──時はヴィクターがアマルガムと激突した頃。場はアーヴェントの孤島にて。
陽が落ちた夜の刻。月光がカーテンを越えて夜闇にうっすらと帳を作る最中、妹の背中を規則正しいリズムでとんとんと寝かしつけながらも、シャーロットは内心混乱に陥っていた。
深海色の前髪が目にかかっても払うことすらせず、瞳を投石された水面のように揺るがせて、それでも薄桃の小さな唇をきゅっと結び、寝入っている妹に悟られまいと感情に蓋を被せている。
けれど肝の強い少女にしては珍しく、完全に狼狽を隠せてはいなかった。
動揺の原因は様々だ。色々ありすぎて、頭がこんがらがりそうになっている。
まず、ヴィクターが帰ってこなくなったのが第一の事件。
殺人鬼に命を狙われたうえに、禍憑きで衰弱してしまったブーゴを島に送り届けた彼は、何ゆえか姿を消した。
オーウィズどころかシャーロットにすら行先を告げず、いつの間にか島を出ていたのだ。
外に出かけただけなら良かったかもしれない。実際、ヴィクターがふらりと島を出ることはたまにある。
仕事だったり、ダモラス老やザルバとの交流だったり、はたまた気紛れな散歩だったりと理由は様々だ。
しかしオーウィズのフォトンパスに山のような
反射的に島を飛び出しそうになったものの、手掛かりなく探しても時間を無駄にするだけだとオーウィズに窘められ、こうして大人しく待っている状況にある。
(ああもう、なんで通信が繋がらないのよっ! メッセージも返ってこないし……うぅ……)
逐一フォトンパスを見るのが止められない。返事が返ってきたか確認しなければ落ち着かない。
自分でも何故こんなに心乱されているのかが分からなかった。
心配なのは確かだが、いや、物凄く心配でどうしようもないのだが、彼のタフネスに信頼を置いているのも確かだ。むしろ誰よりもヴィクターという男のしぶとさ、強かさを知っている自負さえある。
だから今回も大丈夫だろうと信じている。
信じているけれど、不安で不安で仕方がない。
彼の強靭さと同じくらい、彼が信念のために命を落としかけた瞬間を、何度もこの目で見てきたからか。
(ヴィックは無鉄砲な真似はしない。何か考えがあっての行動のはず。だからきっと平気。絶対に無事。……なのに、どうしてこんなに生きた心地がしないの)
場所が分かればすぐにでも飛んでいくのに。力が必要ならどれだけでも貸すというのに。
何も出来ない歯痒さとは、こうも胸を裂く痛みなのか。
「ん。んぅ」
「あっ、起こしちゃったかな」
穏やかではない姉の気配を悟ったのか、リリンフィーが毛布の中でもぞもぞと動き出した。
青空色の寝ぼけ眼をぽやんとさせてシャーロットを探している。隣の姉を見つけると、小さな指でシャーロットの手を握ってきた。
「おねえちゃん……?」
「大丈夫、平気よ。ごめんね心配かけて」
リリンフィーの白絹のような髪を撫でる。
くすぐったそうにする幼い妹を見ると、少し気分が落ち着いた。
昔から彼女の頭を撫でると不安が和らぐ。つくづく姉馬鹿だなと我ながら思う。
「おにいさん、まだ帰ってないの?」
「うん……まだ」
「大丈夫かなぁ?」
「大丈夫よ。絶対無事に決まってる。この私に食らいつくくらい強いんだもの。すぐにでも帰ってくるわ」
言い聞かせて、毛布を掛け直しながら胸元に抱き寄せる。優しく背中を叩くと、リリンフィーの瞼はすぐに降りた。
少しだけシャーロットにも睡魔がやってくる。子供の体温は絶妙に眠気を誘うものだ。小さな欠伸が出て、ついでに仮眠しようかと瞳を閉じる。
──その時だった。目覚まし時計よりも鮮烈なドンドンという連打音が、シャーロットの寝室に響き渡ったのは。
まるで高いところから落ちた夢でも見たように体が跳ねて、眠りかけの意識が一気に覚醒した。
驚いて音源を向けば、どうも誰かが寝室のドアを猛烈な勢いで叩いているらしい。
びっくりして飛び起きたリリンフィーを宥めながら入室を許可すれば、黒白の給仕服を纏ったエルルが勢い余ってすっ転びながら部屋に飛び込んできたではないか。
「た、たいへん! お嬢さま、たいへん!」
「ちょっと大丈夫? どうしたのよ血相変えて」
「倒れたの! さんにん! ゴブリンとワーウルフのさんにん! まるで病気になっちゃったみたいにっ!」
◆
「博士、一体なにが起こってるんです!? 三人とも急に倒れるなんて!」
