銘無しの贄の英雄譚   作:河蛸

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53「今までも、これからも、ずっと」

「怪我の具合はいかがですか?」

「絶好調さ。痛みも引いてほらこのとおり痛ててて、あいや、これはただの四十肩で、本当に怪我は大丈夫なんだ。君のお陰だよ、セレナ君」

「まったく。まさか先生を患者として迎える日が来るとは思いませんでしたよ。一体何があったんです?」

「いやぁ……恥ずかしながら酔ってトラブルに」

「何をやってるんですか、いい歳してみっともない。ボロ雑巾みたいな先生が搬送されてきた時の私の気持ちが分かります? 二度としないでくださいね」

「返す言葉もないよ……」

 

 濁すように苦笑を浮かべ、イシェルは気まずさを誤魔化すべく頬を搔いた。

 

 言えるわけがない。まさか自分が医者の皮を被った人殺しで、それを止めに来た少年と小競り合いになっただなんて。

 ましてやもう一人の殺人鬼まで現れていざこざに巻き込まれたなど、どう説明ができようか。

 

 しかし、セレナは確かな腕と目を持つ医者だ。傷の数々がどんな理由で負ったものか、おおよその予測はついているに違いない。

 口ごもるイシェルに追い打ちをかけようとしないのは、事情を察してのことなのだろう。

 

「この具合だと明日には退院できそうかな?」

「そうですね、問題ないかと。必要でしたら手続きしておきましょうか?」

「助かるよ。……ところで、話は変わるんだけどさ」

「?」

「実は、その」

 

 一拍。しどろもどろと、声が澱んで。

 

「辞めようと思ってるんだよね。今の仕事」

「…………え」

 

 セレナの大きな瞳が、さらに大きくなった気がした。

 いつも冷静な彼女が初めて見せる表情だった。あまりの瞠目ぶりにいたたまれないような、申し訳ないような、なんとも言いがたい居心地の悪さが芽生えてくる。

 

「……そう、ですか。寂しいですね」

「追求しないんだね」

「ご自身が決められたことですから。私に口を挟む権利などありません」

「ははは、流石だ。相変わらず若いのにしっかりしてるよ」

「知ってますもの。先生が間違った決断をしないことくらい」

 

 心臓を小突かれたような感覚。

 間違った決断をしない──なんて。今の自分が被るには、なんと重い言葉だろうか。

 

「……君、前々から私のことを買い被りすぎじゃない? そんな大した人間じゃないよ。間違えるさ、嫌気がさすくらいだ」

「そういう意味ではありませんよ。ただあの日、自分の力を絶対と疑わなかった小娘の、取り返しのつかない過ちを正してくださったのは他でもない先生でした。一歩間違えれば患者さんの命を奪っていた。許されないことです」

 

 言葉の背景に映るのは、過剰魔力心融症(心臓が溶ける病)を患った鬼人(オーガ)の女性のカルテだろうか。

 

 当時、セレナは今ほど柔らかな人物ではなかった。

 名門首席にして代々医者の血統。その類稀な才能と知識、そして膨大な努力に裏打ちされた実力は、能力と相応の完璧主義に塗り固められた孤高の天才であった。

 

 それはもう優秀だった。医者の原石にして金剛と太鼓判を押せたほどだ。

 当時研修生であったにも関わらず、あまりの才覚にベテラン同等の扱いを認められ、戦場のような医療の最前線で獅子奮迅の働きを見せていたと言えば、この若き彗星の凄まじさを一端くらいは理解できるというものだろう。

 

 しかしゆえにこそ、イシェルにしてみても、あのミスは仕方のないことだったと断じられる。

 

「経験則ばかりはどうしようもないさ。あの患者が神経遮断術式に潜性型悪性高熱を起こすなんて予測できるわけがない。稀有な特異体質だし、診断も難しい。無理もないよ」

「もう、先生は前々から謙遜が過ぎます。これだけじゃないんですからね」

 

 口先を尖らせてむくれるセレナ。

 どう返したらいいのか分からなくて、乾いた笑みだけが頬を(かたど)る。

 

 するとどういう訳か、セレナの目の色がくるりと変わった。

 怪訝の色だ。まるで核心を目前にした探偵のように、鋭い色を帯びていた。

 

「…………先生、何か無理をしていませんか?」

「うん? そんなことないよ。どうして?」

「なんとなくいつもより……いえ、最近ずっと疲れている気がして。今日は特に辛そうで」

「そりゃあ怪我人だからねぇ。もう若くないし、体力がないんだよ」

「……ご家族のことと、何か関係があるんですか?」

 

 ずきり。

 相変わらず勘のいい子だなと、イシェルは跳ねた心臓を悟られないよう無難な笑みを貼り付けていく。

 

 しかし逆効果だったかもしれない。さらに目つきが鋭くなった。

 耐えられなくて、思わず窓の外へと顔を向ける。

 

