翡翠の塔の地下。その床は一面、様々な大きさの石で覆われている。
その石敷きの床に、二つの身体が叩きつけられた。
一つは小柄。もう一つは長身。ただ、どちらの身体も女性のものであった。
「ぐ……くぅ……」
「はっ……あっ……」
共に苦しげに呻き声を上げながら、それでも必死に身体を起こそうと試みる。
そこへ、再び頭上から果てしない重圧がのしかかった。
べしゃりという音と共に、二人の女性はまたもや床に叩きつけられる。いや、押しつけられると言った方が正しいか。
それでも、二人の瞳の闘志は消えていない。
炎の如き闘志をその双眸に宿しながら、二人の女傑たちは広い地下の天井付近に浮遊する異形の怪物を睨み付けた。
異形の怪物──“万里の咆哮”ガド・ボデックは、空中から倒れた二人の女を睥睨する。
獅子頭、竜頭、山羊頭。それぞれに二つずつある目。計六個の目が、残忍な光を帯びてウルスラとアリアドネを見下ろしていた。
今、ウルスラとアリアドネは、震える身体に鞭打って必死に起き上がろうとしている。
その二人へ、ガド・ボデックの三つの頭が、同時に上空から咆哮を浴びせかけた。
幻獣の三つの頭が同時に上げる咆哮。それは物理的な重圧となって立ち上がろうとしていた二人の身体を再び床へと押しつける。
「加圧咆哮」。他のキマイラには見られない、ガド・ボデックだけの特殊能力。
文字通り強烈な重圧を頭上から加え、対象を押し潰しつつ動きを阻害するという恐るべき能力だ。
今、上方向から重圧をかけられている二人は、全身の骨を軋ませながらその重圧に耐えることしかできない。
無様に床に這い蹲り、歯を食いしばって重圧に耐えるウルスラとアリアドネ。二人の耳の奥には、全身から聞こえるみしみしという骨が軋む音が聞こえていた。
だが、その重圧が突然消えた。
ガド・ボデック──キマイラも幻獣とはいえ生物には違いない。生きるためには呼吸は不可欠であり、肺活量にはおのずと限界がある。
つまり、いつまでも咆哮を続けることはできないのだ。そして、「加圧咆哮」の名の通り、重圧を加えられるのは咆哮を続けている間だけ。
また、加圧されている範囲にガド・ボデック自身が飛び込めば、同じように重圧を受けることになる。
そのため、倒れた二人に追撃を加えるためには、重圧を一旦解除しなければならないのだった。
重圧が解除され、倒れていた二人は素早く起き上がろうとする。
しかし、それまで全身に重りを乗せたような状態だったのだ。いくらウルスラたちとはいえ、突然素早く動けるというものでもない。
ようやく立ち上がった二人の元へ、上空からキマイラが急襲する。
獅子の爪が。竜の牙が。山羊の角が。そして尻尾である毒蛇の毒牙が。
いまだに足元が定まらない二人に猛然と襲いかかる。
だが、ウルスラとアリアドネも只者ではない。足元がふらつく状況でも、突っ込んできたキマイラの巨体を危なげなく回避した。
「この……っ!! 好き勝手やってくれるじゃないっ!!」
「二手に分かれるわよ。どうやらあの加圧咆哮の効果範囲は、それほど広くはなさそうだし」
アリアドネの提案に、ウルスラは素直に頷いた。仮にどちらかが加圧の範囲に捕らわれても、もう片方は自由に動ける。それにどうやら、加圧咆哮を行っている間はガド・ボデックも身動きできないようだ。となれば、それは反撃の絶交のチャンスである。
「あんたがぺしゃんこになりかけても……助けないからね?」
「そちらこそ、潰されてそれ以上ちんちくりんにならないようにね?」
