自分の身体が腐れ崩れるような感覚を覚えて、トホテルが振るった剣は標的であるエルフの男性から僅かに逸れ、何もない空中を斬り裂いた。
そしてそのまま身体のバランスを崩し、よろよろと倒れ込むトホテル。
無様に地面に転がったトホテル。一体何が起こったのかと、それを確認するために倒れながら周囲を見渡した。
すると。
彼以外──セイラやクレア、そしてウンディーネたちもまた、地面に膝を着き苦しそうに喉を押さえながら咳き込んでいる。
ウンディーネなど、その身体を形作っている水が腐りでもしたのか、手足の先がどす黒く変色していた。
いや、変化していたのはそれだけではない。庭園のそこかしこに生えていた下草は全て腐って枯れ、木々もその葉を全て散らせていた。
「そうか……ブラグザバスの信徒のみが使える特殊神聖魔法か……」
「ご明察」
エルフの腐敗の女神の信徒は、にっこりと倒れているトホテルに微笑んだ。
そしてそのまま彼を無視して、無造作に歩を勧める。彼が向かうのは、かつての恋人の元。
だが、イヴァンはかつての恋人──クレア・クレアに辿り着く前に、不意にその歩を止めた。
そして冷たくぞっとする目を、いまだに苦しそうにしている一体のウンディーネへと向ける。
「君たちがずっとクレアを守ってくれていたんだね。本当に感謝しているよ。だから…………ここらで楽になればいい」
そう言いつつ、イヴァンはウンディーネの水でできた身体へと触れた。
途端、ウンディーネの身体全体がどす黒く腐り、ぱしゃりという音と嫌な腐敗臭と共に、水の精霊は消え去ってしまった。
続けて、イヴァンはもう一体のウンディーネにも触れる。こちらも先程同様、身体を構成する水が一瞬で腐り、ただの汚水となって足元に広がった。
今、イヴァンが使用したのは、ブラグザバスの信徒のみが扱える特殊神聖魔法の【ロッツ】である。
この呪文は対象の身体の一部を腐らせたり、水やポーションなどを一瞬にして駄目にしてしまう効果がある。
そのため、身体が水で構成されていたウンディーネたちは、その水を一瞬で腐らされてしまい、この世界に存在できなくなったのだ。
そして、イヴァンはウンディーネだった汚水のことは一瞬で忘れたかのように、微笑みを浮かべてクレアへと近づいた。
「さあ、クレア。僕と一緒に行こう。これからはずっと僕が傍にいる。僕が傍にいる限り、この街の蛮族たちは誰も手出しなんてできない。この日のために、ブラグザバス神殿の裏庭の池の中に君の部屋を用意しておいたんだ。今日からそこで僕と君で暮らしていこう」
と、イヴァンはクレアに向けてそう告げた。
「……ま、待て……」
トホテルは自身に【キュア・ポイズン】をかけると、立ち上がって剣を構えた。
「今ここでクレアを連れ去られるわけにはいかん。彼女には、今回の作戦の要である守りの剣を起動してもらわねばならんのでな」
トホテルと同じように自身に解毒の魔法をかけたセイラもまた、立ち上がって愛用の弓を引き絞り、その狙いをイヴァンへと向けた。
そんなトホテルとセイラに、イヴァンは冷めた目を向ける。
「確かに今の僕は蛮族に──翠将閣下に協力している身の上だ。だが、それでも僕は自分が人族だと思っている。同じ人族の
イヴァンはその言葉と同時に神への祈りを捧げる。
願うは周囲の空気を猛毒に変える奇跡。やはりブラグザバスの信者だけが使える【ポイズン・ミスト】だ。
この魔法はダメージを与えると同時に、相手の視覚をも一時的に奪う。
とは言え、この魔法にも欠点はあるのだが。
トホテルは、自分の周囲の空気が一瞬だけ紫に変色したのを確かに見た。
と同時に、猛毒と化した空気が肺に入り込む。
毒は目にも浸透し、ひりひりとした痛みを呼び起こす。
だが、トホテルは咳き込むこともなければ、目に溢れた涙を拭うことさえしなかった。
確固たる信念をしっかりと心の中に持ち、気合いで毒を押し返そうとする。
身体全身のマナを活性させるように意識しつつ、真っ正面から魔法の毒へと挑みかかる。
