郡千景と粘着質な愛の話   作:イナバの書き置き

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1年以上放置した上にまだ最終話じゃないんです。
本当に申し訳ない。


郡千景と少年の話(下)

 よくよく考えてみれば、中々に幸せな人生だったのではないか。

 そう思う瞬間が、今でも時々ある。

 それは訓練が終わってヘトヘトになりながら自室に戻ってきたらあなたが待ってくれていたとか、何て事はない休日を1日中あなたと一緒にだらだらしていられたとか、一見すると他愛もない一時の話だ。

 しかしそのどれもが私にとっては──叶うのならば、額縁に入れて飾っておきたい位に忘れられない思い出。

 そして思い出が積み重なる度に私はその原点を思い起こす。

 

 あれは、そう。

 確か私とあなたが付き合い始めてから丁度1週間が経ったある土曜日──あなたの家でテレビゲームをしている最中、私はこう切り出されたのだ。

 

『……あの、さ。郡さんちょっといい?』

『何、かしら』

 

 何とも馬鹿馬鹿しい話ではあるけれど、あの当時の私はあなたに対する警戒が解けていなくて、然程村の人達と態度を変えていなかった。

 でも、仕方無いと思う。

 だって、あの頃の私はまだ誰からも愛された経験もなければ価値が認められた経験もなくて、自分が告白されるだなんて想像すらしていなかったのだから。

 もしされるにしても罰ゲームか新たな虐めへの導入でしかなないのだから結局裏切られるのではないかと怯えていて──刺々しくもあなたの顔色を窺う、酷く矛盾した表情をしていた訳だ。

 そんな私に向かって、あなたは言う。

 

『あ、あの、目茶苦茶急で申し訳無いんだけどさ。き、ききき今日、家で夕飯食べてかない?』

『えっ』

『あっ、いやっ、郡さんが都合が悪いなら別にいいんだ。別に無理しなくて良いから。ゲームの攻略教えて欲しいだけだし、うん』

 

 勿論嘘。

 本当は、私の健康を心配していたのだ。

 何しろ当時の私の朝食は専らコンビニのパンとかカップ麺とか精々その程度だったから、せめて1週間に1度マトモなご飯を食べさせる位はしたって良いだろうが──後で聞いたところ、そんな感じの事を考えていたらしい。

 まぁ女の子を家に誘った経験が無いあなたの話し方はやたら片言だし、目線は泳いでいるし、挙げ句コントローラーを持つ手放はプルプル震えてるしで思い返してみれば兎に角不審だったけれど。

 しかもあの頃のあなたはまだ料理がそこまで得意ではなかったから、慣れないハンバーグ作りに手を出して半分位焦がしてしまう始末。

 フライパンと四苦八苦するあなたを見て「何をしているんだろうこの人は」と思ったのを今でもわたしは覚えている。

 

『美味しい……』

『そうだよな大して料理しないヤツがいきなりハンバーグなんて作ろうとしても上手く行く訳────え?』

『美味しいの、本当に』

『マジで……?めっちゃ焦げてるよこれ……?』

 

 しかし。

 半分位焦げてたって、玉葱の微塵切りが全然上手く行ってなくたって、丁度冷蔵庫がすっからかんで味噌汁の具が豆腐しかなくたって、私にとって久方振りの「誰か」と食べる食事は想像を絶するほどに美味しかった。

 其処には真心があって、優しさがあって、きっと「愛」があった。

 私は料理のいろはなんて分からないけれど──「私のために」作ってくれた料理が、不味い筈があるものか。

 

『いや泣いてるじゃん絶対無理してるじゃん止めようお腹壊すかもしれないから!』

『いや……嫌よ。完食するまでは死んでもこのテーブルから離れないわ』

『そんなに!?てか郡さんそんなキャラじゃなかったよね!?』

『何だって良いじゃない。それより食べる事に集中したいのだけれど』

『えぇ……まぁ良いや……』

 

 涙まで出てきてしまったのは、ちょっと大袈裟だったかもしれないけれど。

 ぐしぐしと涙を拭いながらフォークを持ち直す私におろおろするあなたは、ちょっと面白かったかもしれない。

 そうしてやいのやいの騒ぎながらご飯を食べて、お風呂に入って、突き合わせた布団から顔とゲーム機だけ出して夜更かしをしたあの日。

 寝落ちして突っ伏すあなたを見詰めながら、私は思った。

 

『……これって、幸せ?』

 

 あの時は疑問系だったけれど、今なら嘘偽りなく幸せだったと断言出来る。

 無心になってハンバーグを口に運ぶ私と、怪訝そうな顔で消えていくハンバーグを見ているあなたがいれば、それだけでもう十分過ぎる位に満たされていたのだ。

 ただそれだけで良かったのに。

 だと言うのに────

 

 

 

どうして私は、それ以上を望んでしまったの?

