銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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51.「焔のあなたへ、一等星の花束を」

『いいかい、シャーロット君。精神世界では魂という自己の輪郭が映し出した、いわば仮初の肉体が存在する。だが仮初と言っても傷を負えば現実に反映されるし、精神へのダメージが魂を直接傷つけるんだ。冷静さが肝要だよ。何があっても平静を保つよう努めるんだ』

 

 

 視界共有しているオーウィズが何か口走っているが、全く頭に入ってこない。

 

 顔を落書きのように潰されたヴィクターがいた。

 殺人鬼の異能力が生んだ精神世界で、魂の形が歪むまで心に傷を負って。

 天井を仰いだまま手のひらを開閉するだけの、壊れたゴーレムのようになってしまった彼が、そこに在った。

 

「──」

 

 

 こんなのありえない。嘘っぱちだ。きっと幻に違いない。

 だって彼は誰よりも強い心の持ち主だ。折れたところなんて見たことがない。

 例え命が消えかけようとも、どんな強大な敵が相手であっても、ただの一度だって挫けたことはなかった。なかったのだ。

 

 そんな彼の心が歪んでしまうだなんて、一体どれほど惨いことが。

 一気に血が沸騰した。ぶわっと髪が浮くような灼熱が、腹の底から昇る龍となって臓腑を焦がすようだった。

 

「ああクソッ! クソッ! クソクソクソッ!! 全部イチからやり直しだ、この城はもう要らない! 新たに救世主を探し出さなくてはッ……僕は救われない……!」

 

 張本人であろう半狂乱の男は、ばたばたと鉄臭い赤で大理石の城を上塗りしながら、前髪に隠れた左目を妖しく緑に発光させた。

 途端、そばの石柱が水を吸った海綿のように大きく膨れ上がると、人一人通れる程度の穴が裂けるようにして姿を現した。

 階段だ。上へと続く階段が見える。石柱の内部を通じて上に逃げるつもりか。

 

 だが老人のようにおぼつかない足取りで身を隠そうとするアマルガムを、シャーロットは追おうとはしなった。

 白衣をまとうボロボロの男が、アマルガムの行く手に立ち塞がったからだ。

 

「……なんだ、心淵の底から自力で這い上がってきたのか。完全に呑み込まれてただろう? どうやって脱出した?」

「はぁっ、はっ、かふ、ッ」

 

 壮年の森人(エルフ)だった。息も絶え絶えな満身創痍の男だった。

 

 半身が鋭い刃物で滅茶苦茶に切開されたみたいにズタズタで、きっとこの城より白く清廉であっただろう白衣を見る影もない赤黒さで汚している。

 オールバックに整えられていたらしい黄金の頭髪は、まるで何日も風呂に入っていないかのように脂ぎって、バラバラにほどけた有様だ。

 ただでさえ森人(エルフ)特有の色素が薄かったろう顔色は、血の代わりに氷水でも詰めたみたいに真っ青である。

 立っているのが不思議なくらい苦痛に圧された猫背姿で、喉が笛のようにひゅうひゅうと喘鳴を奏でているのが離れていても聞こえるくらい呼吸が酷い。

 

 彼に何があったのか想像もつかないが、尋常の様子ではなかった。

 風が吹いただけで崩れそうな、子供にじゃれつかれただけで命を落としそうなほど、脆く痛々しい出で立ちだった。

 

 けれど、そんな容態に不釣り合いなほどの力強さを、マリンブルーの瞳に宿していて。 

 

「どけよ医者。ろくに正義も貫けない半端者の死に損ないが、一丁前に僕の前を塞ぐんじゃない!」

 

 破裂せんばかりに充血した目を見開いて、アマルガムは唾を吐き散らし激昂した。

 いつの間にか右腕に刃状のエネルギーが顕現している。雷属性の魔法剣だ。

 ズジバヂッ!! ──空気抵抗を蹂躙する雷鳴が猛り爆ぜ、白衣の男を真っ二つに両断せんと落雷の如く振り下ろされる。

 

「ルクス……フェルム」

 

 刹那。眩い閃光が(つんざ)いた。

 それはアマルガムの雷剣が、大輪の火花と共に砕け散った残響で。

 

「『従え、燦然たる刃が仔らよ(ルクスフェルム・セクウェーレ)』……!」

 

 殺人鬼を退けた叛逆の正体は、アマルガムと同質の──いいや、さらに純度の高い白熱の光で鍛造された輝く刃だ。

 男の周囲を守護するよう無数に展開された十の光刃が、自由自在に(くう)を舞いアマルガムの一閃を弾き返したのだ。

 

「酷い夢を見たよ……ああ、まったく最悪の夢だった。君の力が一瞬緩んだおかげで、打ち破れたが」

 

 男はぼそぼそとスペルを唱え、手元にねじくれた金属の杖を召喚する。 

 握り締める手の震えは限界を迎えつつある魂の悲鳴か、それとも胸を掻き鳴らす激情の表れか。

 ただひとつ確かなのは、男の瞳にはごうごうと荒れ狂う執念があった。

 

「よくも私の家族を、記憶を、穢してくれたな。よくも大勢の人生を、踏みにじってくれたな」

 

