戦うことは怖くなかった。
傷つくことだって怖くなかった。
怖いのはいつだって、孤独にこそあったのだから。
自分が何者なのか、一度も考えたことが無かったかと言えば噓になる。
記憶の始まりは柔らかくて青い水の中だ。それ以前の「自分」は泡になって消えている。
どこで生まれて、どんな名前で、何をして暮らして、どうやって記憶を失い、孤島の泉で目を覚ましたのか。その全てが白く塗り潰されて読み解けない。
■■■には何もない。過去を教えてくれる家族や友達もいない。
無色透明の、人の形をした空箱だった。
記憶がないということは、存在していないことと同義だ。
性格、趣味嗜好、あらゆる癖や知識は、経験という集積物が生み出す珠である。それこそが人を人たらしめている核であり、己は唯一無二であると肯定する存在証明と言っていい。
■■■にはそれがない。
どうしてこんな性格なのかも、何が好きで嫌いなのかも、どんな人生を歩んだのかも、何一つとして。
果たしてそれは、胸を張って『生きている』と言えるのだろうか?
だから、自分がわからない。
だから、自分を証明できない。
だから、自分を認めることが出来ない。
親切な女の子から『ヴィクター』という形を貰って、見ず知らずの男を助けてくれたその善性が眩しくて、憧れて。
だから自分も善く在ろうと、空っぽの中身を彼女から借りた輝きで埋めようとした。
シャーロットと違って由緒正しい血筋はないけれど。彼女のように過去からの
彼女に貰った『正しい心』は尊くて気高いものだから、それが自分の一部になるのなら、きっと幸せなことだと思った。
だからこそ、残酷で悪辣な非道を見過ごせなかった。
人でなしの悪性を前にした時、絶対に認めるなと叫ぶ魂の声が頭を貫く実感があった。
正しいと信じるもののために戦った。
目の前で繰り広げられる悪魔の所業が許せなかった。何の罪もない人間が食い物にされて黙っていられるわけがなかった。
誰かの幸せを守りたかった。誰かの人生を壊そうとする存在が我慢ならなかった。
シャーロットがくれた輝きに報いたかった。彼女が助けたこの命が無駄ではなかったのだと証明したかった。
だから、戦った。
信念の旗本に。義気の炎を焚き上げて。
本当にそれだけか?
死闘を超えるたびに凍っていく
記憶を失ってなお根付く闘争心など、人は怪物と呼ぶのではないか?
いつか記憶が蘇った時。
その拳が守るべき人に向かないって、どうして決めつけることが出来るんだ。
◆
「……これが俺の心の底だってのか?」
どこまでも白い、シミひとつ居座ることさえ許されない世界に、唯一の色彩であるヴィクターは独りぽつんと放られていた。
純白の平原が広がっている。
地平線すら存在しない白亜の空間。上も下も曖昧になりそうな、立っていることさえおぼつかなくなる真っ新な大地だった。
おかしい。アマルガムの能力によって精神の底へと落とされたはずである。だが底と呼ぶにはあまりに明るく、おどろおどろしさの欠片も無い。
むしろ既視感に満ちたこの空間には、場違いな親しみさえ感じるほどだ。
「夢と似てるな。あの化け物がいた場所……うろ覚えだけど、確かこんな感じだった」
まだエマが居た頃、毎晩のようにうなされた怪物の夢と酷似している。
あの世界も同じように、自我さえ胡乱になりそうな純白の空間だった。
違いと言えば、天蓋に無数の杭と鎖で縛り付けられた巨大な化け物がいたことだろうか。
「怪物はいないな。本当に何もねえ」
「何もない人間だからな。
──背後からの声に叩かれ、反射的に振り返る。
振り返って、心臓がどくんと仰天する呻きが聞こえた。
勢いよく巡った血潮が、目を閉じるなと頭を殴りつけてくるようだった。
「……!? なんだ、お前!?」
「失礼な奴だな。俺は
顔の無い自分が立っていた。
背格好も、髪型も、服装も、声色さえ何もかもが全くの同じ。
顔が癇癪を起した子供の落書きのように黒く塗りつぶされていることを除けば、まさに生き写しそのものだった。
「幻覚だと思ってるだろ? 違うぞ。試したいなら殴ってみな。
「しッッ!!」
一切の迷いなく。拳を放つ。寸分狂わず右頬へと突き刺さる。
瞬間、激痛が側頭を突き抜けるように走り去った。
視界に星が滲む。平衡感覚にノイズが混じる。
重々しい衝撃が頭蓋を揺らし、たまらずよろめいて頭を抑えた。
反して、ポケットに手を突っ込んだまま平静な様子の
「ほんと躊躇が無いよなぁ。我ながら馬鹿だと思うよ、
「痛ってぇ~~っ!! クソ、どうやらお前の言ってることは本当らしいな! つーことはなんだ? 俺の心の別側面が具現化したとか、そんなもんか」
「だいたい合ってる。くそったれのアマルガムに形を与えれたっつー感じだ。けど勘違いすんな、俺はずっとここにいた。俺は