「全力で解析中だよ、シャーロット君!」
エルルの報告を受けたアーヴェント姉妹は、賢者オーウィズの待つ医務室へと押し掛けた。
部屋に入って、まず言葉を失ったのはリリンフィーだ。
「ひどい……どうしてこんな……!」
小太りの
旧下水道の一件で保護した三人組が、整列したベッドの上で皆一様に死人のように青ざめ、白目を剥き、激しく痙攣しながら白濁した唾液をぼろぼろと零しているではないか。
尋常の様子ではない。熱病にうなされているだとか、悪夢に苛まされているだとか、そんな次元の苦しみ方ではなかった。
満足に息が出来ないのか、喉を搔き毟って呻いている。不思議なことに、首をぐるりと囲う真っ黒な痣が浮かんでいた。
謎の痣は圧力を伴っているのか、肌を凹ませ、彼らの気道を狭めるように圧迫している。
これではまるで、透明な荒縄が彼らをゆっくりと絞首刑にでもかけているかのようだ。
「まだ断定は出来ていないけど、きっと彼らの魂に仕組まれた星の刻印が悪さしている。まるで強烈な
「星の刻印って、ここはアーヴェントの孤島ですよ!? なぜ外界の影響が!?」
「わからない……説明がつかないんだ! こんなの、普通の魔法原理じゃあり得ない!」
無数の魔法陣を展開させ、三人を蝕む正体不明を明かすべく解析術式を操作しながら、オーウィズは眉間にしわを寄せて歯噛みした。
ただ事じゃない、とシャーロットは青ざめた。だってオーウィズは世界最高峰の魔法使いだ。不可能なんて存在しないのかと思わされるほど、何でも実現させる常軌を逸した力がある。
そんな彼女が汗を浮かべ、瞬きひとつせず集中して魔法陣を操り、三人の治療に取り掛かっている。
しかも効果が薄いのか、険しい表情は崩れないままだ。
普通じゃない。賢者オーウィズがここまで焦るなんて、これはただの事件ではない。
「考えられる可能性としては
シャーロットは魔法や刻印に対してある程度の知見がある。館の蔵書で学び続け、最近はオーウィズから直々に理論体系の手ほどきを受けてきた。
だから分かる。彼女の言葉が孕んだ重大さが。アマルガムの能力の恐ろしさが。
「っ、早くアマルガムを止めないと……!」
「落ち着きたまえ、闇雲に行動しても無駄に時間を浪費するだけだ。それにあと少しで……よし!」
最も衰弱が著しいホルブに何かを施していたオーウィズは、汗を拭いながら快闊な笑みを見せて、己のフォトンパスに視線を落とした。
「彼らに悪さしている刻印の逆算に成功した。剥がすことは出来ないけど、これでボクからアマルガムにある程度干渉でき────、っ!?」
完全な不意だった。
何の前触れもなく、バヂィンッ! と空気が破裂したような絶叫が轟いたのだ。
術式を制御していたオーウィズの手が、突然黒い稲妻のようなエネルギーに弾き飛ばされた異音だった。
手のひらから煙が立ち昇っている。皮膚がどす黒く炭化し、肉の焦げる匂いが瞬く間に部屋へたむろした。
大人しく見守っていたリリンフィーが甲高い悲鳴を上げた。オーウィズは心配させないよう、「大丈夫」と即座に手を隠して、両手を迅速に治癒させていく。
「信じられない、こいつ
全身を驚愕に染め上げられたみたいに、末端に至るまで血潮が凍った。
今、オーウィズは何と言った? 逆性魔力──オーウィズに抵抗したアマルガムの魔力がアーヴェントと同じものだと、そう言ったのか。
「ちょっと待って博士、それって
「……信じ難いが、そうだ。理由も理屈も経緯もまるで分からないが、どういうわけか黒魔力を使っている。だからボクの干渉を弾けたのか、こいつ」
凍っていた血が一気に沸騰した。
シャーロットの五臓六腑が、地獄の釜で煮立たせられたように熱くなった。
無理もない。こんなの、何があったって認めるわけにはいかない。
王の血脈を継ぐ者にのみ許された由緒ある力を、あろうことか下劣な殺人鬼が手にしているというのだ。
度し難い。最悪の一言に尽きる。例え真実であっても絶対に許せるものではない。
少女にとってアーヴェントの血は誇りそのものだ。
例え歴史の正中線で世界を裏切った逆賊と貶められていようが、父母から気高さと愛と共に受け継いだ血統の贈り物である王の魔力は、何人たりとも侵せないアーヴェントの威光にして高潔の証明である。
それをあろうことか、薄汚れた殺人鬼が使っているときた。