「ごめんなさい、踏み込み過ぎました」

「いいんだ。それより仕事なんだけど、私の引き継ぎを君に頼みたいんだが。良いかな?」

「え。私ですか?」

「君しかいないよ。直属で一番能力があるのは間違いなく君だ、セレナ君。大変かもしれないけど、お願いしたいんだ。頼まれてくれるかい?」

「──ええ、もちろん、もちろんです。決して期待は裏切りません」

「あー重い重い。もうちょっと肩の力を抜くことを覚えようね。いつか潰れちゃうよ?」

「大丈夫です。重力魔法は得意ですから」

「そうじゃなくてねぇ……」

「冗談です」

 

 くすくすと、セレナはカルテで口元を隠しながら微笑んだ。

 初めて冗談を言っているところを見た気がする。成長したなぁと感慨深くなってしみじみ。

 

 エースとはいえ、彼女はまだ若い。正直この判断は早急に過ぎるのではないかと思っていたけれど、不思議と不安な気持ちは湧かなかった。

 きっとこれから多くの人々を癒し、治して、救っていく立派な医者になる。まるで未来が視えるかのような確信があった。

 

 この身はもう、誰かを救うことは出来ないけれど。資格はとうに失くしたけれど。

 彼女たち若人が担う時代は、今よりきっと明るくて素敵だ。それが分かるだけで十分だった。

 

「後は任せたよ、セレナ君」

「任せてください、イシェル先生。…………今まで、お世話になりました」

 

 深く、深く、彼女は粛々と頭を下げた。

 幽かに潤む瞳を悟られまいとするかのような一礼。足早に踵を返したセレナは、病室を後にする最後まで、イシェルに表情を見せることはなかった。

 

「……まだ引き継ぎのために数日は出勤するんだけどなぁ」

 

 なんだか今生の別れみたいになってしまった。あとで顔を合わせる時の気まずさを前借りして、イシェルは小さく頬を搔く。

 

 けれど、ある意味ではこれが最後の会合になるかもしれない。

 イシェルは罪を犯した。人を救うべき立場にありながら、三人の命を奪ってしまった。

 

 悪業には、相応しき報いというものがある。

 

 

 ◆

 

 

「無罪放免…………って」

「言葉通りの意味ですとも、マッコールさん。騎士団(われわれ)はあなたを拘束しないし、罰しない。司法議会はそう判断を下しました。もう帰宅してくださって結構ですよ」

「ちょ、ちょっと待ってください! それではあまりにっ!」

 

 椅子を蹴とばすように立ちあがって、イシェルは書類を淡々とめくる壮年の騎士団員に息を荒げた。

 

 

 ──退院を経たイシェルが真っ先に向かったのは、騎士団の詰所だった。

 自らの罪を贖うためだ。証拠を揃え、一連の事件と己の業に終止符を打つべく足を運んだ。

 

 拘留されること数日。帰ってきたのは無罪という漂白剤のような二文字だけ。

 どころか保護観察処分など、理解の範疇を超えた展開に脳のしわが引き伸ばされるように混乱した。

 

「納得がいきません! 私は、私は間違いなく三人もの命を奪ったんです! 証拠だって十分に──」

「入院中、()()を行ったでしょう? 貴方には強力な精神操作が施されていた。精神に干渉する魔法はすべて禁術指定に定められています。理由はご存知ですよね?」

「っ……しかし……!」

 

 彼の言う通りではある。精神干渉系の魔法は全て、非常に厳格な条件下でなければ使用を禁じられている魔法──禁術指定にあたるのだ。

 

 本来ならば抱かないはずの強烈な欲求や感情を引き起こし、外部から意図的に思考を捻じ曲げることを可能とするそれらは、悪用すればいとも容易く争いを誘発させうる危険極まりない魔法だ。

 

 その昔、強力な精神魔法の使い手だったある王族が、兵士を恐怖も罪悪感も感じない無敵の軍団に仕立て上げ、戦争を頻発し多くの血を流させたという忌まわしい歴史も存在する。

 

 事実、イシェルはアマルガムの能力によって重度の精神汚染を受けていた。

 家族を奪われた惨劇をトリガーに、悪に対する異常なまでの復讐心と憎悪に囚われ、悪人を殺害することで世を正すという妄執に憑りつかれてしまった。それが事の発端なのだ。

 

 禁術指定の被害にあった人間はまず査定が施される。術者と協力関係にないか。故意的ではないか。普段の素行は──事実関係を洗い流され、有害性の有無を徹底的に調査される。

 

 しかし当然ながら、イシェルはアマルガムと共謀関係にあるわけもなく。ましてや、反社会的活動に従事していたわけでもない。

 となれば、騎士団が剣を抜かないのは確かに筋が通っている。

 

「貴方に必要なのは我々ではなく病院だ。精神操作の被害者は心療福祉(メディカルケアサービス)の対象になる。まずは心の傷を癒すべく、治療に専念することをお勧めしますよ。貴方の場合は通院義務が発生しますので、しかるべき施設で診察を受けてください」

「バカなっ……! 多くの命を奪ってしまったんだ、報いを受けるのが当然だろう! なのにお咎めなしだなんて……!!」

「それが精神操作の恐ろしいところなのですよ。被害者は操られている間の記憶を失うわけじゃない。望まぬ形で汚された手に、良心の呵責で延々と苦しむことになる。ゆえに、この世で最も残酷な魔法なんだ」