 滲む。滲む。自らの魂を灰燼に帰してでも使命を成し遂げんとする、修羅のような怒りの断片が。

 だがそれだけではない。憤怒の火元には、輝く黄金の高潔さがあった。

 ヴィクターと同じ強靭な意志の光を、シャーロットは確かに目撃した。

 

「なんだその眼は? 僕と同類の分際で、この(ぼく)の前で、正義の英雄を気取るつもりか?」

「……そんな高尚なものじゃないさ。ただ、響いたんだよ。私を、()()()()守るために戦ったヴィクター君の意思が、君の力を通じて」

 

 男は構える。

 

「若者があんなに頑張ってるのにさ、おじさんが立ち上がらないわけにいかないじゃないか」

 

 ねじくれた杖の先に、煌々と灯火を宿しながら。

 

「行かせはしない……! 君の暴虐に、これ以上誰も犠牲は出させん!」

「──こ、ここっ、くォッ、この家畜にたかるハエより惨めで卑しい道化風情がァあああ────ッ!! その驕り切った魂、深淵の苗床にしてくれる!!」

 

 激突が始まった。

 片や雷剣を達人の如く縦横無尽に振るう殺人鬼。片や無数の光刃を使い魔の如く意のままに操る白衣の男。

 白熱の火花が咲き、舞い散る血華は霧となって消し飛ばされる。あまりの熾烈さに一本の石柱が悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 一帯を眩い純白に潰すほどの電光雷轟が、二人の男を中心に城の造形に亀裂を植えていく。

 

『シャーロット君!』

「っ、ごめんなさい! 混乱してしまって……!」

『いや、いいんだ、取り乱すのも無理はない。けれど今はヴィクター君に集中を。どうやらアマルガムに心を崩されて……少々不味い状態にある』

 

 言葉の枝で殴られたようにヴィクターを見た。

 顔を塗り潰された彼は、激しい戦いの余波を間近で浴びながら平然と立っている。

 まるで幽霊だ。生気が感じられない。きっとシャーロットにも気付いていないのだろう。

 咄嗟に駆け寄りそうになったが、オーウィズがそれを制した。

 

『精神世界で歪められた魂は次第に人の形を失っていく。完全な異形と化せば、それは自我の崩壊だ。もう二度と戻ることはない。幸いヴィクター君はまだ人の形を保っているから、ギリギリのところで踏みとどまっているらしい。しかし急を要することに変わりはない』

「どうすれば!?」

『彼の深層意識に飛び込んで魂を修復すればいい。けど……』

 

 苦渋と共に絞り出されたような答えだった。

 いつ如何なる時でも平常心を崩さない彼女にしては珍しく、歯切れの悪さが言の葉の行く手を詰まらせているように煮え切らない。

 

『正直言って、難しい。物理的に修復できる体の負傷とはワケが違う。精神のダメージは持ち主が克服しなきゃ意味が無いんだ。いくらボクたちが手を尽くしても、彼自身が逆境を跳ね返さなきゃ全て無為に帰してしまう。相当な危険も伴う。下手をすれば二人とも死んでしまうかもしれない』

「危険なんて承知の上です! 彼が苦しんでいるのに、黙って見過ごせるわけがない!」

『その通りだ。ボクだって諦めるつもりは毛頭ない。ただ……辛い役回りを君一人に押し付けてしまうことになる。それでもいいのかい?』

「当たり前です、何だってしますから!」

 

 辛い役回りだなんて欠片も思ってはいない。

 シャーロットにとって何よりも辛いのは悲劇だ。仲間や家族に最悪の事態が迫っているのに、指をくわえて見守ることしか出来ないことだ。

 

 喪失の苦痛は何度も味わってきた。

 あの身を引き裂かれるような思いは、内臓を絞られるような痛みは、永遠に魂から消えない絶望は、二度とだって味わいたくない。もうたくさんだ。

 

 それを覆すためなら、例え竜の口にだって飛び込んでやる。

 

『始めるよ。覚悟はいいかい?』

「はい!」

『では彼に触れたまえ。場所はどこでもいい。そうしたらボクが君と彼の魂を接続させて、彼の深層世界に送り込む。だがボクに出来るのはそこまでだ。励ますでも何でもいい、とにかく彼と接触して心の死を食い止めてくれ。それしか助かる方法はない!』

「ようは元気づければいいってコトですね……! ええ、任せてください!」

『彼の精神は今、死の瀬戸際にある。死にかけの心は負の感情の吹き溜まりだ。君まで呑み込まれてしまえば、二人ともども終わりだということを忘れないでくれ』

「了解です!」

 

 覚悟を決め、すぐさまヴィクターに駆け寄った。

 握っては開くを繰り返している包帯の手を取った。

 

「っ」

 

 冷たい。氷で出来た人形のようだ。

 生きた体温ではない。死人だ。いや、死体より酷く凍てついている。

 刺すような冷感が容赦なく噛みつくのだ。まるで極北の氷塊を撫でているような常軌を逸した冷たさは、激痛となって手から体を登るように蝕んできた。

 

 それがなんだ。例え指が腐ろうとも絶対に離したりなんかするものか。

 触れて分かった。直感的に理解した。

 こんな状態では満足に動かすことも叶わないはずだ。それなのに手を動かし続けていたのは、ほんの少しでもこの冷たい体を温めようと、必死に抗っていたからなのだと。

 

(戦っているんでしょ、ヴィック! あなたの心はまだ死んでない! 大丈夫、絶対に助けてあげるから!)

