魔獣の口から吐き出された瘴気。
アリアドネとウルスラは、咄嗟に呼吸を止める。
そのため、辛うじて瘴気を吸い込むことは免れたが、それでも吐き出された瘴気は二人の皮膚を蝕む。
黒い瘴気が、じりじりと二人の白い肌を焼いていく。
アリアドネとウルスラは、瘴気が渦巻く範囲から慌てて脱出する。
咄嗟に呼吸を止めたものの、それでも僅かに瘴気を吸い込んでしまい、二人は激しく咳き込む。
だが、涙に視界をぼやけさせながらも、その目は敵を睨み付けている。
そんな二人の瞳に、魔獣が再び口を開いたのが映った。
魔獣の口から、今度は凍て付く冷気が迸る。
視界が一瞬で白一色に染まる。それでも、アリアドネとウルスラは必死に襲い来る極寒の冷気に耐えた。
「……この……ぉ……好き勝手やってくれるじゃない……っ!!」
「……さすがは……“汚水の女王”と言ったところね……」
魔獣の頭は、瘴気と冷気の他にも炎を吐くこともできる。だが、ドワーフに炎が効かないことを知っているオンディーヌは、炎以外の
更には操霊魔法をも駆使するオンディーヌ。遠隔攻撃手段を持たないアリアドネとウルスラは、オンディーヌに近づくことさえできずに追い詰められるばかり。
「くそ……っ!! こんなことなら、魔法の一つも覚えておけば良かった……っ!!」
ウルスラが悔しそうに吐き捨てる。
アリアドネも口元を歪めつつ、何も言わずにじっとオンディーヌを睨み付けていた。
「ううぅぅ、お腹減ったよぉ。だから、あなたたちを食べてもいいよねぇ? だってお腹減ったんだもん」
「冗談じゃないっ!! そんな理由で食べられてたまるかってのっ!!」
魔獣の頭が吐き出す冷気を躱しつつ、ウルスラが叫ぶ。
だが、近づくことさえできずにいる現状では、いずれ力尽きてオンディーヌの言う通りに食べられてしまうだろう。
「ねえ、ちょっと! 何かいいアイデアはないのっ!?」
ウルスラは隣に立つアリアドネに尋ねる。
「なくはないけど……正直、気が進まないわね」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょっ!!」
「分かったわよ。その代わり、少しの間囮になってもらうわよ?」
「えー? 囮ぃ?」
嫌そうな顔をするウルスラに、アリアドネはにこりと妖艶な笑みを向けた。
「あら、そんなこと言っている場合じゃないんでしょ?」
かつかつと足音を響かせながら、ウィールたち三人は階段を登っていく。
翡翠の塔の外壁の内側に設けられた階段には、手すりのようなものはない。そのため、足を踏み外そうものなら一階部分まで真っ逆さまとなる。
もっとも、ウィールには翼があるので、落下しても大事にはならないだろう。
誰一人口を開くことなく、ただただ階段を上がっていくウィールたち。
やがて、彼らの先に一つの扉が見えてくる。
「……着いたようだぜ、大将」
一行の先頭を歩いていたディオンが、振り返えることなくウィールに告げる。
「この階にいるのは、“塚人いらずの”ムギド……タビット族のヴァンパイアでしたね」
相変わらず表情を変えることもなく、淡々と事実だけを口にするのはもちろんナディアだ。
そうしている間にもウィールたちの足は進み、問題の扉の前にまで到達する。
「なあ、大将。ものは相談なんだがよ?」
ディオンがいつものにやにやとした笑みではなく、至極真剣な表情でウィールに向き直った。
「この階の敵……ムギドの野郎は俺と姐さんに任せて、大将は先へ進んでくれないか?」
「…………どういう意味だ?」
「大将があのウサ公と因縁があるのは分かっている。だけど、この先にはウサ公よりも厄介な敵が待ち構えているんだぜ?」
「ディオンの言う通りです。おそらくですが、すでに翠将は私たちがこの塔に侵入したことに気づいているでしょう。気づいていて……敢えて自分の所に到達するのを待っているのだと思います」
ナディアの言葉には、ウィールも納得できる。
かつてウィールが一度だけ相対したことのある翠将、ジェイド・バジリスクのヤーハッカゼッシュ。
