魔道機文明時代。
現在では『霧の街』と呼ばれるこの街は、ダーレスブルグ王国に属し『ジーズドルフ』と呼ばれていた。
四人の兄弟姉妹によって建設されたと言われ、多くの人族が暮らしていた。
しかし、〈大破局〉の際に蛮族に奪われ、以後は蛮族の拠点である『霧の街』へと変貌した。
ジーズドルフの街が陥落した際、そこに暮らしていた、あるいは周辺からジーズドルフへと逃げ込んでいた多くの人族が蛮族の虜囚となった。その数は実に3万人とも言われている。
しかし、降伏した人々の数と同じかそれ以上の人族が、蛮族の凶刃の犠牲になったのは想像にかたくない。
そして、凶悪な蛮族に襲われた人々の中に、一人のエルフの青年がいた。
彼は目の前で親しい人々が、次々に蛮族たちに虐殺されるのを目撃した。
その青年は無力だった。剣に優れていた訳でもなく、卓越した魔法を身に着けていたわけでもなく。ごく普通の一人の青年として、家族や恋人と共に平和に暮らしていただけだったのだ。
だが今、無力な青年の前で、次々に親しい人たちが殺されていく。
両親が。
友人が。
近所の顔馴染みが。
一緒に仕事をする仲間たちが。
次々に彼の見ている前で、蛮族たちの刃にかかっていく。
幸いというべきか、彼の恋人の姿はない。どこかに隠れているのか、それとも安全な所へと逃げたのか。もしかすると既に蛮族に殺されていたり捕まっていたりするかも知れないが、少なくとも、彼の近くに彼女の姿はなかった。
そして遂に、蛮族たちの血塗られた凶刃が青年にも伸ばされる。
青年の前に立つ、死の具現。その蛮族は狂気じみた笑みを浮かべながら、彼の頭へと地にまみれた刃を振り下ろした。
その時だった。
青年の心に、じわりと真っ黒なモノが広がったのは。
そして、彼は聞く。死と腐敗を司る、美しくも禍々しい女神の声を。
──苦痛の呻き、怨嗟の声、断末魔の叫び。すべては神への供物なり。死は宿命。死は最高の快楽。死を拒む者許すなかれ。
──死はあまねく与えられる。それは目の前の存在とて同じ。魂を我に捧げよ。さすれば、我は力を得、汝にも力を授けよう。
その声を聞いた時、彼の中で何かが弾けた。
しばらくして、彼が我に返った時、彼の周囲には夥しい数の蛮族たちが倒れていた。
その全てが苦しげな断末魔の表情を浮かべている。皮膚の色はどす黒く変化し、毒によって命を奪われたことを物語っていた。
その後、無表情に周囲に倒れる死骸──その中には彼の仲間であった人族の姿もあった──を眺めた後、彼はゆっくりと歩き出した。
その方角は蛮族たちが数多くいる方角。そしてそちらは、ジーズドルフへと攻め寄せる蛮族軍の中核が存在する方向でもある。
エルフの青年──イヴァン・アイヴァンは、そこで自分が知る様々なことを蛮族側へと密告し、それを元にして数々の功績を打ち立てる。
その功績によって、上位蛮族に重用された彼は、最後には彼の神──ブラグザバスの高司祭へと登りつめた。
『霧の街』の支配者の一角とまでなったイヴァンだが、その心の中はまるで波一つない湖面のようだった。
今のイヴァンには殆ど何の欲求もない。ただただ、怠惰な毎日を繰り返すだけ。
いや、彼にも欲求はあった。彼の心の一番奥底に秘められた、静かな、それでいて燃え盛る炎のように激しい欲求。
それは。
生き別れたなった恋人、クレア・クレアと再会し、その彼女の手によって殺されること。
それが腐敗神ブラグザバスの高司祭、イヴァン・アイヴァンのただ一つの望みであった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