 

 少年の魂が刻む生への鼓動。その意志を確かに受け取って、シャーロットは深き心の冥府へと飛び込んだ。

 

 ◆

 

「────…………わ、白」

 

 まぶたを開くと、真っ白な世界にいた。 

 大理石の豪奢な城も、鎬を削り合う二人の男もいない。

 どころか、フォトンパスを通して視界共有していたオーウィズとの通信状況も途絶えている。

 

 

「ここが彼の深層世界……ずいぶん綺麗ね」

 

 ちょっぴり驚く。人の形を失いつつあるほど傷を負った魂に飛び込んだのだから、もっとドロドロした地獄のような光景が広がっているかと思っていた。

 なのに拍子抜けするほど殺風景だ。ヴィクター本人はおろか、髪の毛の一本だって見当たらない。

 唯一知覚できるものがあるとすれば、靴の裏から伝う、公園の土を踏んでいるような砂っぽい感触か。

 

 いや、少し違う。

 砂というには柔らかすぎる。足踏みすると少し粉が舞うのだ。

 なにか妙だ。ムズムズする。既視とも違和ともしれない、勘の蜘蛛の巣に引っ掛かったような覚えが胸に粘着いて離れない。

 

「? なにこれ」

 

 直感に従ったシャーロットは、屈んで地面に指を這わせた。

 さらさらしていて、肌に吸いつく。しっとりした粉末の感触がする。

 払っても粉が仄かに指に残るほどきめ細かい。まるで上質な小麦みたいだ。

 

 なんとなく、どこかで触ったことがあるような。

 

「…………あ。遺灰だ、これ」

 

 不鮮明だった答えが、海馬の中で破裂したみたいに解像度を一気に引き上げた。

 大昔、島の邸宅が火事に見舞われた記憶がフラッシュバックする。

 焼け跡から家族を掘り起こした、思い出すだけで胸を裂かれるどん底の一端を。

 

「っ、ぅ……なるほど、精神ダメージが反映されるってこういうことか」

 

 ちょっぴり血を吐いた。けれど、胃が少し焼けたくらいだ。大したことじゃないと喝を入れる。

 昔とは違う。例え生涯消えない古傷だとしても、もう過去は乗り越えた。いつまでも蹲っているだけのシャーロットじゃない。

 

 気を強く保つと、腹を煮立たせた灼熱感がすうっと引いた。博士のアドバイスに助けられたなと、口元を汚す赤を拭う。

 

「にしてもどうなってるの? 辺り一面灰まみれじゃない。それ以外には何も……そもそも何の灰なのこれ?」

「よぉ。探し物か?」

「! ヴィッ──……ク?」

 

 馴染む声が聞こえて、花を咲かせたように振り返ったら。

 顔の無い彼が、灰と白妙の空間にぽつんと佇んでいた。

 

 サイドを刈って軽く整髪料で整えられたソフトモヒカンスタイルの黒髪。健康的に焼けた肌。

 前を開けたグレーのシャツと白いインナーが肉の形をぴっちり主張する鍛え抜かれた大柄は、それでいて全体的に鋭利なシルエットに統一されている。絞られた肉体、という表現が的確だろうか。

 彼いわく『超イカす』らしい純黒の王の腕を隠す包帯は健在で、紺色のジーンズもブラウンの靴も、先日買ったばかりのお気に入りなのは知っている。

 

 どこからどう見ても、ヴィクターそのものだ。

 けれど、何かが決定的に異なる。顔が無いという意味ではなく、雰囲気がいつもと違うのだ。

 

 ポケットに手を突っ込んで気怠そうにしている。こんな態度見たことが無い。

 端的に言えば冷めている。時に暑苦しいほど快闊な彼が、厭世観に揉まれた老人のような木枯らしの空気を纏っていた。

 

「くっくっ。お前誰だって顔してるな」

「……あなたなの?」

「正確には一部だ。残念ながらね」

 

 顔の無い男は肩をすくめる。

 敵意は無い。しかし友好的とも言い難い。

 探りを入れかねていると、彼は静かに地面を指さして、

 

(あいつ)ならここだよ」

「!」

「すげー灰だろ? 全部(あいつ)の仕業だぜ。ったく、無作為に何でもかんでも燃やしやがってあの馬鹿。処理すンのはいつだって俺なのによ」

「……下を掘ればいいってこと?」

「ん? え? おいおい、随分あっさり信じるんだな。俺がからかってるとは思わねーの?」

「アンタは私に嘘つかないでしょ。だから信じる」

「……」

 

 顔が無いから表情は分からないが、なんとなくポカンとしていることは分かった。

 

「あー、えーっと、俺が怪しくないのか? (あいつ)が居ない元凶だとか、実はアマルガムが見せた幻覚とかさ、普通疑わねぇ?」

「確かに普段のアンタっぽくはないわね。けど、何となくわかるのよ。あなたはヴィクター。正確にはその一部だって、さっき言ってたことが全てなんでしょ」

 

 女の勘って奴よ、と胸の下で腕を組みながら得意げに切って捨てる。

 ぽかんを通り越してあんぐりと顎を落としている。相変わらず顔はないけれど、なんとなくそんな感じに固まっていた。

 

