※少しグロテスクな表現があります。
僕の朝は早い。
例え四国の外が壊滅しようがバーテックスが跳梁跋扈しようが、午前5時には起床し着替えを終えた上でキッチンに立つ。
それが己に課した使命なのだ。
「昨日の残り何があったっけか……」
脳内で献立を組み立てつつ、無地のエプロンを着用し石鹸を用いて念入りに手を洗う。
清潔であるのは料理に於いて何より重要だ。例え僅かな埃でも、混入すれば料理の品格を落とし、食事の楽しみを潰す。
故に身嗜みを整え、衛生環境を整える。僕の数少ない拘りだった。
「……クソが」
冷蔵庫の中身を物色し、その悲惨さに思わず罵倒が漏れた。
(いくら昨日
そう、無いのだ。
昨日余分に作った筈の、なすの煮浸しが無い。煮卵も唐揚げも、何も入っていなかった。
失策だった。普通はこんな事しないだろう。それだけ千景の話は衝撃的だったのだ。
「もう
口に出してみて、改めて絶望を直視する。
千景が語る所によれば、既に諏訪は壊滅していたらしい。街にはバーテックスの卵が産み付けられ、生存者の痕跡も発見出来なかった。
もはや打つ手無し。万策尽きたのだと、千景はそう言って泣いていた。
やるせない、とはこう言う事なのだろうか。
この3年間に意味は無かった。千景の戦いも、勇者の戦いも、何もかも。
千景は見た。そして絶望した。
徹底的に破壊された建築物を。食い尽くされ骨の山となった人々を。諏訪に遺された勇者の遺品と植物の種を。
結界外で見た地獄が脳内にこびりついて離れないのだと言う。
『次は私達が
『え……?』
『私もあなたも、忌々しいバーテックスの餌食になるしかない……!』
震える声でそう告げた千景に、何も言葉を掛けてやる事が出来なかった。
ただ千景が落ち着くのを待って夕飯を食べさせて、寝かし付けた。千景の慟哭があまりに切実だったから頭が冷えただけで、本当は僕も混乱していた。
千景はちょっと口下手で、独りを好む難しいヤツだけど決して折れない人間だ。「耐える」事に関しては誰よりも強い彼女があれほど取り乱していたのならば、僕が思っていた以上に人類は行き詰まっているらしい。
そんな訳で兎に角千景を落ち着かせる事だけを優先した結果、誤って全部廃棄してしまったようだ。我ながら情けない。
──やっぱり打つ手なし、かな。
手作り弁当が何の役に立つのか。飾り立てた偽りの激励が何の役に立つのか。今勇者達に必要なのは気力を奮い立たせる希望なのに、僕は何一つ与える事が出来ない。
改めて、自らの無力さを痛感した一夜だった。
しかしどれだけ無力だとしても、止まる事だけは許されない。一瞬一瞬に全てを懸けて、自分に出来る事が何なのか。四国に生きる全ての人類はそれを考えなければいけない。
それが僕達の使命だ。諏訪から、沖縄から、旭川から引き継いだバトンなんだ。彼ら彼女らの献身に背く事だけはあってはならない。
「……良し」
例えそれが朝食の余り物を弁当に流用する事だとしても、だ。
綺麗に風呂敷で包まれた弁当箱に達成感を抱きつつ壁掛け時計を見れば、丁度6時を指し示している。
そろそろ、千景が起きてくる頃だろう。彼女はどれだけ夜更かしをしても時間には間に合わせる。
そう言う人間だって、僕は思ってた。
──思って、いたんだ。
事態は想像よりずっと深刻だった。千景が幾ら我慢強い子だからと言って、何時までだって耐えられる訳じゃないのに。
「千景ならきっと大丈夫」。そんな思い込みが彼女を追い詰めるだなんて、能天気な僕は思いもしなかったんだ。
「──て」
誰かが、布団を揺さぶっている。
一体誰だろう。いや、別に誰でも良い。
誰でも良いけど私の睡眠を、現実逃避を妨げないで欲しい。
「千──きて」
布団を被っている間は辛い現実を直視せずにいられる。人1人が背負うには重すぎる荷物を降ろしたままでいられる。
諏訪の壊滅はあまりに衝撃的な事実だった。四国の人々が逆転の芽を信じたのも、勇者達の心の支えだったのも諏訪が健在だったからこそだ。
「他の人達も苦しい思いをしているし、互いに励まし合えば頑張れる」
そう思い込んで来たから、皆3年間もやってこれた。安易な逃げに走らず、苦難に満ちた今日を生きる決意を固められたのだ。
──その結果がこれ?