無言のまま、じっと互いを見つめる二人のエルフ。
片方は両眼を大きく見開き、信じられないといった表情を浮かべ、もう片方はどこか浮き世離れした、恍惚とした表情を浮かべ。
「ああ……クレア・クレア。ようやく君に会うことができた。一体何年振りだろうね? 僕たちが最後に会ったのは〈大破局〉の前だから……300年ってところかな?」
「イヴァン……あなた……いままでどこに……? そ、それに……」
クレアの視線は、イヴァンにしなだれかかるように、甘えるように従う蛮族たちへと向けられる。
ラミア、セイレーン、スキュラ。異形ながらも美しい容貌をもつ女性型の蛮族たちが、まるで娼婦のようにイヴァンへと甘い微笑みを向けていた。
イヴァンの顔と周囲の蛮族たちの間を何度も彷徨うクレアの視線。その視線が、イヴァンの首元に輝く聖印へと吸い寄せられた。
蜘蛛と蜘蛛の巣を図案化したその聖印。それは腐敗と死を司る女神、ブラグザバスの聖印に他ならない。
厳しいクレアの視線に気づいたのだろう。それでもイヴァンはどこか気だるげな微笑みを浮かべ続ける。
「ああ、これかい? どういう星の巡り合わせか、僕はブラグザバス様の声を聞いてね。その後は我が女神の力を用いて蛮族の中でも順調に出世したってわけさ。『力ある者が正しい』。それが蛮族社会の唯一にして絶対不変のルールだからね」
そして、イヴァンはまるで女性のような白い繊手をクレアへと向けて差し出した。
「さあ、クレア。僕と一緒に行こう。これからはずっと一緒だ。君が僕の息の根を止めるその時まで……」
まず、最初に動いたのはイヴァンに侍っていた蛮族たちだった。
ラミアが文字通り滑るように移動し、セイレーンが宙へと舞い上がる。そして、スキュラはイヴァンの傍を離れないまま、呪文の詠唱に入る。
対して、人族側もこれにすぐに反応した。
トホテルが剣を抜きながら迫り来るラミアに向かう。
ウンディーネたちはクレアを守るように陣取り、セイラは空へ舞い上がったセイレーンへと矢を放つ。
セイラの放った矢は見事にセイレーンに命中。だが、その一撃で撃墜するまでは適わず、怒りの形相を浮かべたセイレーンが上空からセイラを強襲する。
セイレーンは手の鉤爪を揃え、まるで剣のようにしてセイラ目がけて突き出した。
だが、その直前で横合いから氷の礫がセイレーンに襲いかかり、セイレーンの身体を貫いた。
今度こそ悲鳴を上げて地面に激突するセイレーン。
氷の礫──妖精魔法の【アイスボルト】を使用したのは、もちろんウンディーネだ。
【アイスボルト】を使用したウンディーネは、セイラに向かってぱちりと片目を閉じて見せると、すぐに前方の蛮族たちへと注意を戻す。
丁度その時だ。スキュラの【アシッドクラウド】の詠唱が完了したのは。
二対のウンディーネとセイラの周囲の空気が一瞬で酸性に変わる。
反射的に息を止めたものの、それでも酸の空気を吸ってしまったセイラは、呼吸器を傷つけられて激しく咳き込む。
ウンディーネは呼吸こそしていないものの、身体を構成する水が酸によって変質したのか、やはり苦しそうだ。
だが、それでも決定打には程遠い。
咳き込んで目尻に涙を浮かべつつも、セイラは弓を引き絞る。
狙いはスキュラの背後に立つエルフの男性。彼がこの蛮族たちを率いているのは間違いない。
そう判断したセイラは、限界まで引き絞った弓の弦から指を放す。そこから放たれた矢は、空気を切り裂いて真っ直ぐにイヴァンへと向かって飛翔した。
目の前を太い鞭のようなものが通過する。
鞭のようなもの。それはラミアの尻尾だ。その尻尾が引かれるのに合わせて、トホテルはラミアへと素早く踏み込む。
