ゆっくりと、ウィールは階段を登っていく。
別に意識したわけではないが、いつの間にか足音は極力立てないように、そして、呼吸も最低限に減らして。
それは、彼が無意識に緊張していることを意味していた。
かつて、一度だけ対峙したことのある相手。
その時はまるで歯が立たず、あっという間に殺された。そして、その魂に「穢れ」を帯びた状態で蘇生させられたのだ。
その「穢れ」は、まだ彼の魂に残っている。いや、これからも「穢れ」が消えることはないだろう。
以前に対峙した時の恐怖を意志の力でねじ伏せ、ウィールは黙々と階段を登っていく。
そして、彼の目の前に一つの扉が現れる。
翡翠と同じ色に輝くその扉。その向こうに、この『霧の街』の支配者がいるはずだ。
ウィールはちらりと扉を見る。
このような扉には、罠が仕掛けられている場合が多い。だが、ウィールはそんな罠を探す素振りさえ見せない。
この街の支配者が──ヤーハッカゼッシュが居室に罠を仕掛けるなど、そんな小物のような真似をするわけがないからだ。
ウィールは躊躇うことなく扉に手をかけ、そして、押し開いた。
灰となったムギド。どこからともなく吹き込む風に乗って散っていくその灰を、ナディアとディオンは無言で見つめていた。
やがて灰が全て飛び散ると、ディオンはナディアの方を見て──すぐに背中を向けた。
そして辺りに散らばっているムギドが集めたガラクタをごそごそと漁り、そのガラクタの中から人族でも着られるようなマントを一着引っ張り出した。
「ほら、姐さん。これでも着てろって。そんな恰好でいられると、目のやり場に困っちまうぜ」
両腕で隠しているものの、今のナディアはムギドに衣服を破られ、ちょっと露出過多の状態だった。
いつものように表情を変えることもなく、ナディアはディオンが差し出したマントを受け取るとそのまま羽織る。
その仕草がちょっとばかり乱暴だったのは、やはり彼女も羞恥を覚えるからだろうか。
「……では、少しだけ休憩したらウィールの後を追いましょう」
「おう。でも、俺、ちょっとだけ心配なんだけどよ?」
「何がですか? もしかして、あなたはウィールが翠将に負けるとでも?」
「いやぁ、そりゃいくら“ディーラ紛い”の大将でも翠将に圧勝できるとは思っていないけどよ? だからと言って、全く歯が立たないってこともねぇだろ。俺が心配しているのはもっと別のことなんだよ」
ナディアは表情を変えることもなく、ただただ首を僅かに傾げる。
そんなナディアから困ったように目を背けたディオンは、がりがりと頭を掻きながら言葉を続ける。
「いや……その……な? 不可抗力とはいえ、姐さんのおっぱい見ちまったけど……やっぱり、“ディーラ紛い”の大将にヤキ入れられるかな?」
「………………は?」
「俺だったら、自分の女の裸を見た男を絶対に許さないからなぁ。ここは大将に一発ぐらいは殴られる覚悟でいるか……でも、さすがは姐さんだ! 見事なおっぱいだったぜ!」
ぐっと親指を突き出すディオン。
「……馬鹿ですか、あなたは」
何とも明後日な心配をしているディオンの背中を、ナディアは思いっ切り蹴飛ばした。
翡翠の扉を開けると、その中は豪華な部屋だった。
鑑定するまでもなく一目で高価と分かる調度品が部屋中に並べられ、部屋の真ん中には純白のテーブルクロスがかけられた大きなテーブル。
そのテーブルの上にはいくつもの黄金製の燭台。当然燭台の蝋燭には火が灯されて部屋の中を明るく照らしている。
テーブルの上には燭台だけではなく、湯気を立てる美味そうな料理と、芳醇な香りを放つ上物のワイン。
だが、ウィールの目を引きつけたのはそれではない。
彼の目を引いたのは、部屋のあちこちに飾られた人間やエルフなどをモチーフとした、無数の翡翠製の少年少女の彫像。その彫像は実にリアルで、今にも動き出しそうだ。
そして。
「久しいな、“ディーラ紛い”。以前に貴様に会ったのは……どれぐらい前だったかな?」
テーブルの一番奥。ホストが腰を下ろすべき場所に、彼はいた。