気付かなかったとは言わせねえと、
けれど当然、そんな記憶は微塵もない。二重人格だった覚えはないし、シャーロットやオーウィズからそれらしき何かを言われたこともない。
押し黙っていると、呆れたように
心底うんざりする。そんな辟易した心情が見てとれる仕草だった。
「そうだろうな。
「……そんなことより、さっさと戻ってアマルガムの野郎をぶちのめさなきゃならねーんだ。心の弱みって奴を乗り越えりゃ良いんだろ? お前が俺だって言うのなら教えてくれよ。どうすりゃ戻れる?」
「戻る? なに寝惚けたこと言ってんだ?」
「あん?」
「もう二度と戻れないよ。弱みを克服? 夢物語は寝言で語りやがれ。
──剛脚を飛ばす。
踵が槍のように
しかし当然、熾烈極まるインパクトが自身にも爆発する羽目になる。
肺を潰されたかと錯覚するほどの激痛に襲われ、胃内容物を無理やり搾り上げられたかのように饐えた匂いが逆流した。
「ご、ふっ……!?」
寸前で押し留める。ドッと背中にあふれた冷たい汗で髄を冷やす。
対する
「学習しねえのかこのタコ。無駄だって言ってンだろうが。俺は
変だ。何かおかしい。
酷く胸がざわざわする。この顔の無い自分を見ていると、唾を吐きかけてやりたくなるような気持ちが湧き上がってくる。
舌が苦い。自然と眉間に皺が寄る。最悪な胸やけに襲われたみたいにむかつきが止まらない。
激しい嫌悪感を抱くのだ。まるで気持ち悪い虫を見た時のような、腐った生ごみでいっぱいのゴミ箱を開けてしまった時のような、一瞬だって視界に入れたくない生理的嫌悪と似た何かが、胸にへばり付いて離れなくない。
絶対悪に対する怒りや侮蔑とは違う。
こんな感情は、こんな
「つくづく自分を省みねえ奴だ。大方、俺が気味悪くて仕方ねえってところだろ」
「なんなんだお前……! 一体、どういう……!?」
「だぁーから、何度も言ってるだろうが。俺は
「…………」
思考の風向きを変える。
ヴィクターにとって必要なのは、さっさと試練とやらを終わらせて今度こそアマルガムを叩きのめすことだ。
そのためにはまず、この場を脱出しなくてはならない。
では脱出の条件とはなんだ?
目の前の自分モドキを倒すのは無理だ。奴が言っていたように、ダメージは全て自分に返ってくる。
ならば腕の力で無理やり空間でもこじ開けるか。これも無理だ。どさくさに紛れて試してみたが通用しなかった。きっと元の城へ繋がる道を明確にイメージ出来ないからだろう。
ならばアマルガムの言うように、己の心の弱みとやらを探り出して克服するべく努めるか。
だが弱みとは? 自分で言うのも変な話だが、精神的弱みにこれといって覚えがない。克服するに値する弱点がわからない。
考える。考える。
顔の無い自分から目を逸らして、考え続ける。
「少しは
無理やり顔の向きを変えられるような叱咤。
頬を掴まれて、強引に
「結論から言ってやろうか。
空っぽの生き物。
言葉が大きな銛みたいに、胸の一番深くまで突き刺さって息が詰まった。
「人間ってのは誰しも
「っ……!」
「思い出してみろよ。え? 親に甘えた経験は? 怒られたことは? 兄弟はいたか? 喧嘩したことは? 嫌いなヤツはいたか? 親友は? 子供の頃から好きだった本とか食べ物はどうだ? 懐かしさに浸れるような故郷があるか? 恋をしたことは? それになにより、自分の本名が分かるのか? どうなんだよ、おい」
心臓にゆっくりとメスを入れられているような心地だつた。
どんどん脈が速くなる。喉奥に籠った空気が熱くなる。
聞きたくない。何故だか無性に逃げ出したい。1秒だって奴の言葉を耳に入れたくない。
なのに体が、影を縫い止められたみたいに動かない。
「なぁーんにも無いだろ。
「──だからなんだ、どうでもいい! 俺はヴィクターだ、ここにある今が俺自身だ! 俺にどんな過去があろうが無かろうが関係ない! 俺の在り方は俺が決める!」
「ほら、言い聞かせて目を背けてる。そうしないと自分を保てない臆病者のくせに」
「違う!」
「何が違う? 周りを見ろよ、真っ白だろうが。ただのホコリひとつだって落ちちゃいない、不気味なくらい真っ白だ。ここはお前の心の一番深い部分だってのを忘れてねーか?」
両手を仰いで高らかに、しかしどこか悲痛を孕む抑揚の外れた声で、
「言っただろ、人間には
ざり、と砂のようなものを踏む音がした。
それが自分の足が下がった音なのだと、後ずさりを終えてようやく気付く。
けれど、なぜ退がったのか理解出来なくて。こめかみを伝う汗が、顎を伝って落ちてもわからなくて。
「館の泉で目覚めてからこの日まで、色々あったよなぁ。だがそのひとつとして、
「何を、言って」