血族の現代当主であるシャーロットにとって、これほど屈辱的なことがあるか。両親の墓を暴かれ、亡骸に排泄物でもかけられているに等しい侮辱そのものだ。
震える手を押し殺すように握り固める。姉の煮立つような怒りを案じて、リリンフィーが裾をそっと握りしめてきた。
恐る恐る、リリンフィーが声を上げる。
「博士、あの、その、あまるがむって人はアーヴェントなんですか?」
「それは違う。刻印を逆算して彼の生命情報を垣間見たけど、アーヴェントじゃないことだけは確実だ。けれどこれで島にまで影響を及ぼしてきた理由も説明できる。世の理を意のままに捻じ曲げる王の力なら、高次元断層結界をすり抜けることだって可能だ。唯一の方法と言っていい」
問題はなぜアーヴェントではない人間が黒魔力を使役しているかという一点に尽きるが、謎を解いている暇など無い。
可及的速やかにアマルガムを撃破する必要がある。時間をかければかけるほど、三人の魂が取り返しのつかない傷を負い、ヴィクターも危険に晒されてしまう。
解決の算段は既に整った。ならば実践するだけだと、オーウィズは姉妹へと目を向けた。
「彼らを救うには君たちの協力が必要不可欠だ。協力してくれるかい?」
「ええ、もちろん。何でも言ってください」
「が、頑張ります!」
「ありがとう。じゃあさっそくリリンフィー君、僕の手に触れて」
「? こうですか?」
差し出された手を、リリンフィーは小さく握って応えた。満足そうにオーウィズはうなづく。
「そのままボクに魔力を流してくれ。君とボクの手で川を作るようなイメージを浮かべるんだ。ほんの少しで良いから」
「わかりました……むむ……」
「ッ、博──」
制止を口走ろうとしたシャーロットの唇が、縫われたように動かなくなった。
オーウィズが封じたらしい。彼女は眼鏡越しに山羊を彷彿させる水平の翠眼をほんの少しだけ目配せして、「心配ない」と言葉無く押し付けた。
しかし姉の動揺に不安を覚えたのか、リリンフィーの体からぱちぱちと瞬いていた魔力痕が消えてしまう。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
「もちろん。君が持つ『純血』の黒魔力がなくちゃ絶対にダメなんだ。やってくれるかい?」
「……わかりました。無茶はしないでくださいねっ……!」
覚悟を決め、リリンフィーは血の潮騒に意識を集中させる。
再び魔力痕が奔る。ばちばちと、ばちばちと、空気が弾ける音が鳴いた。
腰元まで伸びた白妙の髪が水中のように浮かび始める。すると、紙に染みこむ墨のごとく白髪が一瞬で黒に染め上げられた。
変化は髪に留まらない。赤みひとつない真っ白な
幼いアーヴェントに顕現したのは、かつてシャーロットが
「もう少しです、今魔力を練ってますから……!」
『純血』の黒魔力が脈打つ心臓のように鳴動する。日頃の魔力操作の練習が功を奏したか、暴走は起こらない。力は完璧に安定している。
言われた通り、練った魔力をほんの少しだけ流し込めば、繋いだ手を通り道に純黒のエネルギーがオーウィズの腕を登っていった。
「うん。ありがとう、リリンフィー君。……イレヴン」
「あいあいマスター。さぁ妹様、ワタクシと一緒にお散歩にでも行きましょうネー」
「ふぇ? あっ、ちょ、執事さん!?」
突如オーウィズの影から現れたのは、静脈血のような禍々しい赤色に染まった燕尾服の執事長だ。
薄紫の地毛に黒のメッシュが入ったオールバック。真っ赤な唇。濃いアイシャドウ。黒く染まった白目に黄金の瞳──およそ召使いとは思えない華美な出で立ちの男は、リリンフィーの浮遊椅子の持ち手を掴むや否や、有無を言わせず部屋の外へと連れ出してしまう。
「……行ったね」
リリンフィーが部屋を外れて、一拍。
ブツッと肉の筋が切れたような異音が咲いた次の瞬間、オーウィズの体がまるで破裂した水道管のように、凄まじい血潮を撒き散らした。
「がふっ、が、ばっ、ぐうぁあああっ、
「博士!? アーヴェントじゃないあなたがリリンの『純血』を取り込むなんて、無茶な真似をっ!!」
「げほっ、えほっ、ぎ、ぃあ……うぅ……し、仕方ないんだ……こうするしか、げほっ、アマルガムに対抗する方法は無い……! ま、まぁ、心配無用だ、ボクは不死だぜ? ちょいと中身が滅茶苦茶になったくらい、問題はない、よ」