意識をしっかりと持ち、全身のマナを活性化させた時、人は魔法を押し返すことができる。今のトホテルがまさにそうだった。
それまで彼の周囲を紫に染めていた毒の霧が不意に霧散する。
トホテルの意志の力が、イヴァンの魔法を打ち破ったのだ。
その瞬間、それまで苦しかった体内の毒も一瞬で消え去った。
意志の力で魔法を打ち破った時──これを賢者たちは「精神の抵抗に成功する」と表現する──、【ポイズン・ミスト】はその効果を全て失う。それが【ポイズン・ミスト】の欠点だった。
気合いで魔法を弾き飛ばしたトホテルは、剣を振りかざしたままイヴァンへと肉薄する。
更には別の方角から、同じく毒魔法に耐えたセイラが、必中の矢を絶妙のタイミングで放つ。
トホテルの剣とセイラの矢。その両方を躱す
【フォース・イクスプロージョン】。
術者であるイヴァンを中心にして、周囲に激しい衝撃波を撒き散らす攻撃呪文。
「うおおおおっ!?」
今まさに剣を振り下ろそうとしいたトホテルは、この魔法を正面に喰らってしまった。
衝撃波に吹き飛ばされ、近くにあった木の幹に背中から激突するトホテル。距離があったためにセイラは衝撃波に巻き込まれることはなかったのものの、彼女が放った矢も衝撃波に飲み込まれて吹き飛ばされてしまう。
「はぁはぁはぁはぁ…………まさか、僕の魔法に耐えるとは……君たちを見縊っていたようだ」
連続した魔法の使用で疲労したのだろう。肩で息をしながら、イヴァンは殺気の篭もった視線を倒れているトホテルへと向けた。
「最初は守りの剣を破壊し、クレアをブラグザバス神殿へと招くだけにするつもりだったが……気が変わった。ここで君たちを処分しておこう」
守りの剣の結界が発動したとしても、人族であるイヴァンには何の痛痒も与えない。
だが、この『霧の街』に住む大勢の蛮族には、守りの剣の結界は致命的となりかねない。
クレアのことを良く知るイヴァンは、彼女がが守りの剣を起動させる儀式を執り行えることを知っている。そして今、彼女がその儀式を執り行っている最中であったことも。
だからイヴァンは守りの剣を破壊し、その後にクレアを自分の居城であるブラグザバス神殿へと連れ去るつもりだった。
だが、この場にいたトホテルやセイラたちは、彼の予想以上の手練であり、彼らをこのまま放置することは将来的に『霧の街』にとって脅威となりかねない。
そのため、イヴァンはこの“風の旅団”のリーダーとサブリーダーを、この場で殺すことに決めた。
正直に言えば、イヴァンにとってこの街の蛮族がどうなろうが知ったことではない。だが、彼の居場所であるブラグザバス神殿は、人族の領域では存在できない。
自分の居場所を確保する。そしてそこでクレアと共に安穏とした長い時間を過ごす。それだけの目的のためには、やはり守りの剣は邪魔なのだ。
木を背にして座り込んでいるトホテルへと近づいたイヴァンは、意識のないトホテルの腹部へと爪先をめり込ませた。
「ぐ……っ!!」
無理矢理覚醒されたトホテルは、腹部に受けた打撃で呼吸困難に陥りながらも、闘志の萎えない瞳でイヴァンを見上げた。
そんなトホテルに、イヴァンは掌を向けて呪文を唱える。
彼が唱えたのは【ウーンズ】。ブラグザバスの信徒が最も多用する、相手の身体に傷を刻みつける魔法。
呪文の完成と共に、トホテルの喉から苦悶の声が零れる。
「トホテル様っ!!」
少し離れたところにいたセイラが、慌てて弓に矢を番え、イヴァン目がけて放つ。
だが、その矢が解き放たれるより早く、イヴァンがセイラへと【フォース】を使用した。
目に見えない衝撃波を受け、セイラが弓を取り落としながら吹き飛ぶ。
「もう少し待っていてくれないかな、お嬢さん。この男に止めを刺したら、すぐに君の息の根を止めてあげるから」
大地に横たわったセイラを冷たく見据えながら、イヴァンが再びトホテルへと手を翳す。
イヴァンの唇が腐敗の女神の恐るべき呪文を唱えようとした時。
周囲に甲高い女性の声が響き渡った。