一瞬だけ、互いに鋭い視線で睨み合うウルスラとアリアドネ。だが、次の瞬間には二人とも不敵な笑みを浮かべて反対方向へと移動した。
標的が二手に分かれたことで、ガド・ボデックは一瞬迷いを見せる。
獅子、竜、山羊、そして蛇。合計四つの頭を持つキマイラと言えども、その身体は一つなのだ。離れた所にいる二つの標的を同時に狙うことはできない。
そのため、ガド・ボデックはまずは弱そうな方──身体の小さなドワーフの女を狙うことにした。
もう一人の女の方には、竜頭が炎を浴びせかけておく。距離が離れているため直接炎で焼くことはできないが、牽制としては十分だろう。
そうやって片方を足止めしておきながら、ガド・ボデックの巨体が石敷きの床を蹴り、ドワーフ女へと突進する。
ドワーフ女もガド・ボデックを迎え撃つつもりらしく、腰を落として手にした武器──確かトンファーとかいう格闘専用の武器だ──を構える。
──良かろう。その意気や良し。だが、蛮勇は勇気に非ず。
ガド・ボデックの獅子頭が、にやりとした笑みを浮かべる。そしてドワーフ女の小さな身体を切り刻まんと、鋭い鉤爪の生えた前脚を全力で振り下ろした。
ぎぃぃん、と獅子の爪とトンファーが異音を立ててぶつかり合う。
キマイラの巨躯に比べれば、ドワーフの身体は極めて小さい。普通に考えれば、キマイラに膂力の前にドワーフなどあっと言う間に粉砕されるだけの存在だろう。
だが。
だが、ドワーフの女──ウルスラはガド・ボデックの重い一撃を真っ正面から受け止めた。
前腕に沿うように持った両腕のトンファーを上下に重ね、それを頭上に掲げて上から降ってきた獅子の前脚を防ぎ切る。
「く…………うううぅぅぅっ……」
ぎりりりっと奥歯を噛みしめ、しっかりと腰を落として。
先程の加圧咆哮にも匹敵する重圧を、ウルスラはその小さな身体でしっかりと受け止めた。
「へ、へへん……ドワーフの頑丈さ……舐めないでよね……っ!!」
重圧に耐えながら、それでもウルスラは笑みを浮かべた。
ガド・ボデックの瞳──獅子頭のそれ──に、純粋な称賛の色が宿る。
その瞬間、不意にウルスラは全身から力が抜けた。
もちろん、耐えきれなくて力尽きたのではない。タイミングを見計らってわざと力を抜いたのだ。
突然抵抗を失い、僅かにガド・ボデックの巨体が前へとつんのめる。
ウルスラはその小さな身体を最大に活かし、するりとキマイラの足の間を潜り抜けると、全身のバネを用いて高々と跳躍した。
「はあああああああああああああああっ!!」
気合い一閃。空中でウルスラの身体が旋回する。
遠心力という助力を得たウルスラの鋭くて重い蹴りが、ガド・ボデックの竜頭に炸裂した。
どぱぁんという派手な炸裂音と共に、キマイラの巨体が僅かに傾ぐ。
それほどまでに、ウルスラの蹴りは強烈だった。
しかし、結果を言えばそれだけだ。
蹴りを喰らった竜頭は衝撃で朦朧としているようだが、ガド・ボデックには他に二つも頭がある。一つが一時的に行動不能に陥っても、他の二つが無事である限りその行動を阻害するものではない。
傾ぎかけた身体を四肢を踏ん張って持ち堪えたガド・ボデック。
「
山羊頭が素早く呪文を唱え、ダメージを受けた竜頭を回復させる。
山羊頭が操るのは操霊魔法。神聖魔法に比べれば回復量は多くはないが、それでも竜頭の朦朧状態を取り除くことぐらいはできた。
そして、獅子、竜、山羊が揃って咆哮を上げる。
ガド・ボデックに追撃を行おうとしていたウルスラだが、再び頭上から降り注ぐ重圧に捕らわれ、床へと叩きつけられた。
「ち……また……これ……か……っ」