腐った内臓のような血の塊を吐き出して、それでもオーウィズは無理やり口角を吊り上げた。
これだ。これこそがアマルガム最大の謎でもあるのだ。
アーヴェントではない人間が王の魔力を体内に取り込めば、体中を滅茶苦茶に食い荒らされて絶命する。『純血』の主であるリリンフィーすら、虚弱体質を余儀なくされるほどの絶大なエネルギーなのだ。資格無き人間に扱える代物ではない。
強がってはいるが、想像を絶する苦痛に身を引き裂かれているはずだ。
何年もリリンフィーの苦しみようを見てきたシャーロットには分かる。純粋な黒魔力が人体に如何にして牙を剝くか、嫌というほど知っている。
だがそれを承知の上で、オーウィズが覚悟の元に決断を下したのならば。応えなければアーヴェントの名折れであろう。
「……分かりました、私も全力で補助します。出来ることがあれば何でも言ってください!」
「ありがとう、助かるよ。いやぁ、思ったより体を壊されるスピードが速くてね……流石は陛下と同等の魔力だ。ははは」
オーウィズは即座に治癒魔法を重ね掛けした。シャーロットも同様に、彼女が集中できるよう
それでも肉体の崩壊を辛うじて止めているだけだ。もとより黒魔力は森羅万象の理に支配されない独裁の権能である。どんな手段も焼け石に水に等しい。
十分だ。オーウィズにとって大切なのは意識レベルの維持に過ぎない。例え四肢末端まで腐り落ちようが、脳が働きさえすれば魔法は操作できるのだから。
「アマルガムは恐らく……蜘蛛の巣のように張り巡らせた星の刻印から、影響下にある魂を養分に巨大な精神世界を構築している。ヴィクター君も、彼ら三人も、きっとその世界に囚われている」
吐血。ゼリー状の赤黒い粘液で服を汚して、しかし眼光は決して掠ませることなく、オーウィズは魔法陣を多重展開していく。
すると、色とりどりの術式に黒が混じった。それは純水に落とされた一滴の墨のように、鮮やかな陣たちをたちまち一つに染め上げていく。
「その世界をこじ開けて、囚われた魂を救い出す。だが精神世界に入れるのは精神だけだ。魂でしか活動できない。君がやるんだ、シャーロット君。君が彼らを救い出せ。ボクが道を作るから」
首肯。シャーロットの快諾に「よし」と微笑んで、オーウィズは展開した術式を胸から体内に吸い込んでいく。
心臓を一突きにされた魚のように体が跳ねた。動揺するシャーロットに「大丈夫」とだけ口にして、オーウィズは肩に手を置くよう、少女にハンドサインを送る。
「
「もう解放してます、いつでも大丈夫です!」
「早いね、助かるよ。……これは凄く危険を伴う行為だ。魂の死は人間性の喪失、即ちあちらの世界での死は現実の死と同義になる。十分気を付けてくれよ」
「覚悟の上です。ええ、絶対無事に帰ってきますから、安心してください!」
「くっく、頼もしいな君は」
オーウィズの肩に手を置いて、少女は意識を集中する。
深く、深く、精神の奥底へと潜って、オーウィズの魔力経路をくぐるようなイメージを立体化させて。
「すまない、ボクは黒魔力の安定化と道の維持のために最低限しか力を貸すことが出来ない。こんな酷なこと、君のような若者に背負わせたくなかったが……どうかよろしく頼む。無茶はしないでくれ、シャーロット君」
◆
まぶたを閉じて、再び開く。
すると、生まれ育った館ではない場所に立っていた。
城だ。真っ白な大理石を基に造形された美しい城の、エントランスホールにあたる空間にいる。
多少古びてはいるが、どこか気品を感じさせる研磨された空気があった。
いたるところに生えた石柱が通常の建造物とは異なる違和感を育んでいるが、それ以外は観光名所にでもなっていそうな趣のある純白の古城である。
(ここがアマルガムの……想像よりずっと綺麗ね)
殺人鬼の精神世界なんてろくでもない場所かと思いきや、意外にも小綺麗な様相に衝撃を受けた。
ただし、すぐに上書きされる程度の驚きでしかなかったが。
「あぁああああああッ!! うわぁあああああああああ!! ばッ、馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬ぁああ鹿なあああああッ!! ここっこ、こんなッ、こんなこと有り得ない!! ぼっ、僕の救世主がッ! 愛しい君がァッ!!
