
だが、しかし。
それは城を化け物に変えて襲い掛からせるだとか、誰かの才覚を奪って振るうだとか。
そもそも、攻撃ですらないものだった。
「ひとつ問題だ。この状況、君ならどうする?」
──アマルガムが示す指の先に、薬屋の老婆が転がっていた。
目を疑った。だって彼女は死んだはずだ。
袋詰めにされて、見るも無残な姿に変えられて、腸が煮えくり返るほどの怒りをアマルガムに覚えたのは幻じゃない。
しかし彼女は生きていた。涙に目を潤ませ、わけのわからない状況にパニックになって震えているではないか。
ただし石ミミズに簀巻きのように纏わりつかれ、身動きどころか呻き声すら許されぬ状態で転がされている。
「人質は対象の知人である方が効果は大きい。嗚呼ヴィクター、
「てめえッ!」
「あの死体は別のガルーダだよ。背格好が同じくらいの別人を用意してたんだ。フフ、気付かないのも無理はない。腐乱死体入りのズタ袋なんて、わざわざ開けて確認したりはしない。知人であれば尚のことだ!」
その時だった。肌を殴りつけるような熱風が、二人の合間を駆け抜けるように通り過ぎた。
風の源は縛られた老婆の至近。一本の柱が、まるで地獄に生え伸びる大樹の如く業火に包み込まれたのだ。
しかも、柱の根元には亀裂が走り、老婆めがけて残酷な死を倒れ込ませようとしている。
「ッ──」
「さぁどうする!? 老婆を助けに向かうか!? だが火から老婆を救えても、『
「──両方だ。てめえをぶちのめして彼女も救う。それ以外に答えなんかあるか」
ぐんっ、と。ヴィクターは何かを手繰り寄せるように、大きく腕を振り上げた。
刹那、アマルガムががくんと崩れ落ちる。
まるで罠に引っ掛かった獣の如く、未知の力に足を掬われて。
「は」
アマルガムは見た。いいや、体で確かに感じ取った。
己の足首に絡みつく不可視のナニカを。その存在を。
「これはっ……何だ? 見えない何かが巻き付いてッ!?」
「何度も言わせるなよ……俺の拳は物の在り方を捻じ曲げるんだ。こんな風に空気をロープ代わりに練って、てめえの足元に括り付けるなんざ造作もねえことだ」
「い、いつの間にッ……!?」
「さっき殴り合った時にちょちょいとな。こう見えて手先は器用でよォー、罠作りとか得意なんだぜ!」
「うぉっ、お、おおおおおおおっ!?」
人間を分銅鎖のごとく振り回す。
遠心力を存分に蓄えて、一気に解放。アマルガムを炎の柱に叩きつけた。
老婆を焼き潰す寸前だった柱は大きく着弾地点を逸らし、粉々に爆砕しながら大きく炎を噴き上げる。
ヴィクターは瞬時に老婆の元へと駆け寄って、迫る爆炎を殴り飛ばした。
そのまま老婆に巻きつく石ミミズを、一匹残さず引き千切っていく。
「ばあちゃん、大丈夫か? 怪我は?」
「あ、ありがとう。もう駄目かと思ったわ。お陰で無事よ、なんとも無いわ」
涙ながらに礼を述べる老婆を、淡い光が包み込んだ。
暖かい光だ。アマルガムの能力とは違う何かを感じる。
直感だが、心淵の拘束を解かれ、魂がこの悍ましい精神世界から解放されているように思える現象だった。
「ねぇ、何が起こってるの? 気付いたらこんな所に居て、もう何がなんだか……。っ、待ってあなた、酷い怪我じゃない! すぐにお医者さんを呼ばなきゃっ」
「大丈夫ッス、ただの悪い夢ですよ。すぐに目を覚ましますから」
「……そういえば、何だか、凄く眠いわ。ああだめよ、イシェル先生を呼ばなきゃ……大丈夫だから……ね……もう少しの……辛抱……」
ゆっくり横たわるように淡雪と消えた老婆を見送る。
膝に手を突き、立ち上がる。振り返って、炎の柱と共に崩れたアマルガムを見やる。
「ぐぁあああああっ…………そ、そそ、想定外だ……こ、こんな荒業で突破してくるとは、なんて常識が通用しない男だ君はッ……! 嗚呼、胸が抉られたみたいに痛む! 血が止まらない! こんなの初めてだ、これはッ、これが敗北感ってやつか……!?」