ぎしぎしと軋む骨の音を危機ながら、ウルスラは重圧に耐える。
キマイラの三つの頭が咆哮を上げている間、尻尾の毒蛇が周囲の様子を窺う。
敵はもう一人いるのだ。暗闇に紛れて姿を隠しているようだが、こちらの動きが止まった今、必ず何らかの行動を起こすだろう。
毒蛇は毒牙からぽたぽたと毒液を滴らせながら、姿を見せないもう一人の敵を探す。
右から左へ。左から右へ。周囲の様子を油断なく窺う毒蛇。
しかし、その意識は突然幕を下ろしたように途絶え、二度と意識を取り戻すことはなかった。
闇に紛れて忍び寄り、標的の命を一撃で刈り取る。
それこそが暗殺者の真髄。
例え、それが複数の頭をもつ幻獣だとしても。
特に今は三つの頭が加圧咆哮を上げている。当然ながら、普段より死角は大きい。その死角を音もなく移動し、ガド・ボデックに肉薄したアリアドネは、その鋭い爪で周囲を警戒する毒蛇の頭をすぱりと切り落とした。
ぼとり、と音を立てて毒蛇の頭部が石敷きの床に落ち、どす黒い血の池を広げていく。
加圧咆哮に集中していた残りの頭も、尻尾である毒蛇が切り落とされて、加圧咆哮とは明らかに別種の咆哮を上げた。
竜頭と山羊頭が、怒りの表情を浮かべながら背後へと振り返る。
だが、そこには誰の姿も見えない。恐るべき暗殺者は、再び闇の中に紛れていた。
もちろん、幻獣であるキマイラにも闇視能力がある。だが、その闇視能力を以てしても、闇から闇へと静かに移動を続けるリャナンシー・アサシンを捉えることはできない。
苛立たしげに、三つの頭が周囲を見回す。この時、苛立ちのあまりにガド・ボデックはもう一人の敵のことを失念してしまっていた。
「この私を前にして余所見をするとは……ちょっと舐め過ぎじゃない?」
獅子の喉元から響く声。
もう一人の敵のことを思い出し、ガド・ボデックは慌てて宙へと舞い上がろうとした。
だが。
「あら? こんないい女たちから逃げようなんて……男としてちょっと情けないわね……って、幻獣に性別はなかったかしら?」
獅子の背中に、暗殺者の女がふわりと舞い降りた。
長く伸ばした両手の爪を素早く振るい、アリアドネはガド・ボデックの翼を切り刻む。
彼女の細い爪では強靭な翼自体を切り飛ばすことは不可能だが、薄い皮膜部分をずたずたにすることならば可能である。
翼の皮膜を切り裂かれ、浮力を失った幻獣の身体は床へと叩きつけられた。
高度が低かったため落下のダメージこそないものの、倒れた巨体を起こす間は例え三つの頭を持つ幻獣と言えども無防備となる。そして、その隙を見逃すようなウルスラとアリアドネではない。
「しゃ…………っ!!」
短く鋭い呼気と共に、倒れた獅子頭にウルスラのトンファーが雨となって降り注ぐ。
無論、ガド・ボデックとてやられるばかりではいない。
獅子頭の窮地を救おうと、山羊頭と竜頭がウルスラに襲いかかる。
「
山羊頭は相手にダメージを与えつつ、与えたダメージの分だけ回復する操霊魔法、〈ドレイン・タッチ〉を使用する。
だが、ドワーフであるウルスラの精神力は強靭で、魔法は不十分な効果しか発揮しない。
そこへ、今度は竜頭がその
いや、襲いかかろうとした。
竜頭が行動を開始するより早く、その背後に暗殺者が静かに忍び寄る。
ぷつり、と小さな音。その音は獅子頭を乱打し続けるウルスラの打撃音に紛れて、誰の耳にも届かない。
唯一、その音を立てた竜頭以外には。
竜頭の右の眼球に、暗殺者の爪が突き刺さった。突き刺さった爪は、柔らかな眼球を貫き、容易にその向こうに存在する脳へと達する。