「……気持ち悪いと思わねえのか? 俺は(あいつ)の負の側面だぞ。(あいつ)の心の灰汁で作った煮凝りみたいなもんだ。嫌な気分にならねえのか?」

「どうして? 人間誰しも暗い部分はあるじゃない。私だってそうよ。これくらいで目が曇るほど、このシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントが(やわ)な女だと思う?」

 

 呆気。たじろいで、行き場のない両手を泳がせて、顔の無い彼は息を詰まらせて呻く。

 

「…………なん、で、そんな無条件に信じられるんだよ」

「無条件なんかじゃない」

 

 いまさら何を言っているのかと、真っ直ぐ射貫くように彼を見た。

 あなたに対する信頼は日々の積み重ねがあってこそだろうに──シャーロットは少しだけ苦笑を向ける。

 

 彼はエマの魔の手を払ってくれた。腐敗するのみだったシャーロットの心を救ってくれた。最愛の妹を助けるために力を貸してくれた。

 自分のせいではぐれてしまったリリンフィーを保護してくれたのも、つい先日のことである。

 少し無茶をするのは控えて欲しいけれど、他人のために戦う背中を何度も見てきた。

 

 普段だってそうだ。妹や小人(コロポックル)たちの面倒を見てくれるし、館の修繕にすら積極的だし、鍛練も快く手伝ってくれる。

 それに誠実だ。男の子だからちょっぴりスケベなのは仕方ないけど、同じ屋根の下で暮らしているのに軽はずみな真似は絶対にしない。

 

 頑張り屋なのも知っている。オーウィズの授業は欠かさないし、魔法書や課題相手に夜遅くまで書庫で唸っていたのを見かけたのは一度じゃない。 

 おまけにギルドランクを上げるんだーと意気込んで労働にまで精力的だ。正直ちょっとは休んで良いんじゃないかと思う。

 

 大きなことも、小さなことも、色々な行動が積み重なって今の信頼がある。

 だから決して、無条件なんかじゃない。

 

「あなただからよ、ヴィック。あなただから何があっても信じる。信じられるの」

「────」

「とりあえず掘ればいいのよね。ほら、あなたも手伝って」

「っ、何で俺が」

「嫌ならいいわ。あなたが負の心なら気乗りしないでしょうし、無理強いはしない」

 

 言うが早いか、己が内に宿る魔力に意識を注いだ。

 黒魔力を操作、形成、シャベル状に変えて手元に顕現させる。

 深層心理の世界でも魔力が使えたことに少々驚きつつも、すぐに灰を掘り始めた。

 

「~~っ! あぁもう分かった、俺の負けだ!」

 

 ガジガジと頭を掻き毟って、心底げんなり色を混ぜた吐息と共に()()()()()は指をひとつ弾いた。

 すると、不意に地面が蠢いた。

 灰の下からだんだん人の形が盛り上がってくる。それと同時に赤熱した炭が近くにあるような熱気が、じりじりと強まってくるのを実感した。

 

 やがて、彼が現れた。

 まるで水の底から浮かんできたみたいに、灰の中から姿を現して。

 だが。

 

「!? ウソ、なんで燃えて……!?」

 

 焚火が笑うような、弾ける火花の音がした。

 けれど()べられているのは薪じゃない。ヴィクター自身だ。

 全身を悪魔の舌のように揺れる炎に覆われ、ばちばちとドス黒く炭化しつつあるヴィクターだった。

 

「『水よ(アックア)』!」

 

 間髪入れず水魔法を発動、ヴィクターを丸呑みするほどの巨大な水球を叩きつけるように被せた。

 が、一瞬にして水球がボコボコと泡立ち、凄まじい熱を孕んだ蒸気雲となって消えてしまう。

 

「無駄だ。そいつは消えねえよ」

 

 すぐさま次の水球を作ろうと魔力を練るシャーロットを、()()()()()は首を鳴らしながら制止した。

 

「それは(そいつ)に宿る闘志そのもの。決して尽きることのない無窮の焔だ。例え叡聖の極水魔法でも絶対に消すことは出来ない」

「そんなっ……! このままじゃ魂が燃え尽きてしまう! どうすれば……!」

「言っておくが頼るなよ。俺も消し方は知らねえ。まぁ案外目覚めのキスでもすりゃ消えるんじゃねーの? なんてな」

「──いや、それ良い線行ってるかもしれない」

 

 ここが深層心理で象られた世界なら、この炎はヴィクターの無意識が表出した現象だ。

 ならば彼の意識さえ取り戻せば、無意識の炎を止めることが出来るかもしれない。

 何かしらの刺激を与えて意識を浮上させる。ある種のショック療法だ。試す価値は十分ある。

 ただし、キスなんてロマンチックなものじゃないけれど。

 

「ッ!? おい、何をしているシャーロット!?」

 

 シャーロットは燃える少年を躊躇なく抱き上げた。

 恐ろしい爆熱が嘲笑う渦中へ、自らを薪として()べんとするかのように。

 

「づ、ゥ、ううううう……!!」

「正気か!? お前まで燃えちまうぞ! 今すぐ手を離せ!!」

「あなたもさ、彼の一部なのよね……!? だったら多少は自我を共有してるんじゃない? あなたを通してこれをみせれば、私が来てること、無意識下にも伝わるんじゃないかなっ!!」