瓦礫の中から、血濡れのアマルガムが姿を現した。
額をぱっくり切ったみたいにどくどくと鮮血を垂れ流し、顔を赤く染めている。
初めて見せる表情だった。苦痛に歪んでいる。普通の人間と同じように、傷がもたらす激痛に喘いで苦しんでいる。
(こいつ、傷が治ってないぞ。だが
春の新芽のように仮説が芽吹く。
アマルガムが口走った敗北感という言葉。この異常極まる精神の世界。
もしやこの世界における負傷は、直接的な攻撃に限らず精神へのダメージも反映されるのではないか。
(俺の傷も開いたままだが、いつの間にか完全に止血してるし痛みもねえ。そういや人間って、思い込みだけで火傷することもあるんだっけか。人間の持つ思念の強さが魔法の発展に寄与したとかなんとか……)
つまり、アマルガムへの怒りが傷への意識を上塗りした結果、ヴィクターの傷は半分治癒したような状態になっている。
完全に治っていないのは、いわゆる潜在意識という奴だろう。無意識下で『切られた』ことを認めているからこそ、完全に癒えるに至っていない。
(じゃあアマルガムの傷が完全に治ってたのは、無意識下ですら傷の存在を否定出来るからなのか? ……妙だな。そんなシンプルな気がしねえ。こいつ、何か絶対に裏がある。ロクでもねえ何かが)
現にアマルガムは不治の傷を負って苦しんでいる。
あれほどの重症を瞬時に治せるほど常軌を逸した精神制御を可能とするなら、敗北感などという感情ひとつでのた打ち回るのは矛盾ではないか。
(だが、これで突破口は見えたぞ! 精神ダメージ! これが鍵だ。奴の目論見を徹底的にぶち壊せば──)
「と、君は考えている」
怖気。
脊髄の椎骨ひとつひとつを舌で舐めとられるような悪寒が、なめくじの如く這い回る。
「確かに想定外だったよ。僕の思い通りに動かなかった人間は君が初めてだ。けどそれは、あくまであの老婆を無傷で助けられたことだ。あれにはビビッた、嘘じゃない。老婆の命を救う代わりに君がズタボロになるか、無傷の代わりに老婆を見捨てるか。ふたつにひとつだったんだ」
けど──アマルガムは嗤う。
夥しい血潮で足元を汚しながら、魔力切れのゴーレムのようにぎこちない動きで立ち上がって。
「僕の目的は……燃料切れだ。君のその力ってさ、無限じゃないだろう。
見破られている。ヴィクターの持つ王の権能、その弱点を。
それだけじゃない。刻限が近づいているという、決して知られてはならない
「そこで
アマルガムが両腕を大きく仰ぐ。それは楽団の指揮者が如く。
悪魔の指揮は城にさらなる変化をもたらした。
天井が引き上がっていく。高く、高く、摩擦で石が削れるような重々しい音響を連れて。
そうして変化の果てに現れたソレは。
あまりに度し難く、この世のものではない地獄の様相を生き写した光景だった。
「騎士団の真似は警戒心を解くのに実に都合がよかったよ。おかげでレントロクスとダモレーク、大勢の人々と
──天井からだらりとぶら下がる、首吊り死体のようなナニカの群れ。
十数どころの話ではない。上昇した天井に何百もの、下手をすれば千はくだらない人間の魂が、悪趣味な標本箱のように吊るされているではないか。
最悪は想像を絶する悪辣な光景に留まらない。
己の視力を恨むほどに、見知った顔ぶれが囚われているのが、はっきりと見えてしまったからだ。
いいや。アマルガムはあえて、ヴィクターと所縁のある人間を見せつけたか。
「ダモラスの爺さん!? 師匠も! 親方に奥さんまでっ……!!」
よくよく観察すれば、ダモレークの行きつけで見かける店員や、どこかで見たことのある人間の顔が確かに紛れ込んでいた。
信じ難いことにブーゴたち三人組の魂まで囚われている。アーヴェントの孤島という完全隔絶領域で安静にしているはずの彼らまでが。
(馬鹿な、島にいれば絶対に安全のはずだ! 星の刻印の影響なんざ及ぶわけがねえ!)