この『霧の街』の中で蛮族と戦い、力尽いた時。次にウィールが意識を取り戻したのは、他ならぬヤーハッカゼッシュの前だった。
楽しそうな笑みを浮かべ、「さあ、戦おうか」と一方的に戦いを挑まれた。
もちろん、当時のウィールに翠将と戦うだけの実力はなく、実にあっさりと敗北を喫した。
ウィールの魂に宿る『穢れ』の一部は、こうして翠将の手によって刻まれたものなのだ。
短い間とはいえ、直接対峙したウィールには分かる。
翠将ヤーハッカゼッシュは、自身の退屈を紛らわせるためならば、敢えて危険な行為を選ぶこともあることを。
「だからよ? 大将にはウサ公相手に消耗して欲しくねえのさ。今のままの状態で、翠将の野郎をぶっちめて欲しいんだ」
「幸い、私はヴァンパイアには最も有利な太陽神ティダンの信徒です。おめおめとヴァンパイア如きには遅れを取りません」
ナディアとディオンは最初からそのつもりだったのだろう。ウィール抜きで、タビット・ヴァンパイアと戦うつもりだったのだ。
おそらくは、以前から二人で話し合っていたに違いない。
彼らの目的は間違いなくウィールを翠将の元へと送り届けること。
確かに三人でムギドと戦えば、少しでも戦闘は有利になるだろう。だが、ナディアとディオンは敢えてその選択をしなかった。
全ては、ウィールを無事にヤーハッカゼッシュの前まで行かせるために。
なぜなら、例え三人がかりでもムギドに勝てるという保証はないのだから。
「……二人でムギドに勝てるんだな?」
「当然だろ? ムギドの野郎をさっさとぶっ飛ばして、すぐに大将の後を追うさ。だって大将首と戦って勝たないと、女にモテないじゃねえか」
「私もおめおめとヴァンパイアに負けるつもりはありません。ヴァンパイアにもバジリスクにも勝って、その後はあなたの子を生むのですから」
「…………いや、最後のはよく理解できないんだが……」
眉をぎゅっと顰めるウィール。そんな彼を見て、ディオンがにやりと笑う。
「いやー、愛されているねぇ、大将は。大将の大切な女は俺がきっちりと守るからよ? 安心して翠将の元へと向かってくれや」
にゅっと右手の親指を突き立てて見せるディオン。なぜか、ナディアも同じ仕草をしていた。
「……分かった。ここは二人に任せる。手っ取り早くムギドを倒して、俺の後を追って来い」
「おう! 了解したぜ、大将!」
「承知しました。お任せを」
自信満々に応える二人に、ウィールは背中を見せてそのまま階段を更に登って行った。
「このぉっ!! しつこいっ!!」
ウルスラの蹴りが、彼女に噛みつこうとしていた触手の先端──魔獣の頭に炸裂する。
いや、蹴りが炸裂する直前、魔獣の頭がひょいと引っ込む。そのため、ウルスラの蹴りは空振りに終わった。
魔獣の頭は──正確にはオンディーヌが、だが──ウルスラの間合いを把握したようで、彼女をおちょくるように間合いぎりぎりを動き回っている。
果たしてウルスラを疲弊させるのが目的なのか、それとも単にオンディーヌが遊んでいるだけなのか。
おそらく後者だろう、とウルスラは確信した。
なぜならば、玩具で遊ぶ子供のように、今のオンディーヌの表情はきらきらと輝いているからだ。
「ほらほら、がんばれー。がんばらないと、頭から食べちゃうぞー」
「くっそっ!! 誰が食べられるかってのっ!!」
「そういや、いつの間にかごはんが一匹いなくなったけど……あんた、もう一匹がどこへ行ったのか知らない?」
「知らないよっ!!」
ウルスラのこの言葉は嘘ではない。彼女が気づいたとき、アリアドネの姿はどこにもなかったのだ。
気配さえ感じることができず、まるで突然消滅でもしてしまったかのように。
その事実を前にして、もしかするとアリアドネは自分を囮にしてさっさと逃げてしまったのではないだろうか、という考えがウルスラの頭の隅を過る。
アリアドネも所詮は蛮族の一員だ。ならば、こんなところで同族の手にかかって死ぬつもりはないだろう。
「…………だから、あいつは信頼できないって言ったんだっ!!」
ゆらゆらと目の前で揺れる魔獣の頭。苛立ち紛れにその頭に殴りかかるも、魔獣はひらりと避けてしまう。