絹を裂くような絶叫が城中を跳ね回った。
阿鼻叫喚の爆心地には男がいた。美しい純金の髪を振り乱し、日の光を知らないような真珠肌を血抜きされた死体のように青くして、端正な顔を夜叉の如く歪め、両手の爪をがりがりと嚙み潰しながら叫ぶ異様な男だった。
様子がおかしいという次元ではない。騎士団の礼装と酷似した紺色のスーツを、己の赤で染めせんばかりに血を噴き散らしている重傷者だ。
男の絶叫と苦悶に比例して傷が広がっているように見えた。精神世界がゆえにもしかして精神のダメージが直接
男は叫ぶ喉を止めない。
割れ鐘のようなけたたましい悲鳴で城を揺るがさんばかりの勢いだ。
──消去法からして、恐らくこの異常者がアマルガムか。
「か、かかかっ、解釈違いだぞッ……!? 君は不屈の男だろう!? どんな困難にも屈しない
怒り狂っている。それも尋常ではない。
親の仇だとか、夢を食い潰した権力者だとか、自分を裏切った最愛の恋人だとか、そんな対象に向けられる極限の憎悪を濃縮された怒りの声色だ。
「あんまりだ……こんなのってないよ……! やっと
肺の中の空気を全て絞り出さんばかりに叫んだ男は、まるで酸欠で失神したようにぺたりと座り込んだ。
瞬きもせず、ぼたぼたと涙を零しながら譫言だけを繰り返すゴーレムのようになってしまう。
(一体なにが起こってるの……? あの男は何にあんな動揺して)
崩れ落ちた男が凝視していた方角へと、釣られるように視線をやって。
夥しい石柱の裏に、一目でわかるほど慣れ親しんだ人影を視界にとらえて。
「……………………は?」
シャーロットの深海色の瞳が、透明に凍り付いた。
「……ヴィック?」
彼がいた。
たった一日顔を見なかった程度でしかないが、久方ぶりの再会を果たしたような気持ちになる、ヴィクターがいた。
全身の筋肉が部位ごとにはっきり盛り上がるほど絞られた、180cmはあろう大柄の肉体。
もみあげや襟足をさっぱり剃って全体的に短く
ボロボロに破れたシャツの下から顔を覗かせる隆々の肉体をぴっちりと覆うアンダーウェアも、彼の愛用品だと知っている。
なにより純黒の腕を隠すために巻かれた両腕の包帯が、彼がヴィクターであるという唯一無二の証明だろう。
唯一の違いは。
顔が跡形も無くなっていることか。
「あなた、なの? 」
ツリ気味の三白眼も、長い睫毛も、高い鼻も、太陽みたいに快闊な笑顔を作っていた口もない。
真っ黒だ。靄とも粘液ともつかない、どす黒い未知のナニカに顔全体を覆われていた。
「■■■■■■」
彼と思わしき存在から発せられた音は、もはや人の声と呼べるものではなかった。
叫び声だろうか。すすり泣く声だろうか。それとも笑い声だろうか。
人間の情緒をぐちゃぐちゃに搔き混ぜたようなノイズを放つヴィクターは、ただ茫然と、上を向いて立ち尽くすのみだ。
「何があったのよ……!? ねぇ!?」
答えは無い。どころか、人間の生気すら感じられない。
命令中枢を失った
ぐ、ぱ、ぐ、ぱ──と。ただただ機械的に、不気味に、少女の血の気を奪うように。
魂の死は人間性の喪失。
オーウィズの言葉が、ぐにゃりと現実を捻じ曲げた。