 

 男は机の下から一枚の紙を引き出してきた。

 紹介状と書かれてある。騎士団と提携している心療科への案内だ。

 

「マッコールさん。いや、()()。貴方に救われた人々はこの街にゃ大勢いる。かくいう私の父もその一人でね」

「……っ」

「誰もが認める偉大な医者だ。手を汚させられた心の傷は計り知れない。ご家族のこともある。想像を絶する苦痛だろう。だからこそ、まずは治療が必要なんだ。今の貴方は医者じゃない。ましてや囚人でもない。患者なんだよ」

「私が……患者?」

「そう。病を治すべき患者だ。今はゆっくり時間をかけて、休むことが仕事なんだ。体の傷はすぐに治るが、心はそうはいかないんだから」

 

 違う、私は人殺しだ──反論しようとして、けれど放つべき言葉が堰き止められた水みたいに出て来なくて。

 詰まった声を吐きだそうとすればするほど、唇は赤子のごとく震えるのみ。

 イシェルは行き場を失った胸の内を圧縮するように、机の上に両手を重ねて握り固めた。

 

「それにしても、件のアマルガムと名乗る男……ヴィゴス商会の跡取りだというが、魔力因子も遺伝子も一致しなかったそうだ。どころか戸籍も名前もまるでデタラメ。出自不明の連続殺人鬼(シリアルキラー)ときた。大方、何百何千もの魂と繋がり続けた影響で自我の境界線を失ったんだろう。この世の話とは思えないね」

「……」

「だからさ、そんな奴に負けちゃダメだぜ、マッコールさん。貴方の力を必要としている人間は数え切れないほどいる。貴方は明日を夢見る人々にとっての希望なんだ。辛いだろうが、どうか頑張ってほしい。私に言えることはそれだけだ」

「…………もったいない言葉だよ。本当に」

 

 鉛のような吐息。

 

(重すぎる。重すぎる言葉だ。今の私には、もう)

 

 誰かの人生を治す資格なんて、どこにもありはしないというのに。

 

 

 

 ◆

 

 

「……ただいま」

 

 ノブを捻るだけで軋むドアが、今ばかりはおかえりと返してくれているかのようだった。

 

 古い借家だ。ほとんどダイニングひとつの間取りで、風呂と御手洗が一緒になっているうえに、キッチンは反自炊派がふざけて設計したのかと疑うほど狭い。

 

 私物と呼べるものも、ベッドひとつに仕事用の服が何着か。信じられないほど小さな自動氷室(れいぞうこ)の中身は空っぽだ。

 

「帰ってくるのも久しぶりだな。当然か」

 

 なにせ、元の家は死臭がこびりついて住めなくなった。ひとまず借りただけの家だ。

 ほとんど宿直室で暮らしていた身からすれば、ごくたまに眠りに帰ってくる程度の使い道で、住人と名乗ることすら憚られる我が家と言えよう。

 

 中もご覧の有様だ。うっすら埃の層が床を覆っている。足跡がつかないだけマシな方か。

 

「ふぅ」

 

 カバンをベッドへ放り、どっかりと腰を下ろす。

 このまま横になりたくなるが、眠ると起きられなくなりそうだった。

 

「…………」

 

 これからどうしようか。

 仕事は辞めた。出戻りをする気もない。

 かといって、別の病院で働く気力もない。

 血に染まった手で人の命を扱おうなど、傲慢不遜も甚だしい。

 

「囚人になった方が、どれだけ楽だったか」

 

 牢獄で罪を償うつもりだったのに、まさか贖罪の機会すら奪われるとは。

 あの殺人鬼は大した奴だと、鼻で笑ってやりたくなる。

 

 

 ──コンコンコン。

 

 

「?」

 

 規則正しく、三度。玄関を叩く音がした。

 気のせいじゃない。また鳴った。安い家だから隣の音が響いたのかと思ったが、間違いなくイシェルの家を訪ねてきている。

 

 この家を知る者は少ない。

 仕事の同僚も前の家しか知らないはずだ。宅配だって頼んだ覚えはない。

 

 ぴりりとした警戒心が喉を鳴らし、唾を押し流した。

 先のこともある。アマルガムが裏社会に浸かった怪物である以上、仲間が報復のために訪れてきた可能性だって考えられるか。

 

(いや、奇襲ならわざわざノックなんかしないよな。誰だ?)