駆け込みざまに剣を真横に一閃。だが、ラミアはぬるりとした動きでトホテルの剣閃を躱した。
と、そこへ呪文の詠唱。トホテルが突き出した掌から、目には見えない衝撃波が飛ぶ。
神聖魔法の【フォース】。威力は決して高くはないが、使い勝手のいい呪文として神官戦士が多用する呪文の一つである。
ぱしん、と小気味良い炸裂音と共に、ラミアの人間の女性そっくりな上半身が仰け反った。
その隙を見逃すことなく、トホテルは再び構えた剣を下から掬い上げるように薙いだ。
剣はラミアの脇腹から豊かな乳房にかけてを深々と斬り裂き、空中に真紅の花を咲かせる。
しかし、これでトホテルの攻撃が終わったわけではなかった。
振り上げた剣を頭上で旋回、遠心力を乗せた刃は悲鳴を上げているラミアの首筋へと吸い込まれる。
ぐぐっとトホテルの腕に負荷がかかる。だが、トホテルはそれを無視して強引に腕を振り抜く。
と、急に腕にかかっていた負荷が消えた。同時に何かがぽーんと宙へ舞い上がり、すぐにどさりと地面に落下した。
ちらりと見て、それがラミアの首であることを確認したトホテルは、ぶん、と剣を一閃して血糊を吹き飛ばすと、次の標的へと向かって駆け出した。
トホテルが定めた次の標的。それはブラグザバスの聖印を身に着けたエルフの男性だった。
ひゅん、と空を裂いて飛ぶ一本の矢。
それは狙い違わずエルフの男性──イヴァン・アイヴァンの眉間目がけて飛んだ。
会心の一射の手応えに、セイラは口元を笑みの形に歪めた。
だが、次の瞬間。
その口からは無念の舌打ちを吐き出すことになる。
矢がイヴァンに到達する直前。横から伸びた蛸の足のような触手が、しゅるりと飛来する矢を掴み取ったのだ。
触手は掴み取った矢をべきりとへし折ると、興味などないようにその場に捨て去る。
当のイヴァンと言えば、矢が自分に飛来しても表情一つ変えることなく、ただただその場で立ちつくしているのみ。
部下である蛮族たちを信頼しているのか、それとも自分が傷つくことを怖れていないのか。
そこへ、ラミアを倒したトホテルが駆け込んだ。
ラミアの血で濡れたままの剣を下段に構え、二つ名が示すように風の如く一気にイヴァンへと詰め寄る。
しかし、その進路上にスキュラが割り込んだ。
スキュラは下半身の触手の全てを駆け寄るトホテルへと向けた。
ひゅん、とトホテルの頬を何かが掠める。
トホテルはそれが何かを確かめることさえしない。なぜならば、頬を掠めた何かは彼の背後から飛来したのだ。
背後から飛来したもの。それはトホテルが最も信頼する彼の副官の放った矢に違いない。
放たれた矢はスキュラの触手の一本に突き刺さる。続いて、無数の【アイスボルト】がスキュラの本体と触手に殺到した。
その美しい上半身に似合わず、いや、実に異形の蛮族らしい断末魔の叫び声を上げて、スキュラが絶命する。
これで、ブラグザバスの高司祭を守る美しくも忌わしい蛮族たちは全て排除した。
トホテルは更に加速し、下段に構えていた剣を頭上に振り上げながら、邪神の高司祭まであと数歩の所まで迫る。
だが。
あと数歩で美しいエルフの男性に到達すると思ったその瞬間。
エルフの男性を中心にして、突如世界が腐敗した。
ようやく『ディーラ紛いのウィール』更新できました。
今回はイヴァン様+蛮族レディースと、“風の旅団”+ウンディーネ連合軍の対決を。
あっさりと蛮族レディースが倒されたりもしていますが、彼女たちはここにくるまでに“風の旅団”の団員たちと一戦交えていますので。
そこでHPが半減していたという扱いで、ひとつ(笑)。
では、次回もよろしくお願いします。