白鳥歌野。諏訪唯一の勇者はバーテックスに敗れた。住民は1人残らず食い尽くされて、遺されたのは鍬と野菜の種だけだった。
馬鹿馬鹿しい。生き残らなければ、大切な人を守り抜けなければそれは負けだ。
「千景!お──て!」
沖縄、旭川、そして諏訪。皆死力を尽くして戦ったのに、報われる事は無かった。次は
私も、高嶋さんも、皆死ぬ。当然だけどあなたも死ぬ。
この3年間で得た全てを喪って、生きた証の1つも残せずに消えるしかないのだろう。
行き場の無い怒りと諦念がドロドロと渦を巻く。
──何も無い私に希望を与えて、後からそれを奪うのがそんなに楽しいか。
私を勇者としての役目に縛り付ける神樹に、祈ろうとは思わない。
だけど、もし本当に「神様」がいるのだったら教えて欲しい。
──どうして私は生まれてきたの?
「──あ」
パチリ、とまるで映像が切り替わったかのような突拍子さを伴って私は目を覚ました。
「あ、やっと起きたんだ。もう7時半だよ?」
「え?……そう」
心配そうな表情をしたあなたが、私を覗き込んでいる。
当然の事だった。まだ遠征から戻ってきて2日しか経っていないし、バーテックス襲来に関する神託は無い。
あなたが死ぬなんて、そんな事ある筈がなかった。
「ひょっとして体調悪いの?それなら連絡しておこうか」
「……別に、平気」
「なら良いんだけど。寝坊なんて珍しいね」
「私だって、それくらいするわ。……諏訪まで行ってきた訳だし」
「……そっか」
しまった、と思った時にはもう遅かった。口を衝いて出たのは想像以上に棘のある言葉で、表情を歪ませるには充分過ぎる一撃だった。
ただ心配してくれただけなのに、あなたを責めたって何の意味も無い。
しかも虫の居所の悪さを恋人にぶつけるなんて、控え目に言っても最低だ。
だと言うのに──
「あなたは、まだ諦めないの?」
「……うん。まだ出来る事があるって、信じたい」
「バーテックスと戦うのは私で、あなたじゃないのに?」
「そう、だね。応援する事しか出来ないけど……」
卑怯だ、と私自身も感じている。
そもそもからして、私とあなたでは戦場が違う。私があなたの苦しみを背負う事は出来ないし、あなたも私の使命を代わる事は出来ない。
自分に出来る事をする。
そうしなければ腐って死んでいくだけなのだから、全く以てその通りだ。
なのに、何故か湧き上がる苛立ちを抑えられない。
「シャワー、浴びてくるわ」
「ああ、うん……」
1度スッキリすれば、このネガティブ思考からも離れられるはず。
苦しげな表情をしたあなたの横を通り抜けて、バスルームへと足を向けた。
「……」
「……」
食卓を重い沈黙が支配する。
結論から言ってしまえば、シャワーを浴びても何も変わらなかった。
正体不明、解説不能の苛立ちは鎮火するどころかむしろ勢いを増し、些細な事にすら怒鳴り散らしたくなってしまう。
今だって、ほら──
「ぁ、ごめん」
「……別に」
対面のあなたは、視線が合っただけで縮こまってしまう。
悪いのは私だ。自分の感情を処理出来ずに嫌な雰囲気をばらまいている私が全部悪い。
だから
バーテックスが襲ってきたあの日と同じだ。
「最近、どうなの?」
「何が?」
「だから、他の勇者と上手くやれてるのかって」
「……何が、言いたいの?」
「故郷の人達」は私が勇者に選ばれた途端に媚び諂った。「その日」の朝まで私を人間としてすら見ていなかった癖に、夜には畏れていた。崇めて、祭り上げて、神格化した。
いっそ清々しい位の手のひら返しに当時は困惑したものだが──
「他意なんてあるもんか!勇者はチームで戦うものって言ったのは千景だろ!心配しちゃいけないのかよ……!」
「……ふぅん」
馬鹿らしい。
私は私だ。郡千景以上に成れはしないし、それ以下に落ちる事も無い。
私が見て欲しいのはありのままの「自分」だ。
表情だとか、言葉だとか、上っ面だけ読み取って、それで何の意味がある。