 

 手のひらに『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』の魔方陣を忍ばせ、背に隠し、ゆっくりと玄関に近付いていく。

 

「はい。マッコールですが」

『先生、俺です! ヴィクターっス!』

「……ヴィクター君?」

 

 ドアを開けると、見知った少年が爽やかな笑みを浮かべて立っていた。

 彼だけではない。覗き窓からは見えなかったが、知らない少女が同伴している。

 

 背のあるヴィクターと比較するせいか小柄に見えるが、およそ十代後半だろう。

 古い魔女を彷彿させるゆったりしたローブと貴族風紳士服(スーツ)を組み合わせた珍しい格好をしているが、間違いなく女の子だった。

 

 水色の髪を一束に纏めてポニーテールにしてある。ところどころ満月色のインナーカラーが入っているが、最近の子の流行りだろうか。

 瑠璃珠のような瞳は竜人を思わせる縦長の瞳孔で、何故か片眼鏡(モノクル)をかけていた。

 魔女っぽいとんがり帽を被っているし、なんだか風変わりな貴族、あるいは古い時代の魔女のコスプレみたいだ。

 

「紹介します。彼女は──」

「やぁやぁ初めまして。ボクは()()。彼の保護者だ。君の話は聞いてるよ、なんでも腕利きのお医者さんだとか。お会いできて光栄だ」

「はぁ。これはどうもご丁寧に」

 

 手を奪われるように握られ、ブンブン元気に握手を交わさせられる。

 珍妙奇天烈な雰囲気に吞まれていると、一転、オズと名乗った少女は恐る恐るといった具合にイシェルを覗き込んで、

 

「ところで、初対面でなんだけど……ボクの髪、金髪かな?」

「え。いや、水色に見えますが」

「んなぁーっ! もう! もうもう! いつになったら憧れのプラチナブロンドを手に入れられるんだよぉーっ!」

「だーからさっき違うって言ったじゃないスかー」

「諦められないものがあるんだ……! 鏡を見るまではまだ決まったわけじゃない! うぅ……」

「な、なんだかよくわからないけど、素敵な髪だと思いますよ……?」

「ありがとう。優しいんだね」

 

 えぐえぐ涙を拭う少女。悪い子ではなさそうだが、変な子ではありそうだ。

 

 というか、待て。さっき保護者と言ったか。

 歳はヴィクターとほぼ変わらないように見えるが、なんなら幼くすら見えるのだが。長命人種だろうか? 

 少なくとも、身体的特徴はイシェルの知るどの種族とも合致しないものだった。

 

 謎に髪色を悔しがる少女のせいで呆気にとられてしまったが、気を取り直して向き直る。

 

「一体何の用だい? というか、どうしてここが」

「調べたのさ。得意分野でね。要件はもちろん、君だよ。イシェル・マッコール君」

「えーと、単刀直入に言うと、先生を勧誘(スカウト)に来たんですよ」

「…………なに?」

 

 勧誘。確かにそう言った。まるで理解が追いつかないが。

 締まり方を忘れた口がポカンとほったらかしにされていると、補足せんばかりにオズと名乗った少女が続ける。

 

「ボクたちは独自の()()()を運営しているんだが、医療に精通する人材に欠けていてねぇ。困った事に傷病者や体の弱い子もいるんだけど」

「? 博士、クランって()──むごぉっ」

「君、とても腕の立つ医者だそうじゃないか。ぜひとも力を貸してもらいたくてねぇ」

「むごごむご」

「あの……彼……」

 

 なにやら口が接着されているが、少女は完全無視である。

 大丈夫なのかと目を向けたが、存外平気らしかった。

 

「どうだろう。話だけでも聞いてもらえないかな?」

「……すまないが、遠慮しておくよ。今は仕事をする気になれない。恩のある君の申し出を断るのは、心苦しいが」

「罪を償う機会を奪われたからかい?」

「っ、どうしてそれを」

「観察だよ。自宅にも拘わらず仕事着のままなのは──」

「ちょちょちょ、博士ストップ! むやみに人の心を暴こうとしちゃいけません!」

「う……ごめんよぉ」

「こほん。先生、確かに俺たちはスカウトに来ました。でもただ仲間として誘いに来ただけじゃない。約束を守るために、ここに来たんです」

「約束、って」

「言ったでしょ。あなたは医者にも父親にも戻れるって。あれは誓って、その場しのぎの言葉なんかじゃない」

 

 胸が波打つ。

 彼の声以外の音が全て排除されるほどの静寂が、たかが数歩程度の空間を支配した。

 

「これをお渡しします。どうか受け取ってください」

 

 手を取られ、握り込ませるように渡されたのは小さなハンドベルだった。

 銀色の可愛らしいベルだ。オリーブとフクロウの彫刻──賢者オーウィズの紋章が彫られている。

 

「今はまだ難しいかもしれません。でも、前に進みたいと思えるようになったら、その鈴を鳴らしてください。きっと力になるはずです」

「鳴らすとどうなる?」

「……あなたとの約束を果たします」

 

 どういう意味なのだろう。とんと理解が及ばない。

 困惑をぶつけるように受け取った鈴へと視線を落とす。

 何かしらの魔法が封じられた道具の様子だが、それ以上のことは分からなかった。

 けれどきっと、いいや、悪いものでないことは確かだろう。

 

「先生。最後にひとつだけ。あらためて、お礼を言わせてください」

「え?」

「あなたがアマルガムを足止めしてくれたおかげで、最悪の事態を免れることが出来ました。大勢の命を救ったのは俺じゃない。あの悪夢を跳ねのけて、たった一人で立ち向かった先生の覚悟と勇気です」