「もう止めてっ!!」
声の主は“夏の思い出”クレアクレア。
かつての思い人の蛮行を止めるため、クレアは悲痛な叫び声を上げた。
「私、あなたと行くわ。だから……だから、もうトホテルたちには手出ししないで……」
イヴァンはじっとクレアを見つめた。彼女の真意を探るかのように。
そうやってしばらくクレアを見つめていたイヴァンは、トホテルに向けていた手を静かに下ろす。
「君さえ僕の元へ来てくれるのならば……君の願いならば、僕は何だって聞き届けよう」
イヴァンふわりと優しく微笑むと、クレアに向かって両腕を広げた。
まるで幼子を迎える母親のように、自分を受け入れようとするイヴァンに向かって、クレアはゆっくりと近寄っていく。
イヴァンの微笑みは途絶えることはない。本気で彼はクレアを受け入れるつもりなのだろう。
徐々に近づく二人の距離。その距離がやがてゼロになった時、イヴァンはクレアを優しく抱き締めた。
「ああ、クレアクレア。こうして君を再び抱き締める日を、僕はずっと……300年も待っていたんだ……」
恍惚とした表情を浮かべながら、イヴァンはクレアの髪へと自分の鼻先を埋める。
「この感触、この温もり、この香り……ようやく、僕はクレアをこの腕に取り戻したんだ……」
嬉しさのあまりか、イヴァンの目元には涙さえ浮かんでいる。
「く、クレア……」
地面に這い蹲り、それでも意識を取り戻したトホテルは、目の前でクレアを奪われようとしていることに強く奥歯を噛みしめる。
破壊と腐敗の女神の信徒に、自分の実力が及ばないことが悔しい。
大切な作戦を頓挫させてしまったことが悔しい。
神に仕える者として、そして戦士として。自分の実力が至らないことが悔しい。
いつしか、トホテルの両手の指は、深く大地を抉っていた。悔しくて握り締めた両腕の中から、ぽろぽろと土くれが零れる。
それでも何とか顔を上げ、何とかクレアを救い出せないかと邪神の信徒へと目を向ける。
その時。
彼はようやくおかしなことに気づいた。
ひしとクレアを抱き締めたイヴァン。不意にイヴァンの身体がぐらりと傾いだのだ。
不審そうに見つめるトホテルの視線の先で、イヴァンはよろよろとクレアから後ずさる。
よく見れば、彼の胸にはなにか細長いものが生えていた。そして、その細長いものを中心に、どんどんとその周囲が赤く染まっていく。
「あ、あれは…………」
イヴァンの身体に生えている──いや、刺さっているもの。それは矢だった。
先程、イヴァンが【フォース・エクスプロージョン】を使用した時に、空中にあってそのまま吹き飛ばされた矢。
その矢は偶然にもクレアの足元へと落下した。その矢を、クレアはこっそりと拾い上げて隠し持っていたのだ。
その後を想像するのは難しくないだろう。
イヴァンが彼女を迎え入れた時、隠し持っていた矢を彼の胸へ──心臓へと突き立てたのだ。
「く、クレア……き、君は……」
「…………」
呆然とクレアを見つめるイヴァン。対して、クレアは視線を逸らしたまま何も語らない。
呆然とした表情を浮かべていたイヴァン。だが、彼はその表情を安堵へと変えた。
「うん……悪くないよ。これもまた……僕の望んでいたことだからね……」
イヴァンも邪神とはいえ神官であり、当然ながら治癒魔法を使うことができる。
だが、彼はこの時、自分自身に治癒魔法を施そうとはしなかった。
彼の言葉通り、これは彼が300年以上も望んでいたことでもあるのだから。
「……ク……レア……君……に……殺……され……なら、ぼ……くは……………………」
柔らかな微笑を浮かべながら、腐敗の女神の信徒は大地に倒れた。そして彼は、その柔らかな笑みを消すことなく、満ち足りた想いのままその魂を解放したのだった。
『ディーラ紛いのウィール』ようやく更新できました。
またもや遅くなってしまいましたが、何とか更新。
何とかイヴァンとの決着も着いたので、次回から再び視点を翡翠の塔へと戻します。
では、これからもよろしくお願いします。