世界を人知れず揺るがしていたヘレン・カッター。彼女は何を想っていたのか。

1 / 1
翻弄される夫婦

この私、ヘレン・カッターは考える。一体どこで運命は、未来は変わってしまったのか。

 

獣脚類に気取られないよう息を殺しながら、翼竜の攻撃を躱しながら、亀裂を抜けて旅の最終地点へ足を踏み入れる。青々とした空は爽快さを抱かせるのではなく、むしろ重苦しい重圧を与えてくる。抑圧された空の下を、湧き上がる雲が頭を打ちながら天球をゆっくりと滑っていく。何気ない植物たちの姿は現代とほぼ見分けのつかない水準まで進化していたけれど、この時代でこれから起こるできごとの観測者であるようにも見える。ここが約束の地。

 

どこで変わってしまったか──ね。今の自問自答はただただ愚問だった。全ての始まりの地はあの亀裂調査センターに他ならない。あそこが混沌の始まりだった。じゃあ問い方を正す。変わってしまったのは"いつ"なのか。

 

オリバー・リークの計画が瓦解したその日のうちに、私は現代から姿を消した。彼の陰謀は世界を騒がせることもなく静かに幕を下ろした。それは同時進行していた私の実験も足止めをくらったことを意味する。人工的に歴史を書き換えてより良い未来へ再出発するその実験は、あんな自己顕示欲に塗れた小男と道連れにしてはならない。私はすぐに亀裂を辿って未来へ飛び、実験を再始動しようとした。

幸いにも未来生物の神経制御機器を得た未来で、クローン技術とその環境は手に入っていた。生物収容施設に残っていた洗濯物から兵士を選んで、死の恐怖とも無縁の軍隊を蘇らせる。負傷した仲間を冷酷に見捨てられる人ならざる者の軍隊は地球上のどの文明にも存在しない。どの敵対勢力を相手にしても優位に立ち、どの生物も数の暴力で駆逐する兵隊。どの亀裂でも生きて出入りできる、言葉の糸1本1本に忠実に従うマシンたちの誕生を私は待った。

その間、私は単独でも行動していた。タイムトラベラーの前では時間という概念は形骸化する。1キロメートルに届こうかという摩天楼が建設される様や、新型のウイルスに侵され崩壊していく世界経済も見てきた。それでもヒトは強い生命力を発揮して文明を立て直し、強固な社会システムの上で生きている──はずだったの。

 

いくつかの亀裂を抜けた先で、私は徹底的な絶滅を目にした。過去の五大大量絶滅にも並ぼうかというビッグ・シックスの到来はまさに病的(シック)だった。──そう、数分前までアビーやコナー、そして新入りのチームリーダーと話していた世界。原形をとどめてはいるが部分的に崩壊を遂げたビルが立ち並び、煤けた乗用車が何十年も野晒しにされていた。人口800万の大都市ロンドンは完璧な廃墟と化し、他の動物もろくに生息していないようだった。静寂が大合唱する世界は私に焦燥の念を駆り立てるのに十分だったわ。

私はすぐに亀裂を抜けて、その原因を探りに向かった。ありとあらゆる時間の窓を開けて歴史を眺め、該当の記述を探して時間のページをめくり続けた。そうして突き止めたのは、西暦20██年の亀裂調査センターだった。

そこには無数の職員の亡骸が転がっていた。センターの研究室の一角で独りの狂った男が禁忌に手を染めていた。その男は私のかつての夫、私がかつてパートナーだと信じていた男だった。愛という病魔に侵された彼は、望郷の想いに駆られるあまり、人生で対峙した最も凶悪な存在に憧れを抱いてしまっていたのでしょう。無数の害意で作った魔槍を向けられた気分を味わわせる、大気さえも変質させてゆく化け物に。手際よく万物の霊長と百獣の王を屠り、ゴルゴノプスの目までも奪ってみせた、超自然的な索敵能力を持つあの怪物に。

そこからは大虐殺が始まった。コウモリを元に改造された魔人たちは生き残っていた職員に暴力の雷雨を噴き付け、とっくの昔に壊れてしまっていた私の夫もろとも全てを破壊し尽くしていった。方舟(ARC)を放棄した彼らはやがて森林を我が物にした。数万年をかけて築かれた人類文明と、十数億年をかけて築かれた動物群集を、彼らはものの数十年で崩落へ向かわせた。

 

川のせせらぎが聞こえてきた。私の目的を果たす時が来たようね。

私はこの世界を救うと決意した。決して彼らを野放しにしてはならないと、生物1種による大量絶滅などあってはならないと。やれることは全てやったわ。クローンの兵団を連れて廃墟の街に遠征し、時の地図を手に入れた。超電導の世界的権威とも手を取り合い、何かあれば彼に後を託す手筈も整えた。

 

そして私は夫を殺した。

存在しない亡霊への愛に憑りつかれる前の夫に会ったの──いえ、既にあの女への愛にがんじがらめに縛られていたのでしょう。実行に移していなかっただけで。自分が正しいという自信に満ちたその瞳は、スティーブンを殴ったその拳は、彼の向かう破滅的な運命の片鱗を覗かせていた。終末時計の針は秒読みを始めていたのよ。

 

『世界は私や貴方よりもずっと大事だから──』

『この状況でまだそんなことを言うのか!?』

『ごめんなさい、こうするしかないの』

 

『──なあヘレン。お前は私が思っていたほど賢くない』

 

火薬の臭いと共に、鉛弾は彼の胸を貫いた。私の顔は火照っていた。燃え上がる建物の熱のせいか、激情のガソリンが体を動かしていたからかは今となってはもう分からない。一つ言えるのは、私の顔を濡らした塩水は異様に熱かったということだけ。

 

こうして彼を殺しても、未来は変えられなかった。ヒトという種がいる限りあの絶望の世界は具現してしまう。運命はあの未来に収束するらしい。あの未来の到来を防ぐためには、最小限の犠牲で人類を滅ぼさなくてはならない。だから私はこうして400万年前の大地に立っている。ボトルを片手に、人類の生まれた大地溝帯に立っている。

 

後ろから追ってくる者がいるらしい。アビーとコナーは成長したけれど、何かあればまだ白亜紀に残るタイプね。そうすると、確実に追ってくるのはダニー・クインというあの男。性格は夫と正反対だけれど、その瞳に同じ強い芯があることは軍事施設で感じ取った。同じ瞳の人間にこう大事な局面で対峙するとは、神とはどれほど道楽を好む存在なのかしら。

 

「──でも、どうせなら彼じゃなく貴方が良かったわ」

 

道を踏み外してしまう前の貴方に、良いパートナーだった頃の貴方にもう一度会いたい。無限の時間を遡ることができるのに、ついそれだけは忘れてしまっていた。一目で良いから会いたい。未来生物を生み出す前の貴方に。センターに就く前の貴方に。あの女と出会う前の貴方に。

世界が収束に向かう前の貴方に。

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。