軋む。
私の心が軋んで、捻れて、破断する。
ヒビが入った部分を愛で塗り固めただけの「それ」が、引きちぎれてボトリと落ちた。
ただ痛くて、悲しくて、泣きたくなった。
その日、私は自失していた。
「……千景。これはもう決まった事なんだ。お前の気持ちは分かるが諦めてくれないか?」
「い、嫌……」
四国外への環境調査及び残存人類の捜索。
それが私達に下された命令だった。
暫くはバーテックスの攻勢が沈静化するだとか、大気状態が改善しているだとか、そんな些事は耳に入ってこなかった。
私と「あなた」が会えなくなる。
それだけが重要な事実だった。
そこからはどうなったのかよく憶えていない。
ただ呆然としたままその日の訓練を終え、気が付けばあなたとベッドに入っていた。
午前0時。
そっと、抱えるようにしてあなたの頭を抱き締める。
穏やかな寝息が胸を擽る度にあなたの生を感じて、安堵する。
天恐が重篤化した
けれど。
けれど、まだ足りない。
どれだけ逃げても現実は変わらない。1週間後には2人は引き離される運命にある。
だったら──!
両手を頭から喉仏へとなぞるように移す。インドア気質のあなたらしい、白い首筋を包んで──軽く締め付けた。決して痕は残さないよう、細心の注意を払ってじわじわと力を加える。
「こんな事して許されるなんて思ってない。でも──」
──怖いの。
ポツリと漏れた本音を無かった事にして、あなたの感触を馴染ませる。
我ながら猟奇的な趣味だと思う。
まさか自分が恋人の首を絞めて喜ぶ人間だとは、3年前まで思いもしなかった。だけど、こうでもしないと自分でいられなかった。あなたの健康を、生活を、五感全てで感じて初めて心の底から安心出来る。
そんな異常性に気付いてしまえば後は早かった。気が付けば、あなたの首を緩やかに締め付ける事が私の日常になっていた。
「ふふ……」
少し強くして、また緩めて。
呼吸が乱れる度に背筋がゾクゾクする。
あなたが生きている。あなたが呼吸をしている。その事実を何度でも手のひらに塗り込む。
そしてあなたが私に言えない戦いを続けている現実も、改めて認識する。
蕩けた思考が救いの無い寝室に引き戻される。
「ごめんなさい」
何度謝っても私の罪が晴れる事は無い。
バーテックスが襲来した「あの日」、私があなたの側にいればこんな事にはならなかった。
あなたの苦しみに気付けていればこんな事にはならなかった。
全ては過去の事で、何もかもが遅すぎた。
「私、は……あなたの優しさに、つけ込んで……」
声が潤む。首にかけた手に力が篭る。
聞く人がいない懺悔に何の意味も無いと分かっていても、止められなかった。
むしろ誰も聞いていないからこそ、自分の醜い部分を吐き出せるのかもしれない。
羞恥を捨て、あなたにすがって言葉を紡ぐ。
「……付け込んで、何も返せなかった」
そう、私はあなたの優しさに付け込んだのだ。
私はあなたから沢山貰った。
手作りの料理。一緒に遊ぶゲームの楽しさ。繋いだ手の温かさ。全部全部、あなたがくれた物だった。
すっからかんの私の心に、あなたが愛を注いでくれた。燃料切れの「郡千景」と言うロボットを、人間に作り替えてくれた。
告白してくれたあの日から、あなたが私の生きる意味になった。
だけど、私はあなたに何をあげられたのだろうか。支えになれただろうか。
ずっと甘えてきた。3年前から、そして今もあなたの優しさに浸り続けている。満たされている筈なのに、もっともっとと求め続けている。
不思議だった。他の人と比べて明らかにおかしいって分かっているのに、全く止められなかった。
その内に疑問に思う事もなくなって薬物依存者みたいに考える事を放棄していたけど、ようやくその理由が分かった。
「だって、壊れてしまったから」
あなたに告白されたあの日、私の心は壊れてしまったのだ。
ロボットになりきる事で何とか保ってきた「私」は、人間になる過程で1度バラバラに砕け散り、あなたの愛を接着剤にして作り替えられた。
でも、私は「底」を何処かに失くしてしまったらしい。
どれだけ注がれても、底が抜けているなら意味が無い。
そうして無意味に流れ落ちるあなたの愛を、私は自分の愛だと錯覚していた。
私はあなたに愛を与えられたと思っていたけど、実際はあなたのそれを掬って、飲み干してその気になっているだけだ。
「きっと、私に出会ってしまったのがあなたの不幸」
私じゃなかったらこんな事にはならなかった。
高嶋さんだったら、笑顔の絶えない素敵な関係が築けただろう。
乃木さんだったら、互いに誠実なパートナーになっただろう。
土居さんや伊予島さんでも、きっと──
「でも、あなたの隣にいるのは私」
私はこの現実以外認めない。
今更愛を捨ててロボットに戻るなんて、そんなの許容出来る訳がない。
もう『あの頃』には戻れない。
私もあなたも、腐臭と思い出が詰まったあの村から離れてしまった。想像以上に遠くに来てしまったのだ。
「あなたの隣にいて良いのは私だけ」
あなたと私自身に呪詛を唱える。
あなたの温もりを知ってしまった。
あなたの優しさを知ってしまった。
だからどれ程浅はかでも、短絡的でも、愚かでもこの沼に沈み続けたい。
「あなたの」愛で、窒息したい────。
遠征の日、いつも通り「一番乗り」を目指して瀬戸大橋記念公園へとやって来た土居球子は、自らの判断を呪う事となった。
「んん?また若葉が一番乗り……って千景?」
「おはよう。土居さん」
千景だった。
集合とあれば時間ギリギリに来る事が多い千景が、この日に限って誰よりも早かった。
そして──異様だった。
緩慢な動きで球子の方に向いた千景は、酷く歪んだ微笑を浮かべている。
「な、なあ」
「……何?」
「大丈夫なのか?」
髪は一切手入れをしていないのか艶を失い、目元には隈が出来ていた。
まるで徹夜でもしたかのような様相で、しかし瞳だけは暗い情念を宿している。
球子は言葉にし難い恐怖を感じた。
これは千景じゃない。千景の皮を被った『何か』だ、と思わずにはいられなかった。
「大丈夫よ。ええ、私は大丈夫──」
「ち、千景……?」
「土居さん、私は大丈夫。誰が、なんと言おうと、大丈夫よ」
「ひ──」
悲鳴を漏らした球子を他所に、千景は「大丈夫」と呟き続けた。
機械のように。
ロボットのように。
ひょっとしたら加筆するかもしれません。