「馬鹿が……!!」

 

 毒づく()()()()()に反比例して、空気を焦がすほどの灼熱が鳴りを潜めていくのを実感した。

 火が弱まっている。火種を食いつくした炎のように、だんだんとその大きさを萎ませている。

 やがて彼を覆っていた悪魔の炎は、焼け残った炭にしがみつく小さな種火のように弱体化して。

 炭化した瞼が、少しずつ開き始めた。

 

「! ヴィッ──」

 

 刹那、シャーロットの背に蜘蛛が這うような悪寒が襲った。

 

 完全に反射だった。頬が喜びに持ち上がるよりも早く、脊髄が叱責するまま首を傾けると、元あった場所を豪速の物体が通り過ぎたのだ。

 それが拳だと気付くまでに、数秒をも必要とした。

 

「ハァ……ハッ……幻覚……幻覚がッ……!」

 

 ──白紙化された思考回路が、眼球の解像度を著しく引き下げていく。

 

「今さらッ、シャロの幻ごときで、惑わされると思ってんのか……!!」

 

 白く濁った(まなこ)を血走らせ、掠れた声を血糊と共に吐き出して。

 炭になりゆく体を鞭打ち、錆びついた鎧のように無理やり動かしながら、凍えるほど透き通った殺気の槍を突き付けてくるヴィクターは。

 少女の知る人物像とは、あまりにかけ離れた修羅の形相で。

 

 正気じゃない。完全に我を忘れている

 認め難い現実の汚泥が、頭蓋の裏にへばりつくような不快感となってシャーロットに襲いかかった

 

「消えろ幻、ガフッ、ぁ、ぶっ飛ばしてや、る……!!」

「待ってヴィック! 私よ、本物のシャーロット! 博士の力でアンタを助けに来たの!」

「消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろォおおおおおおッ!!」

 

 炎が再び息を吹き返した。

 広がっていく。広がっていく。

 彼の闘志が醒めゆくほど、自らの魂すら焼き滅ぼしかねない爆熱の大渦が、おぞましい目覚めを告げて蘇る。

 

「■■■■■■■■ッ────────!!」

 

 喉を引き千切らんばかりの雄叫びは、もはや人の声ではなかった。

 一心不乱に己の敵すべてを撃滅せんとする、身の毛がよだつほどの闘志の顕れ。

 まさしく、無窮の焔が如き永遠の紅蓮がそこにあった。

 

「気味悪いだろ。それがこいつの本質だよ」

 

 顔の無い男が嘲笑と共に囁いた。

 

「どこまで行っても戦うことを止められない、何度繰り返したって炎は消えない。自分の命より大事だとのたまう女に躊躇なく拳を振るえるイカレ野郎だ。心に(きず)もなけりゃ思い出もない、お前にすら()()を感じない薄情者だ。この真っ白な灰の世界が奴の正体だ。……救う価値なんかあるのかよ、シャーロット」

 

 襲い来る鉄拳の嵐にあっても、()()()()()の言葉だけは酷く大きく耳の中に滑り込んだ。

 

 確かに、正しいと信じるもののために戦う信念の男の姿はどこにもない。

 闘争の悪魔が卑しく歯を剝くような狂気だけが、白妙の世界を焼きつくさんとしているのみだ。

 

(……ヴィック)

 

 だがしかし、変わり果てた彼を前に恐怖など皆無だった。

 嫌悪も、拒絶もない。ましてや失望なんてあるものか。

 シャーロットが胸に抱くのは憂いだけだ。こんなにボロボロになってしまったヴィクターの姿が、慨嘆の茨に絡みつかれたように心が痛ませるのだ。

 

 だって、彼が自らを焼くほどの闘争心に呑まれたようには見えなかったから。

 構えもくそもない滅茶苦茶な動きで拳を振り回して、必死に脅威を退けようと足搔く姿は。

 まるで身を守ろうと怯える、子供のソレに映るのだ。

 

「大丈夫だよ」

 

 拳の縫い目を潜るように懐へ飛び込んだ。

 そのまま静かに、腕を回して抱き止める。

 灰も、炎も、全てを受け入れんとするように。

 

「大丈夫、大丈夫、怖くないわ。落ち着いて、深呼吸して」

「■■■■■……ッッ!!」

「……ダモレークで星を見た日のこと、覚えてる?」

 

 シャーロットの首を圧し折らんと伸びた手が、石膏に囚われたように動きを止めた。

 

「あの時もさ、こんな風に、ぎゅってしてくれたわよね」

「────」

「お蔭でとっても安心したんだよ。……あなたも、そうだったら良いな」

 

 ヴィクターは動かない。

 魔物のような雄叫びも、煮えたつような殺気も、水をかけられた篝火のように杜絶(とぜつ)した。

 無音の世界で、二つの心音だけが交わっていく。

 

「私の声、聞こえてるんでしょう?」

 

 反応は無い。

 けれど、抵抗も無い。

 

「聞いて、ヴィック。あなたを助けたい。あなたを苦しめてるものが何なのか知りたいの。教えてよ、裸の心。きっと力になれるから」

「……………………」

 