「────」

「あなたのお陰でみんなが救われた。やっぱり、誰かの命を守るために戦う先生はカッコイイです。一人の男として尊敬しています。本当に、ありがとうございました」

 

 言って、一礼を手向けると、ヴィクターは静かに踵を返した。

 少女もまた「ボクからも、ありがとう。君のお陰で仲間が助かった。勧誘の件、ぜひ考えてくれたまえよ」と微笑みと共に言葉を残し、少年を追いかけるように去っていった。

 

(……まったく。かなわないな、本当に)

 

 手のひらの鈴を握り締め、受け取った気持ちをしまうようポケットに入れて。

 それでもまだ殻を破ることは叶わないのだと、音もなく閉まる玄関は告げるのみで。

 

 

 ◆

 

 

 目を閉じて、開いたら、日を跨いでいた。

 心療福祉施設と自宅を往復するだけの、無心の日々を過ごし続けて、気づけば5日も経っていたのだから日付を見た時は驚いたものだ。

 

 部屋は入居したてのようにピカピカになった。

 出来る限り持ち物は捨てた。残ったものといえば、家族に関わる思い出の数々。

 あとは──仕事道具くらいか。

 

「捨てられないな。こればっかりは」

 

 手放すべきだとは思う。

 それでも放すことが出来ないのは、やはり魂が沁みつくほど連れそった相棒ゆえか。

 それとも残りカスのようなプライドが、未練がましく縋るものを求めているせいか。

 

(ここまで来て私は、まだ医者でありたいと?)

 

 きっと、自分の中身が()()しか無いからだ。

 家族を亡くして、仕事も辞めた。贖罪の道も絶たれてしまった。

 

 残ったのはただ、自分が成し遂げてきたことの残滓だけ。

 これを捨ててしまった日が、正真正銘イシェル・マッコールの最後なのだろう──と。

 

「…………」

 

 ああ、そういえば。もうひとつ手放していないものがあった。

 少年からもらった鈴だ。

 

 複雑な術式回路が施された、青い光沢を持つ銀の鈴。きっと鳴らせば魔法が発動するような代物だ。

 どんな魔法が封入されているかは分からない。少しだけ調べてみたが、あまりにも難解で手がかりすら掴めなかった。

 

「前に進みたいと思えるようになったら鳴らせ……か」

 

 彼は言った。あなたは父親にも医者にも戻れるのだと。

 この鈴は、その約束を果たすためのものなのだと。

 

「ふふ」

 

 どこまでも真っ直ぐに人と向き合える子だなぁと思う。

 若者の熱さとは素晴らしいものだ。彼がいなければきっと、とっくにイシェルは凍えていただろう。

 

 命を賭けてまでイシェルの暴走を止めて、アマルガムの悪逆非道に終止符を打った。汚泥のような憎悪の呪いを断ち切ってくれた。

 自らの罪と向き合えるようになったのは、他でもない彼のおかげだ。

 

 まだやり直せるとは思っていないけれど、少しずつ少しずつ、やるべきことを見つけていこうと前向きに思えるようにしてくれる。

 鳴らさずとも、鈴は十分働いてくれているよ。

 

「さて」

 

 鈴をポケットに入れて立ち上がり、そのまま玄関から外に出た。

 ペガサス便で向かったのは、どこまでも草原がつづくなだらかな丘。レントロクス郊外の墓地だ。

 すなわち、家族の眠る墓に。

 

 

 

「や。久しぶり」

 

 悪への復讐を決意した夜から一度も墓参りが出来ていなかった。家族と顔を合わせるのが怖かったのだ。

 血みどろの父親の姿なんて、彼女たちに見せられるわけがない。

 

「すまない、来るのが遅くなってしまった。ああこんなに汚れて……忘れてたわけじゃないんだよ。君たちのことを忘れた日なんて一日たりともなかったさ。本当だ」

 

 墓標を磨き、苔や雑草を抜いていく。

 返ってくるはずのない返事を期待して、独り言が止まらず滑る。

 

「よし綺麗になった。これからはもっと来るようにするからね。約束だ」

 

 墓の前へと座って、道中買ってきた花を枯れた花と入れ替える。

 

「良い花束だろう? パパのお気に入りなんだ。もちろんママも大好きな花さ。……それともうひとつ、お土産を持ってきたよ。きっとエリンも気に入ると思う」

 

 懐からオーウィズ印の銀鈴を出し、娘に見せる。

 

「友人から貰ったんだ。とてもカッコいい少年でさ。彼みたいな男の子だったら、エリンがお嫁さんに行くのも許しちゃいそうなくらい素敵な人なんだ。……ナターシャにも紹介したかったよ、本当に」

 

 娘をあやそうと思って、無意識に鈴を鳴らしていた。

 ちりん、ちりん──透き通る空のような、輝く銀盤のように美しい音色が、元気に()()()()を走り抜けていく。

 

「綺麗な音だね」

 

 きっと気に入ってくれたはずだ。あの子は綺麗な音がする玩具に目がなかった。

 家のピアノを(ナターシャ)と一緒に弾いていたのは昨日のように思い出せる。将来は天才音楽家だろうなと、親バカにも本気で想像していた。

 