「言葉にしなきゃわからねえか? アーヴェント邸であった事件も、シャーロットを外に連れ出した日も、黄昏の森の冒険も、今直面してる殺人鬼の事件さえ! 何も感じてないんだよ
「何を言ってんだよお前……そんなわけっ……!」
後ずさる。後ずさる。
無意識だ。自分の意志じゃない。
なぜ離れようとしているのか、自分でも理解できない。
ひょっとして、気圧されているのか。
今まで一度たりとも、三聖を相手取った時でさえ、こんなことは無かったのに。
「それだよ。まさにそれだぜ、
まるで思考を見透かしているとでも言わんばかりに、心の正中を
標本箱に針で留められた昆虫みたいに、体がぴくりとも動かなくなった。
「
──貴殿、命の奪い合いで恐怖を感じた経験が無いだろう。
──それは異常だ。恐怖を感じぬ生物など存在せぬ。我らはただ、恐怖を我がものとする術を知っているだけに過ぎない。
──恐れを知らぬということは、生きておらぬのと同義なのだ。
なぜか、武聖グイシェン・マルガンの言葉が脳裏をえぐるように過ぎ去った。
ふつふつと記憶が蘇る。「正義の味方ではない」と得体のしれないものを見た表情で吐き捨てたカースカンが、怖気に呑まれた顔で「イカれてる」と口走ったエマの姿が。
自分の異質さに覚えがないわけじゃない。
不要な
それがあったからこそ、今まで死闘を切り抜けることが出来たのだ。自覚が無いわけがない。
「なぜそんな冷酷さがあるかわかるか。それはな、執着が無いからだ。
「ッ──」
「自分だけじゃない。必要なら他人だって切り捨てられるさ。カースカンに爆弾埋められたコロポックルの命にだって躊躇しなかっただろう? 運よく助けられたがそれは結果論だ。この白亜の世界がその証明だ」
「そんな、わけ……!!」
「そんなわけないって? 自分でチグハグだと思わねーの? 命を賭してまで人のために戦える熱血野郎が、魂まで凍った冷血男ってのはよ。
古傷を抉り直されるような痛みが止まらない。
息が浅くなって、頭が重い。
自分の一番醜い部分を、醜態を、鏡で見せられているかのような最悪の気分だ。
──跳ね除ける。
耳障りな言葉を、胸を抉る戯言の数々を。腕を払って拒絶する。
今重要なのは、己の中の空白の過去などではない。
「どう……でもいいっ……!! 俺がどんな人間だろうが、関係ねえ! こんな俺にでも救えるモンがあるってンなら! 大切な人を守れるのなら、なんだって構いやしねえッ!!」
「バカが。
感じる。後ろに誰かが立っている。
この気配は、誰よりもよく知っている。
「シャロ……?」
見知った少女がそこにいた。
魔剣ダランディーバを握り締め、まるで眼前の人間を魚の如く捌かんと大きく振り上げるシャーロットが。
「うォおおおおおおおおッッ!?」
脳天めがけて墜落してきた刃を殴り弾く。
少女の表情は波風ひとつ揺るがない。人形のように冷たい瞳で、心無き透明な殺意で、ヴィクターを輪切りにしようと企んでいる。
(こいつは幻覚だ! アマルガムか
決断は
破壊された顔から真っ白な血のようなものを噴き出して、シャーロットとうりふたつの幻が吹っ飛んでいく。
「……普通はさ、殴れねえよ。幻だって分かってたとしても、惚れた女の顔面ど真ん中なんて。こういう時は躊躇するもんだぜ。それが人間ってもんだろうが。違うか?」
地面に墜落すると同時に、少女だったものは粒子となって霧散した。
「そもそも本当に惚れ込んでンのか? あんな別嬪と同じ屋根の下で暮らしておきながら、ちょっかい出す素振りすらねえ。心拍ひとつ揺らぎもしねえ。普通じゃねえだろ。こりゃ元から興味すらあったのか疑問だよなぁ」
「傷つけるような真似なんか言語道断だろうが……!! 俺は彼女を尊敬してるんだ、信頼を裏切るようなことはしない!」
「だーから、
「大切だよ、当たり前だろ! シャロ以上に信じられるやつなんか居るか!」
「じゃあこの白い世界はなんだ。幻覚を躊躇なく殴り倒した
背から心の臓腑を刺し抜いてくるような、言の葉の刃。
打ち返したくとも、何故か反論を紡げない。
まるで唇を縫われてしまったかのように痺れて、頭が漂白されたみたいに空っぽで。
「これで分かったろ。
呼吸が暴れる。息が切れたみたいに浅くなる。
喉がひりつく。いやな汗が止まらない
酸素で脳が焼かれたみたいに、目の前がどんどんボヤけていく。
「もう一度聞くぞ、
「ッ……ぐ、ぅ……!!」
「今の
うるさい。黙れ。
そんなこと、言われなくたって分かっている。
ヴィクターには記憶が無い。泉で目覚める以前の過去が無い。
ゆえに保証が無い。シャーロットの味方であることも、天蓋領が送り込んだスパイである可能性も。
ある日突然記憶が戻った時、シャーロットに牙を剝かないという確証がどこにある?