 ──腕が下がっていく。

 蛇の口のように開いていた手のひらは萎み、灼熱が消えて、ヴィクターを蝕んでいた炎たちが途端に活力を失って息絶えた。

 不思議とシャーロットの火傷も引いていく。立ち昇る炎の白煙(なごり)が、二人の蜃気楼を連れ去ったかのように。

 

「……………………シャ、ロ?」

「っ! そう、私! シャーロット! 私が分かる?」

「……本物、なんだな」

 

 行き場を失くしたヴィクターの手が、今にも折れそうな枯れ枝のように揺れた。

 シャーロットの肩に触れようとして、微かな震えがそれを拒んで、意を決したように少女を引き離すと、彼はそのまま背を向けてしまう。

 合わせる顔が無い──燃え尽きた灰混じりの真っ黒な背が、声に代わって物語る。

 

「あいつは?」

 

 絞り出したような問いだった。

 きっと顔の無いヴィクターのことだろう。いつの間に姿を消したのか、影も形も見当たらない。

 

「見たか。あいつを」

 

 尻目にシャーロットを見やりながら、彼は恐る恐る訊ねてきた。

 まるで蚊の鳴き声だ。床に伏した老人のように掠れて弱った小さな声だった。けれど内包されている圧迫感に空気がひりつくのを実感した。

 

 絶対に知られたくない秘密の露見を怖れているような、彼の胸の内が伝わってくる。

 シャーロットは戸惑ったが、嘘は吐けなかった。それを望んではいないと解っていたから、こくりと首肯することしか出来なかった。

 

 頷く少女から視線を外し、ヴィクターは上を仰ぐ。

 

「……シャロだけには、見られたくなかったな」

 

 風化した岩が崩れたような音がした。

 炭も同然なヴィクターの右足に亀裂が走って、真っ二つに砕けた音だった。

 

「ヴィッ────」

「来るな!!」

 

 灰の絨毯へ倒れた彼に駆け寄ろうとして、拒絶が壁のように足を縫い止めた。

 

「頼むから、来ないでくれ。頼む」

「っ……!」

「俺はどうやら、イカれてるらしい。こんな状況なのに、胸の一番奥のところが痛いくらい冷たいんだ。お前は本物じゃない、幻だ、倒せ、倒せって囁いてくる。きっと傷つけちまう。傷つけたくない」

 

 がらがらと、がらがらと、彼の体から絶えず小さな欠片が剥がれていく。

 灰の世界を乾いた煤が汚す。けれど煤はすぐに白の中に溶けて飲まれて消えていく。

 やがてヴィクターの全てが真っ白に焼け落ちていきそうな、崩れる心の慟哭がそこにあった。

 

「っ、あっ、けど大丈夫! すぐ治るよ! きっとこの世界も抜け出せるさ。シャロが来てくれたんだからな、百人力だ。落ち着けば、大丈夫だから」

 

 なのに、苦しいはずの彼は笑った。

 魂が爛れて、今にも焼滅しかねないくらいボロボロの心で、見たことないくらい青い笑顔を貼り付けて。

 それでも彼は、シャーロットを安心させようと笑っていた。

 

(なんで、アンタは)

 

 そんなバレバレの嘘で出来た蝋で、自分を人形に変えているんだ。

 

「──っ」

 

 不愉快だ。

 どうしようもなく。これ以上にないくらい腹が立つ。

 

 拒絶されたことに対してじゃない。腹の底から頭に来るのは、こんな時でさえ頼ってもらえない己の不甲斐なさだ。

 お前には彼の苦しみを払うに値しないのだと悪魔に囁かれるようで、悔しくて悔しくて仕方がない。

 

 ヴィクターにとって、きっとシャーロットはまだ守るべき存在なのだ。 

 だから強がる。身を八つ裂きにする苦痛も誤魔化して微笑む。

 弱音を吐いている所を見たことが無いのは何よりの証拠だ。

 

 

 今のシャーロットは、彼と対等ではない。

 

 

 鼻の奥がつんと沁みる。

 胸に詰められた慙愧の綿が、火を着けられたみたいに目頭を燃やした。

 けれど。

 

(──いじけてる場合か。辛いのは彼のほうでしょうが)

 

 ぱちんと頬に喝を入れる。覚悟と共に唇を結ぶ。

 尻込みする暇なんてあるのか。大切な人が苦しんでいるってのに、自分の無力さにかまけている場合か。

 ふざけるな。アーヴェントの女が、そこで終わってなるものか。

 

 

「悪かったな、心配かけて。もう平気だ。けど少しだけ……そっとしててくれると助かる」

「……あの時アンタが言ってた言葉の意味、今やっとわかった気がするわ」

「え?」

「却下よ却下! そっとしてなんかやらない。あなたがどん底に沈んでいく姿を黙って見てるだけなんて無理。嫌だって言っても放っておかないから」

 

 いつだって鮮明に思い出せる。

 冥暗の瀬にいたシャーロットの心を引っ張り上げてくれた光の時間は、一生忘れない輝くような記憶だから。

 

 身も心も絶望に貪られ、妹もろとも全てを終わらせようとした少女は、一度ヴィクターの手を払い除けたことがあった。

 けれど、彼はその拒絶すら吹っ飛ばして言ったのだ。「逆の立場だったらどうする」のだと。

 力強く少女の手を握って、明るくて暖かい世界に連れ出してくれて、膿んだ人生に希望をくれた。

 