 冥脈で眠る彼女たちにも、この音色は届いていることだろう。

 

「────」

 

 びゅう、と風が凪いだ。

 ふわりと擽るのは、甘くも涼しい花の香り。

 

 

「……………………………………………………え」

 

 

 ──ああ。きっと疲れているのだろうな。

 ここ最近極度のストレスに晒され続けたせいだ。脳の認知機能になにか誤作動が起きているに違いない。

 

 だってさ。

 こんなの、どう説明すればいい。

 

 

「なん、で」

 

 

 あの夜、無惨にも命を奪われたはずの家族が。

 眠る娘を抱いて、ちょっと驚いたような顔をして、すぐに微笑みを浮かべる妻の姿が。

 

 目の前に。手の届く場所に──

 

「アマルガムの……後遺症か……? バカな、解呪治療は済んだはずだ……!」

『イシェル』

「っ」

 

 声。

 二度と耳にすることは決して叶わないはずの、記憶の外からは失われたはずの、彼女の声。

 それは幻影と切って捨てるには、あまりにも鮮やかで。

 

「ありえないっ……君は死んだ、死んだんだ……! 今もその墓の下でっ……!」

『待って、落ち着いて。大丈夫だから。そんな顔しないで、エリンが怖がっちゃうよ』

「やめろ、やめてくれ! もうこれ以上、私を惑わせないでくれ……!」

 

 手元に『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』を呼び、刃を手のひらに押し当てるようにして皮膚を裂いた。

 痛みが走る。生きた赤がこぼれていく。

 

 なのに、何故だ。

 痛みという覚醒剤を用いたはずなのに、どうして幻が消えない。

 どころか絹を裂いたような悲鳴を上げて、ナターシャは大慌てでイシェルの手を取り上げてきたではないか。

 

『ちょっと何してるの!? 信じられない、自分の手を切るなんて!』

「…………触、れ……え?」

『「癒えよ(サナティオ)」──まったく。戸惑う気持ちはわかるけど、大事な手なんだから傷つけたりしちゃ駄目でしょうが。怒るよ』

 

 傷が塞がっている。()()()()()()()()

 

 ──治癒魔法はいわば、細胞の代謝などを活性化させる魔法だ。ざっくりな原理で言えば治りを早送りするのに近い。

 過程が同じである以上、傷痕はどうしても残ってしまう。

 

 腕の立つ治癒師であれば傷痕をほとんど作らずに処置することが可能だが、それには熟達した魔法の制御技術と、天性の才能が要求される。

 すなわち、イメージの力である。

 

 魔法の発動において、イメージは重要なファクターだ。その昔、賢者オーウィズによる体系化によって才あるものにしか扱えなかった魔法は、万民が修得できる技となった。

 それは魔法を理論化することにより、抽象的だった概念に術式という輪郭を与え、誰もが学べば適切にイメージすることが可能となったからだ。

 

 しかし魔法の本質として、現代においてもイメージが効力として反映されることに変わりはない。

 それは意識下ではなく、無意識下の潜在的な解釈力の差異だ。

 

 酸素が無ければ物を燃やすことが出来ないという常識が存在する以上、誰もが真空では火の魔法を使えないように、医者として学べば学ぶほど、『深い傷には再生の機序として傷痕が残る』というイメージが植え付けられる。

 ゆえに、どんな名医でも必ず痕跡は残る。小さくすることは出来るけれど、決して無くすことは叶わないと理解しているから。

 

 

 ナターシャ・マッコールは、そんな常識を覆す才能の持ち主だった。

 傷痕を残さずして治癒を施せる、類稀なイメージの力を持った、誰よりも優しい女性だったのだ。

 

(傷がない。どこにも、小さな痕すら。私には不可能な技術だ。彼女にしか出来ない、方法だ)

 

 もはや既に痛みの存在しない手が。乾いた血だけが名残を示すだけの、この手が。

 目の前に存在する彼女が、ナターシャであることの唯一無二の証明で。

 

 

「生き返った……のか?」

『……ううん。残念だけど違うよ』

「じゃ、じゃあ、君は一体なんだ? 抱いているエリンも、なんなんだ!?」

『あなたが呼んだんじゃない。その鈴でさ。どこで手に入れたの?』

 

 ハッとして、握り締めていた鈴を見た。

 イシェルですら理解することの叶わない複雑な術式がほどこされた銀の鈴。

 

 魔法の発動痕は感じなかった。

 けれど確かに、鈴に内包されていた魔力は空になっている。

 

 信じ難いがこれは、交霊術の道具なのか。

 それも死者の残留思念(ゴースト)を操るようなレベルではない。遥かに高位の、冥脈に直接干渉する星冠級の魔法だ。

 

 ああ、だけど。そんなことはどうでもいい。

 奇跡を前に理知を語れるほど、イシェルは無感情な人間じゃない。

 

「君は本物の、ナターシャの魂か」

『うん。不思議な感じだよね。自分が死んだ後のことがさ、ざっくりとだけど理解できてるの。なんだか自分の人生を本で読み終えた後みたい。冥脈が森羅万象の情報の塊、ってのは本当なんだろうね』