強靭な生命力を誇る幻獣と言えど、脳を直接破壊されては生きてはいけない。
竜頭は右半分の視界が突然暗転したと感じた次の瞬間、長い生命に終止符を打たれるのだった。
ばきん、と一際大きな破壊音と共に、獅子頭が遂に沈黙した。
でろりと力なく舌を吐き出し、原型を留めないほど殴られ続けた獅子の顔。その潰れかけた両の瞳には意識の光がなくなった。
ようやく連続攻撃を止め、ふぅと大きくウルスラが息を吐く。
ふと右側へと視線を動かせば、アリアドネが竜頭の眼窩に爪を突き刺していた。
びくんと一度大きく震えた竜頭。それが竜頭の最後の命の灯火だった。
「あっちも片づいたようだし……後は……」
ウルスラの視線が再び動く。幻獣に残された最後の頭──山羊頭は、この世界に誕生して初めて戦慄というものを味わった。
「……残っているのはアンタだけだよ?」
ウルスラは、木漏れ日を感じさせるような爽やかな笑みを浮かべる。
「さあ……覚悟はいいよね?」
だが、口から出た言葉はその笑顔とは真逆のものだったが。
がちん、とウルスラがトンファーを打ち合わせる。
それから山羊頭の意識が闇に飲み込まれるまで、必要とした時間はごく僅かだった。
改めて大きく息を吐き出したウルスラは、石敷きの床にどすんと腰を下ろした。
「はあぁぁぁぁ。以外にキツかったー」
「ええ。さすがは名前を持つ魔物と言ったところよね」
アリアドネもまた、全身から疲労感を滲ませていた。ただし、こちらはウルスラのように無遠慮に床に腰を下ろすでもなく、あくまでも優雅な雰囲気を纏ったまま立っていたが。
「しかし、あの加圧咆哮とやらには参ったわね。全身が潰されるかと思ったわ」
ウルスラは腰にぶらさげた小袋からかちゃかちゃと小さなビンを取り出し、その中味を一気に飲み干した。
「くうー。やっぱり戦闘の後のポーションはキクわー」
「……どこかのおじさんみたいよ、あなた」
そう言うアリアドネも、ウルスラと同じ「トリートポーション」を喉に流し込んでいる。
ウルスラもアリアドネも回復魔法の心得はない。そのため、失った体力を急速に回復させるためには、回復用のポーションに頼るしかないのだ。
二人はガド・ボデックの亡骸の傍でしばらく休憩し、体力と気力の回復に務める。
「さて……と。後はウィールに言われた通り、この地下のどこかにある魔法装置とやらを見つけて守り抜けばいいんだよね」
「ええ。最も、あくまでも“ディーラ紛い”が“翠将”に勝てれば、だけれどね」
「勝つわよ。ウィールなら“翠将”にだって負けないわ」
「あら、私だって“ディーラ紛い”の勝利を願っていわよ?」
「蛮族であるアンタが、人族であるウィールが勝つのを望んでいるって言うの?」
「本当、自分でもよく分からないのだけど……これだけは偽らざる私の本音よ」
「ふぅん……よく分かんない蛮族だよね、アンタも」
ウルスラとアリアドネが穏やかな笑みを浮かべ合った時。
二人の背後に不意に気配が沸き上がった。
その気配を敏感に感じ取った二人の女傑は、完全に回復しきっていない身体を再び緊張させた。
そして、先程ガド・ボデックと戦った時以上に緊張した様子を見せる二人の前に、それは姿を現した。
「お腹空いたよ~。お腹空いたよ~。こっちから美味しそうな死体の臭いがするよ~。大きな死体の臭いがするよ~」
『ディーラ紛い』更新しました。
対ガド・ボデック戦は終結。でも、すぐにおかわりが来ました(笑)。
女傑二人の戦いは一旦終了とし、次回は別の場面を描こうかと思っています。
では、これからもよろしくお願いします。