自分を馬鹿にするように揺れる魔獣の頭を無視して、ウルスラは本体であるオンディーヌの顔を睨み付ける。
「うー、そんな顔しないでよぉ。恐くなっちゃうじゃない」
「恐いのはどっちだっ!? この化け物がっ!!」
「えー、アタシは化け物じゃないよぉ。ただ単にお腹が減っているだけだよぉ?」
「アンタには食欲しかないのかっ!! そもそも言葉の意味通ってないしっ!!」
思わずずびしっ!! とオンディーヌに指を突きつけてしまうウルスラ。
そのウルスラの表情が、おやっとしたものへと変わった。
当然、その変化はオンディーヌからも見える。
「あれぇ? どうしたのぉ?」
ウルスラの方へと身を乗り出すオンディーヌ。その彼女が自身の背後に僅かな気配を感じたのはその直後だった。
つぷり。
小さなそんな音がオンディーヌの鼓膜を叩く。
何故か動かなくなった身体。何とか首だけを巡らせて背後を見れば、そこにいなくなったもう一匹のごはん──アリアドネがいた。
アリアドネの口元からは鋭い牙が覗き、その牙をオンディーヌの首筋に深々と埋め込んでいる。
「あ、あへぇ……?」
オンディーヌの表情がとろんとしたものへと変わる。
同時にその身体がどんどんと弛緩していき、うねうねと動き回っていた魔獣の頭を持つ触手も、だらりと床の上に横たわった。
「い、一体何が起こったの……?」
突然の変異に、ウルスラは呆然と立ち尽くすしかなかった。
アリアドネがオンディーヌに行ったもの。それは「誘惑の吸血」と呼ばれる呪いの一種である。
アリアドネの、いや、リャナンシーの牙を受けた者は、そのリャナンシーを大切な存在だと認識するようになる。
哀れな犠牲者は、そのリャナンシーが滅ぶか魔法によって呪いを解除するまで、対象のリャナンシーをまるで最愛の恋人のように想ってしまうのだ。
しかも、リャナンシーの牙を受けるたびに、その呪いは深くなっていく。
最初の一回だけでは、自分の地位や財産に影響の出ない範囲でリャナンシーに対して便宜を計る程度だが、最大深度になると自分の命よりもリャナンシーの命令を重視するようになる。
それこそ、死ねと命じられれば躊躇わずに自殺するほどまで。
しかも、アリアドネはリャナンシーの上位種であるリャナンシーアサシンだ。
その呪いは普通のリャナンシーよりも強力で、さすがのオンディーヌもそれに抗うことはできなかった。
アリアドネの牙の呪いを受けたオンディーヌは、大人しくアリアドネの言うことに従っている。
いや、「大人しく」という表現は間違いかもしれない。
「ねえねえ、アリアドネお姉様。アタシ、お腹減ったの。このごはん、食べてもいいでしょ?」
オンディーヌの言う「ごはん」とは、もちろんウルスラのことだ。
「だめよ。このドワーフには私が用があるのよ。そう言えば、あなたボガードの死体を持っていたでしょ? それでも食べていなさい」
「えー? ゴブリンとかボガードってあまり美味しくないんだけどなぁ……」
アリアドネに命じられ、オンディーヌはぶちぶちと文句を言いつつも、先程放り捨てたボガードの死体へと向かう。
やがて、闇の中からがりがりぼりぼりと何かを咀嚼する音が聞こえる。その音の元が何なのか、考えるまでもないだろう。
「……そ、そんな便利な能力があるのなら、どうして最初から使わないのっ!?」
疲れ果て、床に直に座り込んだウルスラが、大人しくなったオンディーヌを従えたアリアドネへと文句を言った。
そんなウルスラに対して、アリアドネが振り返る。
「だって、あんな化け物から『お姉様』なんて呼ばれたくないじゃない? そもそも、私には同性愛の趣味はないのよ」
と、アリアドネが妖艶に笑った。
『ディーラ紛いのウィール』ようやく更新できました。
随分と早くから書き始めたのに、今回は今までで一番時間がかかったかもしれない。
そういえば、もうすぐ連載を開始して丸2年になります。
2年もかかってようやく30話。どれだけゆっくりしているんだ、自分(笑)。
今後はもう少しペースを速めて、最後まで辿り着きたいです。
では、これからもよろしくお願いします。