 

 

 

■■■

 

 

 

 友奈の前だと言うのに、思わず舌打ちが漏れた。

 

「……っ!友奈!」

「……どうしたの?」

「ごめん、ちょっとヤバいかも」

 

 勝手に足が止まる。

 止めるべきではないと理解しているにも関わらず、羽のように軽かった筈の筋肉は運動を拒否し、痛みと共にひきつる。

 常人のそれに戻るどころか、鉛をくくりつけられたかのように民家の屋根を踏み締めた足が鈍重になり──跳躍しようとした瞬間に姿勢を崩し、勢いのまま見知らぬマンションの屋上に受け身も取れぬまま突っ込んでしまう。

 

「いっ、たぁ……!」

「だ、大丈夫!?頭とか打ってない!?」

「それは、まぁ、大丈夫なんだけど」

 

 ちょっと大袈裟な位に溜まっていた土埃を巻き上げながらゴロゴロと転がってしまったけれど、実際はそれほどでもない。

 受け身すら取れず全身で突っ込んだのに、不思議と鈍い衝撃が体を駆け抜けた程度で済んでいる。

 慌てて引き返してきた友奈の支えがあれば、よろめきながらではあるけれど直ぐに立ち上がる事すら可能だった。

 成る程、これが勇者。

 千景が得た力の正体。

 病み上がり(?)の僕ですらこんなに肉体が強化されるのだから、どうりであの恐ろしい星屑達に立ち向かえる筈だ。

 だが────()()()

 

「……何か、ヤバそう」

「や、やっぱり目の治療もキチンと終わってないのに脱け出してくるなんて無茶だったんじゃ……!」

「いや、そっちじゃなくて、何か、こう……」

「こう?」

「ごめん、上手く表現できないんだけど体の中がヤバい感じがする」

 

 そう、とてつもなくヤバい。

 何がどうまずいのかは具体的には分からないが、今のところ理由だってまるで分からないが、兎に角まずい。

 車でなら数十分、勇者の脚力を以てなら僅か10分程度の距離にある千景の部屋に行くのすら不可能だと勘が告げているのだ。

 まぁ、大概の場合自分の勘は信用ならないのだが──今回の場合は、恐らく信用しても良い。

 

(……良くない勘ばっかり当たるんだよな)

 

 よくよく考えてみれば、昔からずっとそうだった。

 何か嫌な予感が気がするな、と思って周囲を探してみれば大体の場合は千景の上着や下履きとかが捨てられていた。

 何かこれヤバそうだな、と思って千景の家に行ってみれば父親が振るった酒瓶で頭を怪我していた事もあった。

 挙げ句嫌な話を聞く羽目になるんじゃ、と思って部屋に引き篭っていれば「千景は生まれてこない方が良かった」なんて畜生以下の世間話を聞かされる羽目になったのだから、悪い方面での勘の良さはほぼ間違いない。

 虫の知らせと言うヤツか、或いは巫女の適性でもあるんじゃないかと勘繰ってしまった事すらある。

 

 しかし、今更そんな事で止められるような僕ではない。

 自分で言うのも中々気恥ずかしい話ではあるが、頑固さなら誰にだって──それこそ堅物で一本筋の通った乃木さんや優しさの中に尋常じゃない位硬い芯を持つ友奈にだって負けない自信がある。

 行くと言ったら是が非でも行くし、何事も為せば成るのだ。

 

「……よし、ちょっと休んだし行くか」

「だ、ダメだよ!何か変だし、一旦落ち着こう?」

「……そんなに、変かな?」

「うん。言われてみれば、なんだけど。今の──くん、どこがおかしいよ。顔色とかじゃなくて……何だろう、私も上手く言葉に出来ないんだど、やっぱり何か変」

 

 とは言え──友奈の言う事も尤もか。

 再び踏み出そうとした1歩目で肩を掴まれた僕は、屋上から飛び出すのを思い止まる。

 そう、千景の下へと辿り着くのが最優先ではあるが、初めての変身によってどのような影響があるかなんて専門知識を持たない僕には分かったものではない。

 況してや変身者が男、それも神器すら持たないごくありふれた中学生なのだから大社──上里さんだって何が起こるかなんて想像もつかない筈だ。

 勿論此方とて手足の1本や2本位は端から覚悟しているが、いきなり全身が破裂したって何ら不思議ではないのである。

 