「っ……」

『なぁにその顔。まだ信じられない?』

「…………あたりまえさ。信じられるわけがないよ」

 

 目を背ける。

 彼女を妻だと認識した途端、合わせる顔がなくなってしまった。

 磁石の同極を合わせるみたいに、顔が逸れていってしまう。

 

()()()。何かあったんでしょ』

 

 心臓を針で突かれたような錯覚。

 

「鋭いな、君は」

『いやいや、明らか普通じゃないじゃん。今のイシェル、後ろめたいことがある子供みたいに目を合わせてくれないんだもん』

「っ……」

『話してみなさいって。今ならなんだって聞いてあげるよ。冥途の土産に持ってってやるさ』

 

 まるでいつもの日常に戻ったみたいに、彼女はからりと笑って。

 思わず流されるように口が滑りかけて。でも澱んでしまって。

 

 一呼吸。

 貯めた空気を、吐き出した。

 

「…………許されないことを、したんだよ」

 

 鈴を握り締める手の力が、ぎゅうっと強まっていく。

 

「道を踏み外してしまった。命を救う立場にありながら、禁忌を犯したんだ。この手は血で汚れてしまった。今の私に君と向き合う資格なんてない」

『……イシェル』

「それに私は、君たちを見殺しにしたも同然だ。あの時迷わず救命措置を行っていたら……!」

『違う。それだけは違うよ。聞いて、イシェル』

 

 頬に手を添えられる。

 

『残念だけど、あの時の私たちはどうあがいても助からなかった。たとえ聖女様がいたとしても無理だったんだよ。あなたのせいなんかじゃない』

「だがっ……!」

『不思議だけどさ、亡くなる前にエリンを寝かしつけていた記憶はあるのに、その後がすっぽり抜けてるの。即死だったんだと思う。本当に突然で、ぶっちゃけ命を落とした実感がないくらい』

 

 ひんやりと冷たい手だった。

 生きる者のぬくもりを失くした、冷たい月の肌のような感触だった。

 

『むしろ謝るのは私のほう。せめてこの子さえ守ることが出来ていたら、あなたをここまで追い詰めなかったはずなのに』

 

 なのに不思議と暖かく感じるのは、あまりに大きなエゴだろうか。

 

『ごめんなさい、イシェル。本当にごめんなさい。あなたを独りにしてしまったことが、心残りで』

「謝らないでくれ。君は、これっぽちも悪くない」

『あなたもだよ、イシェル。あなただって悪くないんだ。本当に腹立たしいけどさ、悔しくて悔しくてしょうがないけどさ。運が悪かったんだよ、私たちは』

 

 噛み締めるような、砕いて吞み込むような。

 けれど決して悲観に吞まれたものではない、力のある言葉だった。

 

「……強いな、君は」

『昔から切り替えが早いタイプだからね。幽霊上等さ』

 

 得意げに胸を張るナターシャ。つられてクスリと苦笑が出た。

 

「ああ、そうだな。君はいつもそうだった。風のように爽やかで強かな女性だった。けれど他人を思いやる気持ちは人一倍で……そういうところに、惚れたんだ」

『ふふ。でもね、イシェルは私よりずっと優しい人だよ。誰かの命を救うために、どこまでも頑張ることが出来る素敵な人。そのために絶対曲げない信念を持った強い人。私の大好きな、あなたのとっても良いところだ。それは今も変わってないみたいだね』

「っ、いや、私は」

『はい、ネガティブ禁止。妻の睦言くらい素直に受け止めろ~?』

 

 唇に人差し指を押し当てられる。

 ニカッと、ウィンクを添えた春風のような笑顔。

 

『だからさ、イシェル。そんなに思いつめないで。あなたは間違いを犯したのかもしれないけれど、それが本意じゃなかったことくらい見れば分かるよ。きっともう十分に悔いて、恥じて、苦しんだんでしょう?』

「……わた、し、は」

『だから、あなたの罪は私が全部持っていく。もう新しい人生を歩んでも、きっと赦されるんじゃないかな』

「そんなこと出来るわけないだろ! 君たちを亡くして、こんな、新しい人生だなんて……!」

『残酷なことを言っているのはわかってる。だからこれは、ただのお願い』

「っ」

『救ってよ、イシェル。たくさんの人を救って。あの世で自慢の夫ですーって、胸を張って誇れるくらい。冥王様があなたの罪を帳消しにしてくれるくらい、たくさんの人をその手で救って。エリンの立派なパパでいて。それが私の、私たちの、心からの願いです』

「…………!」

 

 唇が震える。

 息が詰まる。

 瞳は濡れて。

 顔はもう、どんな形をしているか。

 

 

 

『ぱぁぱ?』

 

 雨の中みたいにぼやけゆく視界の中で。

 妻の腕で眠っていた一番の宝物が、眩しいくらい光った気がした。

 

『あーっ! ぱぁぱだ! ぱぁぱーっ!』

「エリ、ン」

 