 シャーロットは今、『逆の立場』に立っている。   

 ならば今こそ、この場で証明してみせよう。

 あの時の貴方は、世界の誰よりも正しかったということを。

 

「傷つけるのが怖いなんて、私に勝ち越してから言いなさいよね。この私を誰だと思ってるの?」

「っ、シャロ……!」

 

 力を失くしたゴーレムのように座り込んでしまったヴィクターを、少女はもう一度、背中から包み込むように抱擁した。

 

「私を頼ってよ。苦しいなら助けてって言っていいんだよ。それを教えてくれたのはあなたでしょ。……独りで抱え込むな、ばか」

 

 今度は絶対に離させない。

 回した腕にぎゅっと力を込める。苦しいとヴィクターが呻いたが、知らないと肩に顔を埋めた。

 

「──離してくれ」

「やだ」

「離せッ……!」

「やだよ」

「離せよっ! こんな姿、お前にだけは見られたくない……!」

 

 呻くような懇願で、怯える子供のように揺れる瞳で、けれど振り絞られたのは拒絶の意志で。

 それでも良かった。だってこれは、なんの噓偽りもない裸の心だったから。

 

 シャーロットは沈黙のまま、清も濁も包み込むべく背中に体温を預けた。

 彼の氷を溶かすためには、きっと一番の方法だと直感した。

 

「大丈夫、全部受け止めてあげる。何があったって見捨てたりなんかしない。頼ってよ。信じて貰えないことの方が、身を切られるみたいに辛いんだよ」

 

 炭の手が、お腹に回して結んだ指を解こうとしてくる。

 全然力が入っていない。ヴィクターよりずっと細い指を、力づくでも動かせていない。

 きっともう、解く気なんてさらさら無かったのだと思う。

 

 いつしか拒絶を示す少年の指は、縋るように少女の手と重なっていた。

 

「……俺には、記憶が無い」

 

 ──ぽつり。

 

「名前も、親の顔も、兄弟がいたのかもわからない。どうして島の泉で溺れていたのかも知らない。シャロに助けられたあの日からしか、俺は存在してないんだ。俺は空っぽの人間だ」

 

 ──ぽつりと。

 

「シャロも一度は思ったことがあるはずだ。俺は普通じゃない。記憶が無いってのに、俺は最初から戦える人間だった。命の奪い合いになるとすげえ頭が冴えてさ、怖いとか怯えみたいな気持ちがさっぱり消えるんだよ。どんどん、どんどん心が冷えて、最後に残るのは如何に相手をぶっ倒すか。根っこからイカれてるんだよ」

 

 ──雨粒のような、胸懐の落屑。

 

「昔の俺のことを考えるのが怖くなった。もし天蓋領の刺客だったら? もっと別の敵対関係にある勢力だったら? もし、もし記憶が戻って、シャーロットを裏切ることになったら……俺は……!!」

 

 震えて、縮こまって、罪を告白する咎人のように彼は言う。

 澱み、歪んで、脱することも叶わない心淵の牢獄へと、自らを投じるかのごとく。

 

「あいつが、もう一人の俺が言ったんだ。お前には執着が無い、誰も大切になんか思っていないって。この白い世界がその証拠だって。()()()()()()()()。ただのひとつも、まともに反論できなかったんだ。……こんなの、裏切りを認めてンのと同じだろ」

「裏切ってなんかいないよ」

 

 魂魄に注ぐ澱みの雨から守るように、シャーロットは言の葉の傘を差し伸べた。

 十分だ。ヴィクターを苦しめるものの正体はよく分かった。

 

 それはかつて少女を蝕んでいたものと同じ。傾き切った思考の天秤から漏れ出した汚穢が、慙愧の毒となって心身を蝕む自家中毒。己の欠陥を呪う病である。

 

「吞まれちゃダメ。今のあなたは星の刻印のせいで、心の負の部分が増幅されちゃってるだけ。気を確かにもって」

「……あれは俺の本心の具現化だ。俺自身が目を背けてた問題なんだ。これは刻印のせいなんかじゃない」

「ううん違う、違うよ。ね、聞いてヴィック。アレは作られた負い目なの。自分を否定するために作られたまやかしの答え。既に出してしまった答えを覆すなんて出来ないでしょう?」

 

 ──もう一人の()()()()()は、常に『本体』を蔑み、自己の不甲斐なさを忌み嫌うカウンター的存在だった。言うなれば受肉した『負の結論』だ。

 持論に持ち主が異を唱えるなんて、土台無理な話であろうに。

 

 ゆえにこそ、シャーロットに出来ることもある。

 濁りきった固定観念にメスを入れられるのは、外側に立つ第三者の特権だから。

 

「だから、私があなたの答えになる。あなたは冷たくなんかない。大切な誰かを傷つけることだって絶対にない。アーヴェントの血にかけて、絶対を誓ってあげるから」

「っ……シャロ」

「だっておかしいじゃん。ヴィックはさ、一度でも()()()()()()()()の? 違うでしょ?」

 

 これはいわば捉え方の問題だ。

 今のヴィクターは自らの曖昧な記憶、自己の不完全さというコンプレックスが全てをマイナスに引きずり降ろしている状態にある。ゆえに全てが醜悪に映る鏡となる。

 

 しかしだ。彼が本当に狂った人間ならば、凍った心の冷血漢ならば、はたして命を賭けてまで誰かを救うことなど出来ただろうか。

 英雄の所業を、根底から歯車を失くした人間が成し遂げられるとでも? 