(……まぁ、友奈が言うんなら変なんだろうな)

 

 それに、友奈の言葉は僕の勘より遥かに当てになる。

 基本的に彼女の言う事は正しく、時と場合によってオブラートに包んだりするが何れも正鵠を射ているのだ。

 気遣いの達人、善性の化身。

 誰よりも優しく、誰よりも思い遣りに満ちた友奈の観察眼は、当人すら気付いていない「何か」を易々と見抜く。

 だから僕は千景の友人である高嶋友奈を信じているのだ──初めて出会った時から今に至るまで、ずっと。

 

「……ちょっと、気になる事があって。変身解いてみてくれないかな」

「……?分かった。あ、でも解き方分からん」

「えっ、ヒナちゃんから聞いてなかったの?」

「そんな暇無かったし……」

「そっか……」

 

 何はともあれ、友奈の言う通り変身を解いてみなければ何も分からない。

 渡した端末を彼女がポチポチと弄れば視界が眩い光に覆われ、あっという間に鈍重な肉体が戻ってくる。

 怪我人云々を差し引いても、先程までの軽さがまるで嘘みたいだ。

 翼をもがれた鳥はきっとこのような気分を味わうのだろう──そんな調子の良い事を考えながら、着心地の悪い病衣を整えたのだが。

 

「ううん、見た感じではおかしなところはないかな……」

「友奈、友奈」

「……なに?」

「今回は緊急事態だから()()だしめっちゃ助かるんだけどさ。そうやって直ぐ肌とか触りに行くの、勇者と上里さんだけにしときなよ。誤解する人絶対出てくるから」

「……?うん」

 

 分かってるのか、分かってないのか、頭の上にハテナを浮かべる友奈。

 日頃から乃木さんとかにマッサージをしているからなのだろうが、彼女は遠慮なく腕やら足やらを触っていく。

 ついでに自分でも何か妙な部分はないかとあちこちを触ってみるが、これと言って異常は見当たらない。

 この屋上に留まる羽目になった直接の原因──何の前触れもなく激痛を訴えた右足もまた同じ。

 病衣の裾を捲り上げれば、其処にはいつも通り不健康気味な青白いふくらはぎがあるだけだ。

 

(──まぁ、まぁ。そうだよな)

 

 当たり前と言えば、当たり前。

 直接外傷を受けた訳でもないのだから、例え体に何かしらの異常が発生していたとしても目に見える形で表出しないのだって当然だ。

 後はまぁ、眼帯の下で空っぽの眼窩がズキズキと痛みを発する程度。

 再び勇者に変身したところで、即座に目立った問題は起こらない筈だろう。

 負荷とは目に見えぬ所で蓄積し、ふと気付いた時には取り返しのつかないダメージに成り果てるものなのだから。

 

 ────どうする?

 

 それ故に、何の具体性もない戯言が脳内で反芻される。

 いや、本当はどうするも何もない。

 今僕がやるべき事は千景の下まで辿り着いて、自暴自棄になるのを止めさせること。

 基本は言葉で、どうにもならないなら実力行使で大社から逃げる。

 その結果として千景が勇者を辞める事になろうが、四国の外に逃避して僕が野垂れ死ぬ事になろうがそれで千景の気持ちが軽くなるなら万々歳。

 信用して勇者システムを託してくれた上里さんには悪いけれど、やはり僕にとっては千景が幸福であるのが一番大切なのだ。

 ただ、その為には──辿り着けなければ元も子もない。

 

「友奈」

「ん」

「頼みがある」

「いいよ」

「まだ何も言ってないけど良いの?」

「良いよ。『友達』だもん」

 

 其処に籠められた意味の深さを、僕はよく知らない。

 いや、そもそもからして僕は友奈を呼び捨てにするのが許される程度には仲が良い筈なのに、彼女の事を何にも知らないのだ。

 四国に来るまでの苦難も、「上手く自分を出せない」と苦笑する裏で抱えている苦悩も、何もかも。

 それでも、やりたい事が一致しているならば。

 或いは、踏み出せなかった一歩を共に踏み出そうと思ったならば──何だって成し遂げられる。

 

「なせば大抵なんとかなる、だよ?」

「……だな!」

 

 絶対に辿り着いて見せる。

()()()()()()()()()()()を握り潰しながら、そう決意を固めた。

 

 

■■■

 

 

 

 もう自分でも、何を考えているのか分からない。

 何の為に生まれて、何の為に生きて、そして今何の為に生かされているのかすら分からない。

 だって、そうでしょう。

 自分の存在価値を認められないばかりか、漸く得た理解者を傷付ける愚か者に一体何の価値があると言うのだろう。

 また誰かを傷付ける前に消えて失くなってしまいたい、それが今の率直な欲求だった。

 