大事なのは心。
私とあなたの意思が疎通出来ている事。私とあなたが向き合って見つめ合う事。それだけが大切なのに。
そう、あなたは私をしっかりと見ていれば良い。
あなたに隠す事なんて何も無い。
刻まれた傷も、痛め付けられた心も、あなたになら全て見て欲しい。
なのに、あなたは彼らと同じように顔色を伺っている。私の機嫌を損ねないか、私が誰かに危害を加えないか。
そんな表面的な情報じゃなくて「私」を見て。
「私」だけを見て。
「私」以外を見ないで。
「ふ、ふふ……」
「千景……?」
ふと気付いたら、あなたの頬に両手を添えていた。顔を此方に向けさせ、そのままがっちりと固定する。
あなたの黒い瞳を覗き込む。
「私」の目を見て。
「私」の心を見て。
奥底まで、隅から隅まで全部見て。
「私」もあなたを見るから。
「私」があなたを守るから。
「……本当に、綺麗な瞳」
1面に赤い花が咲き誇る。
彼岸花の絨毯に、あなたと私の2人だけ。
「……本当に、いいの?」
掌のそれを見つめながら、私は彼に問うた。
表面に私の顔が写る程の光沢を湛えたそれを、彼は一言の挨拶も無しに、そっけなく私に贈ってくれた。
正直、少しむっと思う気持ちが無いわけではなかったけれど。
そんなの比にならないくらいに、ただただとても、嬉しかった。
だってこれはあなたから貰った、2度目のカタチあるプレゼント。
イヤーマフの次がコレなんて、一足飛びにも程がある。
そんな不意打ちを食らったら、こちらは泣くしかない。
掌が滑る程泣くなんて、流石に自分でも引いてしまう。
彼も変わらず無言のままで、きっと困っているのだろう。
大丈夫、もう、泣き止むから。
「……ふふ、ごめんなさい。少し、幸せ過ぎたみたい」
ほら、やっぱり心配そうな顔してる。
いつだってあなたの態度は変わらない。
私もあなたも充分過ぎる位頑張った。
だからもう休んでいい筈なのに、いつも気を揉み過ぎるのだ。
原因は私のせいだ、そんな事は分かっている。
でもだからこそ、これからは私があなたを助けなくっちゃ。
これが手元にあるって事は、きっとあなたもそんな未来を望んでくれてる筈だから。
「ねえ、これ、嵌めてもいい?」
あなたは静かに頷いた。
私はそれを見届けると、一呼吸置いて左手を開く。
ああ、私の人生に、こんな瞬間が来るなんて。
「神様」とやら、ごめんなさい。
あの質問は撤回します。
だって答えは、もう出てたもの。
この薬指の輝きが、私が生きる意味の証。
「本当に、本当にありがとう。私今、とってもしあわ───」
ぼとり。
左足の甲の上に、何かが落ちる感触がした。
すぐに下を見てみれば、白い「何か」が紅い床に転がっていた。
拾い上げてみると、それは異常に柔らかく、不快な感触が手から伝わる。
私は顔を顰めながらもソレの正体を確かめようと、近くに持ってきたのだが───
次の瞬間、
息をのみ後ずさる私。
手から溢れ落ちる目玉。
何か。何か異常な事が起こっている。
早くあなたを連れて逃げないと。助けると、そう決めたばかりなのに。
咄嗟に辺りを見渡すが、あなたの姿はどこにもない。
ついさっきまですぐそこに、確かに立っていた筈なのに!
「う、あ……!」
声にならない悲鳴と共に駆け出そうとして、私はすぐにつまづいた。
肘から顔まですっかり濡れて、手を床に着くのもままならない。
なんでこんなに滑るのよ、そう叫ぼうとした矢先、私はふと気がついた。
確か床の色は、こんな暗い赤じゃなかったような。
血の気が引く。
息が苦しい。
彼は今どこ?
分かりきったその答えに、気づかないフリをしたかった。
でも世界はいつだって、私にそれを許してくれない。
「……ち……かげ……」
足下から、あなたの濁った呻き声が聞こえる。
嘘だ、信じたくない。だけどこれは現実だ。
もはや見るまでもない。
この惨劇の首謀者は。
彼を傷つけ足蹴にしたのは。
彼から
他でもない、この私だ。