 

 否。否だ。それだけは違う。絶対に違う。

 彼に救われた少女だからこそ、その勇姿に心を焦がれた身空だからこそ、魂に誓って断言できる。

 

「狂ってなんかいないよ。他人(ひと)の悲しみに迷わず手を差し伸べられる、立派な強さを持った人なんだよ。そうじゃなきゃ、あなたを慕う皆はどうなるの?」

「……買いかぶり過ぎだ。俺はただ、シャロを真似してただけだ。見ず知らずの男を救ってくれたお前の優しさに、報いたかっただけなんだよ」

「人を作るのは思想じゃなくて行動。……これお母様の受け売りなんだけど、良い言葉でしょ」

 

 そも、行動原理の由来とは誰にでもあるものだ。シャーロットの持つ高潔さだって、父母の面影があってこそである。

 心の一部を受け継ぐことはごく当たり前の過程に過ぎない。だからこそ、人間の価値とは何を考えたかではなく、何を成したかによって決まるとシャーロットは思うのだ。

 

 例えどんな悪人だと揶揄された人でも、救われた側からすれば英雄だ。

 ならば、沢山の悲劇を打ち破ってきたヴィクターは、

 

「きっかけは私でも、みんなを助けるために動いたのはあなた。一歩を踏み出したのは間違いなくあなたの意思。あなた自身の決意。大事なのはそこなのよ」

 

 勇気を振り絞るのは並大抵のことではない。ましてや危険を伴うと来れば、二の足を踏むなんて当然のことだ。

 けれど彼が、人の涙を拭い、苦しみを晴らす決意を曇らせたことが一度でもあっただろうか。そんな人間が、冷酷だなんてどうして宣えるというのか。

 

 記憶を失っても残る戦いの極意が狂気の源泉? 違う。過去の全てを失っても、誰かのために命を燃やせる義気の人だから戦えたのだ。

 誰かの幸せを願うために走る背中も、誰かの不幸を払うために足掻く姿も、そこにあったのは眩しいくらい真っ直ぐな善性の輝きに他ならない。

 

 

「この白い空間もそう。虚ろな心象世界でもなんでもない。だって透明じゃないんだもの」

「……!」

「むしろ綺麗でびっくりしたのよ? 人の酷い部分をたくさん見てきたはずなのにさ、歪みも澱みも無いなんて。どこまでも純真で真っ白な心だから、直向(ひたむ)きなあなただから、きっとこんなに綺麗なんだって思うな」

 

 シャーロットには分かる。ヴィクターはきっと、記憶を失くす前から勇気の焔を宿した人間だった。

 誰よりも思いやりに溢れた人だから、自らの過去が凶器となる可能性を拒絶せずにはいられない。誰よりも仲間思いだから、想えない冷感を憎らしく蔑んでしまう。

 

 心を壊す自縄自縛の正体が妬み嫉みどころか、ましてや憎しみですらない『優しさ』だなんて、こんなに素敵な心が他にあるのか。

 きっとそれは、愚直なまでに人と向き合おうとする真摯さの裏返しなんだと少女は思う。

 

「ねぇヴィック。私、決めた。今決めた」

「……何を」

「私があなたの記憶になる。例えあなたの記憶が上書きされたって、何度でも思い出させてあげられるように」

 

 ──錆びついていた少年の瞼が、油を差されたみたいに広がった。

 

「あなたの全部を覚えるよ。楽しいことも、辛いことも、一緒に覚えていこ。空っぽなんかじゃないって、私が証明してあげるから」

「──」

「ふふ、何だか変な話だけどさ、今ちょっぴり嬉しいのよね。あなたを守れるかもって思うと、やっと対等になれた気がして」

「対……等?」

「そうよ。ずっと守られてばかりだったもん。だからかな、支えてあげられるのが嬉しいの。もっと頼ってくれていいんだからね? ……言ったでしょ。全部受け止めてあげるって」

「っ……!!」

 

 

 ぱきん、と。薄氷が割れるような音がした。

 白い世界に亀裂が駆けた。雲に差す陽のような光を浴びた。

 黒く燃え尽きた少年の肌が、時を巻き戻すように蘇っていく。

 

「……ずっと隣には立てないと思ってた。俺は空っぽの男だから。けど、そんなの思い上がりでしかなかったんだな」

 

 首に回す腕に、そっと手を重ねられて。

 

「ありがとよ。もう大丈夫だ。俺は二度と、『ヴィクター』であることを迷わない」

 

 目元の雫を拭いながら、ヴィクターはゆっくりと振り返った。

 その表情に雲影などあろうはずもない。

 日輪すら霞むほどの、いつもの笑みがそこにあった。

 

 

 

「ほんと、シャロには敵わねえなぁ。世界で一番カッコいいよ。……ああ、うん。今度こそ惚れた。やっぱり好きだ。俺は、お前のことが本気で好きだ。シャーロット」

「…………………………………………ふぇっ?」

「二度は言わねぇ」

「ちょ、待っ、いっ、今のどういう意味──」

 

 

 ──光が、白を包み込んで消える。

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