 ──だと言うのに、状況はそれすら許さない。

 

 勇者がどれだけ貴重な存在かは勿論よく理解している。

 既に滅ぼされてしまった地域には各々1人しかいなかったし、神樹の直接的な影響下にある四国ですらたった5人。

 そんな替えの利かない戦力を、言ってしまえば「高々子供1人」の為にみすみす捨てるのは勿体無いにも程がある──概ねこんな感じだろうか。

 3年間に及ぶ大社の教育の賜物として、ごく一般的な物の見方として容易く予想出来る結論だ。

 

 だからこの部屋には、()()()使()()()()()()()()が一切存在しない。

 部屋の角や家具は大袈裟な位に保護され頭を打っても衝撃を殺される。

 食事は毎食外から届けられて、終われば箸やフォークも回収される。

 窓は当然開けられないし、監視カメラが設置されているから少しでも不審な動きをすれば外の職員が入ってくる。

 例えるなら、見てくれだけ整えた監獄と言ったところか。

 

「無意味な事を……」

「そうだな……千景をこんな所に閉じ込めるのは間違っている」

 

 私の呟きを拾った乃木さんの表情は見るからに疲れていたけれど、奥底に微かな希望を見出だそうとしているのがありありと分かった。

 大方「無意味な事」を、私が他人を無闇に傷付けたりはしないと解釈したのだろう。

 本当に純粋で、疑う事を知らなくて────妬ましい。

 

「────」

「……千景?」

「……いえ、何でもないわ。何でもないの」

 

 嘘、嘘。

 全部嘘だ。

 何でもないなんて、有り得ない。

 他人を無闇に傷付けたりはしない?

 そんな訳があるか。

 私は今でもあなたを傷付けた故郷の人達を根絶やしにしてやりたいし、あなたを傷付けた自分を殺したい。

 それに、本当は乃木さんが羨ましくて、妬ましくて仕方がない。

 だって乃木さんは私が持っていないものを全部持っている。

 愚直な程に真っ直ぐな性格も、どれだけ強い衝撃を受けても決して折れない心も、不器用だけど誰にでも分かる優しさも、私には備わっていない資質だから。

 私が乃木さんだったら良かったのに──あまりに酷い事だけれど、そう思わずにはいられなかった。

 

「……何?」

「……千景」

 

 だと言うのに、乃木さんは真っ直ぐに此方を見詰めていて。

 真っ直ぐ過ぎる言葉で私の心を突いてくる。

 

「それは、嘘だろう」

「……」

「それ位流石の私でも分かる。私の言葉に何か不満を感じて、けれど言葉にするのは憚られたから適当に誤魔化そうとした。違うか?」

「……違わ、ない」

 

 図星。

 ふつり、と心の中で得体の知れない「何か」がさざめくのが分かった。

 

「だが……すまない。分からないんだ、本当に。自分の発言の何が正しくなかったのか、何が人を傷つけてしまったのか、上手く読み取れない」

「……っ」

「普段はひなたがフォローしてくれるが……やはり、私1人では上手くいかないな」

 

 何だろう、この感覚は。

 何だろう、この感情は。

 どろどろと渦巻いていて、ぐらぐらと煮え滾っていて、それでいて切なくて。

 口に出してしまったら、どうなるのだろう。

 

「教えてくれないか、私に何を思ったのか」

「……ぅ、ぁ」

「それがどんなに醜くても、残酷でも構わない。私は千景を知りたい。何か──力になりたいんだ」

 

 此方を見詰める乃木さんの瞳は、やはり何処までも真っ直ぐだった。

 信用している、信頼しているからこそ相手の事を知りたいと思う気持ち。

 寄り添いたいという思い遣りと、励ましたいという純粋な善意。

 純粋で、純粋で──思考が煮え蕩けていくのを感じる。

 

(──同じだ)

 

 あなたの目を抉ってしまったあの時と。

 諦めないあなたの姿が眩しくて、羨ましくて、妬ましくて、独り占めしたくて、欲しくなったあの時と。

 どうしようもない位むかむかしていて、思ってもいない事が口を衝いて出そうになって、込み上げる衝動が抑えられなくなっていく。

 でも、多分──今回は()()()()()

 

「黙って」

「……千景?」

「お願い……お願いだから。少し静かにして」

「ど、どうしたんだ。また私が何か傷付けるような事を──」

「いいから黙って!」

 

 両耳を手で覆って、音を遮断する。

 目を閉じながら俯いて、何も映らないようにする。

 そう、考えたらダメだ。

 見ても声を聞いてもいけない。

 何かの拍子に実直で人気者な乃木さんとひねくれ者で嫌われ者の私を比較したら、その瞬間に心の中の「何か」が爆発してしまう。

 爆発したら何をしでかすかは、私自身にも分からない。

 

 ──どうして?