黒髪碧瞳。だが、左目は眼帯で隠されている。
年齢は人間で言えば30代中程だろうか。どこか気だるげな雰囲気を纏った、整った容貌の大柄の男性。
「……ヤーハッカ……ゼッシュ……」
そう。
ウィールの前に優雅に腰を下ろしているその者こそ、この『霧の街』の支配者なのだ。
「そんな所に突っ立っていないで、腰ぐらいは下ろしたらどうだ?」
ヤーハッカゼッシュがそう言いながら勧めるのは、彼の対面に当たる席。
「貴様が来ると聞いたので、特別に用意させた料理と酒だ。無論、毒など入っていないから心配せずともいい」
そう言いながら、自分の言葉を証明するかのように、ヤーハッカゼッシュは自分の杯に満たされていたワインを飲み干した。
「……やはり、酒や料理は人族のものの方が数段上だな。どうもその面においては、全面的に人族を認めざるを得ない。ああ、ここに並んでいる酒や料理は、全てザバールを通じて人族の領域から入手したものだから、貴様の口にも合うだろう」
にやりと笑うヤーハッカゼッシュ。
本来ならば、自分の命を狙う者に料理と酒を勧めるなどあり得ないことだろうが、なぜかこの男ならばやりかねないと思わされてしまう。
だから、ウィールは勧められるままに腰を下ろし、用意されていた杯に手を伸ばす。
そして、その中のワインを無警戒に飲み干す。ワインはウィールの口に合うどころか、どこかの王侯貴族が口にするような逸品であった。
次にウィールはナイフとフォークを手にとり、用意されていた料理を口に運ぶ。
毒が入っているなど微塵も思っていない。毒を混入させるなどという詰まらない真似を、目の前の男がするとは思えない。
「ふむ。なかなか堂に入ったテーブルマナーだな。冒険者などという連中はもっと粗野な者ばかりと思っていたが」
ヤーハッカゼッシュが楽しそうに笑う。彼もまた、一流のマナーで料理を食べている。
「知己に王族がいるのでね。多少はマナーも心得ているさ。しかし、蛮族にマナーを誉められる日が来るとは思いもしなかった」
「くくく、違いない」
そう言いながらまた笑ったヤーハッカゼッシュは、心の底から楽しそうだった。
その後も、二人だけの奇妙な食事会は続いた。
基本は無言だが、時折ぽつりぽつりとどちらからともなく質問が出て、もう片方がそれに答える。
「……ところで、どうして俺に食事を勧めた?」
あらかたの料理を食べ尽くした時、ウィールは翠将にそんなことを尋ねてみた。
「なに、大した理由はない。だが、俺の目の前に再び現れたのは貴様が初めてだ。それも、自らの意志で。そう思うと妙な楽しさが込み上げてきたのでな。そこで少し貴様と話がしたかった、というわけだ」
食事を終え、ナイフとフォークをテーブルに戻すヤーハッカゼッシュ。
ほぼ同じタイミングでウィールも食事を終え、同じようにナイフとフォークを置く。
すると部屋の奥にあった小さな扉から数体のコボルトが現れ、てきぱきとテーブルの上を片付けていく。
ウィールとヤーハッカゼッシュはそんなコボルトたちの様子を見ることもなく、ただただ対面に座る男を凝視していた。
そして、コボルトたちがテーブルの上を綺麗に片づけ終え、再びこの部屋から姿を消した時。
不敵な笑みを浮かべたヤーハッカゼッシュが、ウィールに声をかける。
「さあ、そろそろいいか?」
「ああ。いつでもいいぞ?」
それ以後は無言の二人は、立ち上がると腰に佩いた愛剣へと手をかける。
ウィールはクラウゼ流一刀覇王剣の代名詞たるドミネイターを。
ヤーハッカゼッシュは紅霧の魔剣クルルガランを。
二人はそれぞれの愛剣を抜き放つと、そのまま激しく互いの剣を打ち合わせた。
『ディーラ紛い』更新。
今回は切りの関係でちょっと短め。
そして、前々からやってみたかった主人公とラスボス二人の奇妙な食事会。
ヤー様ならこういうことをおもしろがってやりそうだなと思ったので、こんなシーンを入れてみました(笑)。
では、これからもよろしくお願いします。