 妻の腕から飛び出すように、小さな娘が無邪気な笑顔と一緒に抱きついてきた。

 足にぐりぐりと頭を押し付けられる。

 もう二度と味わうことはなかったはずの、懐かしい感触が。

 

『? ぱぁぱ、ないてるの? いたいいたい?』

「っ、ち、ちがう、ちがうよ。パパどこも痛くないよ。っ、ごめんね、心配しないでね」

『……ん! えりんねー、おいしゃさんなの。ぱぁぱ、よしよーし、してあげるねっ!』

 

 背伸びして、頭をぺちぺちと叩くように撫でる小さな手。

 

『よしよーし。ぱぁぱ、だいじょーぶ! いたいいたい、ばいばーい!』

 

 小さくて、幼くて。

 けれどとっても大きな、精一杯の思いやり。

 

『ぱぁぱ、だいすきよー』

「────ぁ、あ」

『いっぱい、いっぱい、だいすきよー!』

「っ、ぅ、あ、あぁ、あああっ…………!!」

 

 失われてしまった小さな宝を腕の中に迎え入れる。

 共に成長することも、思い出を作ることも、未来の行く末を見守ることすら奪われてしまった、たった一人の愛娘。

 その存在を魂の奥の奥にまで記す。力強く、たしかに、この世界に存在していたんだと記憶する。

 

 ああ、こんな残酷なことが他にあるか。

 奪われたものの愛おしさを古傷を抉りなおすように知ることになるだなんて、あまりに苦しすぎるじゃないか。

 

 それでも愛さずにはいられなかった。

 離したくなかった。

 離したいわけがあるものか。

 

 

 

 ならば、せめて。

 例えこのひと時が、すぐにでも醒めゆく夢まぼろしであったのだとしても。 

 愛しいこの子を。こんなにも素敵なこの子を。涙なんかで曇らせないように、こみあがる嗚咽を嚙み殺す。

 

 だって私は、この子のたった一人の父親なんだから。

 

 

 

「パパも、パパもだよ、っ、大好きだ、愛してる、愛してる、エリン……!」

『ぱぁぱ、げんきなった? いたいいたい、ない?』

「元気になったさ、もうどこも痛くないよっ……! ありがとう、ありがとうな、エリン……! 忘れないよ、絶対に忘れない……! ああエリン、私の娘に生まれてくれて、っ、ありがとうなぁっ……!」

『んー! ぱぁぱ、くるしいー!』

『……イシェル』

 

 二人で娘を包むように、ナターシャはそっとイシェルに寄りそった。

 流せないはずの雫を分かち合いながら、遺される最愛の人へ。

 限りある時間の中で、どうかたくさんの希望がありますようにと、祈りを込めて。

 

『大丈夫だよ。いつかまた会える。あなたは決して独りなんかじゃないんだよ』

「ああ、ああ……!」

『ねぇ、イシェル。あなたとこれからを一緒に過ごすことが出来ないのはとても悲しいけれど、でも、でもね。私は胸を張れるくらい、あなたと出会えて幸せだった。本当に幸せだったんだ』

「私もだ、私もなんだよ、ナターシャ。君がどれだけの幸せをくれたかっ……ありがとう、本当に、ありがとうっ……!」

 

 ──二人の輪郭が曖昧になる。

 まるで春を前にした雪のように、少しずつ、少しずつ、魂の形が綻び始めていた。

 

『ぱぁぱ、まぁま、えりんねむいー』

『……そろそろみたいだね』

 

 時間だ。

 あっという間の、久遠のような。

 けれど決して忘れはしない、永遠の瞬間が終わりを告げる。

 

『ね、もしもだけどさ。何百年、何千年先かは分からないけどさ。もしも生まれ変わることが出来たなら、今度こそ三人で一緒に暮らそうね』

「もちろんだ。何度生まれ変わったって君を探すよ。探してみせる」

『へへ。じゃあ、未来の世界が今よりもっともっと良くなるように、たくさんの人を救ってね。あなたの力で、みんなの幸せを守ってあげて』

「っ──はは。責任重大だな」

『出来るよ。イシェルならきっと出来る。だってあなたは、誰よりも命の価値を知っている人だから』

 

 眠ってしまったエリンの頭を、二人で優しく一緒に撫でた。

 やわらかい。さらさらとした子供の髪だ。

 もう触れることは叶わなくなったはずの我が子に、溢れんばかりの慈しみを。

 

『ま、寂しくなったらその鈴で呼んでよ。いつでも頭撫でてあげるさ』

「ははは。そんな都合のいい道具かなぁ、これ」

『さぁね。でも、悲観的に考えるよりはいいじゃん?』

「ふふ。違いない」

『それと、もう自分を傷つけたりしちゃダメだからね。約束だよ? 破ったら会ってあげないから』

「嫌だよ、やめてくれ。約束するよ。必ず守る」

『ん。よし』

 

 ──口づけをひとつ。

 

 ひやりと冷たい。冬のようなキス。

 けれど確かな証が、彼女の存在がここにある。

 

『イシェル』

「……ナターシャ」

『愛してる。今までも、ずっと』

「愛してる。これからも、ずっと」

 

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