しかもこれほどの人数を同時に影響下に置くなど、常識では考えられない能力の発動規模だ。
だが幻ではない。証拠を示すと言わんばかりに、アマルガムは自らの頭を石ミミズで打ち抜いたのだ。
噴水のように粘質な赤が、ぶよぶよした塊が、ずるりと零れ落ちるように吐き落とされる。
同時に天井の一角で異変が起こった。
見ず知らずの魂が耳をつんざくような金切り声を張り上げて、どす黒く泡立つ汚濁を撒き散らしながら消滅していったのである。
「不思議だったろう? 僕の不死性の正体が」
反比例するが如く、アマルガムの致命傷が再生していく。
その現象が示す先は。あまりに認め難い真実の一端は。
「この世界では精神のダメージが魂に反映される。もちろん斬った張ったのような直接的負傷もある。けど、別にメンタルが強ければ不死身の世界ってわけじゃあない。治すには対価が必要なんだよ」
「まさか、まさかお前ぇッ!!」
「そうだよ。君が僕をタコ殴りにするたびに、僕はどこかの誰かさんを喰って魂の傷を補っていた」
「ッッ……!! 一体どこまで、人を食い物にすりゃ気が済むんだコラァッ!!」
「ま、安心しなよ。魂って意外に頑丈でさ、少々食い散らかした程度じゃ死なないんだ。病院送りが良いとこかな」
さて──万全を期したと語外にうそぶく笑みを見せ、アマルガムは言う。
「君の能力、あの医者との戦いもあって猶予はないだろう? その残りカスみたいな
「っ…………要求は何だ」
「へえ、察しが良いじゃあないか」
「人質は取引材料だ。俺の能力を削ぎつつ絶対に逆らえなくする場を整えたっつーことは、どう考えても俺に何かを必要としてるからだろ。それも任意のナニカだ」
「話が早くて助かるよ。僕の要求は至極単純、君の腕の道具だ。そいつを渡してほしい」
アマルガムが指差したのは、墨色のオフモードになっているフォトンパスだった。
「数多の心と触れてきた僕が思うに、人間にとって最も困難な試練とは、己の精神的弱みを克服することにある。トラウマとか、コンプレックスだとかね。しかしそれを乗り越えた時、人は黄金の魂を手に入れるんだ」
「何が言いたい」
「その腕輪が僕の干渉を邪魔している。本当はもっと深い部分まで取り込むつもりだったのに、どういうわけか完全な干渉を防がれてしまった。おかげで君の試練を最適な形で用意できなかったんだよ」
一抹の驚きが萌芽する。
オーウィズの言葉通り、不完全ながらフォトンパスは刻印の影響を遮断していたらしい。てっきり防げていなかったと思っていたら、事実はその逆だったのだ。
むしろここは、オーウィズの守護を貫通してきたアマルガムの異端さに目を向けるべきか。
能力の規模と言い、やはりアマルガムの力には何か裏がある。
「さぁ、腕輪を渡すんだ。そして真の試練に挑め。自身の弱さを克服し、君は救世主としての資格を得るんだ。そうすれば君の勇気に敬意を表して、彼らに手出しはしないと約束しよう」
「…………」
「わかるだろ。僕はやると言ったら本当にやる人間だ。この数、一気に始末すれば今度こそ騎士団に足取りを掴まれるだろうが、同時に大混乱に陥るだろう。街中が不審死体で溢れかえるんだぜ。その混乱に乗じて僕は身を隠せる。そうやって何度でも救世主を探し続けるよ、これからもずっと」
脅しではない。これは言うなれば犯行声明、確実に決行するという邪悪な意志の表明だ。
アマルガムはやる。この男には躊躇が無い。
まるで蟻の巣に水を流し込む子供のような無邪気さで、大勢の人生を一瞬にして奪い取れる。
魔物よりも悍ましい、悪性の権化がここにある。
(クソッタレが、奴が手を出す暇も無いくらい一瞬で倒すのは現状無理だ! かと言ってあの人数を助けるのも俺には出来ねえ……! 腕の力はもうたった15秒程度しかもたない! 緩やかな時の世界でも不可能だっ……! せめて
もはや迷う暇も、考える猶予もない。
ここで腕輪を渡さなかったら、大勢なんて言葉じゃ生温い無関係の人々が虐殺される。
ならば答えはひとつだけだ。それだけは、絶対に阻止しなくてはならないのだから。
「……カースカンは君を正義の味方ではないと言っていた。だが僕の解釈は違う。絶体絶命のコロポックルを手にかける可能性を厭わず頭の爆弾を壊したのは、紛れもない勇気の決断だ」
嗤う。嗤う。
「人は最良の選択を選び続けられない。多くの場合、最良を掴むには
悪魔は嗤う。
舌の上の命を、尊厳を、飴玉のように転がしながら。
「君は違う。君は最良を掴むために足搔く。どんな危険も犠牲も責任も、自分が被るなら構わないと思っている。そうして人を救うために動ける君は、紛れもない黄金の勇気を持つ正義の人だ。……嗚呼、腕輪をありがとうヴィクター。そしていってらっしゃい、深淵なる君の世界へ」
受け取った腕輪を握り潰しながら、アマルガムは我が子を送り出すようにそう言った。