心の底から燃え尽きることのないこの闘争本能が、大切な人たちを脅かす凶器にはならないなんて、どうすれば断言できる?
吐き気がするほどの悪党どもと戦うたびに、彼らの持つ悪性の原動力には、常人ならば到底理解できない執念を孕んでいることを嫌というほど思い知らされた。
大義を掲げたエマも、芸術を謳うカースカンも、救いを求めるアマルガムも、確固たる執念こそが悪性を加速させる風だった。
だったら。過去を失くした魂にすら沁みつくこの穢れは。
誰よりも冷たくなれる、如何なる障害をも破壊できる、己の敵全てを撃滅せんと透き通る、決して砕けることを知らない金剛の意志は。
何かの拍子に覆れば、たちまち人道を踏み外せる狂気と相違ないのではないか。
ああそうだ。『ヴィクター』は爆弾だ。
いつの日か暴かれる記憶の次第では、善にも悪にも傾きかねない不安定な
そんな奴がどの面下げて、シャーロットの傍に居たいと願えるんだ。
「……………………どうでも、いい」
言い聞かせる。
意思を塗り潰す。思い出せと叱責を飛ばす。
迷っている場合か。こうしている間にも、アマルガムに苦しめられている人々がいることを忘れるな。
今この手で成すべきことは、一体なんだ。
──突き付けられた一切合切を全て握り潰すように、固めた拳で呑み込んだ。
「どうでもいいって言ってんだろうがッ……! 今大事なのは、重要なのは! あのアマルガムをぶっ飛ばしてみんなを助けることだ! これ以上無関係な人々が、あいつの毒牙にかからねえようにすることだッ! 俺が何者かなんて、どんな奴かなんて、今はどうだっていい!」
「────」
「お前を倒せば俺もダメージを負うといったな! なら根競べと行こうじゃねえか! 例え俺自身の心が壊れようとも、この白い世界をぶっ壊してでも、俺はここを出ていくぞ!」
決意の焔を燃え上がらせ、ヴィクターは吼える。
己を名乗る顔の無い男を叩き伏せんと、地を蹴って跳ぶように肉薄する。
「……折れねえよなぁ。だから
その時、
次元の裂け目を破るように地を割って出現したのは無数の手だ。ばちばちと火花を散らし、近づくだけで蒸発しそうな炎熱をめらめらと纏う、燃え盛る腕の群れだった。
声が聞こえる。
頭にこぽこぽと注がれるように響いてくる。
呻き声か、金切り声か、泣き声か。耳をつんざく叫びの束が、白の世界を化膿させていく。
声の主は、今にも灰に還らんばかりに燃ゆる亡者の集合体だった。
炭化した継ぎ接ぎの体をうねらせて、死んだ星空のように光無き白濁の瞳たちを蠢かせて、体のあちこちに裂けた乱杭歯の口を大きく開いて、
「
燃える亡者が唸る。無念の灰に生者を道連れにせんと腕を伸ばして。
少年は叫ぶ。揺るがぬ魂を燃え上がらせて、無尽蔵の魔手を叩きのめさんと拳を放つ。
「気づけよ。例え
亡者へ取り込まれることも厭わず飛び掛かった刹那。
紅蓮の大輪が、純白の世界を津波の如くのみ込んだ。