 

 一体何時からこんな癇癪持ちになってしまったのだろうか。

 こんなのは絶対におかしい、何かが間違ってる。

 だって、ちょっと前まではもう少し理性的だったのに。

 四国の外に希望がないと知った時だって、自棄になって彼に当たってしまったけれど危害を加えようだなんて思いもしなかったのに。

 得体の知れない感情に混じって、ふつふつと疑問が湧いてくる。

 でも、今最優先にすべきはこの場から離れること。

 弾かれるように立ち上がって、倒れた椅子に構わず宛がわれた寝室へと逃げ込もうとして──追い縋って来た乃木さんに肩を掴まれる。

 

「……っ、離して!離してよ!」

「嫌だ!」

「この……ッ、分からず屋!」

「分からず屋なのは千景の方だろう!?」

 

 取っ組み合いの喧嘩、とは言うけれど。

 大して鍛えていない私が鍛練を欠かさない乃木さんに力勝負で勝てる筈がない。

 あっという間にバランスを崩して、組み敷かれて。

 耳を塞いでいた両手は否応なしに引き剥がされ、生の声を聞かされる。

 ならば、と瞳を閉じようとして────頬を伝う涙が、視界に映り込んだ。

 

「……乃木さん、泣いてるの?」

「うる、さい……っ、泣いてなどいるものか……っ!」

「……泣いてるじゃない」

「泣いてない……っ!」

 

 私の両腕を掴んでいるから涙は拭えないし、ちょっと鼻声だし。

 あまりにも無理矢理過ぎる強がりだ。

 でも──()()乃木さんが泣くなんて思いもしなかった。

 

「……どうして?」

 

 どうして泣くのだろう。

 乃木さんが泣くような事なんて、何一つとしてない筈なのに。

 私が原因だとしても、此処に至るまで様々な形で迷惑をかけ続けた挙げ句会話すら勝手に打ち切って逃げ出そうとした者に向ける感情は「怒り」だろう。

 それなのに、涙を流す意味は何?

 怒っているとも悲しんでいるとも違う、苦し気な表情の意味は何?

 分からなくて、分からなくて──疑問が勝手に口に出てしまっていた。

 

「……どうして、だと?」

 

 けれど、それが乃木さんの感情を刺激してしまったらしい。

 苦痛一色の顔を一瞬ぽかんと呆けさせた乃木さんは、凍り付いたまま暫し視線だけを左右に揺らして────勢い良く襟首を掴んで。

 そして。

 

 

 

「私達は、仲間だろう!?」

 

 

 

 思考が、途切れた。

 

「千景は私が気に食わないのかもしれないが!」

 

 いや、そんな、まさか。

 ()()

 

「私達は勇者で!」

 

 私も、乃木さんも同じ勇者で。

 

「共に過ごしてきた3年間は事実で!」

 

 折り合いは良くなかったけれど、曲がりなりにも3年間一緒にやってきたのは否定しようもない現実で。

 

()()だろう!」

「そう、なの?」

「そうだ!私と千景は友達だ!何なら今から手を繋いで大社に殴り込みをかけてやっても良い!」

 

 其処はあまりピンと来ないけれど。

 もし、これが。

 この関係性が「友達」だと言うのなら。

 私に「友達」と呼ばれるだけの価値があるのなら。

 

「頼っても、良いの……?」

「当たり前だ!普段は千景の方がストッパーをやっていたんだから、少し位私にも荷物を背負わせろ……いいや、我が儘の1つや2つぶつけてみろ!」

 

 どうやら私と乃木さんは、友達らしい。

 乃木さんは羨ましくて、妬ましくて、暑苦しいけれど。

 私は卑屈で、陰気で、何一つとして優れていないけれど。

 それでもどうやら友達であるらしいのだ。

 

「ねぇ、乃木さん?」

 

 だとするならば。

 今、私がするべき事は──いや、したい事は。

 今、私が望む()()()()は。

 

「何だ?」

「お願いが……あるの」

「ああ────」

 

 私は太陽のように眩しい乃木さんへと、手を伸ばして。

 頼みの中身すら聞かない内に、乃木さんは力強く頷いて。

 

 

 

「任せろ」

 

 

 

 烏の黒い羽根が、私の視界を覆い尽くした。




次回、正真正銘最終回。
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